福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

修験宗旨書等・・・8

2017-12-08 | 諸経
修験宗旨書・・・8
修験用心第八(修験の行者は、即身自佛の心地に安すること、そうすれば自然に悪をやめ、善を修するようになり自他一如の観になり差別の心は起こらない
尋ねて云はく、修験の行者、行住坐臥如何が用心すべきや?
答えて云はく、自身即無作三身の覚体、自身即一念法界の内証なり。故に我色心即仏体なりと用心すべし。この如く即身自佛の心地に安住するとき、自然に悪をやめ、善を修す、自他一如にしてしかも差別の心あるべからず、何人を悪み、何人を好まんや、総持の一戒唯慈悲の一念を守るべき也。若し慈悲の一念全ったければ自ら十不善を離る、しかればすなわち行住坐臥の所作みな是仏事なり。自身これ仏道の理を信知するゆえに全く自らの断証を労せず。自の生死に念ぜず、ただ衆生沈淪を念ず。一切所修の行を以て衆生に回向し、行者衆生に向かえば諸仏行者に向かう故に心と佛と衆生とこの三は無差別なり。心とは行者なり、佛とは諸仏なり、衆生とは四群の群類なり。諸仏は心佛衆生三等を覚り、本覚の心城に住み給ふ、衆生は一如に迷ひ、四生の幻野に跰(さらす)(大師の「大日経開題に『それ衆生は狂迷して本宅を知らず、三趣に沈淪し、四生に跉跰(りょうび)す。苦源を知らざれば、還本に心なし』とあり)。三界唯一心なり、万法唯識なり、三心平等を知るを大覚と名ずけ、この三平等に住む故に自心即佛なり。初心の時はこの念を忘ると雖も、後心において全く忘れず是即ち修行の大要なり、當道の本懐なり。尋ねて云う、修験の行者閉眼の後、雇を要するや?答えて云はく、即身即佛の道理を印持決定の後、なんぞ徒に導師に依るべけんや、自身まったく遮那分けて能引の師なし。己体則ち浄土なれば別に所詣のところなし、凡そ修験の体性を約(つづめ)れば能詮に諸仏無偏の念恵なり。所詮を約(つづめ)れば一切の諸法は実相なりと決す、真実の法なる故に甚深不思議の大益を得る。古賢のいはく、「火は物を焼くも火鼠中に遊ぶ、水人を溺すれども魚鼈内に泳ぐ」。即身成仏の行者、復かくの如し。六大無碍の智信を談じ、苦悩を受けず、煩悩任運す、抜苦し自然に興楽す。まことにこれ現前の大用即座正覚なり。


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