修験宗旨書・・・7
三種問答第七(修験宗は密教でも顕教でもない、教外別伝であり直接に覚るもの。これは禅宗もおなじ・・・)
問う云はく、修験道とは顕宗に同じや、真言に同じや。
答、わが法は顕宗に非ず、真言に非ず。顕密不二難思機絶の立行なり。蔵経を捨てて直に仏心の正頭を示す。是を教外別伝といふ。行証を越えて直に阿字の真門に入る、是を自覚証智といふ。顕密の名字は共に是教家の法文なり。なんぞ修験を顕密二教に同ぜんや。離教離機の内証、法界曼荼の宗旨なり。実にこれ仏祖不伝にして直に毘盧の頂を踏むなり。
問うて云はく、監行の人を以て入峰の先達となすはまさにその咎あるべしやいなや?
答えて云はく、小乗家に於いては監人を以て導師に非ずとなし、もし導師となせばその咎あるべしとなり。修験の大乗の意は全く爾あらず、監人とは愚痴なり、愚痴を以て不浄の根本となし、諸々の不浄を尋ぬるに愚痴に過ぎたる不浄なし。修験内証においては淫慾酒肉を以て更に不浄となすにあらず、諸の中には覚道を以て清浄の本源と為す故也。般若にいわく、諸法空相、不生不滅、不垢不浄と。
問うて云うはく、真言を知らざる人をまさに仏法開眼の導師とすべきやいなや?
答、著相憑文(外面や文章に囚われている人)の人は真言を知らず、敢えて開眼の導師と為さず、修験の人において、更に印明等を用ふるべからず。
十界の依正皆悉く法身なるがゆえに本より仏性を具して円明遍照なるを夫れ仏法は後漢の時代に至りて永平年中に漢土に将来せり、真言は唐代の将来なり。唐代より以前の仏法更に佛言大日の印明を用いること無し。然も亦た之を用いることは近来の法則也。
三種問答第七(修験宗は密教でも顕教でもない、教外別伝であり直接に覚るもの。これは禅宗もおなじ・・・)
問う云はく、修験道とは顕宗に同じや、真言に同じや。
答、わが法は顕宗に非ず、真言に非ず。顕密不二難思機絶の立行なり。蔵経を捨てて直に仏心の正頭を示す。是を教外別伝といふ。行証を越えて直に阿字の真門に入る、是を自覚証智といふ。顕密の名字は共に是教家の法文なり。なんぞ修験を顕密二教に同ぜんや。離教離機の内証、法界曼荼の宗旨なり。実にこれ仏祖不伝にして直に毘盧の頂を踏むなり。
問うて云はく、監行の人を以て入峰の先達となすはまさにその咎あるべしやいなや?
答えて云はく、小乗家に於いては監人を以て導師に非ずとなし、もし導師となせばその咎あるべしとなり。修験の大乗の意は全く爾あらず、監人とは愚痴なり、愚痴を以て不浄の根本となし、諸々の不浄を尋ぬるに愚痴に過ぎたる不浄なし。修験内証においては淫慾酒肉を以て更に不浄となすにあらず、諸の中には覚道を以て清浄の本源と為す故也。般若にいわく、諸法空相、不生不滅、不垢不浄と。
問うて云うはく、真言を知らざる人をまさに仏法開眼の導師とすべきやいなや?
答、著相憑文(外面や文章に囚われている人)の人は真言を知らず、敢えて開眼の導師と為さず、修験の人において、更に印明等を用ふるべからず。
十界の依正皆悉く法身なるがゆえに本より仏性を具して円明遍照なるを夫れ仏法は後漢の時代に至りて永平年中に漢土に将来せり、真言は唐代の将来なり。唐代より以前の仏法更に佛言大日の印明を用いること無し。然も亦た之を用いることは近来の法則也。