福聚講(高原耕昇講元)では、6月22日(日)、秩父三十四観音霊場巡拝行を始めた。高原講元の話によると、秩父観音霊場巡拝は、まだ、福聚講が結成されていない十数年前に、現在の世話人等と何年もかけて満願したことがあり、この日の巡拝は、福聚講結成後初めての巡拝行で、新しく参加した講員も加わり、記念すべき巡拝行になったという。
おりから今年は秩父観音霊場開創の年と同じ,甲午歳(きのえうま)の13回目の年に当たり、総開帳されている。期せずして、このおめでたく有り難い年に当たって、福聚講の秩父観音霊場巡拝行が始められるのも不思議なご縁の賜物である。(参考までに総開帳は、3月1日から、11月18日までとなっている)
秩父三十四観音霊場は、埼玉県北西部の、四方が山に囲まれた秩父盆地(秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町に点在)に札所がある。文暦元年(1234年)甲午3月18日開創、室町時代後期には、秩父札所が定着、江戸時代になると、観音信仰は、庶民のこころの支えとして、隆盛を見るようになったという。巡礼コースは、一番札所・四萬部寺から三十四札所水潜寺まで、閑静な山村と田畑や野原が広がる美しい田園風景の風光をめぐり、100キロ余りで一巡できるようだ。
私たち、福聚講のメンバーは、22日、朝10時、西武秩父駅に集合。東京は、この朝、大雨で、巡拝の参加がためらわれたが、秩父地方では、雨も小降りであった。駅出札口で、偶然、講員であるSさんと出会った。Sさんは、ほかのグループの巡礼団のリーダとなって、秩父巡礼をするのだという。
西武バスに乗り、一番札所・誦経山四萬部寺を参拝。早速、納経帖と、御影入帖を、購入する。寺では、期間中は、総開帳記念の、小さなご本尊の観音像を刻んだ散華をいただいた。本堂の前には、ご本尊に御縁を戴く、紅白の綱が、繋がれた柱が立つている。この綱を握ると、ご本尊に繋がる。滅多に無いことである。また、感謝。
一番を打ち終えて、小雨降る中、山村民家が点在する巡礼道を通り、水田と畑の中の舗装された小道を歩く。道は、徐々に、勾配が出、蛇行しながら登り歩くこと30分。やっと、二番山門にたどり着く。巡拝行を終え、振り返ってみると、この一番札所への順路は、私(報告者・角田)にとっては、難所だった。高原講元始め講員の皆さんが、ところどころで心配して、立ち止まり私が追いつくのを待っていてくれる。汗と冷や汗で、着ているものは、びっしょりになっていた。私事になり、恐縮なのですが、(このての、私事が、これから頻発します。済みません。予め、お詫びしておきます。)
実は、この日の巡拝行は、私にとって、体調テストをすることだった。3月下旬,寒暖の落差が激しかった時期、不覚にも風邪を引き、病院で点滴治療を受けた。その後も症状は、一向に好転せず,やや、回復してはきたものの,咽喉の痛みは激しく、やっと、最近、声も出せるようになり、痛みも、減退してきたところであった。その間は、行事や予定事は、一切参加せず休養に努めてきた。そして、この巡拝の日を迎えたのだった。老いの身で、体の抗体が減退しているのだろう。参加して、講員の皆さんに、ご迷惑をかけるのでは、と心配だった。一方で、自力で完治することができない。このうえは、仏様におすがりする外は無くと思い参加した。そして、もし体力が続かねば、最初の札所で打ち止めにする覚悟だった。
しかし、巡礼路で体調は回復してきた。有り難さでいっぱいだった。不思議なことに、咽喉の痛みが減少した。とにかく、これまで、風邪の後遺症が、さっぱりと無くなっている。気分も爽快だ。
午前11時50分、二番札所・大棚山真福寺着。ここまでは、小雨降り続く、小道の両側は、小高い傾斜の青々と茂った、草花が、雨に打たれて光っている丘に慰められながら歩いてきた。ここにも、御本尊とご縁を戴く柱が立ててある。ご本尊、聖観世音菩薩。お姿を拝観できるご本尊,聖観世音菩薩に、風邪が治った感謝の合掌。現世のご利益を戴いたのだ。
ただ、この真福寺では、御朱印などは、戴けない。山の下にある向嶽山光明寺で載くことになっている。巡礼路を下り格式のある、堂々とした、本堂、伽藍をもつ向嶽山光明に着く。ここで一休みしてまた三番を目指して歩き始める。
方や杉林、方や、緑滴る青葉茂みの林に挟まれた巡路を過ぎ、岩棚のキンモクセイの、植え込みを過ぎ、三番札所・岩本山常泉寺。御本尊ま聖観世音菩薩。ここまでくる道端に、タンポポ、あやめ、かきつばた、けしの花、そして、野の花が咲き乱れ、密厳浄土・極楽浄土を彷徨っている気分に浸される。境内の池には、はすの葉が浮かび、周囲を、アジサイの花が取り囲んでいる。土の匂いも、初々しい、自然の命の息遣いを感じさせられるひと時である。
東京の六本木や丸の内に最近出来たという何十階建ての高層ビルや、ガラスで光る現代感覚のビル群。重厚な舗装で固められた街路。人工的に作られた都会の生活空間は、人の自然回帰への願望を一切拒否する、冷たい廃墟のような所でしかない。それに比べて、ここ、秩父霊場の風土は、温かく、独りよがりで傷ついた心を、慰めてくれる。都会で暮らす人々の、精神状態は、果たして、正常なのだろうか。人事ではない様に思う。
午後2時05分、第四札所・高谷山金昌寺にたどり着く。ここまでくる途中にも、親切に、可愛く小さな道祖神よろしく順路を示す石の塚が立てられている。野畑を横切り、畑を耕す人を見ながら、高い渓谷を望む橋を渡り、谷川の渓音を聞きながら、足を運んできた。山門に吊された、古びた大きな一対の草鞋が目を引く。御本尊十一面観世音菩薩。境内には、1319体あるといわれる石仏群。その昔、江戸、北陸、山陰,山陽を問わず菩提供養のために人々が訪れ奉納されたというもので、当時の、隆盛を思い出させられる。これらの石仏を、眼下に見ながら、階段を上がり、本堂に。
この日の読経は、般若心経と、観音経・妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の偈文を中心にお唱えしたが、高原講元のご指導で、読経の際、講員一人ずつ、「頭」を唱え、あと、「助」で皆が続くという仕方で行った。我々の、参拝が終わったあと、白衣姿の婦人団体一行が、本堂の欄干の前を取り囲むように並び、鈴を鳴らしながら、御詠歌を唱えていた。厳かで、素朴さもあり、心に、沁みるような、響きがした「あらかたに、まいりておがむ、かん世音 二世安楽と誰も祈らん」。この寺で、有名な、子育て観音は、始め、西洋美術のマリア様が、幼子イエスを抱いているのかと、見違えるほど、よく似ている観音様である。、別名マリア観音と言った。世の東西を問わず、子供にかける母親の慈愛は、そして、その表現様式は、何処も、変わらないものだ。
ここで、俗な話になるが、本堂の、左前に、正三位勲一等 荒舩清十郎氏の墓と等身大の胸像が立てられていた。荒舩氏は、40年前になるだろうか、衆議院議員で、運輸大臣と大臣を歴任していた人で、頭の髪を真ん中からきれいに分け、威厳のある顔つきの人だった。が、運輸大臣に就任直後、大臣の権威を藉りて、当時、国鉄上野駅構内の食堂を、身内の者に経営させるというスキャンダルを起した。世間で大騒ぎになったが、荒舩大臣は,直後、聊かも動ぜず「男、荒舩,ただ今、大臣の任を辞する」と、潔く退いてしまつた事件を思い出した。そう、あのころの大臣になる人は、どこか、威厳のある、風格をもっていたものだ。佐藤栄作にしろ、大平正芳にしろ、貫禄と品格があった。これに対し、今の政治家は、どうだろう。風格も無ければ、威厳も無い人ばかりではなかろうか。政治家というより、政治屋というべきだろう。軽々しいものの言い方。明確な哲学や、世界観に裏打ちされた政治論を持ってる人は、果たしているだろうか。荒舩氏の墓を見たとき、つい,あの頃の、言動や所作のレベルは、相当高かったのだと懐かしく思い出した。
この頃になると、お天気は、すっかり良くなり、晴天になった。皆が、仏様が、見守っていたお蔭と異口同音に、感謝した。
午後2時55分、今日の巡礼の最後の寺、五番札所・小川山語歌堂に着く。境内の、池の、見事に浮かんでいる、はすの葉。ところどころに、はすの蕾を載く茎が伸びている。ほっとする。山門の朱の色も、煤け落ち風雪に耐え忍んで、今日に至っているのは歴史の長さを、感じさせる。
この、語歌堂も、御朱印御影は、近くにある長興寺で戴かねばならない。語歌堂。御本尊准胝観世音菩薩。寺の周りは、畑が広がっている。今日、巡拝してきた古寺は、坂東、西国の両観音霊場に比べると、素朴な佇まいと、派手なところが一切無い質素な庶民的な霊場であるように思われる。妙に、構えているところがない。秩父という、関東の限られた地に、ひっそりと霊場の佇みがあるのが嬉しい。秩父の観音信仰は、室町・江戸の無常な世間を、必死で生きる庶民たちの切実な願いや祈りで、救いを観音様に求める、心のより所であったに違いない。その、現実は今日においても変わらない。お参りをしている人たちに見られる雰囲気は、真面目に、雑念を捨てて巡拝をすれば、体調が良くなることも精神的にも良好な効果があるというような確信があるように見える。
また、巡拝する寺寺には、その寺固有のご詠歌をもっている。このご詠歌は、和歌の形式で作られた、庶民の、観音菩薩に救いを求める、切実な救済の祈りがこめられている。語歌堂の語詠歌「父母のめぐみもふかき 語歌の堂 大慈大悲の誓いたのもし」、また、四萬部寺の語詠歌「ありがたや 一巻(ひとまき)成らぬ 法(のり)のはな 数(かず)は、四萬部の 寺のいにしえ」など、庶民の、質素な願いが込められて唱われている。
帰路は、語歌橋バス停から、午後3時59分のバスで、西武秩父駅に戻った。
このバス停には、横瀬町コミュニティバス「ブコーさん号」というマイクロバスも運行されていて町民サービスに努める町民の結束の固さをみる思いがした。
こうして、私は、お蔭をもちまして、体調が回復した様に思つた。感謝です。
巡拝行の終わりには、いつものように、西武秩父駅の仲見世の蕎麦やで、打ち上げ懇親会を持つた。この日、高原講元から、大変貴重な、「ことば」のサジェツシヨンを戴いた。いま、私が使っている「後期高齢者」という名称なのだが、この名称を使い始めた頃は、どこと無く暗い、楢山節考の捨てられる老人というイメージがあったものだった。が、慣れというのは、恐ろしいもので、使い慣れてくると、平気で、「後期高齢者」というようになる。しかし、高原講元のお話しでは、「後期」という言葉は、「高貴」そして、「高貴高齢者」であるとのこと。高貴な高齢である人である。という言い方もあると、教えられたのだった。確かに、「高貴」は、辞書で見ると、(1)身分などが高くて貴いこと、もありますが、(2)立派で値打ちのあること、という意味もありました。(岩波国語辞典・第五版)。そう、この(2)の感覚を持って使うことにしよう。自分に値打ちがあるのか、無いのか知らないが、いずれ、仏様につけていただければいいこと。何も、自分から卑下しなくてもよろしい。仏様に、お任せ~ッという具合にしましょう。と自省するに至りました。合掌。(角田光一郎記)
おりから今年は秩父観音霊場開創の年と同じ,甲午歳(きのえうま)の13回目の年に当たり、総開帳されている。期せずして、このおめでたく有り難い年に当たって、福聚講の秩父観音霊場巡拝行が始められるのも不思議なご縁の賜物である。(参考までに総開帳は、3月1日から、11月18日までとなっている)
秩父三十四観音霊場は、埼玉県北西部の、四方が山に囲まれた秩父盆地(秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町に点在)に札所がある。文暦元年(1234年)甲午3月18日開創、室町時代後期には、秩父札所が定着、江戸時代になると、観音信仰は、庶民のこころの支えとして、隆盛を見るようになったという。巡礼コースは、一番札所・四萬部寺から三十四札所水潜寺まで、閑静な山村と田畑や野原が広がる美しい田園風景の風光をめぐり、100キロ余りで一巡できるようだ。
私たち、福聚講のメンバーは、22日、朝10時、西武秩父駅に集合。東京は、この朝、大雨で、巡拝の参加がためらわれたが、秩父地方では、雨も小降りであった。駅出札口で、偶然、講員であるSさんと出会った。Sさんは、ほかのグループの巡礼団のリーダとなって、秩父巡礼をするのだという。
西武バスに乗り、一番札所・誦経山四萬部寺を参拝。早速、納経帖と、御影入帖を、購入する。寺では、期間中は、総開帳記念の、小さなご本尊の観音像を刻んだ散華をいただいた。本堂の前には、ご本尊に御縁を戴く、紅白の綱が、繋がれた柱が立つている。この綱を握ると、ご本尊に繋がる。滅多に無いことである。また、感謝。
一番を打ち終えて、小雨降る中、山村民家が点在する巡礼道を通り、水田と畑の中の舗装された小道を歩く。道は、徐々に、勾配が出、蛇行しながら登り歩くこと30分。やっと、二番山門にたどり着く。巡拝行を終え、振り返ってみると、この一番札所への順路は、私(報告者・角田)にとっては、難所だった。高原講元始め講員の皆さんが、ところどころで心配して、立ち止まり私が追いつくのを待っていてくれる。汗と冷や汗で、着ているものは、びっしょりになっていた。私事になり、恐縮なのですが、(このての、私事が、これから頻発します。済みません。予め、お詫びしておきます。)
実は、この日の巡拝行は、私にとって、体調テストをすることだった。3月下旬,寒暖の落差が激しかった時期、不覚にも風邪を引き、病院で点滴治療を受けた。その後も症状は、一向に好転せず,やや、回復してはきたものの,咽喉の痛みは激しく、やっと、最近、声も出せるようになり、痛みも、減退してきたところであった。その間は、行事や予定事は、一切参加せず休養に努めてきた。そして、この巡拝の日を迎えたのだった。老いの身で、体の抗体が減退しているのだろう。参加して、講員の皆さんに、ご迷惑をかけるのでは、と心配だった。一方で、自力で完治することができない。このうえは、仏様におすがりする外は無くと思い参加した。そして、もし体力が続かねば、最初の札所で打ち止めにする覚悟だった。
しかし、巡礼路で体調は回復してきた。有り難さでいっぱいだった。不思議なことに、咽喉の痛みが減少した。とにかく、これまで、風邪の後遺症が、さっぱりと無くなっている。気分も爽快だ。
午前11時50分、二番札所・大棚山真福寺着。ここまでは、小雨降り続く、小道の両側は、小高い傾斜の青々と茂った、草花が、雨に打たれて光っている丘に慰められながら歩いてきた。ここにも、御本尊とご縁を戴く柱が立ててある。ご本尊、聖観世音菩薩。お姿を拝観できるご本尊,聖観世音菩薩に、風邪が治った感謝の合掌。現世のご利益を戴いたのだ。
ただ、この真福寺では、御朱印などは、戴けない。山の下にある向嶽山光明寺で載くことになっている。巡礼路を下り格式のある、堂々とした、本堂、伽藍をもつ向嶽山光明に着く。ここで一休みしてまた三番を目指して歩き始める。
方や杉林、方や、緑滴る青葉茂みの林に挟まれた巡路を過ぎ、岩棚のキンモクセイの、植え込みを過ぎ、三番札所・岩本山常泉寺。御本尊ま聖観世音菩薩。ここまでくる道端に、タンポポ、あやめ、かきつばた、けしの花、そして、野の花が咲き乱れ、密厳浄土・極楽浄土を彷徨っている気分に浸される。境内の池には、はすの葉が浮かび、周囲を、アジサイの花が取り囲んでいる。土の匂いも、初々しい、自然の命の息遣いを感じさせられるひと時である。
東京の六本木や丸の内に最近出来たという何十階建ての高層ビルや、ガラスで光る現代感覚のビル群。重厚な舗装で固められた街路。人工的に作られた都会の生活空間は、人の自然回帰への願望を一切拒否する、冷たい廃墟のような所でしかない。それに比べて、ここ、秩父霊場の風土は、温かく、独りよがりで傷ついた心を、慰めてくれる。都会で暮らす人々の、精神状態は、果たして、正常なのだろうか。人事ではない様に思う。
午後2時05分、第四札所・高谷山金昌寺にたどり着く。ここまでくる途中にも、親切に、可愛く小さな道祖神よろしく順路を示す石の塚が立てられている。野畑を横切り、畑を耕す人を見ながら、高い渓谷を望む橋を渡り、谷川の渓音を聞きながら、足を運んできた。山門に吊された、古びた大きな一対の草鞋が目を引く。御本尊十一面観世音菩薩。境内には、1319体あるといわれる石仏群。その昔、江戸、北陸、山陰,山陽を問わず菩提供養のために人々が訪れ奉納されたというもので、当時の、隆盛を思い出させられる。これらの石仏を、眼下に見ながら、階段を上がり、本堂に。
この日の読経は、般若心経と、観音経・妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五の偈文を中心にお唱えしたが、高原講元のご指導で、読経の際、講員一人ずつ、「頭」を唱え、あと、「助」で皆が続くという仕方で行った。我々の、参拝が終わったあと、白衣姿の婦人団体一行が、本堂の欄干の前を取り囲むように並び、鈴を鳴らしながら、御詠歌を唱えていた。厳かで、素朴さもあり、心に、沁みるような、響きがした「あらかたに、まいりておがむ、かん世音 二世安楽と誰も祈らん」。この寺で、有名な、子育て観音は、始め、西洋美術のマリア様が、幼子イエスを抱いているのかと、見違えるほど、よく似ている観音様である。、別名マリア観音と言った。世の東西を問わず、子供にかける母親の慈愛は、そして、その表現様式は、何処も、変わらないものだ。
ここで、俗な話になるが、本堂の、左前に、正三位勲一等 荒舩清十郎氏の墓と等身大の胸像が立てられていた。荒舩氏は、40年前になるだろうか、衆議院議員で、運輸大臣と大臣を歴任していた人で、頭の髪を真ん中からきれいに分け、威厳のある顔つきの人だった。が、運輸大臣に就任直後、大臣の権威を藉りて、当時、国鉄上野駅構内の食堂を、身内の者に経営させるというスキャンダルを起した。世間で大騒ぎになったが、荒舩大臣は,直後、聊かも動ぜず「男、荒舩,ただ今、大臣の任を辞する」と、潔く退いてしまつた事件を思い出した。そう、あのころの大臣になる人は、どこか、威厳のある、風格をもっていたものだ。佐藤栄作にしろ、大平正芳にしろ、貫禄と品格があった。これに対し、今の政治家は、どうだろう。風格も無ければ、威厳も無い人ばかりではなかろうか。政治家というより、政治屋というべきだろう。軽々しいものの言い方。明確な哲学や、世界観に裏打ちされた政治論を持ってる人は、果たしているだろうか。荒舩氏の墓を見たとき、つい,あの頃の、言動や所作のレベルは、相当高かったのだと懐かしく思い出した。
この頃になると、お天気は、すっかり良くなり、晴天になった。皆が、仏様が、見守っていたお蔭と異口同音に、感謝した。
午後2時55分、今日の巡礼の最後の寺、五番札所・小川山語歌堂に着く。境内の、池の、見事に浮かんでいる、はすの葉。ところどころに、はすの蕾を載く茎が伸びている。ほっとする。山門の朱の色も、煤け落ち風雪に耐え忍んで、今日に至っているのは歴史の長さを、感じさせる。
この、語歌堂も、御朱印御影は、近くにある長興寺で戴かねばならない。語歌堂。御本尊准胝観世音菩薩。寺の周りは、畑が広がっている。今日、巡拝してきた古寺は、坂東、西国の両観音霊場に比べると、素朴な佇まいと、派手なところが一切無い質素な庶民的な霊場であるように思われる。妙に、構えているところがない。秩父という、関東の限られた地に、ひっそりと霊場の佇みがあるのが嬉しい。秩父の観音信仰は、室町・江戸の無常な世間を、必死で生きる庶民たちの切実な願いや祈りで、救いを観音様に求める、心のより所であったに違いない。その、現実は今日においても変わらない。お参りをしている人たちに見られる雰囲気は、真面目に、雑念を捨てて巡拝をすれば、体調が良くなることも精神的にも良好な効果があるというような確信があるように見える。
また、巡拝する寺寺には、その寺固有のご詠歌をもっている。このご詠歌は、和歌の形式で作られた、庶民の、観音菩薩に救いを求める、切実な救済の祈りがこめられている。語歌堂の語詠歌「父母のめぐみもふかき 語歌の堂 大慈大悲の誓いたのもし」、また、四萬部寺の語詠歌「ありがたや 一巻(ひとまき)成らぬ 法(のり)のはな 数(かず)は、四萬部の 寺のいにしえ」など、庶民の、質素な願いが込められて唱われている。
帰路は、語歌橋バス停から、午後3時59分のバスで、西武秩父駅に戻った。
このバス停には、横瀬町コミュニティバス「ブコーさん号」というマイクロバスも運行されていて町民サービスに努める町民の結束の固さをみる思いがした。
こうして、私は、お蔭をもちまして、体調が回復した様に思つた。感謝です。
巡拝行の終わりには、いつものように、西武秩父駅の仲見世の蕎麦やで、打ち上げ懇親会を持つた。この日、高原講元から、大変貴重な、「ことば」のサジェツシヨンを戴いた。いま、私が使っている「後期高齢者」という名称なのだが、この名称を使い始めた頃は、どこと無く暗い、楢山節考の捨てられる老人というイメージがあったものだった。が、慣れというのは、恐ろしいもので、使い慣れてくると、平気で、「後期高齢者」というようになる。しかし、高原講元のお話しでは、「後期」という言葉は、「高貴」そして、「高貴高齢者」であるとのこと。高貴な高齢である人である。という言い方もあると、教えられたのだった。確かに、「高貴」は、辞書で見ると、(1)身分などが高くて貴いこと、もありますが、(2)立派で値打ちのあること、という意味もありました。(岩波国語辞典・第五版)。そう、この(2)の感覚を持って使うことにしよう。自分に値打ちがあるのか、無いのか知らないが、いずれ、仏様につけていただければいいこと。何も、自分から卑下しなくてもよろしい。仏様に、お任せ~ッという具合にしましょう。と自省するに至りました。合掌。(角田光一郎記)