明けましておめでとうございます。新年を迎えた、本年、初めてとなる福聚講(高原耕曻講元)の東京・文京の大本山護国寺参拝が、1月、18日(土)午前11時から行われました。この日は、早朝から雨模様の天気で、小雨が降ったと思うと、牡丹雪が舞い始めるなど、気温も低く不安定な空模様でした
しかし、護国寺はご本尊・如意輪観世音菩薩の月一回の御開帳の日とあって、本堂の祭壇中央に控えられた如意輪観世音菩薩を拝観し合掌する参詣者、お寺のお坊さんからお加持を頂く子供ずれの若夫婦、観音様の正面に正座してしっかりお祈りして願い事をお唱えする中年の男性、等々。本堂はこれらの人たちのお参りで賑わいを見せていました。
そんな中、私たちは祭壇の中央に位置するところに、集まり、高原講元様の打つ拍子木に合わせながら勤行式をおこない般若心経・観音経をお唱えしました。御詠歌も、年の初めにあたり、本年一年の計を志す、為「同行和讃」を詠唱しました。本堂で、観音様に願い事を熱くつぶやく声、私たち福聚講の読経、大小さまざまの声が大きな波動となり、堂内に流れ響くさまは恰も仏さまの命の息ぶきが漂っているように思われ、護国寺の諸仏の「いのち」が、参詣者の心の琴線をもふるわせます。
この日、ご本尊の如意輪観世音菩薩様のお姿は、右膝を立てて、左の足の上に乗せ、一つの右手を頬に充て、首を傾けて思惟相をされています。どのようにして、今、この世に、苦しんでいる衆生を救おうかと思いめぐらして居られることを表現しています。お顔には、慈悲深い表情をたたえ、温かいまなざしで、悩み苦しむ衆生を見守り続けていらっしゃいます。また、六本の手を持たれ、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と六の世界をそれぞれ、救うことを表しています。そして、右手の一つには、意のままに、様々な願いを叶える宝の珠である如意宝珠をもち、また、一つの左手には、車輪が回りつつ゛けるように、仏教の教えが尽きる事なく世界に回ることを表す輪宝を持たれています(護国寺・目録より) 。
有り難いことです。これから私たちの日本は、どうなるのでしょうか?内政・外交・一本筋の通った確固とした、哲学や科学、信念・理念の裏付けにもとずいた展開がなされず、烏合の衆のざわめきの様な喧
騒ばかりを毎日聞かされるようです。そんな状況の中にあって、護国寺の仏さまは、じっと、辛抱強く、私たちの、喧騒を睨みながら出自のタイミングを見計らって居られるようです。頼もしい限りです。
この後、薬師堂で、お薬師様に、御宝号をお唱えしました。次いで、お大師様・一言地蔵様にも、御宝号をお唱えし、巡拝を恙なく、終えました。
不思議なことに、護国寺の仏さまは、丁度親鳥が卵からかえった雛鳥を、温かい羽毛で抱え込むような親鳥の温かみを感じさせます。ほかの寺院にはない、得も言われない不思議な雰囲気が感じられます。護国寺の歴史や徳川・桂昌院の故事などの世俗の事柄に関わりないところで、言葉では言いあらわせない不思議な魅力があると思うのです。
今年は、こうした護国寺の不思議な魅力について、もっともっと深く感じ考えてゆきたいと思いました。
「継続は力なり」といいます。言うは簡単ですが、どんな小さな些事であれ10年以上、一日も欠かさずブログを作る作業は、容易ではありません。しかも、三世の事実や、日本全国にある神仏の催しの案内、古典文献の渉猟、特に、御大師様の日常の営みの記録の紹介など、これらを、一度たりても欠かさず、掲載してゆく労力は、筆舌に尽くし難いのではないかと思います。高原講元様の健筆に、感謝するばかりです。千日?回峰行を凌ぐような迫力を感じさせられます。
念頭にあたって、今年も、講元様の健筆を祈念いたします。(講元より。おほめにあずかり穴が有ったら入りたい気持ちです。今年は特に有難く、1月の定例会は18日の初観音様の日、2月15日の定例会はお釈迦様の日、3月21日の定例会はまさにお大師様の日、そして4月18日の定例会は観音様の日でこの日は丁度護国寺定例参拝100回目を迎えるようです。世話人の中塚さんが数えてくださいました。このように有難いことが重なるのも護国寺の如意輪観世音様・諸仏とご参加くださる皆様のお陰とますます感謝の念に堪えません。)
しかし、護国寺はご本尊・如意輪観世音菩薩の月一回の御開帳の日とあって、本堂の祭壇中央に控えられた如意輪観世音菩薩を拝観し合掌する参詣者、お寺のお坊さんからお加持を頂く子供ずれの若夫婦、観音様の正面に正座してしっかりお祈りして願い事をお唱えする中年の男性、等々。本堂はこれらの人たちのお参りで賑わいを見せていました。
そんな中、私たちは祭壇の中央に位置するところに、集まり、高原講元様の打つ拍子木に合わせながら勤行式をおこない般若心経・観音経をお唱えしました。御詠歌も、年の初めにあたり、本年一年の計を志す、為「同行和讃」を詠唱しました。本堂で、観音様に願い事を熱くつぶやく声、私たち福聚講の読経、大小さまざまの声が大きな波動となり、堂内に流れ響くさまは恰も仏さまの命の息ぶきが漂っているように思われ、護国寺の諸仏の「いのち」が、参詣者の心の琴線をもふるわせます。
この日、ご本尊の如意輪観世音菩薩様のお姿は、右膝を立てて、左の足の上に乗せ、一つの右手を頬に充て、首を傾けて思惟相をされています。どのようにして、今、この世に、苦しんでいる衆生を救おうかと思いめぐらして居られることを表現しています。お顔には、慈悲深い表情をたたえ、温かいまなざしで、悩み苦しむ衆生を見守り続けていらっしゃいます。また、六本の手を持たれ、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と六の世界をそれぞれ、救うことを表しています。そして、右手の一つには、意のままに、様々な願いを叶える宝の珠である如意宝珠をもち、また、一つの左手には、車輪が回りつつ゛けるように、仏教の教えが尽きる事なく世界に回ることを表す輪宝を持たれています(護国寺・目録より) 。
有り難いことです。これから私たちの日本は、どうなるのでしょうか?内政・外交・一本筋の通った確固とした、哲学や科学、信念・理念の裏付けにもとずいた展開がなされず、烏合の衆のざわめきの様な喧
騒ばかりを毎日聞かされるようです。そんな状況の中にあって、護国寺の仏さまは、じっと、辛抱強く、私たちの、喧騒を睨みながら出自のタイミングを見計らって居られるようです。頼もしい限りです。
この後、薬師堂で、お薬師様に、御宝号をお唱えしました。次いで、お大師様・一言地蔵様にも、御宝号をお唱えし、巡拝を恙なく、終えました。
不思議なことに、護国寺の仏さまは、丁度親鳥が卵からかえった雛鳥を、温かい羽毛で抱え込むような親鳥の温かみを感じさせます。ほかの寺院にはない、得も言われない不思議な雰囲気が感じられます。護国寺の歴史や徳川・桂昌院の故事などの世俗の事柄に関わりないところで、言葉では言いあらわせない不思議な魅力があると思うのです。
今年は、こうした護国寺の不思議な魅力について、もっともっと深く感じ考えてゆきたいと思いました。
「継続は力なり」といいます。言うは簡単ですが、どんな小さな些事であれ10年以上、一日も欠かさずブログを作る作業は、容易ではありません。しかも、三世の事実や、日本全国にある神仏の催しの案内、古典文献の渉猟、特に、御大師様の日常の営みの記録の紹介など、これらを、一度たりても欠かさず、掲載してゆく労力は、筆舌に尽くし難いのではないかと思います。高原講元様の健筆に、感謝するばかりです。千日?回峰行を凌ぐような迫力を感じさせられます。
念頭にあたって、今年も、講元様の健筆を祈念いたします。(講元より。おほめにあずかり穴が有ったら入りたい気持ちです。今年は特に有難く、1月の定例会は18日の初観音様の日、2月15日の定例会はお釈迦様の日、3月21日の定例会はまさにお大師様の日、そして4月18日の定例会は観音様の日でこの日は丁度護国寺定例参拝100回目を迎えるようです。世話人の中塚さんが数えてくださいました。このように有難いことが重なるのも護国寺の如意輪観世音様・諸仏とご参加くださる皆様のお陰とますます感謝の念に堪えません。)