福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は中院流祖明算示寂の日

2024-11-11 | 法話


明算
中院流祖、高野山中興。一に中院御坊と言ひ、俗姓は佐藤氏。紀州那賀郡田中庄神崎邑の人。治安元年誕生。長元四年1031十一歳の春、祈親上人に伴はれて高野山に登り東室に入り、翌五年上人に随って薙髪修学す。長久元年春中院に移住し、永承四年1049八月釈王寺頼尋に就いて伝法灌頂を受け、天喜五年1057四月始めて御影堂に十六口の山籠僧を申置し、御影供を始行す。同六年七月小野曼荼羅寺に至り、成尊に謁して大日経並びに疏を傳受し、康平七年1064春、諸尊の印契秘訣を受け、鑽燧若干年、遂に延久四年1072十二月二十七日成尊を拝して伝法灌頂を受け、真然相傳の南山の大事を本として小野法流の源底を究む。時に五十二歳、明算即ち山に帰り翌年春密壇を中院に開きて法化を布くや、名匠受法する者多く、その流れを中院流と称し、法脈益々繁栄せり。承保二年1075春、生縁の地神崎村に一寺を建立して自作愛染明王像を安置し、龍蔵院と号す。応徳三年1086九月高野山壇上の灌頂院落慶し(性信親王、寛意造立)三口の供僧を置かるるや、明算その一員となる。寛治四年1090春推され高野山検校に補し一山の興隆と法儀の制定に尽力す。翌年正月金堂修正会を始行し、同二月十九日白河法皇高野に御幸あり。二十日宸翰法華経一部、理趣経三巻を廟前に奉納したまひ、御参籠の上、法華八講及び理趣三昧を勤修したまふ。明算、理趣三昧の供養導師を勤仕しこの日法賞として安芸国能美庄を永代寺家に賜ふ。嘉保元年1094七月昼夜不断理趣三昧を中院大堂に始行し、以て後格と為す。翌二年二月宣旨を蒙りて大塔造営のことを始め、同日大華表を再立し、承徳元年1097三月奥の院拝殿落慶し、その唱導師を勤め、同七月昼夜不断尊勝陀羅尼会を西御堂に始行す。康和元年1099二月関白藤原師實登山し、自筆の理趣・法華の二経を廟前に埋納せし時、その法導師を勤め、翌年十月大塔造営なる。翌三年六月十五日寛意(性信入道親王のもとで真言宗広沢流の法を受け、白河天皇の護持僧となった。1086年(応徳3年)性信入道親王の依頼を受けて高野山に灌頂院を創建し、権少僧都・円宗寺別当に任じられた。1088年(応徳5年)白河上皇の高野山行幸の際、命により御影堂を開扉している。孔雀経法を修して霊験があったとされ、権大僧都・東寺二長者に任じられた。1092年(寛治6年)高野山往生院谷に隠棲し、遍照光院を中興した。当時華美であった広沢流を嫌いその復古につとめ、その後観音院流の祖とされた)寂す。明算哀嘆し以来春秋二季の結縁灌頂を恒格となし、春季は寛意、秋季は性信親王の追薦に資することとなす。同四年二月明算中院大堂に於いて独り経行せしに、空智・空圓の二僧正化現して教導す。明算その教示を蒙り同七月より金堂において中曲理種三昧の法会を発起せり。同五年大塔五佛御衣木加持を行ひ同十一月大塔落慶供養導師を勤め十二月山籠僧三口を申加せらる。嘉承元年1106七月勅して大塔供養三口を置かれ同十一月大塔供養領として名手庄屋を賜ふ。治山十六年、よく師祈親の後を受け祖山興隆の業を完成し同年1106十一月十一日中院にて寂す。壽八十六.付法に良禅・教真・明範・真譽・明寂等・・(以上密教大辞典より)



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