福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は御大師様が「沙門勝道の碑」を著された日です

2024-08-30 | 頂いた現実の霊験

「沙門勝道山水を歴て玄珠(げんじゅ、悟りを求める心)を瑩く碑並序
沙門遍照金剛撰」
蘇巓鷲嶽(そてんじゅがく、須弥山・鷲峯山)は異人(佛菩薩)の都するところなり。達水龍坎(だっすいりょうかん、龍の棲む池)は霊物ここにあり。夫れ境、心に従って変ず。心垢るれば境濁る。心は境を逐って移る。境しずかなるときは心ほがらかなり。心境冥会して道徳(絶対の働き)はるかに存す。
能寂(釈迦)常に居して利見し(仏がみそなわし)、妙祥(文殊)鎮(とこしな)へに住して接引(仏道に引き入れ)、提山(お地蔵様の佉羅陀山)に迹を垂れ孤岸に津梁たるがごときにいたっては(補陀落山において衆生を済度したことは)ならびに皆仁山により智水につかずということなし(「仁者は山を楽しみ智者は水をたのしむ」ということ)。
台鏡みがき磨いで(無私の鏡を磨き)機水に俯して応ずるの沙門勝道といふものあり。下野芳賀の人なり。俗性は若田氏、神救蟻の齢にはるかして(15歳に及ばぬくらいの時)意(こころ)は惜嚢(具足戒をうける20歳)の歯(とし)に清し。四民の生事(庶民のいきざま)に桎枷せられて、三諦の滅業に調飢す(真・俗・中の3つの真理により業を滅したいと渇望した)。聚楽の轟轟たるを厭うて、林泉の皓然(あきらか)たるを仰ぐ。ここに同じき州に補陀落山あり(日光山は弘仁年間以前にすでにこうよばれていた)。蔥峯銀漢(青青とした山は雪をふくみ)を挿み、白峯碧落(青空)を衝けり。磤雷(さかんな雷)腹にして「た」(鰐)のごとくにほえ、翔鳳足にして(鳳凰はふもとで)羊の如くに角(いそ)ふ。魑魅通ふことまれなり。人蹊また絶えたり。とふ、古より未だ攀じ登る者あらず。法師義成を顧みて(釈迦をかえりみて)歎きを興し、勇猛を仰いで心を策(はげ)ます。遂に去りぬる神護景雲元年(676)四月上旬をもって跋みのぼる。雪深く巌峻しくして、雲霧雷迷して上ること能くせず。還って半腹に住すること三七日にして却き還る。又天応元年四月上旬、更に攀陟を事とするも上ること得ず。二年三月中、諸の神祇の奉為に経を写し、仏を図し、裳を裂いて足をつつみ、命をすてて道を求む。経像を繦負して(せおい)山の麓に至る。経をよみ仏を禮すること一七夜。堅く誓ひをおこして曰く「若し神明をして知ることあらしめば、ねがわくは我が心を察せたまへ。吾図寫するところの経および像、まさに山の頂に至って神の為に供養して神威を崇め、群生の福をゆたかにすべし。仰ぎ願はくは、善神威を加へ、毒龍霧を巻き、山魅前導して(山神先導して)我が願いを助け果たせ。我、若し山の頂に到らずは、菩提に至らじ。」是のごとく願いを発しおわって白雪の「がいがい」たるを跨んで緑葉の璀璨(さいさん、たれた珠玉のように輝く)たるを攀ず。脚踏むこと一半(半分)にして身疲れ竭きぬ。憩ひ息むこと信宿にして(二日泊)ついにその頂を見る。怳怳惚惚(きょうきょうこつこつ、うっとり)として夢に似たり、悟めたるに似たり。査(うきき、浮木)に乗るによらずして忽ちに雲漢に入り(あまのがわ)、妙薬を嘗めずして神窟を見ることをえたり。一たびは喜び、一たびは悲しむで心魂持ちがたし。山の状たらく、東西龍の臥せるがごとくして、彌(わた)し望に極まりなし(眺望が極まりない)。南北虎の蹲るがごとくして棲息するに興あり。妙高を指して儔(ともがら)とし、輪鉄(鉄囲山)を引いて帯となせり。衡岱(中国の衡山、泰山)猶卑(みじか)きことを咲ひ、崑香(こんこう、玉を産する崑崙山、香気あふれる香酔山)又劣なることを晒(あざけ)る。日出てまず明かなり。月来って晩く入る。天眼を仮らずして万里目の前なり。何ぞ更に鵠(こく、クグイ、仙人の乗り物)に乗らむ。白雲足の下なり。千般の錦花(千万の錦のような景観)、機無くして常に織り、百種の霊物(限りない霊妙な自然の事物)誰人か陶冶する。北に望めば湖あり。約め計ふれば一百頃(いっぴやくけい、およそ一万畝)なり。東西狭く南北長し。西に顧みれば一小湖あり。二十余頃あるべし。未申(ひつじさる、南西の方角)をかえりみれば更に一大湖あり。冪(こめ)計ふれば(全部を数えれば)一千余町なり。東西闊からず。南北長く遠し。四面の高き峯影を水中に倒しまにし、百種の異なる荘(かざり)木石自ずから有り。銀雪地に敷き、金花枝に発く。池鏡私なし。萬色誰か逃れむ。山水相映じて乍(たちまち)に絶腸(腸を絶つほどの絶景)を看る。瞻佇(せんちょ、ながめたたずむ)すること未だ飽かざるに風雪人をとどむ。我、蝸菴(かあん、蝸牛の庵)をその坤角に結んで之に住して、礼讃して動もすれば三七日を経たり。すでにこの願を遂げて便ち故居に帰る。
去りぬる延暦三年下旬に更に上って広さ三尺なるを造り得たり。即ち二三子と興に湖に棹さいて遊覧す。遍く四壁を眺るに神麗(霊妙美麗)夥く多し。東に看、西に看る。氾濫として(水が漲って溢れ)自ずから逸し。日暮れ興あまって強いて南の洲に託(つ)く。その洲は陸を去ること三百丈よりこのかた、方円三千丈余なり。諸州の中に美花富めり。復更に西湖に遊ぶ。東湖を去ること十五許里、又北湖を覧れば南湖を去ること三十許里、ならびに美をつくすと雖も惣て南には如かず。その南湖は碧水澄鏡のごとくして深きこと測るべからず。千年の松柏水に臨んで緑蓋を傾け、百囲の檜杉巌に竦(た)ちて、紺楼(かんろう、蒼紺の楼閣)を構えたり。五彩の華一株にして色を雑へ、六時の鳥、声を同じゆうして鳴くこと異にす。白鶴汀に舞ひ、紺鳧(かんぷ、かも)水に戯る。翼を振ふこと鈴のごとく、音を吐けば玉の響あり。松風琴を懸け、砥浪(しろう、水際の石に寄せる波)鼓を調ぶ。五音(中国・日本の音楽の理論用語。音階や旋法の基本となる五つの音。各音は低い方から順に宮(きゆう)・商(しよう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う))争って天韻を奏し、八徳(八功徳水、極楽浄土などにあって、八つの功徳を備えている水。倶舎論(くしゃろん)では、甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腸の八徳。)湛湛としておのずから貯えたり。霧の帳、雲の幕、時時難陀(難陀竜王)が冪れき(べきれき、住まいとする)するなり。星の燈、雷の炬、数数普香(ふこう、明星天子のこと)の把り束ねたるなり(つかねもつ)。池中の円月を見ては普賢の鏡智を知り、空裏の慧日を仰いでは(空中に輝く智慧の日をあおいでは)遍智の(覚りの智慧)我にあることを覚る。この勝地に託いて(よって)いささか伽藍を建つ。名ずけて神宮寺(今は廃寺)といふ。ここに住して道を修すること荏苒として四祀(四年)なり。(延暦)七年四月更に北涯に移住す。四望さわりなく、沙場(水際の砂場)愛しつべし。異花の色、名け難うして目をおどろかす。奇香の臭(珍奇な香り)尋ね叵(が)とうして、意を悦ばしむ。霊仙(仙人)知らず、いずくにか去る。神人(仙人)髣髴として存するがごとし。歳精(漢の東方朔のこと、東方朔は「十州記」で海中に浮かぶ十の洲を記述)の記すること無き事を忿り、王侯(古代中国の隠者)の遊ばざるを惜しむ。飢虎を思へども遇はず(お釈迦様の捨身飼虎のこと)、子喬(仙人の名)を訪って適に去る。花蔵を心海に観じ(さとりの蓮華蔵世界を心に観じ)実相を眉山(日光の山は須弥山のよう)に念ふ。蘊ら(雑草)寒を遮し、䕃葉(いんよう、茂った木の葉)暑を避る。菜を喫ひ水を喫って楽び中にあり。たちまちにゆきたちまちにゆいて塵外に出ず。九皐(深谷)の鶴の声、天に達し易し。去りぬる延暦中、柏原皇帝(桓武天皇)之を聞しめして便ち上野国の講師(こうじ、僧侶の取り締まり役)に任ず。利他時あり、虚心物に逐ふ。又華厳の精舎(華厳寺)を都賀の郡城山に建立す。此れに就き彼に往いて物を利し道を弘む。去んじ大同二年、国に陽九(禍)有り。州司(くにのつかさ)法師をして雨を祈らしむ。師、補陀落の山(日光山)に上って祈祷す。時に応じて甘雨霶霈(ほうはい)して百穀豊登なり。所有の佛業(仏の業)縷しく説くこと能くせず。ああ、日車(月日)とどめがたく人間(じんかん)変じ易し。従心(70才)忽ちに至りて四蛇(地水火風)虚羸(きょるい、空しく衰える)す。摂誘(しょうゆう、いざなう)是れ務めて能事畢むぬ(為すべきことをないおえた)。前の下野の伊博士公(伊という博士氏)、法師と善し、秩満して(任期満了)京に入る。時に法師勝境(勝景)の記すること無きことを歎いて属文を余が筆に要す(文章をつくることを頼む)。伊公(伊という博士)余に輿(くみ)す。故に固辞すれども免れず。虚に課(おほ)せて(ともかく)毫を抽(ぬきい)ず(筆をとる)。乃ち銘をつくって曰く。


鶏黄(けいおう)地を裂き 粹気(すいき)天に昇る (天地混沌の時、」純粋の気が天に上った)
蟾烏(せんう)運転して 万類跰闐(へんてん)す (日月運行して万物ははびこった)
山海錯峙(さくじ)し 幽明阡(みち)を殊にす
俗波は生滅し 真水は道の先なり(有為は消え、無為は永遠なり)

一塵 獄を構え 一滴 湖を深くす
埃涓(あいけん)委聚(いしゅう)して (塵や水があつまって)
神都を画飾す (仙人のいる二荒山を飾る)
嶺岑(れいしん)梯(てい)あらず(山には梯子はない)
鷲鷟(がくぞく)も図ること無し(鳳凰も高さを測れない)
皚皚(がいがい)たる雪嶺 曷(たれ)か矚(み)誰か廬(いおり)す(一面に真っ白な雪嶺を誰が見て誰が住むことが出来よう)
沙門勝道 竹操松柯(しょうか)あり (沙門勝道は志操堅固)
之の正覚を仰ぎ 之の達磨(たらま)を誦す( 仏の覚りを求め、呪をとなえる)
観音に帰依し 釈迦を礼拝す
道に殉(したが)いて斗藪し 直ちに嵯峨に入る(広大なる山に入る)
絶巘(ぜっけん)に龍跳し 鳳挙(ほうきょ)して経過す
神明威護して 山河を歴覧す

山また崢(そうそう)たり 水また泓澄(こうちょう)たり
綺花(きか)灼灼(しゃくしゃく)たり
異鳥嚶嚶(おうおう)たり
地籟(ちらい)天籟 筑(ちく)の如く筝の如し
異人乍(たちま)ちに浴し 音楽 時に鳴る (諸菩薩、天人忽ちに住んで、・・)

一覧 憂いを消し  百煩 自(おのず)から休す
人間に比すること莫し  天上にも寧(なん)ぞ儔(とも)あらん
孫興も筆を擲(なげう)ち(『天台山賦』をつくった東晋の文学者孫興も筆を投げ) 
郭(かく)も豈(あに)詞周(あまね)からんや (能弁家の郭象もいいつくせない)
咄哉 同志 何ぞ優遊せざる

人の相知る事必ずしも対面して久しく語るのみにしもあらず。
意通ずれば傾蓋の遇なり(路上で会って傘を傾けて話し合う)。
余と道公と生年より相見ず(うまれてこのかた会ってない)。
幸いに伊博士公に因ってその情素(せいそ、まごころ)の雅致(みやびなおもむき)を聞き、兼ねて洛山(補陀落山=二荒山)の記を請ふことを蒙る。余不才なれども仁に當る(みこまれた)。敢へて辞譲せず。すなわち拙詞を抽んでてならびに絹素(けんそ、白紙)の上に書す。詞翰俱に弱くして深く玄の猶白からむことをおそる(未熟をおそれる)。寄するに瓦礫をもってし、其の情至(せいし、心情)を表す。百年の下に忘るることなくして相憶はむのみ。
西嶽沙門遍照金剛題す
弘仁の敦祥(弘仁の午の年、弘仁五年814)の歳 月次壮朔三十(八月三十日)の癸酉(みずのととり、きゆう)なり


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