A,結論は「縁起のいいもの」です。意味は仏を供養するためのもの。回数は1ないし3回です。
密教では五供養といって仏様を供養するのに 塗香・華・焼香・飲食・灯明の5種類をあげます。
そして焼香のいみは一度火をつけると最後まで燃え尽きるというところから「精進」をあらわします。(ちなみに塗香は戒律を、華は忍辱を、飲食は禅定を、灯明は智慧をあらわします)
なお「感通伝」によれば天人が道宣律師に仏を供養するときまず焼香する理由としてこういったとされます、「人間の臭気は上四十里に達する。諸天はこれを厭う。しかし護法の佛勅を受けたからには下界にくだらざるをえない。そこで仏事には必ず香を焼かしめるのである。」
また
善導大師の法事讃に「ねがわくは我が身の清きこと香炉の如く、願わくは我が心は智慧の火の如く、念々に戒定し、香を梵焼して十方世界の仏をくようしたてまつれ」「香を焼くことは香のあるあいだは火の燃えて煙たつなり。これ地水火風の借り物の口より息の出るは彼の煙の如し。又消え果てて冷えたる灰となるは我が身鳥部野の薪となりはて、空しく灰となるに譬えて見よという意なり。」とあります。
焼香の場面は仏典にも多く出てきます。たとえば法華経(授學無學人記品第九)にも法華経を「華香瓔珞末香塗香燒香蓋幢幡衣」で供養するものは悟りを得ると書いてあります。四分律行事鈔資持記には以下の言い伝えを記しています。「 お釈迦さまの弟子の富那奇は、兄の羨那(センナ)と共に一念発起し、力を併せて故郷にお堂を建て、敬慕する気持ちを込めて香を焚いたところ、その煙はお釈迦さまの下へ天蓋となって届き、二人の供養する心を悟られたお釈迦さまは、すぐさまそのお堂にお出向きになり、説法をされた」。
密教の修法でもご本尊をお迎えする重要な場面では三度焼香します。
焼香の回数は曹洞宗は2回、真言宗 は3回 、天台宗 浄土宗は特にこだわらない、臨済宗 は1回、浄土真宗本願寺派 は1回 、大谷派は2回、日蓮宗は1回または3回 といいます。
ここで一回は、「一念三千」を表し、三回は仏法僧の三宝に帰依するとか三業を清めるとか理由は付けられますが要は自分や周りを清め仏様を供養するということさえわかっていれば一度でもいいと思います。
密教では五供養といって仏様を供養するのに 塗香・華・焼香・飲食・灯明の5種類をあげます。
そして焼香のいみは一度火をつけると最後まで燃え尽きるというところから「精進」をあらわします。(ちなみに塗香は戒律を、華は忍辱を、飲食は禅定を、灯明は智慧をあらわします)
なお「感通伝」によれば天人が道宣律師に仏を供養するときまず焼香する理由としてこういったとされます、「人間の臭気は上四十里に達する。諸天はこれを厭う。しかし護法の佛勅を受けたからには下界にくだらざるをえない。そこで仏事には必ず香を焼かしめるのである。」
また
善導大師の法事讃に「ねがわくは我が身の清きこと香炉の如く、願わくは我が心は智慧の火の如く、念々に戒定し、香を梵焼して十方世界の仏をくようしたてまつれ」「香を焼くことは香のあるあいだは火の燃えて煙たつなり。これ地水火風の借り物の口より息の出るは彼の煙の如し。又消え果てて冷えたる灰となるは我が身鳥部野の薪となりはて、空しく灰となるに譬えて見よという意なり。」とあります。
焼香の場面は仏典にも多く出てきます。たとえば法華経(授學無學人記品第九)にも法華経を「華香瓔珞末香塗香燒香蓋幢幡衣」で供養するものは悟りを得ると書いてあります。四分律行事鈔資持記には以下の言い伝えを記しています。「 お釈迦さまの弟子の富那奇は、兄の羨那(センナ)と共に一念発起し、力を併せて故郷にお堂を建て、敬慕する気持ちを込めて香を焚いたところ、その煙はお釈迦さまの下へ天蓋となって届き、二人の供養する心を悟られたお釈迦さまは、すぐさまそのお堂にお出向きになり、説法をされた」。
密教の修法でもご本尊をお迎えする重要な場面では三度焼香します。
焼香の回数は曹洞宗は2回、真言宗 は3回 、天台宗 浄土宗は特にこだわらない、臨済宗 は1回、浄土真宗本願寺派 は1回 、大谷派は2回、日蓮宗は1回または3回 といいます。
ここで一回は、「一念三千」を表し、三回は仏法僧の三宝に帰依するとか三業を清めるとか理由は付けられますが要は自分や周りを清め仏様を供養するということさえわかっていれば一度でもいいと思います。