御即位灌頂 冨田斆純(11代豊山派管長)等より・・・7
第八章、御即位灌頂作法
後三条天皇が秘密灌頂の印を結びたまひてより、先蹤として此後御即位灌頂は代々行われたのである。伏見天皇(第92代・13世紀後半から14世紀初め)御即位には青蓮院准后道玄(室町後期の僧。 天台座主。号は後十楽院。法務大僧正准三后。二条摂政関白従一位持基の子)を勅請し灌頂を受けられたが道玄は摂政二条良實の第六子であったのでその後御即位灌頂は二条家に相伝することとなったので後小松天皇には二条良基御即位灌頂を授け奉った。又一方では後奈良天皇には法性寺光什大僧正が御即位灌頂を授け奉った。こんな様でこの秘法は真俗両様に相伝せらるることとなったのである。・・・。」後陽成天皇は御年十五歳にして天正十四年(1586年)十一月二十五日即位礼を挙行せられたのである。兼見卿記には「末刻出御 御剣璽典侍女王これを持たれ 高御座へ入御あって関白・・・御即位御相伝云々」とある。即ち高御座へご入御あって後、御即位灌頂を授け奉ったのである。「御即位灌頂秘法」の説に依れば、「主上、太極殿の高御座の御座に於いて、南を向いて御着座時、摂禄の臣、右繞一匝、後に北を向いて着座、即ち印明を授け奉り給ぬ。」とありて高御座の着座の後に授け奉る、とあるが、このようなことはむしろ異例で、常には前日御座所においてこの秘法を授け奉たのである。
後奈良天皇が享禄三年(1531年)四月二十八日に法性寺座主前大僧正正什よりこの即位灌頂を授かり給へし時の記録によると、先ず灌頂を受ける予備の修行として同月二十二日より二十八日に至る一週間毎日、十一面観音(観音経一巻)大神宮(心経一巻)春日大明神(唯識三十頌一遍)宛を読誦遊ばしたのである。十一面観音は伊勢大神宮の本地佛であるからこの仏に観音経を捧げ、次に大神宮に心経を誦し、次に藤原氏の氏神である春日大明神に唯識三十頌を誦して法楽に供えたのである。愈々灌頂当日の御行水の時には「「バン」字より「キリク」流るるこの水を、むすびかかりて「アビラウンケン」」といふ歌を詠み、その後は普通に行われる許可灌頂の作法に依りて、智拳印一印に「バン」字の明を授け奉ったのである。一条兼良はこのことを記して、「御即位の時、後房において手を洗い口を漱ぎ給ふ。執炳を天子に授け申す、天子御手に印を結び、御口に真言を唱ふ(御心中なり)昇廊下馬道を経て高御座御椅子に著せしめ給ふ、この外別のこと無し、即位灌頂の事、東寺山門軌範、重々の儀有りと雖も、当流これを用いず、一印一明を過ぎざる由、覚悟せしむるべし、聊爾為と雖も、断絶を恐るる故に、子孫の為に之を書き置くものなり。」といふておる。而してこの儀式は最も秘密にせられたるものにして、その儀式のときには、天皇陛下と灌頂を授け奉る人の外は誰人もこれに列せしめざるのである。仁孝天皇文化十四年九月二十一日、二条斉信が秘密のこの即位灌頂を授け奉りし時、関白一条良忠が突然御座の辺に参候したので二条斉信は大いに気色を損じて「関白たりと雖も、この際参候せらてはならぬ」と大いに詰責したことはその自日記に記している。・・・
第八章、御即位灌頂作法
後三条天皇が秘密灌頂の印を結びたまひてより、先蹤として此後御即位灌頂は代々行われたのである。伏見天皇(第92代・13世紀後半から14世紀初め)御即位には青蓮院准后道玄(室町後期の僧。 天台座主。号は後十楽院。法務大僧正准三后。二条摂政関白従一位持基の子)を勅請し灌頂を受けられたが道玄は摂政二条良實の第六子であったのでその後御即位灌頂は二条家に相伝することとなったので後小松天皇には二条良基御即位灌頂を授け奉った。又一方では後奈良天皇には法性寺光什大僧正が御即位灌頂を授け奉った。こんな様でこの秘法は真俗両様に相伝せらるることとなったのである。・・・。」後陽成天皇は御年十五歳にして天正十四年(1586年)十一月二十五日即位礼を挙行せられたのである。兼見卿記には「末刻出御 御剣璽典侍女王これを持たれ 高御座へ入御あって関白・・・御即位御相伝云々」とある。即ち高御座へご入御あって後、御即位灌頂を授け奉ったのである。「御即位灌頂秘法」の説に依れば、「主上、太極殿の高御座の御座に於いて、南を向いて御着座時、摂禄の臣、右繞一匝、後に北を向いて着座、即ち印明を授け奉り給ぬ。」とありて高御座の着座の後に授け奉る、とあるが、このようなことはむしろ異例で、常には前日御座所においてこの秘法を授け奉たのである。
後奈良天皇が享禄三年(1531年)四月二十八日に法性寺座主前大僧正正什よりこの即位灌頂を授かり給へし時の記録によると、先ず灌頂を受ける予備の修行として同月二十二日より二十八日に至る一週間毎日、十一面観音(観音経一巻)大神宮(心経一巻)春日大明神(唯識三十頌一遍)宛を読誦遊ばしたのである。十一面観音は伊勢大神宮の本地佛であるからこの仏に観音経を捧げ、次に大神宮に心経を誦し、次に藤原氏の氏神である春日大明神に唯識三十頌を誦して法楽に供えたのである。愈々灌頂当日の御行水の時には「「バン」字より「キリク」流るるこの水を、むすびかかりて「アビラウンケン」」といふ歌を詠み、その後は普通に行われる許可灌頂の作法に依りて、智拳印一印に「バン」字の明を授け奉ったのである。一条兼良はこのことを記して、「御即位の時、後房において手を洗い口を漱ぎ給ふ。執炳を天子に授け申す、天子御手に印を結び、御口に真言を唱ふ(御心中なり)昇廊下馬道を経て高御座御椅子に著せしめ給ふ、この外別のこと無し、即位灌頂の事、東寺山門軌範、重々の儀有りと雖も、当流これを用いず、一印一明を過ぎざる由、覚悟せしむるべし、聊爾為と雖も、断絶を恐るる故に、子孫の為に之を書き置くものなり。」といふておる。而してこの儀式は最も秘密にせられたるものにして、その儀式のときには、天皇陛下と灌頂を授け奉る人の外は誰人もこれに列せしめざるのである。仁孝天皇文化十四年九月二十一日、二条斉信が秘密のこの即位灌頂を授け奉りし時、関白一条良忠が突然御座の辺に参候したので二条斉信は大いに気色を損じて「関白たりと雖も、この際参候せらてはならぬ」と大いに詰責したことはその自日記に記している。・・・