福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大智度論より・・6

2019-11-10 | 諸経
(大智度論釋初品中戒相義第二十二之一)
(戒の内容・殺生罪)・・2
復次に人ありて師に従って受戒せず。而も但だ心に自ら誓を生ず。「我今日より復た殺生せず」と。如是の不殺は或時は無記なり。
問曰「是の不殺戒は何界の繋なりや」。答曰「迦栴延子の阿毘曇中に言ふがごとくんば一切の受戒律儀は皆な欲界繋なり。餘の阿毘曇中に言く「或は欲界に繋がれ、或は繋がれず」と。實を以て之を言はば應に
三種あり。或は欲界繋、或は色界繋、或は無漏なり。殺生の法は欲界なりといえども不殺戒は應に殺に随はば欲界にあるべし。但だし色界の不殺、無漏の不殺は、遠く遮するが故に、是れ真の不殺戒なり。
復た次に、人ありて、受戒せずしても、生れて已来、殺生を好まざれば、或いは善、或いは無記なる、是れを無記と名づく。是の不殺生の法は心に非ず、心数法に非ず、亦た心相応に非ず(心そのものでまないし、心の働きでもなし、心と物質のどちらでもないともいえない)或いは心と共に生じ、或いは心と共に生ぜず。
迦栴延子の阿毘曇(阿毘曇八犍度論・これは説一切有部の教理書。八章からなり、個別存在の本質・認識の種類・修道実践・三昧といった仏教教義の基本的な論題の説明や、対立見解の論駁を扱う。『大毘婆沙論』はこの作品への注釈書)中に言く、「不殺生は是身口業なり。或は作色、或は無作色(表色、無表色)、或は隨心行(思量に随って生起する行)、或は不隨心行なり。(丹注に云わく、随心行は定共戒(定と共に生ずる戒)なり、心意に隨わざるは、五戒なり)。先世の業報に非ず。二種の修は応に修すべく、二種の証は応に証すべし(丹注に云わく、身証、慧証なり)。思惟にて一切を断じ、欲界の最後に見断を得る時断ず。凡夫と聖人の所得にして、是れ色法の、或いは可見、或いは不可見の法、或いは有対の法、或いは無対の法、有報の法、有果の法、有漏の法、有為の法、有上の法なり(丹注に云わく極に非ざるが故に有上なり)。相応因に非ず』、と。是の如き等の分別、是れを不殺戒と名づく。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「十善法語」その70 | トップ | さきほど「祝賀御列の儀」が... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事