性霊集の六・七・八巻は大師の達親文です。
ここに大師の先祖供養のお考えが凝縮されています。
つまり造佛・写経・法要等の供養は施主の先祖を救うのみでなく一切の六道四生に及ぶとおっしゃっています。
例えば「・・三界を牢籠し(三界の衆生をよく率い)四生を綿絡して(胎・卵・湿・化の衆生を摂取不捨)同じく愛獄を脱して斉しく覚道に遊ばん。(「桓武天皇の奉為に太上御書の金字の法華を講ずる達親」)」、「・・伏して願わくはこの善業により焭魂けいこんをたすけ奉らむ。三十七の聖(金剛界曼荼羅の三十七尊)足を本誓にうるおし、一乗の甘露頂に佛種を灌がん。慧眼を開いて不生を見、心蓮を敷いて円鏡を鑒みん。法水を汲んで尽くることなく、佛力用いて窮まらざらん。無尽の法水を灑いで無辺の有情を沐して共に長夜の迷室を照らして早く常楽の覚路に遊ばん。(「弟子真境が亡孝(亡父)の七七の斉を設くるための願文」)」、「伏して願わくはこの徳海を傾けて焭魂を潤洗せん。妄霧をかかげてもって大日を覩み、智鏡を懐いてもって実相を照らさん。法の不思議これを用いて窮尽なし。福、現親に延いて寿考光寵ならん。臣子善あれば必ず所尊に奉ず。この勝福を廻して聖朝に酬い奉り、金輪常に転じて十善弥新ならん。春宮瓊枝(親王)宰輔(大臣)百工(百官)共に忠義をつくし、福履これをやすんぜん(福録をゆたかに安らかにする)。五類の提婆(五種の天)、十方の数生(有情)、同じく一味の法食に飽て等しく一如の宮殿に遊ばん。(「田少弐が先妣の忌斎を設くる為の願文 一首」)」等です。
ここに大師の先祖供養のお考えが凝縮されています。
つまり造佛・写経・法要等の供養は施主の先祖を救うのみでなく一切の六道四生に及ぶとおっしゃっています。
例えば「・・三界を牢籠し(三界の衆生をよく率い)四生を綿絡して(胎・卵・湿・化の衆生を摂取不捨)同じく愛獄を脱して斉しく覚道に遊ばん。(「桓武天皇の奉為に太上御書の金字の法華を講ずる達親」)」、「・・伏して願わくはこの善業により焭魂けいこんをたすけ奉らむ。三十七の聖(金剛界曼荼羅の三十七尊)足を本誓にうるおし、一乗の甘露頂に佛種を灌がん。慧眼を開いて不生を見、心蓮を敷いて円鏡を鑒みん。法水を汲んで尽くることなく、佛力用いて窮まらざらん。無尽の法水を灑いで無辺の有情を沐して共に長夜の迷室を照らして早く常楽の覚路に遊ばん。(「弟子真境が亡孝(亡父)の七七の斉を設くるための願文」)」、「伏して願わくはこの徳海を傾けて焭魂を潤洗せん。妄霧をかかげてもって大日を覩み、智鏡を懐いてもって実相を照らさん。法の不思議これを用いて窮尽なし。福、現親に延いて寿考光寵ならん。臣子善あれば必ず所尊に奉ず。この勝福を廻して聖朝に酬い奉り、金輪常に転じて十善弥新ならん。春宮瓊枝(親王)宰輔(大臣)百工(百官)共に忠義をつくし、福履これをやすんぜん(福録をゆたかに安らかにする)。五類の提婆(五種の天)、十方の数生(有情)、同じく一味の法食に飽て等しく一如の宮殿に遊ばん。(「田少弐が先妣の忌斎を設くる為の願文 一首」)」等です。