ユング「心の構造」
「・・・私たちは心の三つの段階を区別する必要がある。
一、意識
二、個人的無意識。これは第1には意識内容がその強度を失ったか、それとも意識がそれを回避したために無意識になってしまったところの一切の内容からなり、第2には強度が低いために意識にはとうたつしなかったけれどもなんらかの方法で心に侵入した内容、部分的には感覚の知覚からなる。
三、集合的無意識。これは表象可能性の遺産として個人的なものでなく、普遍人類的、いや普遍動物的でさえある。そして個人の心の真の基礎をなすものである。
こうした心の組織全体はそのまま肉体に対応する。・・私たちはみな生きた組織体を外界の条件との関係無しに理解することは到底不可能だと信じている。外界の条件に対する反応現象としてしか説明できないような生物学的事実は無数にある。たとえば「ほらいもり」の盲目、腸寄生虫の特性、水棲生活に復帰した脊椎動物の特殊な解剖などがそれである。
同じことは心についてもいえよう。心の独特な組織もまた外界の条件と緊密に結びついているに違いない。意識からは私たちは現在に対する反応と適応現象を期待することができよう。つまり意識とは主として瞬間的な事件に限定されているところの心の一部であるともいえよう。これに反して、集合的無意識からはそれが無時間の一般的な心である以上、心理的、生理的、物理的性質のきわめて一般的な常に存在する条件への反応を期待できよう。
集合的無意識は、神話的テーマや形象のごときものからなっているかと思われる。それだからこそ諸民族の神話は集合的無意識の真の代表である。神話全体は集合的無意識の一種の投影ではあるまいか。・・・」
「・・・私たちは心の三つの段階を区別する必要がある。
一、意識
二、個人的無意識。これは第1には意識内容がその強度を失ったか、それとも意識がそれを回避したために無意識になってしまったところの一切の内容からなり、第2には強度が低いために意識にはとうたつしなかったけれどもなんらかの方法で心に侵入した内容、部分的には感覚の知覚からなる。
三、集合的無意識。これは表象可能性の遺産として個人的なものでなく、普遍人類的、いや普遍動物的でさえある。そして個人の心の真の基礎をなすものである。
こうした心の組織全体はそのまま肉体に対応する。・・私たちはみな生きた組織体を外界の条件との関係無しに理解することは到底不可能だと信じている。外界の条件に対する反応現象としてしか説明できないような生物学的事実は無数にある。たとえば「ほらいもり」の盲目、腸寄生虫の特性、水棲生活に復帰した脊椎動物の特殊な解剖などがそれである。
同じことは心についてもいえよう。心の独特な組織もまた外界の条件と緊密に結びついているに違いない。意識からは私たちは現在に対する反応と適応現象を期待することができよう。つまり意識とは主として瞬間的な事件に限定されているところの心の一部であるともいえよう。これに反して、集合的無意識からはそれが無時間の一般的な心である以上、心理的、生理的、物理的性質のきわめて一般的な常に存在する条件への反応を期待できよう。
集合的無意識は、神話的テーマや形象のごときものからなっているかと思われる。それだからこそ諸民族の神話は集合的無意識の真の代表である。神話全体は集合的無意識の一種の投影ではあるまいか。・・・」