第五七課 死
私たちは、結局死ぬことを知っておりますが、不断は忘れて平気でおります。そしていよいよ死期に直面すると非常に恐れ、悲しみます。もうどうしたらいいのか、絶望と淋しさに泣き叫ぶ不幸な人があります。本当に人間が死ねば、もう後は何も残らず、一切空滅に消え失せてしまうのでしょうか。人間が万物の霊長だなんて威張っていても、たかだか七、八十年経てば、すっかり跡形もなくなってしまうのでしょうか。実際そうだとすれば僅か七、八十年の人生は少々心細いものであります、死ぬのを諦め切れないで悶えるのももっともと思います。そうかと言って死ぬのを嫌がっても、人間は死ななければならないので、何とかして諦める理由を考え出します。ある人は子孫へ向って自分が生き継がれて行くとか、ある人は事業を以て自分の後身としたり、または人を愛したことや世話したことを以て人々の記憶の中に自分のことを残して置こうとします。しかしそれだけでは、死ぬ本人の体や心の直接な説明解決になっておりません。
ところが仏教では、死を別な方面から観ております。人間が死ぬのは、すっかりなくなってしまうのではなくて、一時変化するだけだ。ちょっと私たちに見えなくなるだけだ。人の生死はちょうど大河の水面上に現れた水泡が時々浮んでは、また消えるようなものだ。河の表面にある水は機会さえあればいつでも泡の形になれます。そしてその泡がたとえ一時消えてもやはりもとの水に還るのであって決してなくなるものではない。なおその上に、その泡がもとの水に還った部分の水は、河水の表面近くを流れているので、そのうちに機会さえあれば再び泡になり得るのであります。がしかし、河水全体から見るときは、河水の一部分が泡になろうが、またそれが消えてもとの水になろうが、泡も水ですから、全体として少しも増減がありません。泡になったために河水が増えもしなければ、泡が消えたために河水が減るのでもありません。もとのままで流れて行きます。ただ水の一部分が時折り形を変えて泡になったり、飛沫しぶきになったりするだけです。それも必ずもとの河水中に帰って来ます。
人間の生命も、宇宙全体に漲る大生命の一分派であります。その大生命は絶えず進転しています。その流動の上に現れた一つの泡が私たち一人一人の生命なのです。この世に人間という形を以て現れて来まして、いろいろの芸当をやって見せますが、時期が来れば楽屋裏の大生命の根拠地へ帰らねばなりません。役者が一興業が済んで舞台から身を引いた時は、もうハムレットでもなく、大石良雄でもなくただの人間です。がしかしその人間は役者の素質があるから、時期が来ればまたどこかの劇場の舞台面に、変った組合せであるにしろ現れることもあるのです。
(南方熊楠も全く同じことを言っていました。)
そのように、宇宙の大生命の一部分が人間の生命となってこの世に現れて来たのですが、それがもとの大生命のところへ帰って来ても、それはなくなるのではなく変化しただけで、大生命の総計はいつでも同じことです。ある人が銀行に預けてある一億円の金のうち一円だけを郵便局に郵便貯金として預け換えて置いたのを、ちょっと下ろしてまたもとの銀行へ収めたようなものです。利息をなしとすればその人の財産には一銭の増減もありません。
このように仏教では、人間の死を宇宙の大生命の方面から見まして、ただの変化、当然の里がえりだと見破りましたので、仏教を知らない人のように、死に臨んでうろたえ騒ぐことがありません。従容として根本生命に復帰します。従って仏教は、死を格別讃美しません。死よりも生れた意義とか現実の生活に重点を置きますので、生きられるだけは立派に理想的に生活させようとします。そしていよいよ死すべき時期が来れば、安心してひとまず宇宙大生命の根本の方へ帰って行くのですが、その帰って行った場所が、宇宙大生命のうちで人間に近い部分に帰っているのですから、いつまた人間に変化するとも知れません。その時は、以前人間であった時とそのままそっくり生れ変るのではないでしょうが、以前人間であった当時のある経験の一部分が残っていて、相当役に立つものと私は信じております。だから私は、みなさんに本当の仏教を勉強なさることをお勧めします。そして、仏教によって私たちの根本となる宇宙の大生命の存在を知ることが出来たなら、続いて死の根本の意味を、私がここで述べたよりもっと精細に、確然と了解されると思います。そこではじめて人間は安心して死に得ると信じます。
(死は人生の最大の事業です。その割には疎まれて真剣に準備されません。これが迷いの霊魂を生むもとになっているのです。
福聚講昨年三月のブログでチベット密教の死のとらえ方を書きました。
「チベット密教の説くところによれば死こそ輪廻の苦から脱出できる貴重このうえない機会である。というのも死によって肉体を構成する地水火風の四つの元素の力が弱まり、一つ一つ溶解していくとともに、心の根源にして最も微細なこころ「本源なる光明の心」が立ち上ってくるから。この瞬間になされることはよかれあしかれその後に決定的な影響をもたらすという。凡人でも高僧の神通力や追善供養の力を借り(中有で供養すれば)阿弥陀仏の極楽浄土などの佛国土に、それが無理でも地獄や餓鬼といった悪趣を避け望みどおりの来世に生まれ変わることができるとされている。
ここで死者を導くための大切な枕経とされているのが「バルド・トウ―ドウル(中有における聴聞による大解脱)」である。これは中有にある意成身という意識のみでできた存在に「いまあなたはすでに死んで、中有のなかにいます。恐ろしい轟音が聞こえてくるでしょうがそれは仏の真言と思いなさい。寂静、憤怒の諸仏が強烈なイメージで次々顕現してくるでしょうが、それはあなたの本心から変化して現れたものに過ぎません。怯えないでそれはそれと認識しなさい、そうすればあなたは覚りを得て、六道輪廻の世界に戻らなくてすみます・・・」と読み聞かせ正しい道に導く。」ということです。
しかしさらに般若心経のように進んだ心境になれば煩悩即菩提・生死即涅槃ということになります。すべてはすべてと一体であるから時間空間すべてが相互に微細に入り組んでいて生とか死とか分けることができないというところに行き着きます。まさに「不生不滅」です。全ては、生じてきてもないし滅んでいくのでもない、ということです。
正法眼蔵(生死)では「生死の中に佛あれば、生死なし。またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。 こころは夾山(かっさん)定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の 人のことばなれば、さだめてむなしくもうけじ。生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨 をあきらむべしもし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひおもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解 脱(げだつ)のみちをうしなヘり。ただ生死すなわち涅槃(ねはん)とこころえて、生死として いとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし このときはじめて、生死をはなるる分あり。 生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき ありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ、滅もひとときのく らゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。生というときには、 生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、 ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことな かれ。この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち 仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛のい のちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、佛のこころにいる。・・」としておられます。)