「神祇秘抄」・・14/22
十四、太神宮僧尼等を忌む事
問、太神宮は三寶名字を忌給ふ事如何。
答、之に付いて二義有り。一義に云ふ、第六天の魔王此の州を統領し其の衆生を引き皆地獄魔道に堕せしむ。我が神遥かに之を覧じ此の州を魔王に乞ひ玉ふ。魔王云く、我此の中の人を引て悉く地獄魔道に堕せしむ。然る間、三寶を崇め法性を顕し給へば、此の國輿へ奉ること能はず、と云々。神答て云く、我と汝と流類(仲間)にして永劫にも三寶に値せず、又我が神殿に於いて出家を近かせず、諸陀羅尼門を聞かず、と。誓約し給ひて此の州を受け給ふ云々。此の事日本記に云く、魔王に神珠を乞ふこと云々(此の事は日本書紀にはない。平家物語劔の巻に「天照大神は日本を譲り得給ひながら、心の任(まま)にも進退せず。第六天の魔王と申すは、他化自在天に住して、欲界の六天を我が儘に領ぜり。然も今の日本国は六天の下なり。「我が領内なれば、我こそ進退すべき処に、この国は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。これよりして人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住ませず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせん」とて免さずありければ、天照大神、力及ばせ給はで、三十一万五千載をぞ経給ひける。譲りをば請けながら星霜積りければ、大神、魔王に逢ひ給ひて曰く、「然るべくは、日本国を譲りの任(まま)に免し給はば、仏法をも弘めず僧・法をも近付けじ」とありければ、魔王心解けて、「左様に仏法僧を近付けじと仰せらる。とくとく奉る」とて、日本を始めて赦し与へし時、「手験に」とて印を奉りけり。今の神璽とはこれなり」)。俗の曰く、本紀は仮説なり、深意は神珠とは一切有情法性の一理也。故に方便の盟に任せて外には三寶を忌み、内には之を崇め給ふ云々。一義に云、此の神は法然本有の不生の理也。此の故に法爾所成にして諸法の建立を待たず、惣じて無始無終の本覚智なり。然るに山河草木、鬼畜人天,宛然として皆法性の妙相を顕す也。又所作の事業は、法爾不改の具徳也と云々。故に即事而真の前には何をか捨て何をか取らん。爰に釈尊應化の説に依りて生滅の因果の法を立て、剃髪染衣の威儀を守り、善悪差別の道理皆本覚を忌み偏に應化の義を専らにする者也。自然本有の理の前には方便浅権の妄語なり。
故に般若經に云く、色等の五蘊は幻の如し。人法共に定相なし(大般若波羅蜜多經第五分眞如品第十二「色等五蘊無自性故。説名爲空無相無願。即眞法界非空等法可有變壞。故説般若波羅蜜多能示世間諸法實相」)。之に依りて實相の理も又言句に述るは幻の如き也。大般若經に云く、惣持に文字無し、文字は惣持を顕す、般若の大悲に由るに、言を離れども言を以て説く(大般若波羅蜜多經第六分陀羅尼品第十三「時功徳花王菩薩摩訶薩。復説頌言 總持無文字 文字顯總持 由般若大悲 離言以言説」)。金剛般若には述ぶ、若し色を以て我を見、音聲を以て我を求むる、是の人は邪道を行じて如来を見ること能はず(金剛般若波羅蜜經「爾時世尊而説偈言 若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來」)。或師云く、迷情の四句は四句共に非なり。悟情の四句は四句共に是なり、と(大乘法苑義林章卷第一「遍計所執無。知法我倶遣。依他圓成有。照眞俗雙存。無無所無所以言無。有有所有所以言有。言有而有亦可言無。遍計所執眞俗無故。言無而無亦可言有。當情我法二種現故。令除所執我法成無。離執寄詮眞俗稱有。妄詮我法非無非不無。當情似有。據體無故。妄詮眞俗非有非不有。非稱妄情。體非無故。我法無故倶是執皆遣。眞俗有故諸離執皆存。由此應言。迷情四句四句皆非。
悟情四句四句皆是」。四句というのは自・他・共・離ということ)。然れば僧尼と云ふも経論と云ふも暫く迷妄退治の道、未だ悟らざるに方便するの義なり。
大師云く、自性の冒駄は対治を假らず、法然の薩埵は修行を観たず、實智の人は忌給へども忌給はずと知るべし。意うべきなり。(『辯顕密二教論』巻上「若爾清淨本覺從無始來不觀修行非得他力。性徳圓滿本智具足。亦出四句亦離五邊。自然之言不能自然。清淨之心不能清淨。絶離絶離。如是本處爲明無明。如是本處無明邊域非明分位」)。一途に屈して疑惑を生ずること勿れ。此の一段は神道密教の肝心なり、留心して之を見るべし。
問、上に載る如く此の神に詣ずる人は、幣帛を捧げず舞乙の態(まいかなでのわざ)を成さず、只無念寂静を以て法楽と為す云々。爾者、法身所説の秘密の意は歌舞作楽は佛菩薩の事業と云々。此の相違の義如何。
答、二義共に爾也。内證一理の前には、諸尊は本佛の法界智に帰し、無念寂静を事と為す。而して經に云ふ、自性及び受用、変化幷に等流、皆な自性身に同じ(略述金剛頂瑜伽分別聖位修證法門「梵本入楞伽偈頌品云。自性及受用。變化并等流。佛徳三十六。皆同自性身。并法界身。總成三十七也」)。又内證一徳より四智(阿閦・宝生・弥陀・不空成就)を開く、四智より三十七尊(金剛界曼荼羅の成身会の三七体の諸尊の総称。中央大日をめぐる四仏(阿閦・宝生・彌陀・不空)、四波羅蜜(大日如来の四辺にある宝・業・法・金剛の四佛)、十六大菩薩(大日如来以外の四仏の四辺にある菩薩)、八供菩薩(嬉・鬘・歌・舞の内四供養と香・華・灯・塗香の外四供養)、四摂菩薩(鉤・索・鏁・鈴))及び百八智(金剛界百八尊のことで、三十七尊・賢劫十六尊・外金剛部廿天。五頂輪王・十六執金剛・十波羅蜜・四大神)を開く、各一徳の事業を以て喜鬘歌舞等を成じ、本佛を供養し、之を以て自受法楽と為す。此の義の故に法性神、内證の惣徳に居り、諸荒振神は諸尊各各一徳を掌る。然る間、此の理を知る時は、二邊(善悪)共に苦しからず。若し之に迷ふ時は暫く無念寂静の方を以て、散乱麁動を嫌ふ云々。此の旨を得て一度も神に詣る者は、萬億無数の神呪を満たし萬億無数の經巻を誦すよりは猶勝るべきなり。迷悟不生の理を得れば、假へ神に詣でずとも、常に神と一體にして永劫不滅の徳を開示し、流転無窮の生を度せん。何の疑ひ有る耶。