福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「神祇秘抄」・・13/22

2024-03-13 | 諸経

「神祇秘抄」・・13/22

十三、神明の法楽に依りて善悪二邊を顕す事

問、此の神は周邊法界すと云々、爾者何を以て神體を定むべきや。(第十二条に「天照大神は周遍法界す」とあり)

答、神は實體なし。衆生の見に據て又不同なり。或人は云ふ、實社の神(人や畜生の生霊死霊)に詣ずるは定め邪道に入り、権社の神(佛の垂迹)に仕ふるは必ず地獄に堕す(典拠不明)。

問、若し爾者、代々の祖師・歴代の先徳、皆神に詣で求願を祈る。然る者は邪鬼二道に堕すべき耶。

答、爾らず。唯所願の志に依るべきなり。或人云く、所望無き者は神に詣ずべし。所望有る者は休すべし、と。清浄の心を納受すると云ふは所望なきの所なり。爰を以て愚痴の人の神に詣で有相所求を祈り、或いは怨敵退治の為、或いは勝他名聞の為、或いは男女愛執を祈り、或いは珍寶利養を求むるの間、皆是妄想顛倒の所望、輪廻生死の祈願也。偏に神の本誓に背く。精誠を致すとも感應無し。之に依りて大神宮に詣ずるの人、幣帛をも捧げず、念珠読経をも成さず、又三衣一鉢をも帯びず、只所望をやめ神前に候ふ。此の時神、无體なれども威光倍増し自受法楽し給ふ故に此の人の所願自然に之を成就す。故に無始妄想たちどころに消滅すと云々。

但し所々の靈社、荒ぶる不輩の神に詣するの人は、打鼓・振鈴・舞をかなで、散乱麁強を本と為す。是皆方便門を以て同塵の結縁と為す。假に有相の願を納受すと雖も神は此の時、五衰・三熱の苦悩を生ず。此の時魔王神殿に競い来り忽ち魔道を成ず。即ち一切衆生を引いて畜生道に堕せしむ。しかれども方便の遠因を以て終に法性の路に入らしむの間、暫く和

光同塵の縁と云ふ也。爰を以て諸悪人等真実の本誓を知らず恣ままに和光の方便を誇り、有相の祈願を致す。偏に神の憂悩を知らざる故なり(神は法楽を受納して所願を叶えて下さるがそれは方便で衆生を導くためである。しかしこの現世利益を与えることにより魔を呼び寄せて神はくのうされることとなる)。之を以て所望休せよと云々。而して法性神は真実本誓を面と為すの間、散乱麁動の儀を能受せず也。假令、實冥・権化の二神に詣ずるの輩も今の本誓を以て法楽之を奉れば、國家安全・神佛増光・君臣有序・人民有信なり。上の三種の神の名異なるとも又、各三神を具す義、之を思ふべし(神は法性・實冥・権化の三種にわけられるが夫々他の二種の神の性質も備えており実質は一である。)。但し真妄不離の面には、挙手動足皆是真言なりと説く。此の如く得解の人は立還りて法性實冥の二見を論ずるべからず。此の一段、教門施設の一篇を以て不二の義を談ずるは有相の執に堕すべし。然れば無間闡提の業尤も恐るべし。書に言を盡さず、言に心を盡さず、但賢哲を待つのみ。

 

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