今日は大師が二十五か条の御遺告を作成された日です.
大師二十五箇条の御遺告
「諸弟子等に遺告す
東寺眞言宗家後世内外事を勤め護るべき管、合して貳拾伍條の状
竊に以んみれば大法味同じけれども興廢機に任せたり。師資累代、付法、人に在り。鷲峯の視聽は傳へて中洲(インド各地)に流れ、鐵塔の傳教(密教)、烏卯に利見す(早く流れた)。流を探り源を尋ね、晃鑒本討(光をかんがみて、もとをたずぬ)。大唐の曲成に既に血脈あり(唐にはすでにつぶさにつくりあげられた仏法相承があった)。日本の末葉、何ぞ後生なからん。仍って聊か之を示さん。
初めに成立の由を示す縁起第一(末資と雖ども東寺一の阿闍梨にあらざる以降は、此遺告を 寫持せしむること勿れ。守り惜むこと眼肝の如くせよ)
夫れ以んみれば吾れ昔、生を得て父母の家に在りし時、生年五六之間、夢に常に八葉蓮華之中に居坐して諸佛と共に語ると見き。然りと雖も、專ら父母に語らず、況んや他人に語らんや。此間父母偏えに悲れんで字して貴物(多布度毛能止)と號す。年始めて十二なりき。爰に父母曰く、「我 子は是れ昔、佛弟子なるべし。何を以てか之を知る。夢に天笠國從り聖人僧來りて我等懷に入ると見き。如是に任胎して産生せる子也。然れば則ち此子を齎して將に佛弟子と作さんとす。」と。吾れ若少の耳に聞き、喜んで埿土を以て常に佛像を作り宅邊に童堂を造って彼の内に安置して禮し奉るを事と爲しき。此時、吾父は佐伯氏。讃岐國多度郡人。昔し敵毛(東北地方の未統治のもの)を征して班土を被れり矣。母は阿刀氏人也。爰に外舅阿刀大足大夫等が曰く、「從ひ佛弟子となるとも如かず、大學に出でて文書を習って身を立てしめんには」と。此教言に任せて俗典少書等及び史傳を受け兼ねて文章を學す。然後、生年十五に及びて入京し、初めて石淵贈僧正大師に逢ひて大虚空藏等并能滿虚空藏の法呂を受け心を入れて念持す。後に大學に經遊して直講味酒淨成に従って毛詩・左傳・尚書を讀み、左氏春秋を岡田博士に問ふ。博く經史を覽めせしかども專ら佛經を好む。恒に思ふ、我が習ふ所の上古の俗教は眼前都て利弼無きを乎。一期之後、此風已に止なん。眞福田を仰がんには如かず、と。
因って三教指歸三卷を作り、近士と成りて號を無空と稱す。名山絶巘之處嵯峨孤岸之原、遠然として獨り向ひ淹留苦行す。或いは阿波大瀧嶽に上りて修行し、或は土左室生門の崎に於いて寂暫す。心に觀ずるとき、明星入口し、虚空藏の光明照し來りて 菩薩之威を顯はし、
佛法之無二を現ず。厥の苦節は則ち嚴冬の深雪には藤衣を被て精進の道を顕はし、炎夏の極熱には穀漿を斷絶して朝暮に懺悔すること二十の年に及べり。
爰に大師石淵贈僧正、召率いて和泉國槇尾山寺に發向し、此に於いて髺髮を剃除して沙彌十戒・七十二威儀を授け、名を教海と称し後に改めて如空と稱しき。此時、佛前に誓願を發っして曰はく、「吾れ佛法に従って常に要を求尋するに、三乘五乘十二部經、心神に疑有って未だ以って決を為さず。唯だ願はくは三世十方諸佛、我に不二を示したまへ」と。一心に祈
感するに、夢に人有て告げて曰はく、「此に經あり、名字は大毘盧遮那經といふ。是れ乃ち所要也」と。即ち隨喜して件の經王を尋ね得たり。大日本國高市郡久米道場東塔下にあり。此に於いて一部緘を解いて普く覽るに衆情滯ありて憚問する所無し。更に發心を作して去んじ延暦二十三年五月十二日を以て入唐す。初めて學習せんが為なり。天應慰懃にして勅を載せて渡海す。彼の海路間三千里。先例は楊蘇洲に至りて質さわり無し 云云。 而るに此度般 七百里を増して衡洲に到り礙り多し。此間、大使越前國大守正三位藤原朝臣賀能、自ら手書を作りて衡洲司に呈す。洲司披き看て即ち此文を以て已了(すておわん)ぬ。此のごとくすること兩三度。雖と然も船を封じ、人を追って濕沙之上に居らしむ。此時、大使述べて云はく、「切愁之今也。抑も大徳は筆の主なり、呈書 云云」と。 爰に吾れ書樣を作って大使に替って彼洲長に呈す。披覽して咲を含み、船を開きて加問す。即ち長安に奏するに三十九箇日を経て、洲府力使四人を給ひ、且つ資糧を給ふ。洲の長、好問し借屋十三烟を作って住わしむ。五十八箇日を經て、存問勅使等を給ふ。彼の義式極り罔し。之を覽る主客各各
流涙す。次で後、迎客使を給ふ。大使に給ふに七珍の鞍を以てし、次次の使等には皆な粧鞍を給ふ。長安入京義式、説盡すべき無し。之を見る者、遐邇(遠近)に滿てり。此間大使賀
能大夫達、向きに歸國す。惟れ延暦二十四年電時(仲春)也。即ち大唐貞元二十一年に配す也。爰に少僧并に橘大夫(橘逸勢)、勅に准じて留學す。 具に別記に在り。 即ち少僧、上都長安青龍寺大徳内供奉十禪師惠果大阿闍梨に遇ひて、五智灌頂に沐して胎藏金剛兩部祕密法を學び、及び毘盧遮那・金剛頂經等二百餘卷を讀む。并に諸新譯經論唐梵合存せり。
少僧大同二年を以って我本國に歸る。此間、海中の人人云はく、「日本天皇(桓武帝)崩ず」と 云云。 聞いて是の言を諫めて本口の言を尋ぬるに、船内の諸人、首尾を論爭し都べて
一定せず。著岸に注繫して、或人の言に告げらく、「天皇某日時崩者」。少僧、悲を懷き、素服を給はる(白い服をいただき喪に服した)。
爾しより以降、帝四朝(平城・嵯峨・淳名・仁明)を經て、國家の奉爲に壇を建て修法すること五十一箇度、亦た神泉薗池邊に御願に修法して祈雨するに靈驗其れ明かなり。上は殿上より下は四元(庶民)に至れり。此池に龍王有り。善如と名く。元是れ無熱達池の龍王の類なり。慈有って人の爲に害心を至さず。何を以てか之を知る。御修法の此、人に託して之を示す。即ち眞言奧旨を敬って池中より形を現ずる時、悉地成就す。彼の現ぜる形業は宛も金色の如くにして長さ八寸許の蛇なり。此金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂に居在せる也。此の現形を見る弟子等は實惠大徳并に眞濟・眞雅・眞照・堅慧・眞曉・眞然等也。諸弟子等は敢て 覽著難し。具に言心を注して内裏に奏聞す。少時之間に勅使和氣眞繩、御弊種種色物
をもって龍王に供奉す。眞言道の崇きこと爾りしより彌起る也。若此池龍王、他界に移らば池浅く水減じ世薄(せま)く人乏しからん。方に此時に至って須く公家に知らしめずとも私に祈願を加ふべし。亦た灌頂を授る者、蓋し以って員かず多し。具に之を注さず。若し灌頂の流を存せる者は我身より始まり、祕密眞言は此時に立つ。
夫れ師資相傳嫡嫡繼來する者は、大祖大毘盧遮那佛、金剛薩埵菩薩に授けたまひ、金剛薩埵菩薩は龍猛菩薩に傳ふ。龍猛菩薩より下、大唐玄宗・肅宗・代宗三朝の灌頂國師特進試鴻臚卿大興善寺三藏沙門大廣智不空阿闍梨に至るまで六葉なり。惠果は則ち其の上足の法化(弟子)也。凡そ付法を勘(かんがふ)るに、吾身に至るまで相傳八代也。吾が到りし日、彼の大阿闍梨(恵果)曰く、「我命既に盡きなんとす、汝を待つこと既に尚し。已にして果して來れり、我道東せん」と。故に呉殷(恵果の弟子の一人)が纂に云はく、「今、大日本國沙門來りて聖教を求む。皆所學せしめて瀉瓶の如くなるべし。此沙門は是れ非凡徒なり。三地菩薩也。内に大乘心を具し、外に少國沙門の相を示す 云云」。
大阿闍 梨の御相弟子、内供奉十禪師順曉阿闍梨之弟子玉堂寺僧珍賀申して云く、「日本座主、設ひ聖人なりと雖も、是れ門徒に非ざる也、須く諸教を學ばしむべし。而るに何ぞ、蜜教を授けられんと擬すると 云云」。 兩三般妨げ申す。是に於いて珍賀夜夢に降伏せられて
曉旦に至り來って、少僧を三拜して過失を謝して言はく 云云。
又、去んじ弘仁七年、表して紀伊國南山を請ひ、殊に入定處と爲す。一兩の草庵を作り、高雄の舊居を去って南山に移入す。厥の峯は絶遙にして遠く人氣を阻てたり。吾、居住の時、頻りに明神の衞護有り。常に門人に語るらく、「吾性は山水に狎れて人事に疎なり。亦た是れ浮雲之類なり。年を追って終りを待つこと窟東となさん。太上皇(嵯峨帝)の勅有って請じ下して中務に安宿せしめて供養すること 月餘、還って更に高雄に居す。天長皇帝(淳和)の即位に少僧都に任ぜらる。再三奏辭すれども允されず、公に在り。萬事遑無しというと雖も、春秋之間必ず一たび往いて看る。
彼山の裏の路の邊に女神有り。名けて丹生津姫命と曰う 。其社の迴りに十町許の澤在り。若人到り著けば即時に傷害せらる。方に吾が上登の日、巫税(かんなぎ)に託して曰はく、「妾れ、神道に在って威福を望むこと久し。方に今ま、菩薩此山に到る、妾の幸也。弟子昔
現人之時に食國命(けくにのみこと)家地を給ふに萬許町を以てす。南は南海を限り、北は日本河を限り、東は大日本國限り、西は應神山谷を限る也。冀はくは永世に獻じて仰信の情を表す」と 云云。 如今件の地の中に、所有せる開田三許町を見る、常の庄と名くる是也。吾れ去んじ天長九年十一月十二日より、深く穀味を厭ひて專ら坐禪を好む。皆な是れ令法久住の勝計、并びに 末世後生弟子門徒等の爲也。方に今、諸弟子等諦聽諦聽。吾生期今幾(いくば)くならず。仁等(なんだち)好く住して愼みて教法を守れ。吾れ永く山に歸らん。吾入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅剋なり。諸弟子等悲泣すること勿れ。吾即ち滅せば兩部三寶に歸信せよ。自然に吾に代わって眷顧を被らしめん。吾生年六十二臘四十一。吾初めは思ひき、一百歳に及ぶまで世に住して教法を奉護せんと。然れども諸弟子等恃んで忩(あわただし)く永く即世(永遠の寂滅)せんと擬す也。但し弘仁帝皇(嵯峨帝)、給ふに東寺を以てす。歡喜に勝へず、祕密道場と成す。努力努力他人をして雜住せしむること勿れ。此れ狹き心に非ず、眞を護るの謀也。圓かなる妙法なりと雖も、五千分に非ず(法華経に云うように五千人の心が驕った者がいる)。廣き東寺と雖も異類の地に非ず。以何言之。去んじ弘仁十四年五月十九日、東寺を以て永く少僧に給はり預けらる。勅使は藤原良房公卿也。勅書別に在り。即ち眞言密教の庭となること既に畢んぬ。師師相傳して道場と爲べきもの也。豈非門徒者をして猥雜せしむべけん哉
一、實惠大徳を以て吾滅度の後、諸弟子の依師長者と為すべき縁起第二。
夫れ以んみれば吾道の興然たることは專ら此の大徳の信力也。玆に因って示し告ぐる所也。眞言を以て本宗と爲し、顯教以って邊教と爲す。他に眼青(慈悲の眼)あって(顕密が)自在に融通す。人師國寶の本、豈に此大徳を益することあらん哉(實惠大徳より優れたひとはいない)。仍って大經藏の事、一向に此大徳に預く。但し若し實惠大徳不幸後は、眞雅法師を以て處分せしめ封納し開合せよ(大蔵経を封じたり開いたりさせよ)。之に依って未だ情を知らざる弟子等に封開せしむること勿れ。愚情にして師師の長短深浅、必ず他家に語らんこと慎むべし、慎むべし。
亦た菩提實の數珠は是れ大唐帝皇給勅なり。即ち恩勅に曰はく「仁、此を以て朕が代と爲し永く忘るること莫れ。朕初めに謂ひき、公を留めて將に師とせんと。而今、延べて東に還らんとす、惟れ道理也。後紀を待んと欲せば朕が年は既に越半也。願はくは一期の後、必ず佛會に逢はんことを」。加以(しかのみならず)賞賜筭筭(くさぐさ、たくさん)あり。以って先日、誤って大師惠果之所給と注せる也。但し金剛子(金剛樹の実の数珠)は是れ大師阿闍梨耶の給ふところなり。亦た諸道具も大師阿闍梨耶の付屬也。豈に輕んずべけん哉。
一、 弘福寺(川原寺)を以て持って眞雅法師に屬すべき縁起第三
右寺は是れ飛鳥淨三原宮の御宇、天武天皇の御願なり。而るに天長聖主(淳和帝)勅を垂れて永く常に東寺を加えて修治すべきの由畢んぬ也。伏惟に、 聖恩は是れ少僧が高野に通ひ詣ずるに依って宿處に給ふ所、之に依って少僧、永く師師相傳して修治すべきもの也。但し眞雅法師一期之後は諸弟子等之中に前に在って出身せん者(仏道を成就したもの)、東寺を掌るべし。年臈の次第を求むべからず。亦た門徒之間に一に成立せるを(最初に仏道を成就したものを)以て長者と爲すべし。
長者とならん者は弘福寺を加え掌るべし。佛陀宮と稱す。己が宿所とするのみに非ず、佛の修治を嚴にして宗計を為せ。
一、珍皇寺字宕當寺(京都の愛宕念仏寺)を以て 後生の弟子門徒の中に修治すべき縁起第四
右寺建立大師は是れ吾祖師故慶俊僧都(大師の師とされ愛宕神社も中興)也。諸門徒相共に付屬することあるに依って修治を加え來る者也。然れば則ち、修治に能へたらん之人を以て寺の司に任じて住持せしむべし。不能の者を用いること莫れ。
一、東寺を教王護國之寺と號すべき縁起、第五
夫れ大唐惠果大師、奉勅して青龍寺を師師相傳せり。元は大官道場と名く。然れども大興善寺大阿闍梨耶(不空三蔵)勅を被って祕蜜の場と爲し、青龍寺と改號す。方に今、彼に准じて東寺を以て教王護國寺と號すべし。額は是れ既に奉勅す。宜く此由を奏すべし。亦吾が漢號は遍照金剛なり。宜く知行すべし。
一、東寺灌頂院は宗徒長者大阿闍梨撿挍を加うべき縁起第六
右院は未だ造り畢えずと雖も且く傳燈之志を始む。此間思ふ所千迴なりと雖も、草草に山に入りて遂に此志を遂げず。然れば則ち實惠大徳、一向に造功し畢んぬべし。亦た諸莊嚴は先先に語るがごとくすべし。但し恒例の灌頂阿闍梨は門徒之内に最初に成立せん者(最初に仏道を成就したもの)を以て御願を修せしむべし。若し殊に病の妨あらば次の人を以て之を請用すべし。若し是れ辭退せば永く吾後生の弟子門徒に非ず。宜しく信奉すべし。
一、食堂の佛前に大阿闍梨并びに二十四の僧の童子等を召し侍はしめて、五悔を習誦せしむべき縁起第七
右、大唐青龍寺例を案ずるに、宗徒大阿闍梨之童子并に諸名徳達之童子等を食堂に會集せしめて、僧達一人、童達一人、共に五悔を習學せしめて毎夜現して槧(ふだ)にす(木札で出欠をとる)。即ち大衆所得十分之一を闕いて、諸童子等の紙墨料に充て行ふ。彼を案じて此れを示すのみ。但し遂に成り出ずべからざん者は寺内に常住すと雖も更に强て喚びて此の庭に列せしむべからず。器を見、品を惟うて之を催すべし。亦た九方便(胎蔵法にあり)をば大阿闍梨の前において諸徳弟子之内堪能之僧等を召集して、毎夕習誦せしむべし。昔、大師阿闍梨耶(恵果)曰く、「准だ 諸護法天神の法味を飡受して、乍ち場等を守護する者なり。彼に准じて此れを示す。他事に遑して自ら駐むること莫れ。
一、吾が後生の弟子門徒等、大安寺を以て本寺と爲すべき縁起第八
夫れ以んみれば大安寺は是れ兜率之搆、祇園精舍の業なり。尊像の釋迦は即ち智法身之相也。初發心の本、吾祖師道慈律師は推古天皇御願を遂げなすべきもの也。之に依って、吾大師石淵贈僧正、彼の寺を本寺と爲して、御弟子等をみな入住せしむ也。隨って吾れ彼の寺を以て本寺と爲す。但し、勅命によって東大寺に渡りて南院を建立す。此間に出生せる弟子等は便宜に東大寺に入住せり。方に今、本意を案ずるに、吾先師の御寺、大安寺は是れ勝地なり。先師地を嘗めて建立せられたる也。須く吾弟子、後生の門徒等、彼寺を以て本寺と爲し、
釋迦大師に仕え奉るべし。彼の中に西塔院を以て根本岫と爲す。具さなる由は別多羅(別紙)にあり。復た師資血脈圖は別紙にあり。一を得て萬を知れ。
一、眞言の場に宿住して師師の門徒とならんと欲する者は必ず先ず須く情操を本となすべき縁起第九
夫れ以んみれば、大唐眞言宗門徒は本より他徒を間まじえず。赤子の時より人之子を得て、教へて弟子と爲す。螟蛉(めいれい、あおむし)の他子を以て己子と爲すがごとし。後に出家せしむ。是の如く佛性門を繼ぐものなり。然れば則ち彼に准じて赤子を看定めて勞養し心を決り彼の操行を惟ひて、若し當るべからずんば早く他家に却けよ。道理に叶ふ者は留め護って道を習はしめよ。若使ひ、門徒の内とならん者の操行の宜らん者は、我師人資を簡ばず、汲引して密教の性を繼がしめよ。設令ひ、親しき弟子と雖も操意不調の者は、簡略して同じく共にすべからず。何に況んや眞奧の道を授けしむべけんや。
一、東寺に長者を立つべき縁起第十
夫れ以んみれば吾弟子とらん者の末世後生の弟子之内に僧綱に成立せし者は、上下臈次を求めず、最初に成り出ずるもの(仏道成就したもの)をもって東寺長者と爲すべし。長者は既に是れ座主矣。唐法に准じて座主號を奏聞せんと欲す。先先より思ふといへども入山之間既に忘脱せしめて未だ此事を遂げず。須らく諸弟子等必ず此事を遂ぐべし。皆是不要の言あるに非ず。併しながら令法久住の謀而已。我後之資、斯を難ずること勿れ乎。
一、諸弟子等并に後生末世弟子と爲ん者、東寺長者を敬ふべき縁起、第十一
夫れ以んみれば大唐の法は青龍寺の例の如し。然る所以は彼の寺には元來、他類有ることなし。僧數千なりと雖も皆他徒に非ず。厥(そ)の中に若し一人不和之者有らば、諸衆共に情操を和調して嗷事(かまびすしきこと)なからしめよ。何に況んや疵を分かちて俗家に及ぼさんを哉。方に今、冀ひねがわくは一家之徒ら、假使ととひ數千萬なりとも、各互に護り、惜んで他家に出だすこと勿れ。心を一にし、念を專らにして將に座主官長を敬尊すべし。彼を誹り、此れを謗じて相互に怨むこと莫れ。亦た我師・人師を限別すること莫れ。亦た慈眷を分かつ(弟子を育てる)に我資人資を簡つことなかれ。但し處風に随わず、宗意に叶わず放逸邪見ならば更に共にすることを得ざれ。都て吾末資に非ず。一を得て千を知れ耳。
一、末代弟子等に三論法相を兼學せしむべき縁起、第十二
夫れ以んみれば眞言の道、密教之理、同入性(すべてが究極においては同じ)の故に阿字の義に入る也。然れども萬物の意を案ずるに皆な内外あり。然れば則ち密を以て内とし、顯を以て外と為し、必ず兼學しべし。玆によって本宗を輕んじて末學を重んずること莫れ。宜しく吾心を知って兼學すべきのみ。但し人の器に任せて兼ぬるに堪へざらん者は、將に本業に任せて精進修行せよ。具なる由は別に在り(承和の官符等)。青龍寺の例は專ら此れのみ。。彼によって之を示す。亦た宗分の講讀(真言宗の教えを講読するもの)は定額の中にして要望非ずとも智行の人を以て簡び定めよ。
一、東寺に供僧二十四口を定むる縁起第十三
夫れ以んみれば件の寺、供僧を定むること元官符に注せるは五十口なり。今、奏して
二十四口を定む。方に今、末代所有の志を伺ふに(末代への御心を推察するに)本願聖靈
の元庭、速く崩じて未だ造畢に堪へず(東寺建立の本来の願い主たる桓武帝が崩御され造営は完了してない)。加以しかのみならず、未だ庄田正税等を入れられず。寺は大ひに料少し。因って以って奏して定む。就中二十一口は修學練行の者、三口は即ち三綱造治雜預の者也。是亦た皆な淨行之人を用ひよ。員外人・有犯之僧を用ふることなかれ。但し工巧意操風流有って修理造作莊嚴佛事用ふべからん者をば淨不淨を求めず、非入寺の權三綱に置け。
之に依って他家穢僧等を猥雜することを得ざれ。阿闍梨耶、一を得て千を悟れ。
一、二十四口定額僧を以て宮中正月後七日御願修法修僧に請用すべき縁起、第十四
夫れ以んみれば大唐青龍寺住僧數千なり。就中、供僧一百口を定む。皆祕密の徒也(密教僧)。即ち内道場御願正月の修僧等に此を以て請用す。但し今、物意案ずるに、我日本國修僧十五口の中、大阿闍梨耶一人。入室弟子一人。入室弟子という者は是れ佛舍利等を守らしめんが為也 。三綱の中に行事一人。今十二口を以て年替に請用すべし(残り12人の伴僧は年毎に召し用いるべし)。彼の支度は皆な式文に在り。努力他僧を請用せしむことなかれ。須く先ず七日以前に修僧等の名簿を録して奏聞すべし。次に修僧を參入せしめ畢っての後、亦た奏聞せよ。若し殿上の仰せに省捨らるる僧徒有らば、厥その人といえども
速かに罷り出でしむべし。此によって非門徒僧を請補することを得ず。但し、大阿闍梨の心に任せて、門徒之中智行者を簡び、定めて亦た奏聞を経て請用せよ 云云。
一、宮中御願、正月修法修僧等、各の所得の上分を分かちて高野寺修理雜用に充つべき縁起第十五
夫れ以んみれば大唐青龍寺祖師、天台山下に私に少伽藍を建立せられたり。彼の名は新禪寺也。内道場正月施物の上分を以て彼道場を修理せしむ。亦た青龍寺大衆年中所得の上分を以て彼の用に充用せしむ也。此れ凡の政に非ず、師資の迹を芳しくする謀也。後生の資を咲ひ難ずること莫れ 云云。
一、宗家の年分を試度すべき(真言宗で認められた年分度者は試験して度すべき)縁起第十六
夫れ以んみれば件の宗分度者は須く初思如く東寺にて試度すべし。然れども山家荒らさしめじと欲ふて、更に改めて奏して官符を金剛峯寺に申し下さんと欲ふ者也。敢て東寺を厭ふて南嶽を汲ひかん哉(高野山を贔屓するのでない)。須く東寺座主大阿闍梨耶、執事して之を改直さんことを欲ふ。亦た諸定額僧中能才童子等を簡び定めて、山家において試度して即ち東大寺戒壇において具足戒を受けしめよ。受戒之後、山家において三箇年練行し、厥その後、各各隨師して密教を受學せしめよ。具には先文に在り而已。但し座主大阿闍梨という者は即ち東寺大別當の號也。門徒之間に最初に修學して成出て長者爲んものを言也。臈次求むべからず。修學を先と爲し、最初に成立せるを長者と為せ而已。
一、後生末世弟子祖師恩を報進すべき縁起第十七
夫れ以んみれば東寺座主大阿闍梨耶は吾末世後生弟子也。吾滅度以後、弟子數千萬之間長者也。門徒數千萬といへども併しながら吾後生の弟子也。祖師吾顏を見ずと雖も心あらんものは必ず吾が名號を聞きて恩徳之由を知れ。是れ吾が白屍之上に更に人の勞を欲するに非ず。蜜教の壽命を護り繼ぎて龍華三庭を開かしむべき謀也(弥勒菩薩下生し菩提樹の下で三回の説法の場を開かせるための慮りである)。吾閉眼之後は必ず方に兜率他天に往生し、彌勒慈尊御前に侍すべし。五十六億餘之後必ず慈尊と御共に下生し、祇候して吾先迹を問ふべし。亦た且つは未だ下らずの間は微雲管より見て、信否を察すべし。是時に勤有らば祐を得ん。不信の者は不幸ならん。努力努力後に疎かにすること勿れ。
亦た僧尼令を案ずるに曰はく、碁・琴は制限に非ずといへり。然れども竊かに密教の心を案ずるに、此家には此事なからしむべし(真言宗では囲碁・琴は禁止する)。然る所以は若し未練の僧并びに童子等、此の遊びを放さるれば必ず後代過あたん。何ぞ況んや圍碁雙六をや、一切亭止せよ。若し强ひて此事を好まん者は都て吾が末世の資に非ず。刹利種性・蔭子蔭孫を論ぜず(高貴・卑賎を問わない)。併しながら悉く追放せよ。一切寛宥するを得ること勿れ 云云。
一、東寺僧房に女人を入るべからざる縁起第十八
夫れ以んみれば女人は是れ萬性の本、氏を弘め門を繼ぐ者也。然れども佛弟子に於いて親厚すれば諸惡の根源、嗷嗷(こうごう、そしる)の本也。是れを以って六波羅蜜經に曰く、「女人に親近すべからず。若し猶ほ親近すれば善法皆な盡く等 云云」 然れば則ち僧房内に入居せしむべからず。若し要言あって諸家の使至らば、外戸に立てて速に返報して之を却けよ。時刻を迴すことを得ざれ(長時間かけてはいけない)。具には青龍寺例に准ぜよ、 云云。
一、僧房内に酒を飮むべからざる縁起第十九
夫れ以んみれば酒は是れ治病の珍、風除の寶なり。然れども佛家においては大過を爲す者也。是け以んみれば長阿含經に曰はく、「飮酒に六種の過あり等 云云」。 智度論に曰はく、「四十五種の過あり等 云云」。 亦た梵網經の所説は甚深也。何ぞ況んや祕密の門徒、酒を愛用すべきや。之に依って制する所也。但し青龍寺大師と并びに御相弟子内供奉十禪師順曉阿闍梨共に語ひ擬して曰はく、「大乘開文の法に依って治病之人には鹽酒を許す。之に依って亦圓坐(集会)の次ついでに平を呼んで數用することを得ざれ。若し必ず用ふべきことあらば外より瓶に非ざる器に入れ來りて茶に副へて祕に用ひよ」 云云。
一、神護寺をして宗家の門徒長者大阿闍梨に口入せしむべき(神護寺を真言宗の長者大阿闍梨に施入せしむ)縁起第二十
夫れ以んみれば神護寺は是れ和氣氏の建立にして八幡大菩薩の主吒の庭也。しかるに眞繩大夫達の所言により、余われ、頃年修住す。爰に眞繩大夫達、建立密教の言に於いて朝夕宛も護法之相を示すが如し。玆に因って師檀之期(ちぎり)篤く肝岫(かんゆう、誠意が通う)にあり。加以(しかのみならず)寺院を永代に付屬して敢へて内外之汚なし。然れども後代必ず爭嗷有らん。吾が資末羽等、状(この遺言)に隨って進退せよ。一を得て萬を知れ、 云云。
一、輒(たやすく)傳法灌頂阿闍梨職位并びに兩部大法を授くべからざる縁起第二十一
夫れ以んみれば密教は是れ大日如來の心肝、金剛薩埵の腦膽なる者なり。而るに輒たやすく非器之者に授くれば密教主御身より出血之罪あり。是を以って昔、大日尊、金剛薩埵に勅ありて曰はく、「非器之者に授くべからず。若し非器之者に授くれば密教久しからず。法身より出血の罪自然に生ずべき者なり」と。又た金剛薩埵、龍猛菩薩に宣べたまはく、「伏して以んみれば大日如來は一切衆生の爲に密教を説きたまふ也。萬生利益を蒙らざることなし。但し此法は是れ如意寶珠の如し。如意寶珠に喩ふることは名號を聞くことあれども實身を顯はさず、然れども萬寶を出生して一切衆生を利益す。龍宮の祕藏に存し龍王の肝に居すれども輒たやすく身を顯はさず。祕藏并びに龍肝に居すといへども、此玉は龍王衆にも攝せられず。是の法も亦亦此の如し。所以はいかん。密法は阿闍梨の心肝并びに經藏に存すといへども、阿闍梨の心府にも任せられず(阿闍梨も自由にできない)。名號を聞くことありと雖も實身を顯はさず。唯だ威光を以て一切衆生を利益す」。
密教の最貴最尊の道理は唯だ是れ然也。是の故に阿闍梨耶、我れ能く道を知れりとおもひて、己が私の劣心に任せ非器之者に授くべからず。若し頗る證器之者あらば唯だ尊法(一尊法)を授けて彼の心器を看定めて然後に金剛界大法の一部を授けよ。然れども猶ほ未練根之者に授くれば必ず後に悔有るべし。何ぞ況んや輒たやすく兩部大法を授くるをや哉。但し兩部大法を授けんと欲せば、顯かに人器氣色を見定めて後、本尊界會に向かって能く祈願して夢に厥その想を見よ。若し感應有って彼れ学せんと欲せば、三箇月修行精進せしめて然後に兩部大法を授くべし。但し傳法灌頂阿闍梨職位においては、專然に授け諾べなふべからず。所以者何。非器之者に授くれば金剛薩埵と蜜迹神は倶に呵嘖を加ふ。證器之者に授くれば大歡喜を作す。是則ち令法久住の縁也。傳法灌頂位・阿闍梨職を護り惜しむこと應に己が肝神を護惜するごごとくすべし。輒たやすく傳法印契密語を知らしむべからず。
若し精進者あって望仰せば、唯大阿闍梨、語言を以て許諾言を呼びて、五智五股を以て仰人之首加を持すること三般して瓶水を散ぜよ。是亦た證器之人を看定めて應に如然ならしむべし。啻に是人を以て修法處に於いて應に諸護摩雜道充用すべし。亦た尊法を以て弟子に一部を許し与ふべし(一尊法の一部を授けよ)。兩部は更に傳教せしむべからず 傳教の言を以て傳法を惜しむべし(受明灌頂は許しても伝法灌頂は許してはならない)。 傳法の印契密語においては能く學せる者の為に練根已熟の弟子に傳授すべし。猶ほ未熟根には更に授くべからず。須く大阿闍梨耶、世間人之赤子を求得し、方便の言を以て世俗を出離せしむべし。語って彼が操意を量りて出家入道せしめ、得度し具足戒を受けしめ、生年五十に滿ちて以後、傳法灌頂阿闍梨耶職位を授けて密教の種性を繼がしむべし。哀哉、嘆哉、此道傳へざらんと欲せば應に法種を斷ずべし(上根のものがいなくて法を伝えまいとすれば密教は絶える)。傳授之時には宛も赤子に兩舌劍を持たしむるがごとし。宜しく是心を知って應に阿闍梨職位を授くべし。非器之人の甘語言に忍へず諾して是位を授ければ、彼此會坐して相ひ更ひに密教肝印を披露せん。正教嚴しきに非ず(正純密教は失われ)滅法之相、自然に將に至らんとす。是罪は傳法阿闍梨に得べきところ也。十佛大日(十智具足の大日)御前にして百千劫懺悔すとも都て滅除せず。是を以って入室有勞の弟子なりとも非器之者には更に是位を授くべからざる者なり 云云。
是の章句は梵本にあり。經文并びに儀軌之外より取り難し出して密かに納むる所也(口伝としてある)。吾三衣箱底に納置せり。亦た精進峯入室弟子沙門土心水師の所にあり(室生寺の堅慧法師のところにある) 云云 。
一、金剛峯寺を東寺に加へて宗家大阿闍梨眷務すべき縁起第二十二
右件寺は、是れ少僧私が建立する所也。然れども進官して御願の庭とせるものなり也(自分が建立した寺であるが上表して勅願寺とした)。宜知是心。吾弟子等の中に、先に成立せん長者東寺座主大阿闍梨耶、一向に應に管攝すべし(東寺の座主が金剛峰寺も治めよ)。遺告を誤つ莫れ。一を得て萬を知れ、 云云。
一、宀一山(ぺんいちさん、室生山)土心水師(堅慧師)建立道場に毎朔、避蛇法三箇日夜を修すべき縁起第二十三 (此條は文書に案内して散ぜしむべからず。 直己が眼肝を守るがごとくせよ、云云)
夫れおもんみれば、避蛇法呂は是れ凡の所傳にあらず。金人の祕要なり。阿闍梨心肝口決也。 具には別意あり。 東寺代代大阿闍梨は彼を像想して修法せよ。乍ち毎後夜に念誦し畢って護身を爲せ。道肝(伝来の如意宝珠)を精進峯に籠め、亦た本尊海會を彼の岫に安んぜり
。是祕密呂は語らざれば知られず。念ひ煩ふこと千迴也。專ら猥りに聞かしむべからず。一を得て萬を知れ、 云云。
一、東寺座主大阿闍梨耶、如意寶珠を護持すべき縁起第二十四( 此條章は專ら文書に案じて散ぜしむべからず。此法を守ること宛も傳法印契蜜語の如くせよ)
夫れ以んみれば如意寶珠は是れ無始以來、龍肝鳳腦等にあるにあらず、自然道理の如來の分身なる者也。或は偏に鳳肝龍腦に有りと 云云。 是れ大虚言也。所以者何。自然道理の如 來分身といふ、惟れ眞實の如意寶珠也。自然道理如來分身と號するは、是れ祖師(弘法大師)大阿闍梨口決に任せて成生する玉なり。蜜之上蜜、深之上の深なる者なり。輒たやすく儀軌に注せず。是れ大日如來の所説也。成生の玉といふは是れ能作性の玉也(あらゆるものの生成元となる)。須く九種物を以て之を爲るべし。爾九種とは・・・(略)。是を以って密教は劫かに榮へ末徒博延せん。 復た東寺大經藏佛舍利は大阿闍梨、須く傳法印契蜜語を守り惜しむがごとくすべし。一粒たりとも他散せしむること勿れ。是れ即ち如意寶殊なり。是即ち護道なり。以何言之。彼能作玉の心本の故なり。
一、若し末世凶婆非禰等あって密華薗を破せんと擬せば應に修法すべき縁起第二十五
夫れ以んみれば昔し南天竺國に一凶婆一非禰等あって是の密華園を破りき。爾時、華薗門徒之中に一强信者有り。奧砂子平法呂を修すること七箇日夜、彌亦た次次に員度を修せしかば、彼の凶婆等自退して蜜華薗安寂たりと也。是を以って末世の阿闍梨耶、宜しく是由を知って必ず應に彼の法呂を勤守すべし。彼法呂は入室弟子宀一山精進嶺土心水師之竹木目底にあり。然則ち大阿闍梨耶是の道を惜み護ること宛も傳法灌頂阿闍梨職位印契のごとくせよ。凡そ須く、傳法印契蜜語並びに凶婆を調する法呂は輒たやすく非器・心不調の者に授くべからず。若し如是の道を己が私心に任せて簡ぶことなく授け放す時は、諸尊護法天等倶に共に聽したまふに非ず。大阿闍梨に於いて大災を為さん矣。善人を選覔めて授け放す時は倶共に大歡喜を為し法性の種を續がしむ。所以に阿闍梨、心の肝槧に存して器の人を待ち覔めて、密教之子を斷ぜざるべし。當に知るべし。易得く難きは大阿闍梨位なり。豈に用心せざるべけん哉。是を以って傳法印密語を猥雜せしむべからず。
右件の遺書、努力違失することを得ざれ、故に告ぐ。
承知二年三月十五日
入唐求法妙門空海」
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