即し成仏義
またいわく、「もろもろの因果を楽欲する者、かの愚夫のよく真言と真言の相とを知るにあらず。なにをもってのゆえに、因は作者に有らずと説けば彼の果も即ち不生なり。この因、因すら尚し空なり。云何が果あらん。當に知るべし、真言の果はことごとく因果を離れたり。
(大日経悉出現品にいう、「さまざまな現象を因果関係で説明しようと固執する者達がいるが、そのようなものは、真言の意義や真実の姿を知っていることにはならない。それはなぜかというに「原因」は行為の「主体」ではないから「結果」を生じさせることはない。原因そのものでさえ「空」であるのでどうして結果が存在できようか?因果は固定的なものではない、因も果も不生不滅で実体はない、従って真言修法に依れば悉く迷いの眼で見える固定的な因果関係を離れ所願成就するのである。)
またいわく、「もろもろの因果を楽欲する者、かの愚夫のよく真言と真言の相とを知るにあらず。なにをもってのゆえに、因は作者に有らずと説けば彼の果も即ち不生なり。この因、因すら尚し空なり。云何が果あらん。當に知るべし、真言の果はことごとく因果を離れたり。
(大日経悉出現品にいう、「さまざまな現象を因果関係で説明しようと固執する者達がいるが、そのようなものは、真言の意義や真実の姿を知っていることにはならない。それはなぜかというに「原因」は行為の「主体」ではないから「結果」を生じさせることはない。原因そのものでさえ「空」であるのでどうして結果が存在できようか?因果は固定的なものではない、因も果も不生不滅で実体はない、従って真言修法に依れば悉く迷いの眼で見える固定的な因果関係を離れ所願成就するのである。)