[「人間の建設」岡潔、小林秀雄対談集]より
「岡潔:・・実際一人の人というのは不思議なものです。それがわからなければ個人主義もわからないわけです。そういう事実を個人の尊厳と言っているのですね。利己的な行為が尊厳であるかのように新憲法の前文では読めますが、だれが書いたのですかな。書いた連中には個人の存在の深さはわからない。個人の存在の底までわかり、従ってその全体像がわかってはじめて、その人の残した一言一句も本当にわかるわけですね。いまの知識階級のごく少数の人だけでもわかってくれたらよいと思います。個人主義をごく甘くみてしまっているんです。そういう個人というものがわからなければ、もののあわれというものも恐らくわからないでしょうし、もののあわれがわからなければ平和と言ったってむなしい言葉にすぎないでしょう。・・」
明治初期に徳島に住んで『日本精神』をかいたモラエスも本来日本人は没個人主義であるといっています。「・・日本の文法には冠詞がない、名詞も形容詞も不変化で性や数に関係がない。人称代名詞はないも同然である。・・叙法に文法上の主格がない、したがって個々の人がことさらに自己の立場から身を引くので事件の傍観者もなければ目撃者もない世界にいるといった現象が起こるのだ。・・それによって日本人の没個性性が理解されてくるのである。・・日本人は・・・地上の災厄を呪ったり造物主といったものを崇拝したりというようなことがなく、したがって個人性の軽視、つまり没個人性になった。・・珊瑚虫がより集まって作る珊瑚環礁や蜜蜂の集団生活に見られるように・・こういう没個性は自然が企てているところに的確に一致しているのである。」といっています。ついこの間まで日本人は「没個人主義」だったのです。
更にこの没個性主義を突き詰めると、密教の究極の「自己曼荼羅」となりますがこれは後程述べます。