福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

釈雲照師「十善業道経講義」から・・その10

2018-03-10 | 諸経
『また次に竜王、もし偸盗を離るれば即ち十種の保信すべき法を得る。』
次に不偸盗戒を弁じます。私老が高野山から京都に出るとき淀川の夜船といふのへ乗ったが、その中に三十ばかりの男が居って、「私は若い時から悪いことをしたことがない」と言うた。善悪の基準がわからぬから何がよいことかわからぬ。悪事を悪事と知らぬから悪事をしたことがないというのじゃ。・・もともと子として父母に不幸ならば即ち一種の偸盗と心得ればよい。・・人として人の道を行わなければ一から十までみな殺生になる、偸盗になる、こういうわけである。・・過去世において偸盗を為さず、欲心を捨てて衆生を憐れんで布施慈善をしたから生々世々盗賊に遭わぬ。・・不偸盗は不偸盗の法性が縁起して不偸盗戒になる。法性は十悪を離れたもの、法性とは何のことかといふと真如のこと、真如というは何のことかというと仏性のこと、仏性とはなんのことかというと我が心のこと。我が心の本性と諸仏の本性とが平等平等にして一体である。依ってその真如は万徳円満しておるからそれが人間に生まれては人間相応に人間の功徳が現れる。・・わが本性は万徳円満の如意宝珠で万徳円満の得がある。目から色を見、舌から食を味わい、身から寒い暑いが知れる。かくのごとく外に向かって一切のことを吸収することができる。これが即ち即身成仏、真如妙体という如意宝珠の身である。(よく「自分は悪いことをした覚えがないから懺悔など不要」という人がいます。しかしこういう人は往々にして突然のアクシデントに見舞われたりします。理由はわかりませんが統計的にそうです。色々なケースを見て要注意と思いました。十悪を離れると自分の身が如意宝珠の身になるというのです。如意宝珠とはなんでも如意になるということです。そもそも十悪を離れれば自分と他人の区別がなくなるのですから・・。)
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