福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日9月25日は大師が「大和州益田池碑銘并序」を撰せられた日です

2023-09-25 | お大師様のお言葉

今日天長二年九月二十五日は大師が「大和州益田池碑銘并序」を撰せられた日です。
益田池は、畝傍山の南方の貝吹山から北西につづく尾根と久米台地の西南部にかけ、高取川をせき止めて堰堤を築く方法で40ヘクタールの規模で造られたといいます。満濃池の半分ですが当時としては大規模です。碑文によると、人夫・車・馬・船が一気にたくさん集まり、急ピッチで工事を進めることが出来た、とされています。満濃池と同じく大師を慕って無数の庶民が集まってきたのであろうと推測できます。
この「益田池碑銘」はいまでも書道の手本になっています。「益田池碑銘」には「鵠頭」「転星宿篆」「偃波」「芝英」「垂露」「伝信鳥」と思われる雑体のほか、篆・隷・楷・行・草の「五体」も混じっているからでしょう。大師は文字の色・形も大日如来にほかならず、宇宙の真理・説法そのものであると考え「鳥」は鳥らしく、「星」は星らしく書くことが文字の背景にある大日如来・自然法爾を書いているとお考えになっていたと思われます。大師の書は「声字実相」「果分可説」であり、密教そのものなのであるとされる所以です。


「大和州益田池碑銘并序 

若夫、感星銀漢下し灑(そそ)ぐ功深し、湖水天池、上り潤すの徳普し、故に能く屮芔(そうき・・草)これによりて鬱茂たり、蟲卵これに頼りて長生す、八氣(はっき・・八紘の気で寒暑を出す)播殖し、五才(五行)陶冶するがごときにいたっては、北方之行、偏に其の最に居り、坎(かん・・北方の水の徳)の徳たること遠いかな矣、皇(おお)いいなるかな、粤(ここ)に益田池あり。兩の尊(伊弉諾、伊弉冉)鼻子之州(はなこのしま・・大八州)、八烏(やたがらす)初導之國なり。地は是れ漢諳(あまそら・・人名、不承)が舊宅、號は村井の故名、去じ弘仁十三年仲冬之月、前和州監察藤納言紀大守末等、亢陽(こうよう・・旱を防ぐ)の支ふべきを慮りて、膏腴(こうゆ・・豊作の土地)の未だ開けざるをなげく。斯の勢處を占めてこれを奏し請うに綸詔(りんしょう・・みことのり)即ち應ず、爰に藤紀二公(とうきじこう・・藤原氏と紀野氏)、及圓律師等をして功を剏(はじむる)こといまだ幾くばくならざるに皇帝〈嵯峨〉汾襄(ふんじょう・・太上皇宮)に遊駕(ゆうが・・いでまし)したまひぬ。藤公從これによって辭職、紀守も亦越前にかえる、今上〈淳和〉堯の揖讓(ゆうじょう・・堯帝が礼を尽くして帝位をゆずたこと、ここでは嵯峨帝が淳和帝にゆずったことをいう)に膺って(あたって)舜の寶圖を馭す(舜の位に等しい宝位につかれた)、玉燭(天皇の威光)を二儀(じぎ・・てんち)に照(あきらかにし)、赤子(万民)を八島に撫ず。伴平章事國(はんへいしょうじこく・・大伴の国道)を簡んで代って國事を撿しむ。並びに藤廣(大和国司、藤原藤広)を拔でて刺史に任ず。兩公池事を撿挍す。ここにして青鳧(せいふ・・金銭)塊を引いて數千之馬日に聚う。赤馬(くるま)人を駈りて、百計之夫夜集、旣にして車馬轟々として電のごとく往き、男女磤々(いんいん・・雷のとどろくさま)靁(いかずち)のごとく歸く、土雰々而雪のごとく積り、堤倐忽(しゅくこつ、たちまち)として雲のごとく騰る、宛如も靈神(れいしん・・霊験あらたかな神)の埴を埏(ねやす・・ねばつちをねって器をつくる)がごとし。還って洪鑪(大炉)の化産するかと疑う、成ること日あらず、畢うること年にあらず、之を造るは人也、之を辨ずるは天也、爾して乃ち池之状也、龍寺左にす、鳥の陵を右にす、大墓南に聳え、畝傍北に峙てり、來眼精舍(久米寺)其の艮に鎭めたり、武遮(むしゃ)の荒壠(あらかわ)其の坤を押せたり、十餘の大なる陵聯綿として虎のごとくに踞り、四面の長き阜(おか)邐迆(りい・・ななめにつらなる)として龍臥す、雲松嶺の上に蕩し、水は檜の隈の下に激す、春の繡(春のぬいもの、花々)池に映え、觀者歸ることを忘れ、秋の錦林に開けて、遊人倦まず。鴛鴦鳧鴨(えんおうふこう・・おしどり・かも)、水に戯れて歌を奏し、玄鶴黄鵠、汀に遊んで爭って舞う、龜鼈頸を延べ、鮒鯉尾を掉かす、淵獺魚を祭り、林烏哺を反す、積水天を含み、疊山景を倒にせるがごときに洎(およむ)では深きこと海に似たり、廣きこと淮に超えたり、昆明之儔(ともがら)に非ることを笑い、耨達(のくたつ・・阿耨達池)の猶お少さきことを晒あざける、虎嘯濤を鼓するときは、驚汰(なみ)漢(てん)にいる。龍吟じて堤を决(さ)くるときは、容與(ゆうぜん)して飽かず、陵に襄(のぼ)る罔象(ぼうしょう・・水神)も其の塘を溢することを得ず、山を燃す女魃(じょはつ・・ひでりのかみ)も、其底を涸すことあとあたわず。六郡潤を蒙むり、萬澮湯々(ばんかいしょうしょう・・無数の小川さかんにながれる)、一人慶有る時は、兆民之を頼る、舞し蹈して、千箱を詠じて擊腹し、手ずからし足ずからして、万歳を唱えて力(つとめ)を忘る、蒼海の數しば變ずることを歎いて、銘詞を餘が筆に索む、貧道不才にして仁に當る、固辭不能、虚に課(きょにおおせ・・むなしい頭脳にして)って章を吐く、迺ち銘に曰、 『希夷たる象帝(道の大本)未だ萌さず 盤古不出 國常(くにとこたち)生れることなし 元氣倐動(しゅくどう) 葦芽(いげ)乍(たちまち』に驚く 八風扇鼓して 五才縱横 日月運轉 山河錯峙 千名森羅 萬物雜起 藤膚旣隱(とうふすでにかくれて) 稷秔(しょくこう,稗などの粗な植物)爰始 天池人池 灑霑功似 前堯後禹(堯が兎に禅譲したように、嵯峨帝が淳和帝に譲位され) 慮り厚くして人を恤(めぐ)む 智略廣運 慈悲且仁 機事不測 成功神のごとし 物を潤すこと如雨 人を榮さすこと似春 綸綍(りんふつ)雷のごとく震うて 有司創功す 紀藤(紀氏藤氏)薙草(開拓する) 果績(かせき、功績)圓豐 伴相(平章事国道)施計し 原守公に在り(藤原藤広が指導) 良才奇術 民具(みな)風に靡く、爰に一坎(かん・・池)あり 其名益田 堀ることは人力 成ることは天よりなり 車馬霧聚 男女雲連 歸來子に似たり 功を畢うること年ならず 深くして且つ廣し 鏡のごとく徹して紺色 滉瀁渺瀰(こうようびび・・水が限りなく広がって深い) 瞻望極罔し 百溪之宗 萬派之職(もとい・・もと) 魚鳥涵泳 虬龍斯に匿る 沃澮汎溢(けんかいはんいつ・・みぞにみずがあふれる) 甾畬(しよ・・新田)播殖す 孳々(しし・・つとめる)我蓻(ううる・・植える) 穟穟(すいすい・・すくすくそだつ)我穡(しょくす) 坻(ち・・小島)の如し京(けい・・おか)の如し 兵足り食足る 井田(井戸を掘り田を耕す)我事 堯帝何力』

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