地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の13/13
十三、 江州木本地蔵の霊験。
江州伊香具郡木本の邑長祈山浄信寺(滋賀県長浜市木之本町に現在。)地蔵菩薩
の尊像は南天竺龍樹菩薩の彫刻なり。仁王(人王のこと)第四十代の帝天武天皇の御宇(7世紀)摂津の國難波の波に漂給ふて夜々海中に金色の光あり、浦の群民甚だこれを怪む。其時に當って帝夢中に地蔵菩薩の像を拝し玉へり。尊像告げて言く、我佛付属を受けて未来悪世の衆生を度せんが為に六道に遊化し身を無量に變じ三悪趣に入る者のための苦に代わり三善道に在る者に果報を與ふ。是に依りて竺土より此の扶桑國の難波の浦に来れり。我が名号を唱へ我を供養せん者には百由旬の内に諸の災害なく、悪夢悪相なからせしめんと示し玉ひて去給ひぬ。帝驚せ在(ましまし)て薬師寺祚蓮法師に勅宣ありて彼の浦に使玉ふ。蓮至りて浦の漁人に子細を尋ぬ。漁人答て曰、近日海中に金光あり。人皆怪しむ。祚蓮其の光る所に就て尋るに長さ六尺有餘(180㎝以上)の地蔵の像あり。蓮大に悦び彼の像を抱き奉るに軽きこと鵝毛の如し。蓮速やかに表を上つる。帝其の靈瑞を感じて難波に伽藍を営建玉ふ。寺山の二号を下し玉ふに唐を隔て竺土より此の土に出現在(まします)とて唐隔山と号し且金色の瑞相あればとて金光善寺と名付けさせ給ふ。月卿雲客袖を連ね至り貴賤長幼雲の如くにして集り尊み敬ひ言すこと深し。翌年の春三月下旬に祚蓮越の白山に行詣し玉ふ。道路の次(つひで)余呉の入江(滋賀県余呉湖。天女傳説等ある旧跡
)の南に當りて忽然として紫雲靉(たなび)けり。其の氣を慕ひて此の地に至る前にありし入江の清波浩々として心月澄めり。高山緑樹森々として松風絲竹をなす。右は伊吹大山に接り左は余呉入江に隣、陰閉陽開け剰(あまつさ)へ北陸道路の街市、行人断へず。豈霊地ならずや。誠に地蔵薩埵は無佛界の導師にして在す。此の地佛種を未だ植へず。斯に彼の尊像を安し有無嫌底なく今世後世引導の教化を蒙らしむと上皇に奏して東西三町、南北二町の地を以て伽藍を営み玉瓦日磨て輝き釘頭星の如く成て地蔵靈像を此に移す。于時白鳳三年(674年)七月十九日なり。伽藍の前に老樹の柳あり。故に山号を柳本山と改む。又江の面の岸に水分(こもり・子守)明神を勧請して鎮守とす。此の明神の本地地蔵なり。水分明神と申すは伊弉諾尊有る時御秡在し玉ふとき出現の神なり。水分に二神あり。天御水分(あめのみくまり)國御水分神(くにのみくまりのかみ)(両神は「古事記」にみえる神。 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神の子。天御水分神は山頂の水の分配をつかさどる神。國御水分神は地上の水を司る)天御水分は別雷神と申し、國御水分神は水土平らにしたまふ神なり。和州吉野郡に跡を垂れ玉ふ。又住吉明神第一座に現ず。今此の所に鎮座し玉ふて大音(おおと)大明神とあらはれさせ玉へり(滋賀県木之本町大音(おおと)にある伊香具神社(いかぐじんじや)の御祭神)。其の後仁王(人王)五十二代の帝嵯峨天皇の御宇弘仁三年(812)の五月弘法大師此の靈尊を感じ當寺に来たり尊容を拝し称歎し玉ふ事再三のたまはく、未曾有の神像なり、されども星霜推移りて靈躰且損せり。力を尽くして修補せしには如かず。遂に再興し玉ひて大師自ら紺紙を以て金泥に本願地蔵經一部三巻を寫し並びに自作の御劔等を寶殿に収め玉へり。或夜大師夢く、宝前の入江に毒龍栖みて時々人を悩ます、汝加持せよと、地蔵の瑞現あり。則ち加持力を以て彼の毒龍を降し玉ふ。其の時毒龍七八歳ばかりの童女と變じ、大師に見(まみ)ゆ。大師の玉はく、汝何より来れる、将た何人ぞや。童女の曰く、賤は向ふの山の主なり。晝は江に入りて人を苦しめ、夜は山に入って禽獣を取る。彼に栖こと年久し、公何ぞ我を責るやと泪を浮かべて言す。大師の曰く、此れ佛法の靈地なり。何ぞ人を苦しむるやと呵して拂玉ふ折節に山水を平ぎ平地と成し玉ふ。仁皇六十代醍醐帝の御宇昌泰二年(899)九月菅相公に勅し柳本山金光善寺を長祈山浄信寺と改号し玉ひぬ。蓋し日域究竟の霊像なれば天下安全衆民豊楽を祈念あらしめんとの御本願なり。往昔今時の霊験等別記にあり。されば地蔵の聖像巨多ありといへども如是に奇特の尊はなし。此の土有縁の感應美尽し(おびただし)未了の族は佛体不二なればとて戯論を設けて歩行の遠きを難(はばか)る。真に引接に漏れんかな。慎むべし尊むべし云々。以上草創の縁の一毛を尋ねて記し侍る。
彼の縁起の中、古今の霊験を記さる悉くに述べば毫(ふで)禿となるべし。且く勧善の為に一二を取て述ぶ。天武天皇白鳳十四年(674)三月當國の人民一般に邪気を受け剰へ牛馬巷に倒れ死骨路に充(みてり)。これを哀しまざる族敢へて一人もなし。然れば七難即滅の文(仁王護國般若波羅蜜多經不思議品第六「是諸國中若七難起。一切國王爲除難故。受持解説此般若波羅蜜多。七難即滅國士安樂」)を唱へ、或いは七鬼神の名を書きて(佛説却温黄神呪經「・・便説呪曰 夢多難鬼・阿佉尼鬼・尼佉尸鬼・阿佉邪鬼・波羅尼鬼・阿毘羅鬼・波提犂鬼、若し人熱病時 当に七鬼神の名字を呼べ・・若人得病、一日二日三日、乃至七日、熱病煩悶、先呪神水、以与病者飲之、. 当三七遍調此呪経。病毒五温之病、並皆消滅。若亦立門、書著気病者、当額書七鬼神名字。復取五色縷線・・温鬼永断」)を書きて専門に挿し、若しは病即消滅の経文(妙法蓮華經藥王菩薩本事品第二十三「此經則爲閻浮提人病之良藥。若人有病。得聞是經病即消滅。不老不死」)信じ思ひ思ひの心行を励ましけれども更に効なし。其の時此の尊の神なることを感ずる族、心を同うして祈求して国民の災いを除かんとしける。一夜異形の者来りて告て曰、善哉汝等當寺の地蔵尊は南天竺龍樹誓て一切衆生二世の利益を日夜怠りなく尊形を彫刻して末世に顕す。此の尊慈悲深重にして三國に渡りて衆生を度す。汝等今至心に地蔵の名号を三千七百返唱へば疾病を免れん。我は是泰山府君(泰山府君は仏教の閻魔大王と習合して人間の寿命の帳簿を管理する支配者であり、人々はこの泰山府君に対して死者の帳簿を削ってもらうことで、延命長寿を祈願した)の使者なりとて失せぬ。人々有難く思て教への如く其の結衆家人に至るまで此の天災をのがれき。故に遠方の民益々尊敬す。聖武天皇當寺の像の靈なることを聞召て両度の御幸あり。花山院の御宇正暦三年(992年)當國浅井郡山本邑(滋賀県長浜市)に柏木氏義員(よしかず)と云もの時会わずして牢人す。此の者當寺の本尊に祈りて願状を奉げ、隔日に三年の間参詣せり。又坂田郡一色村(米原市)と云所に女人あり。不幸にして父母に後れたり。家貧にして朝夕の煙も絶々なり。されば一夏九旬の間、父母孝養の為、此の像に日参して至心に懺悔して云く、我が志を以て二親共に安楽國へ引接し玉へと祈るより外他無し。九旬満る夜の夢に沙門香衣を着て手に錫杖を執て曰、汝が父は地獄に墜、母は餓鬼道に入り、汝が至心の力によりて共に天に生を受けぬ、又汝に福を與ふべし、と告げて覚めて斯に不思議をなすが報礼の為とて参籠しけり。然るに賀州(三重県)奈多庄の郡司卜部の某、伊勢社参の下向に當寺参詣せし次でに此の女を見るに皃色(ぼうしき。姿形)無双にして庸人にあらず。立よりりて出所氏姓を問ふ。女の云く、我は是一色村の幡氏の末流なりしが如是の子細にて参籠白す由、こまかに語りければ二親孝心の至り、又顔色やさしきありさま、内外具足のものなりとて頓(やが)て本國に偕(ともなひ)て妻とし榮花をなしてんことを山本の者聞て凢そ此の薩埵は法身舎那平等の佛躰なり。今の利生偏頗あるに似たりと凢心を以てぞ怨み奉る。其の夜の夢に菩薩告げて曰く、汝が祈求は自己現在の為にし、今の女子は父母当来の孝を求む。凢そ父母孝心は佛も是を賛め玉へり。我無分別にして彼分別をなさしむ。月の水に印するごとし。何の偏と云ことかあるべき。汝身上の栄を祈んよりは如かず、菩提を求めよよぞ示し玉ひけるよと思ひければ夢覚めけり。誠に只今まで妄心を以て祈ることを悔て益々信をいたせり。積善虚しからず叡聞に達する事ありて、二千八百町(約300ha)の所領を受る。有難き御利生なり。白河院承和三年(836)當國中に苗虫(イナゴ・メイチュウ等か)と云もの生えて悉く苗を食。已に種を絶んとす。國民農夫、國守に訴ること切なれば大に驚き、國中の寺社に仰せて祈らしむ。當寺も其の責に應ず。其の時の住持證覺に夢想ありて告げ玉はく。汝護摩を修せしよりは那里の男女を集め百万遍の我が宝号を口唱せよと云々。此の旨國守に訴へ普く國中に行じければ、虫忽ち失せて豊年を成す。自尒已後、今に正五九の月念佛の行を執り為ひ怠ることなし。同御宇應徳四年(1087)四月賀州蕪木氏貞豊と云もの壮年の比(ころ)父の遺跡を受け二親存生の日は不孝にして諫を聞かずされども本姓さるものにて國中にも威を奮ひて己が心に叶はず禁めて成敗し、自身は樂んで婬し酒を嗜みて乱に及び河海の漁、山野のかりして長日を短しとし、人を諒(かす)め高位を軽んじけるが俄かに病を受けて舌根閉じて言はず。良醫を召して秘薬を投ずと雖も其の効しなけん。當寺の地蔵尊の加護を乞ふて一七日断食して至心に祈りける。満る夜の夢に告げて曰く、汝前世に施食の行をなす。其の功によりて今生福利を得たりき。されども行を顧みず自用を好み人を悩す積悪の報、現に此の病あり。此の苦を脱(のがれ)んとせば、他無、発心して受戒せよと示し玉ふ、と夢覚めぬ。
大きに恐れて當寺に入り剃髪し法名を無徳と号して益々信に祈りければ病忽ち平復して六十七歳にして身退りし。高倉院安元二年(1176)春奥州北目(仙台市青葉区)と云所に鶴本と云者錫杖を持参して云く、去年仰せを承りけれども便りの宜しきなく遅引し侍ると云々。されども寺中曽って其の事なしと云ふ。彼云く、歳七十ばかりにもや侍らん我が家に来たり玉ひて、汝は矢の根を作り甲を造すとかや、我は是江州期の本地蔵の寺僧なり。汝上京の路次持参せよ。輪は何程、柄は是ほどなんど子細に示し玉ひき。猶教化して曰く、汝は人を殺すことを嗜む。器所能として終に一佛具を知るべからず。菩提のために作らんと黄金少し與玉ふと云。あまり奇異のこと自然本尊の妙用にやあらん。御手に合わせて見れば寸尺少しもたがはず相応す。其の時の住持教遍の云く、空海再興の後、錫杖なし。疑無く神通の方便矢人(しじん。矢を作る職人)をして慎ましめ直入道場の化を示し玉ふ。彼の者の過去の宿善、未来の引接たのもし。後深草院正嘉元年(1257)に伊賀國上野と云所に商(あきんど)あり。恵心僧都(源信・往生要集の作者)の真筆紫衣の阿弥陀両脇侍の後に地蔵尊を畫く像あり。世に傳来すといへども彼終に信ぜず筐の中に捨置ける。一夜の夢に、汝が所持の畫像、江州木の本の地蔵に納容せよ。其の儘にして置なば家内に災あらんと云々。彼の者夢覚めて我木の本の寺に何の由なし。代々の重宝を粗忽に遣るべきことにあらず。如夢幻泡何の信ずることかあらんと事ともせざりしが、毎夜に同じ告げあり。就中一夜の告げに沙門来たりて曰、日域に現じ玉ふ佛菩薩の中に江州木の本の地蔵は身を無量に變じ毎日晨朝に諸の獄中に入りて罪人の苦に代玉ふ。汝靈像を所持して信ぜず。急ぎ木の本へ送れと云て失せ玉ふ。家内鳴動して大地も裂んとす。此の奇妙を感じて翌日其の像を寄付して己も又佛道に入れり。今に其の像現在し玉へり。花園院當國伊香郡西山村と云所に農夫有り。左吉と号せり。つねに當寺の像を信ず。感應道交して祈求心に叶ふ。正和五年(1316)の夏左吉病に犯されて月を超へて元気す。さるから田苗の草生茂て當作の穀あるべきやうもなきを見て、心中に思はく日比(ひごろ)は所願速やかに成じてありしに今度の加被緩くして田かくのごとし。されば十輪等の經、延命本願の金口に山川草木に至まで變じ玉ふとかや。(仏説延命地蔵菩薩経「延命菩薩は或は佛身を現し或は菩薩身を現し或は辟支佛身を現し或は聲聞身を現し 或は梵王身を現し或は帝釈身を現し或は閻魔王身を現し或は毘沙門身を現し或は日月身を現し或は五星身を現し或は七星身を現し或は九星身を現し或は轉輪聖王身を現し或は諸小王身を現し或は長者身を現し或は居士身を現し或は宰官身を現し或は婦女身を現し 或は比丘比丘尼優婆塞優婆夷身を現し或は天龍夜叉人等身を現し 或は醫王身を現し或は薬草身を現し或は商人身を現し或は農人身を現し或は象王身を現し或は師子王身を現し或は牛王身を現し或は馬形身を現し或は大地形を表し或は山王形を現し或は大海形を現す。三界のあらゆる四生五形は變ぜざるところなし」)。此の如くならば何ぞ恵みもし玉はざると怨み白しながら本堂に参りしに下向の路次に見れば一草もなし。耕耘の人に問ふに最前、年七旬にも及び玉ふ僧の其の田の畔を残らず一辺通せ玉ふより外なしとぞ云ひける。左吉不思議をなし、全く地蔵の御方便ならん本堂に皈りて礼拝して四方を見るに泥土の足跡厨子の所までありき。有難き事と弥々信を勇みけるが偏に御報恩の為、田地を永代寄附す。代々の将軍其の霊を御感ありて貢役を御免あらしける年中佛餉に供する田とせり。
後柏原の御宇永正十三年(1516)浅井新三郎亮政(すけまさ)は當地蔵尊を信じて當國武勇の長たらんことを祈求して果たして江州(近江国)半國を切り取り且亦濃州(美濃国)三郡をも手に入れ玉ふ。偏に本尊の加助なりと浅井家三代の間日参ありて當寺の大且那なりき。子細縁起に具さなり。
同じく大栄の比(ころ)(16世紀中期)越前府中に菊一と云ふ盲目あり。像の霊なるを聞き及び十八年の閉目開くべきにあらねども佛の神通、凢思に及ばずと参詣して本堂に籠り三七日断食して祈り、満日の前の日、一首の狂歌を詠ず。
「このままに 皈さば地蔵 名やたたん 目作り玉へ 春の木の本」と。
尚丹心に祈る誠や通じけん、両眼忽ち開けり。此の如き事数ふべからず。
正親町の院天正四年(1576)の比(ころ)羽柴筑前守秀吉公未だ當國長浜に在城し玉ひし夏の比(ころ)癰疽の病悩一身を苦しめ玉ふ。醫術効なし。時の出頭に杉原伯耆守早馬を以て當寺に来たり腫物平元を祈る折節痛苦忽ち止む。杉原を召し居すに居らず。暫くして皈りて手を打ちて右の子細を述べ、立願の旨如何と尋玉へば七堂に荘厳せんと白し奉る由を本尊に約すと云々。自尒後(これよりのち)幡州軍事に書写山證空、冥土焔王の本とより請来り玉ふ錫杖を杉原伯耆を以て寄進し玉ふ。今に存せり。其の後堂宇を建立し玉へり。其の外當寺の本尊の霊妙委しく縁起にあり。今一毛を傳るのみなり。
地蔵菩薩三国霊験記巻之四終