福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言宗安心要義(長谷寶秀)・・11

2015-03-12 | 法話
臨終の正念のこと、
人々は過去の宿業により善い死様をすることもあり、悪い死様のときもある。あのひとは平生誠に善い人であったのに死に際がわるかったとのはどういうわけであるか不思議でならぬということがるが、これらは過去の宿業によるもので仕方ありません。昔から臨終の一念は百年の行に勝るとか言い、臨終の善悪を気にする人が多いのですが、しかし臨終の良しあしは過去の業によるもので致し方ないのであるから往生成仏は平生の行によるのであって臨終正念の有無によるのではないと心得たらよかろうと思います。
あるとき仏弟子がお釈迦様に「人が突然馬車に轢かれて死んでしまったときこの人は死ぬ瞬間に仏も法も念ずる暇がなかったとすると、このような人は死後いかなるところに往生いたしますか」と問うた。お釈迦様は「ここに一本の木があって南に傾いているとする。この木を切るとすでに南に傾いているのであるから南に倒れるのは当然である、このように平生仏を信じて善根を積んでいるものは臨終のときに仏や法を思わなくても地獄へ行く道理はない。平生の行によって來世は定まる」とおっしゃっています。これによって考えるに、往生浄土は平生の行によるものであり、必ずしも臨終正念の有無にはよらないということであります。
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