本朝高僧傳・続日本紀に見る法隆寺沙門行信
(行信は奈良時代の僧。天平十一年739,法隆寺東院伽藍を創建。同院には天平肖像彫刻の傑作行信僧都像を伝える。著書に『仁王経疏』『最勝王経音義』『略集諸経律論等中翻梵語疏』等。天平勝宝六年十一月,厭魅の罪で遠流に処された薬師寺僧行信と同一人物の可能性が高い。)
1,「本朝高僧傳・和州法隆寺沙門行信傳」
「釈行信、温良にして身を律す。智鳳・行基二師に従ひ慈恩教を聴し廣く異部に達す。聖武帝屡召して聞法し、勑して法隆寺に住し鎮寺法主と為る。太子豊聰開基已来百二十歳を歴る。伽藍未だ備らず。天平十一年(行)信、興建を奏す。帝、藤不二等に命じて創營を監視す。凡そ九白を歴て寶殿回廊講堂樓閣皆悉く落成。勑して法華を講ず。開題の日、帝親しく臨幸、聴徒林の如し。信又國家安寧を祝し仁王護国経疏三巻最勝王経音義一巻を撰し闕に詣で上進す。勑して大僧都に任じ七大寺検校を管す。自ら五部大乗経を写し以て寺に庋(き・留置くこと)さんと欲す。数軸に迨(およ)び老病以て化す。實に天平宝字年中也。寺衆其の功業を大とし、今に於いて忌日に鐘を撞き饌を供し経堂に諷す。」
2,以下の薬師寺僧行信も先の法隆寺僧行信も同一人物と言われています。
「続日本紀」「(天平勝寶六年十一月甲申)薬師寺僧行信、(宇佐)八幡神宮主神(かんずかさ)大神朝臣多麻呂等と与し意を同うし厭魅す。所司を下す。推勘(調査)するに罪、遠流に合す。是に於いて中納言多治比真人廣足を遣り薬師寺に就き詔を宣す。行信を以て下野薬師寺に配す。