福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は刀伊の来襲が始まった日です

2023-04-17 | 法話

今日は刀伊の侵略が始まった日です。
小右記の寛仁3年4月17日の項では「大宰府飛脚使女真族の来襲を報ず。刀伊国五十艘着対馬拉人放火事。・・」として以下事細かに刀伊の略奪ぶりを書いています。以下ウキぺデア等に依ります。

「刀伊の侵略は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。
「刀伊の入寇」の主力は女真族であったと考えられている。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には満洲族として後金を経て清を建国する民族である。
1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年に北九州に到達・襲撃するようになったいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の人々の活動は、これら10世紀から11世紀にかけて北東アジア全体の情勢の変化によってもたらされたものと考えられる。

刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。

賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。彼らは人肉食の習慣もあり船端に壱岐の人々の死体を下げて乾かしたとする説もあります。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐國分寺を焼こうとした。これに対し、國分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい國分寺は陥落全焼した。 刀伊賊の目的は、領土の拡張ではなく、食糧や牛馬の略奪、奴隷にするための住民の拉致にあったという。いまの北朝鮮の拉致と同じである。このとき理忠をはじめとして、148人が殺され、女子239人、男子若干名が捕虜として連れ去られ生き残った者は、わずか、35人といわれている。
その後、刀伊は4月9日には博多を襲ったが大宰権帥藤原隆家と大蔵種材らによって撃退され4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退したとされる。しかし刀伊賊は高麗の水軍に撃退され拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還されたという。
全体では、この刀伊の非道な侵略で殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が特別目立ったという。 ・・」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日は疫病を除くため百僧を... | トップ | 今日は北畠親房逝去の日です。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事