原文「
第一の人法総通分に五有り。(だいいちのにんぽうそうずうぶんにいつつあり。)
因・行・証・入・時、是れなり。( いん・ぎょう・しょう・にゅう・じ、これなり。)
「観自在」といっぱ、能行の人、即ちこの人は、本覚の菩提を因となす。(「かんじざい」といっぱ、のうぎょうのにん、すなわちこのにんな、ほんがくのぼだいをいんとす。)
「深般若」は、能所観の法、即ち是れ行なり。(「じんはんにゃ」は、のうしょかんのほう、すなわちこれぎょうなり。)
「照空」は、即ち能証の智、(「しょうくう」は、すなわちのうしょうのち、)
「度苦」は、則ち所得の果、果は即ち入なり。(「どく」は、すなわちしょとくのか、かはすなわちにゅうなり。)
かの教に依る人の智、無量なり。智の差別に依って、時また多し。(かのきょうによるにんのち、むりょうなり。ちのしゃべつによって、じまたおおし)
三生・三劫・六十・百妄執の差別、是れを時と名づく。(さんしょう・さんごう・ろくじゅう・ひゃくもうじゅうのしゃべつ、これをじとなずく。)
頌に曰く(じゅにいわく)
、
観人智慧を修して(かんにんちえをしゅして)
深く五衆の空を照す(ふかくごしゅのくうをてらす)
歴劫修念の者(りゃくこうしゅねんのもの)
煩を離れて一心に通ず(ぼんのはなれていっしんにつうず。)
訳・・第一の章の人法総通分(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄)は五つの部分でなる。ここは心経の初めに誰がどのような修行でどのように悟ったかを示す文である。行者が修行して悟りに至る段階を⑴「因(発心)」⑵「行(修行)」⑶「証(菩提)」⑷「入(涅槃)」の四段階とし、悟りに必要な時間を⑸「時」として、五つの部分で心経の第一章を構成しているのである。
まず⑴「因」の部分は「観自在菩薩」である。これはすべての行者を指す。この行者は本来悟りの原因たる仏性を持っているのでこれを(成仏の)「因」とする。
次の「行深般若波羅密多」の部分は⑵「行」にあたる。「法」を観る智慧(能観)と、みられる「法」(所観)があり、修行者は能・所観の法を一体として「行」じているのである。
次に「照見五蘊皆空」のところは⑶「証」にあたる。五蘊はすべて空だということは行者が主体的な智慧で証明することであるから、「証」である。
次の「度一切苦役」は⑷「入」にあたる。修行の結果、涅槃という悟りの境地に入るので、「入」である。
最後にこの般若波羅蜜多の教えに従い修行する行者の智慧も、機根も千差万別であるので悟りに至る時間も、三生・三劫・六十劫・百劫と一定ではないが、密教ではこれを時間と見ずに妄執とみるから即身成仏が可能である。このように行者によって悟りの時間の差がある、これを⑸「時」といったのである。
以上を頌にまとめる。
「観自在菩薩(修行者)が深遠な般若波波羅蜜多を行じて
五つの構成要素に実体がないと見抜いたように
果てしない劫を経て修行する行者たちも、劫を妄執とみてる真言行者たちも共にそれらの修行の結果
煩悩から離れてついに般若菩薩の悟りに到達するのだ。」
第一の人法総通分に五有り。(だいいちのにんぽうそうずうぶんにいつつあり。)
因・行・証・入・時、是れなり。( いん・ぎょう・しょう・にゅう・じ、これなり。)
「観自在」といっぱ、能行の人、即ちこの人は、本覚の菩提を因となす。(「かんじざい」といっぱ、のうぎょうのにん、すなわちこのにんな、ほんがくのぼだいをいんとす。)
「深般若」は、能所観の法、即ち是れ行なり。(「じんはんにゃ」は、のうしょかんのほう、すなわちこれぎょうなり。)
「照空」は、即ち能証の智、(「しょうくう」は、すなわちのうしょうのち、)
「度苦」は、則ち所得の果、果は即ち入なり。(「どく」は、すなわちしょとくのか、かはすなわちにゅうなり。)
かの教に依る人の智、無量なり。智の差別に依って、時また多し。(かのきょうによるにんのち、むりょうなり。ちのしゃべつによって、じまたおおし)
三生・三劫・六十・百妄執の差別、是れを時と名づく。(さんしょう・さんごう・ろくじゅう・ひゃくもうじゅうのしゃべつ、これをじとなずく。)
頌に曰く(じゅにいわく)
、
観人智慧を修して(かんにんちえをしゅして)
深く五衆の空を照す(ふかくごしゅのくうをてらす)
歴劫修念の者(りゃくこうしゅねんのもの)
煩を離れて一心に通ず(ぼんのはなれていっしんにつうず。)
訳・・第一の章の人法総通分(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄)は五つの部分でなる。ここは心経の初めに誰がどのような修行でどのように悟ったかを示す文である。行者が修行して悟りに至る段階を⑴「因(発心)」⑵「行(修行)」⑶「証(菩提)」⑷「入(涅槃)」の四段階とし、悟りに必要な時間を⑸「時」として、五つの部分で心経の第一章を構成しているのである。
まず⑴「因」の部分は「観自在菩薩」である。これはすべての行者を指す。この行者は本来悟りの原因たる仏性を持っているのでこれを(成仏の)「因」とする。
次の「行深般若波羅密多」の部分は⑵「行」にあたる。「法」を観る智慧(能観)と、みられる「法」(所観)があり、修行者は能・所観の法を一体として「行」じているのである。
次に「照見五蘊皆空」のところは⑶「証」にあたる。五蘊はすべて空だということは行者が主体的な智慧で証明することであるから、「証」である。
次の「度一切苦役」は⑷「入」にあたる。修行の結果、涅槃という悟りの境地に入るので、「入」である。
最後にこの般若波羅蜜多の教えに従い修行する行者の智慧も、機根も千差万別であるので悟りに至る時間も、三生・三劫・六十劫・百劫と一定ではないが、密教ではこれを時間と見ずに妄執とみるから即身成仏が可能である。このように行者によって悟りの時間の差がある、これを⑸「時」といったのである。
以上を頌にまとめる。
「観自在菩薩(修行者)が深遠な般若波波羅蜜多を行じて
五つの構成要素に実体がないと見抜いたように
果てしない劫を経て修行する行者たちも、劫を妄執とみてる真言行者たちも共にそれらの修行の結果
煩悩から離れてついに般若菩薩の悟りに到達するのだ。」