復た次に信成就發心とは何等の心を發するや。略説するに三種あり。云何爲三。一は直心。正しく眞如法を念ずるが故に。二には深心。樂うて一切諸善行を集むるが故に。三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に
問うて曰く。上には法界は一相にして佛體は無二なりと説きたるに、何故ぞ唯だ眞如を念ずるのみならずして、復た諸善の行を求學することを假るや。
答曰。譬えば大摩尼寶の體性は明淨なるも而も鑛穢の垢あれば、若し人、寶性ありと念ずるといえども。方便をもって種種に磨治せずんば終に淨を得ることなきがごとし。是の如く衆生の眞如の法も體性は空淨なるも而も無量の煩惱の染垢あれば、若し人、眞如を念ずといえども、方便をもって種種に熏修せずんば亦た淨を得ることもなし。垢は無量にして一切法に偏ずるを以ての故に、一切の善行を修して以って對治を為すなり。若し人、一切善法を修行せば、自然に眞如法に歸順するがゆえなり。(また次に信成就発心というのはどういう心を発心するのか。略説すると三種ある。一は直心。これは正しく真如の法を念ずるからである。第二は深心。全ての善行を集めようと願う故に。第三は大悲心。一切衆生の苦を抜こうと欲するゆえに。問。さきには法界はすべて同一で仏体は無二と説いたのに今度は、この真如を思い浮かべるのみでは足らずに、他の善行まで求められるのか。答える。たとえばそれは大きな大摩尼寶珠は明浄なものだが鑛垢がまじっているときは、宝性ありと思っても、磨かなければ浄を得ることはできないようなものである。このように衆生の本性も本来浄なるものだが無量の煩悩の垢がついているので真如を念じても手段を尽くして繰り返して修習に努めねば浄くはならない。煩悩は無量ですべての現象にしみわたって見えるのであらゆる善行を修めて是を克服する必要があるのである。若し人が修行して一切の善の徳性を身につければその人は自ずから真如に帰ることにるのである。
問うて曰く。上には法界は一相にして佛體は無二なりと説きたるに、何故ぞ唯だ眞如を念ずるのみならずして、復た諸善の行を求學することを假るや。
答曰。譬えば大摩尼寶の體性は明淨なるも而も鑛穢の垢あれば、若し人、寶性ありと念ずるといえども。方便をもって種種に磨治せずんば終に淨を得ることなきがごとし。是の如く衆生の眞如の法も體性は空淨なるも而も無量の煩惱の染垢あれば、若し人、眞如を念ずといえども、方便をもって種種に熏修せずんば亦た淨を得ることもなし。垢は無量にして一切法に偏ずるを以ての故に、一切の善行を修して以って對治を為すなり。若し人、一切善法を修行せば、自然に眞如法に歸順するがゆえなり。(また次に信成就発心というのはどういう心を発心するのか。略説すると三種ある。一は直心。これは正しく真如の法を念ずるからである。第二は深心。全ての善行を集めようと願う故に。第三は大悲心。一切衆生の苦を抜こうと欲するゆえに。問。さきには法界はすべて同一で仏体は無二と説いたのに今度は、この真如を思い浮かべるのみでは足らずに、他の善行まで求められるのか。答える。たとえばそれは大きな大摩尼寶珠は明浄なものだが鑛垢がまじっているときは、宝性ありと思っても、磨かなければ浄を得ることはできないようなものである。このように衆生の本性も本来浄なるものだが無量の煩悩の垢がついているので真如を念じても手段を尽くして繰り返して修習に努めねば浄くはならない。煩悩は無量ですべての現象にしみわたって見えるのであらゆる善行を修めて是を克服する必要があるのである。若し人が修行して一切の善の徳性を身につければその人は自ずから真如に帰ることにるのである。