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福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は白隠禅師の遷化された日です

2020-12-11 | 法話

白隠禅師(白隠慧鶴)は1686年1月19日(貞享2年12月25日)に生まれ、1769年1月18日(明和5年12月11日)に遷化されています。白隠は江戸中期の禅僧。駿河の人。臨済宗中興の祖。現在の臨済宗の大部分が白隠の影響下にあるとされる。名は慧鶴。諡号は正宗国師。三島竜沢寺開基。

白隠禅師坐禅和讃

衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して  遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を  一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は  福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて  すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し
無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん
此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり
白隠禅師の施行歌です


     施行歌

今生富貴する人は、前世に蒔きおく種がある、
今生施しせぬ人は、未来はきわめて貧なるぞ、
利口で富貴がなるならば、鈍なる人はみな貧か、
利口で貧乏するを見よ、(高学歴でも貧乏します)
この世は前世の種しだい、未来はこの世の種しだい、
富貴に大小ある事は、蒔く種大小あるゆえぞ、
この世はわずかの物なれば、よい種えらんで蒔きたまえ、
種を惜しみて植えざれば、穀物取りたる例(ためし)なし、
田畑に麦稗(むぎひえ)蒔かずして、麦稗取りたるためしなし、
麦稗一升蒔きおけば、五升や一斗はみのるぞや、
しかれば少しの施しも、果報は倍々あるものぞ、
いわんや施し多ければ、果報も多しとはかりしれ、
それゆえ釈迦も観音も、施しせよとすすめたり、(十善戒の不慳貪戒は施行をすすめる戒でもあります)
さすれば乞食まで、救うこころをおこすべし、
おのおの富貴で持つ宝、有れば有るほど足らぬもの、(ショーペンハウエルも「富は海水に似ている。飲めば飲むほど、のどが渇くのだ」といっているということです)
おおくの宝をゆずるとも、持つ子が持たねば持たぬもの、
少しも田畑ゆずらねど、持つ子はあっぱれ持つものぞ、
我が子の繁昌祈るなら、人を倒さず施行せよ、
人を倒して持つ宝、我が子にゆずりて怨(あだ)となる、
人の恨みのかかるもの、ゆずる我が子は沈みきる、
升や秤(はかり)や算盤や、筆の非道をしたまうな、(非道なビジネス、誹謗記事も子孫に仇を為すということです)
常々商いする人も、あまり非道な利をとるな、
死んで三途に入ることぞ、
その身は三途に落ち入って、屋敷は草木が生いしげる、
非道は子孫の害となる、親の悪事が子にむくう、
世間に数々ある物ぞ、
一門繁昌することは、親が悪事をせぬゆえぞ、
もしまた親にはなれなば、ますます重恩思いしれ、
子を慈しむ親ごころ、荒い風をも厭いしぞ、
それ程親に思われて、親を思わぬおろかさよ、
親に不孝な人々は、鳶(とび)や烏(からす)に劣りたり、
むすめ息子をしつけるに、惜しむ宝はなきものぞ、
親の後生の為ならば、その金出して施行せよ、
飢え死ぬ人を助けなば、これに勝(すぐ)れる善事なし、
たとい満貫長者でも、死んで身につく物はなし、
妻も子供も銭金(ぜにかね)も、捨てて冥土の旅立ちぞ、
冥土の旅立ちする時は、耳も聞こえず目も見えず、
行方しらずに門(かど)を出で、暗き闇路に入る事ぞ、
そのとき後悔限りなし、とかく命のあるかぎり、
菩提の種を植えたまえ、
命は脆(もろ)きものなれば、露の命と名付けたり、
今宵頭痛がし始めて、ついに死病となるもあり、
強い自慢をする人も、暮れに頓死をするもあり、
今日は他人を葬礼し、明日はわが身の葬礼ぞ、
しかれば頼みなき娑婆に、金銀たくわえ何にする、
富貴さいわいある人は、貧者に施しせらるべし、
貧者に施しせぬ人は、富貴でくらすかいもなし、
犬でも口はすぐるぞや(食うだけなら犬でもできる)、飢え人貧者を助くべし、
慈悲善根はそのままに、家繁栄のご祈祷ぞ、
慈悲善根する人は、神や仏に守られて、
天魔外道は寄りつかず
、然れば祈祷になるまいか、
よくよく了簡せらるべし、


恵み施しならぬとは、あんまりどうよく(胴欲、どん欲)目にあまる、
飢え死ぬ貧者を見ぬふりに、暮らす心は鬼神(おにがみ)か、
慈悲善根のなき人は、子孫はんじょう長からじ、
宝は余りはなき物ぞ、施行で借銭(しゃくせん)し始めよ、
それこそまことの信心よ、
上(かみ)なる人をはじめとし、頭(かしら)立ちたる人々は、
我も我もと共々に、厚く施行に身を入れよ、
貧者の命救うなら、広大無辺の善事なり、
平生貧者に敬われ、身につく果報あるまいか、
人の食いもの捨つるのを、好んで拾うて食うものは、
前世に蒔く種たらぬゆえ、是非なく袖乞いする事ぞ、
かかる有りさま見ながらも、おのおの仁心起こらぬか、
とにも角にも人として、信心なければ人でなし、
この節信心起こらねば、まったく牛馬にことならず(最近牛馬のほうが人間よりも慈悲心があるようなきもしています)。


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