世の悩みを知ってか知らずか、自然は初夏のまぶしい緑を見渡す限りいっぱいに展開しています。
蘇東坡は「贈東林総長老」で 「渓声便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ずや、夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せん」と全ての自然が常に説法していると喝破しました。
八宗要綱には「薄伽の教法に総じて無量の門あり・・・」とあり、金剛頂経も本来十万頌あったとされます。
法身説法と考えれば森羅万象が説法しておりお経を説いていることは当たり前です。
我々も森羅万象の内ですから一人一人が一生に於てお経を書いているという事は当然だといえます。「一生」とは過去世・現世・未来世を通じてのことです。また「お経を書く」というのは行動のみでなく、身・口・意という三密にわたって書いていることになるということでしょう。毎日の意識の状態や死後のあの世での在り方もお経の内容になると思われます。恥ずかしくない「お経」をのこしたいものですし、すべての経典は「衆生本来仏なり」と喝破しているのですからすべての人の一生で書くお経はハッピーエンドとなるに決まっています。