山 岡 瑞 円 上 人 の 略 伝(三 井 英 光)等より・・2
二、 身 心 更 生 の転 機
その当時 の香園寺 は、 明治維新 の癖仏棄釈 の後を受 けて荒廃の極に達 し、 それを立直さんとする先師 の計画も空しく、却ってそのた め借財を重 ねて人心漸 く寺を離 れ、此 の地 の鎮 守神高鴨神社 の森 蔭にわびしく残骸 をとどめる 一寒 寺にすぎな か った。上 人は不治 の病気と中途退学 の敗 残 の身 を、 母と二人 で 養う ことすらも ままならぬ貧 困 の姿と な った のである。
この悲境 に陥 った上 人は、我が身 の不幸を歎き、 世を恨 み山人を咀うの念おさえ難 く、併 しそ のことは却 って益 々自 からの運命を絶 対絶命 の悲境 に立 たしめ てしま った。遂 に自殺を決意 し て幾度 か死所を求めしも得 られず、か てて加 え てふりかかって来る毎 日の衣食 の調達 にも事 欠くようになり、も 早や世に反抗する気力も失せてしま った上 人は、遂 に生死を天運に任せ餓死 の 覚悟 で病身を 横 たえ て 独 り 寝 ていた のである。(注一) 然 るに生命 までも 投げ出 してしま った 上 人の 心 の中 には、今 ま で 閉ざ していた 執念 の雲も おのつ゛から 消えたも のか、 始 めて天地に満てる神秘 の光 りを仰ぎ、 如来 の心光 の中に生かされ てある自からに眼ざめた のである。
時たまた ま四国 霊揚巡拝 の先達と思われる人が、 十人余りの遍路同行を つれ て 一夜 の宿 を求めた。 もとより独りで死を覚悟て食を断って寝 ており、も早や起 きあが ることすらも出来なかった上人は、寺 のすべてをあけ渡してしま った。 そうするより外 に仕方がなかったと云った方がよかろう。 とにかく此れら の人達 は約十日余りも滞留し、 その間各 々手分けして托鉢に出て行くものもあれば寺内に在って掃除や炊事を受持つものもあるなどで、本堂より台所の隅に至るまで見違る如く整理 し、上人 の寝ていた夜具や寝巻をも洗濯し、重湯やお粥までも食べさせてくれた上、 托鉢の残米 や金銭なども置いて立去って行 った。(注二) 寝たままで此の始終の動静を見ていた上人は、 深く感ずる所あり、 やがて身心共に更生 の喜びと気力 をとりもどすと共に、先づ寺を四国霊場遍路者 のために無料 で開放 した のである。 当時未 だ霊場寺院 に宿泊設備の無かった時代であったから、 巡拝者 にと っては忽ち香園寺 は旅の安息所となり、宿泊者で賑う有様となって来た。 又此れらの人の中には祈願を求めるものもあり、上人は無所得の心境 を以って唯真心から祈るからか、 お のずから神冥に通ずるものが あって、霊験掌を指すが如く、 その事が 亦忽ち四方に伝 えられて参詣者踵を接するの盛況とな った。上人は此れら参詣者 の罪障消滅 と所願成就を祈るのに十年一日の如く不動護摩供を修 し、病者加持作法を以って加持する ことに余念なかったのである(注三)。
・(注一)「人格的 生活を めざ して(山 岡 瑞 円 )」では・・「(進退窮まって寺に臥せっていて)世の中を恨んで恨んでうらみのはて、それらに対して復讐的に死んでやるといふ心地であった。 世の中をうらんでいたときは、常に私の心の中に敵があったのです。
あいつがこうしたためにこの私がこのようなどん底に落ちている。 親の行いがわるかったので、世間からさげすまれ、かてて加えて不治の難病に伸吟せねばならぬ、師匠が借銭を遺したため、債鬼に毎日せめられる、 総代が陰険な手段を以って日夜に迫害をして私を独りぼっちに陥れた、信者信者というても其の正体は私をただ使いし、 私の骨までしゃぶろうとするものだ、というふうに私と関係の深いものに対してほど、深く恨みをいだいていた、 困窮のどん底に落ちた私の心が僻みと恨みと腹立ちとに燃え爛れていたのであります。
仏が人を救うなどとそんなことがあるものか、こんな苦しいときにも仏様は私を救うてくれないではないか、この世に神も仏もあるものか、 お経は人を誑かす架空の妄談ではないか、こういう煩悩の嵐が心のなかで吹いて吹いて吹きすさんでいたのであります。・・・ しかし、いくら恨んでも敵をどうすることもできぬ、世の中は私と無関係に進んでいく。 私ごときがいくら恨んだとて針でついたほどの変化もない、もう一切の恨みはさらりと捨てた、このような運命をもって生まれてきたのだから、 甘んじて従うより途がない、食えぬのだから食えないまま死んでいこうと考えた、それに絶対服従をしたのです。そうすると奇体に敵がなくなったのです。・・・それまでは強度の神経衰弱であった、それは戦って負傷したうめき声でした。 ところが敵がなくなったのでいまや安らかな心持になりこころゆくばかりすやすやと眠りました。 ・・・全く孤独でしたので食べさせてくれる人もありません。ただすべてを忘れて幾日と無く眠りました・・・。 この境地に至って私の不治の難病も薄紙をはぐようにいつのまにかよくなりました。 ・・・この境地においてはなんにも望むところはないのに不思議にも恵まれる一方でありました。
(注二)「人格的 生活を めざ して(山 岡 瑞 円 )」では
「・・・巡拝の人がやってきて、私がなにもせずに全くの孤独で病臥していると洗濯もしてくれたり、お米もあつめてきてくれたり・・ それからまもなく私に拝んでくれという人が出てきました。私はなにも知らぬまま拝みました。不思議にもお蔭を受けたのです。 もとより私が治したのでなくて、仏様が相手を連れてきて、私が治したかのような様式をとらせてくださったのです。
・・まったく仏様が治してくださったのです。
(注三)「人格的 生活を めざ して(山 岡 瑞 円 )」では・・・私が無我となり不思議にもいろいろな人に助けられてから1週間ばかりして 島根県のおばあさんが行き倒れて重体になったのでわたしに拝めといってきた。
もとより拝む作法も知らなかったがただいわれるままに拝んだら不思議にもお蔭があったのです。 それを聞き伝えてか私ごときものにも拝んでくれという人が段々まいるようになりました。 これまた仏様のお指図ですからもとより仏様が治してくださるものとひたすらしんじて拝みますといつもおかげがあったのです・・・。」
二、 身 心 更 生 の転 機
その当時 の香園寺 は、 明治維新 の癖仏棄釈 の後を受 けて荒廃の極に達 し、 それを立直さんとする先師 の計画も空しく、却ってそのた め借財を重 ねて人心漸 く寺を離 れ、此 の地 の鎮 守神高鴨神社 の森 蔭にわびしく残骸 をとどめる 一寒 寺にすぎな か った。上 人は不治 の病気と中途退学 の敗 残 の身 を、 母と二人 で 養う ことすらも ままならぬ貧 困 の姿と な った のである。
この悲境 に陥 った上 人は、我が身 の不幸を歎き、 世を恨 み山人を咀うの念おさえ難 く、併 しそ のことは却 って益 々自 からの運命を絶 対絶命 の悲境 に立 たしめ てしま った。遂 に自殺を決意 し て幾度 か死所を求めしも得 られず、か てて加 え てふりかかって来る毎 日の衣食 の調達 にも事 欠くようになり、も 早や世に反抗する気力も失せてしま った上 人は、遂 に生死を天運に任せ餓死 の 覚悟 で病身を 横 たえ て 独 り 寝 ていた のである。(注一) 然 るに生命 までも 投げ出 してしま った 上 人の 心 の中 には、今 ま で 閉ざ していた 執念 の雲も おのつ゛から 消えたも のか、 始 めて天地に満てる神秘 の光 りを仰ぎ、 如来 の心光 の中に生かされ てある自からに眼ざめた のである。
時たまた ま四国 霊揚巡拝 の先達と思われる人が、 十人余りの遍路同行を つれ て 一夜 の宿 を求めた。 もとより独りで死を覚悟て食を断って寝 ており、も早や起 きあが ることすらも出来なかった上人は、寺 のすべてをあけ渡してしま った。 そうするより外 に仕方がなかったと云った方がよかろう。 とにかく此れら の人達 は約十日余りも滞留し、 その間各 々手分けして托鉢に出て行くものもあれば寺内に在って掃除や炊事を受持つものもあるなどで、本堂より台所の隅に至るまで見違る如く整理 し、上人 の寝ていた夜具や寝巻をも洗濯し、重湯やお粥までも食べさせてくれた上、 托鉢の残米 や金銭なども置いて立去って行 った。(注二) 寝たままで此の始終の動静を見ていた上人は、 深く感ずる所あり、 やがて身心共に更生 の喜びと気力 をとりもどすと共に、先づ寺を四国霊場遍路者 のために無料 で開放 した のである。 当時未 だ霊場寺院 に宿泊設備の無かった時代であったから、 巡拝者 にと っては忽ち香園寺 は旅の安息所となり、宿泊者で賑う有様となって来た。 又此れらの人の中には祈願を求めるものもあり、上人は無所得の心境 を以って唯真心から祈るからか、 お のずから神冥に通ずるものが あって、霊験掌を指すが如く、 その事が 亦忽ち四方に伝 えられて参詣者踵を接するの盛況とな った。上人は此れら参詣者 の罪障消滅 と所願成就を祈るのに十年一日の如く不動護摩供を修 し、病者加持作法を以って加持する ことに余念なかったのである(注三)。
・(注一)「人格的 生活を めざ して(山 岡 瑞 円 )」では・・「(進退窮まって寺に臥せっていて)世の中を恨んで恨んでうらみのはて、それらに対して復讐的に死んでやるといふ心地であった。 世の中をうらんでいたときは、常に私の心の中に敵があったのです。
あいつがこうしたためにこの私がこのようなどん底に落ちている。 親の行いがわるかったので、世間からさげすまれ、かてて加えて不治の難病に伸吟せねばならぬ、師匠が借銭を遺したため、債鬼に毎日せめられる、 総代が陰険な手段を以って日夜に迫害をして私を独りぼっちに陥れた、信者信者というても其の正体は私をただ使いし、 私の骨までしゃぶろうとするものだ、というふうに私と関係の深いものに対してほど、深く恨みをいだいていた、 困窮のどん底に落ちた私の心が僻みと恨みと腹立ちとに燃え爛れていたのであります。
仏が人を救うなどとそんなことがあるものか、こんな苦しいときにも仏様は私を救うてくれないではないか、この世に神も仏もあるものか、 お経は人を誑かす架空の妄談ではないか、こういう煩悩の嵐が心のなかで吹いて吹いて吹きすさんでいたのであります。・・・ しかし、いくら恨んでも敵をどうすることもできぬ、世の中は私と無関係に進んでいく。 私ごときがいくら恨んだとて針でついたほどの変化もない、もう一切の恨みはさらりと捨てた、このような運命をもって生まれてきたのだから、 甘んじて従うより途がない、食えぬのだから食えないまま死んでいこうと考えた、それに絶対服従をしたのです。そうすると奇体に敵がなくなったのです。・・・それまでは強度の神経衰弱であった、それは戦って負傷したうめき声でした。 ところが敵がなくなったのでいまや安らかな心持になりこころゆくばかりすやすやと眠りました。 ・・・全く孤独でしたので食べさせてくれる人もありません。ただすべてを忘れて幾日と無く眠りました・・・。 この境地に至って私の不治の難病も薄紙をはぐようにいつのまにかよくなりました。 ・・・この境地においてはなんにも望むところはないのに不思議にも恵まれる一方でありました。
(注二)「人格的 生活を めざ して(山 岡 瑞 円 )」では
「・・・巡拝の人がやってきて、私がなにもせずに全くの孤独で病臥していると洗濯もしてくれたり、お米もあつめてきてくれたり・・ それからまもなく私に拝んでくれという人が出てきました。私はなにも知らぬまま拝みました。不思議にもお蔭を受けたのです。 もとより私が治したのでなくて、仏様が相手を連れてきて、私が治したかのような様式をとらせてくださったのです。
・・まったく仏様が治してくださったのです。
(注三)「人格的 生活を めざ して(山 岡 瑞 円 )」では・・・私が無我となり不思議にもいろいろな人に助けられてから1週間ばかりして 島根県のおばあさんが行き倒れて重体になったのでわたしに拝めといってきた。
もとより拝む作法も知らなかったがただいわれるままに拝んだら不思議にもお蔭があったのです。 それを聞き伝えてか私ごときものにも拝んでくれという人が段々まいるようになりました。 これまた仏様のお指図ですからもとより仏様が治してくださるものとひたすらしんじて拝みますといつもおかげがあったのです・・・。」