福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「咳のおば様」

2020-03-22 | 法話
コロナの症状は咳が止まらないということのようです。昔の日本人も咳には相当悩まされていたようです。
柳田国男「日本の伝承」には「咳のおば様」として、本所の証顕寺の石像、築地の稲葉対馬守の中屋敷の石像、広島市の空鞘八幡の道祖神、川越の広済寺、甲州の八田、上総俵田の子守神社、下総臼井の石の小さな祠、高崎の大師石、長岡長福寺の十王堂等が紹介されています。昔の日本人も咳には特別に悩まされていたようです。またこれだけお祀りされていたということはそれだけおかげもあったということでしょう。以下関係部分を抜き書きして現在の姿も載せておきます。
「・本所の原庭町の証顕寺という寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があって、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直に治るといいました。大きな石の笠をかぶったまま、しゃがんで両方の手で顎をささえ、鬼見たようなこわい顔をしてにらんでいましたが、いつも桃色の胸当てをしていたのは、治ったお礼に人が進上したものと思われます。子供たちは、これを咳のおば様と呼んでおりました。
 百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のおば様があったそうであります。(今、証顕寺という寺は見当たらないので廃寺となっていると思われます。この「咳のおば様」の行方も不明です。)

・築地二丁目の稲葉対馬守大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあって、百日咳などで難儀をする児童の親は、そっと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拝みにはいりました。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつの頃よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃っていました。・・咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅の炒り物を持参して、煎じ茶と共にこれを両方の石の像に供えました。そうして最もよくきく頼み方は、始めに婆様に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺様のところへ行ってこういうのだそうです。おじいさん、今あちらで咳の病気のことを頼んで来ましたが、どうも婆どのの手際では覚束ない。何分御前様にもよろしく願いますといって帰る。そうすると殊に早く全快するという評判でありました。(十方庵遊歴雑記五編)
 この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になって、暫くどこへ行ったか行く方不明になっていましたが、後に隅田川東の牛島の弘福寺へ引っ越していることが分りました。この寺は稲葉家の菩提所で、築地の屋敷がなくなったから、ここへ持って行ったのでしたが、もうその時には喧嘩などはしないようになって二人仲よく並んでいました。そればかりでなく咳の婆様という名前も人が忘れてしまって、誰がいい出したものか、腰から下の病気を治してくれるといって、頼みに来る者が多くなっていました。そうしてお礼には履き物を持って来て上げるとよいということで、像の前にはいろいろの草履などが納めてあったそうです。(土俗談語)
今も、弘福寺ホームページには所蔵の文化財として「咳の爺婆尊」とあります。


 ・広島市の空鞘八幡というお社の脇にある道祖神のほこらには、子供の咳の病が治るように、願掛けに来る人が多く、そのお供え物は、いずれも馬の沓
くつであったそうです(碌々雑話)。
空鞘神社のホームページがありますがここは広島原爆ですべて灰塵に帰しています。この道祖神のほこらの記述もありません。

・川越の広済寺というお寺の中にも、「しやぶぎばばの石塔」があって、咳で難儀をするのでお参りに来る人がたくさんにあったそうですが、今ではその石がどれだか、もうわからなくなりました。(入間郡誌。埼玉県川越市喜多町)」
広済寺の現在のホームページにもこの「しやぶぎばばの石塔」は載っていておおくの人がお参りに来ているようです。

・甲州八田村にある「しわぶき婆」は、二貫目ばかりの三角な石で、これには炒り胡麻とお茶とを供えて、小児が風をひいた時に祈りました。もとは行き倒れの旅の老女を埋めた墓印の石で、やたらに動かすと祟があるといっておそれておりました。(日本風俗志中巻。山梨県中巨摩郡百田村上八田組)
 
・上総の俵田という村の姥神様は、近頃では子守神社といって小さなお宮になっていますが、ここでもある尊い御方の乳母が京都から来て、咳の病で亡くなったのを葬ったところといっております。それだから咳の病に願掛けをすれば治してくれるということで、土地の人は甘酒を持って来て供えました。そうして頼むと必ずよくなったという話であります。(上総国誌稿。千葉県君津郡小櫃村俵田字姥神台)
現在は君津市の子安神社といわれているのが該当すると思われます。

・下総の臼井の町でも、城趾から少し東南に離れた田の中に、「おたつ様」という石の小さなほこらがあって、そこには村の人たちが麦こがしとお茶とを上げて、咳の出る病を祈っておりました。臼井の町の伝説では、おたつ様は昔臼井竹若丸という幼い殿様の乳母でありました。志津胤氏(しづのたねうじ)という者が臼井の城を攻め落した時に、おたつはかいがいしく若君を助けて遁れさせ、自分はこのあたりの沼の蘆原の中に隠れていました。追手の軍勢が沼の側を通り過ぎようとしたのに、あいにく咳が出たので見つかって、乳母のおたつは殺されてしまいました。それが恨みの種であるゆえに、死んで後までも咳をする子供を見ると、治してやらずにはおられぬのであろうと、土地の人たちも考えていたようであります。(利根川図誌等。千葉県印旛郡臼井町臼井)
「おたつ様」は今でも佐倉市の有形文化財として残っているようです。

・浅草には今から四十年ほど前まで、姥が淵という池が小さくなって残っていて、一つ家石の枕の物凄い昔話が、語り伝えられておりました。浅草の観音様が美しい少年に化けて、鬼婆の家に来て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌で撃って、誤ってかわいい一人娘を殺してしまったので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵という名もそれから起ったなどといいましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じていたそうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供えると、まもなく全快したということですから、姥神も、もとはやはり子供をまもって下さる神であったのです。(江戸名所記)
今は花川戸公園に「姥ヶ池之旧跡」の碑が残っているのみです。

・静岡の市から少し東、東海道の松並木から四五十間北へはいったところにも、有名な一つの「姥が池」がありました。ここでは旅人が池の岸に来て「姥甲斐ない」と大きな声で呼ぶと、忽ち池の水が湧きあがるといっておりました。・・駿国雑志という書物に載せている話は、昔ある家の乳母が主人の子を抱いてこの池の傍に来た時に、その子供が咳をして大そう苦しがるので、水をくんで飲ませようと思って、下に置いてちょっと目を放すと、その間に子供は苦しみのあまり、転げて池に落ちて死んでしまった。乳母も親たちに申しわけがなくて、続いて身を投げて死んだ。それだから「姥甲斐ない」というとくやしがり、また願掛けをすると咳が治るのだというのであります。ところが、うばは金谷長者という大家の乳人で、若君の咳の病がなおるように、この家の傍の石の地蔵様に祈り、わが身を投げて主人の稚児の命に代った、それでその子の咳が治ったばかりか、後々いつまでもこの病にかかる者を、救うのであるといっているものもあります。・・とにかくにこの池のそばには咳の姥神が祀ってあり、ある時代にはそれが石の地蔵様になっていたらしいのであります。そうして地蔵様も道の神で、また非常に子供のすきな御方でありました。(安倍郡誌。静岡県清水市入江町元追分)
ここは、現在も姥が池としてお社が残っているようです。

・上州の高崎には、「大師石」という一つの霊石があって、その附近には弘法大師の作と称する石像の婆様があり、これを「しょうずかの婆石」といっておりました。これには咳をわずらう人が祈願をして、しるしがあればやはり麦こがしを持って来て供えたということであります。(高崎志。群馬県高崎市赤坂町)
この「しょうずかの婆石」にあたると思われる写真がありました。


・ 越後では長岡の長福寺という寺に、古い十王堂があって閻魔様を祀っていましたが、ここでは米の炒り粉を供えて咳の病を祈ると、立ちどころに全快するということで、咳の十王といえば誰知らぬ者もなかったそうです。
現在も長福寺はあり、十王堂とは別に「咳の婆さん」が祀られているようです。

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