権助の冒険

ノンセクションでぼちぼちと。

「渚にて」

2023-11-01 21:58:12 | 映画

渚にて」スタンリー・クレイマーの古き良き映画で、この原作小説には思い出がある。
中学の担任のOB先生と言うのが居りまして、この先生から「第三次世界大戦で世界中が死の灰に覆われアメリカの原子力潜水艦だけが生き残った」という筋と「渚にて」というタイトルだけを聞き、
ネビル・シュートの小説(創元推理文庫版)を当時としてはかなりの無理をして読んだ。
(まぁ頑張ったって言えるかも)
小説「渚にて」

〔内容〕
 時は64年。第三次世界大戦が勃発し、世界全土は核攻撃によって放射能汚染が広がり北半球はすでに全滅。僅かに残った南半球の一部地域に人々が暮らすだけになっていた。そんなある日、本国に帰港出来なくなったアメリカ原子力潜水艦がメルボルンに入港する。そこで艦長タワーズ(ペック)は美しい女性モイラ(ガードナー)に出会いしばしの休日を楽しむが、その地にも死の灰は確実に迫っていた。しかし生存の道を探る学者達の提案で、オーストラリア軍の若き大尉ホームズ(パーキンス)や学者のジュリアン(アステア)たちと共にタワーズは潜水艦で北極圏に汚染調査に出掛けて行く。しかしそこでも汚染レベルは依然高く、乗員達は落胆の色を隠せないまま帰路に着く。そして途中寄ったサンフランシスコではもっと悲惨な現状を直視し、メルボルンに帰港するのだが、彼等を待っていたものは最後の数十日と死への旅立ちだけになっていたのだった……。(出典:全洋画オンライン)




原作が書かれたのは1957年、ちょうど冷戦の最中でSFの世界では最終戦争ものがひとつのジャンルを形成していた。そんな時代背景だった様だ。
このジャンルでは「破滅への2時間(博士の不思議な愛情の原作)」「コマンダー1」「渚にて」等々、名作が多い。(もう少しあったが忘れた。)
のっけから潜水艦が浮上するシーンで始まり、ウォルチングマルチダがバックに流れる社会派映画の真骨頂とも言える良き名作映画、そして主演のグレゴリ・ペックがとても格好いい。
スタンリー・クレイマー監督はこの映画を観て以来のファンになり、「ケイン号の反乱(制作かな?)」「ニュールンベルグ裁判」「招かるざる客」「おかしなおかしなおかしな世界」等々のリバイバル上映やらビデオやらDVDやらを漁ったもんだった。(リアルタイムでは幼過ぎたため)
残りの人生で、上記のどれでも良いからもう一度映画館で鑑賞したい。

で、最近の放射能事案はいやでもこの映画を思い出させる。

Waltzing Matilda - On The Beach (1959)

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4 コメント

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Unknown (灰転がし)
2023-11-01 23:42:59
この映画を封切りで観た高校のさる教師が授業中に我々に宣いました「無人のS.F.のシーンでは住民に協力を仰いで室内にとどまるように依頼した筈だ」と ・・・観光客で溢れている側でない比較的静かな区域でのロケだったとしても、S.F.でそんなことが可能だったのだろうか、いくら規制線を張って住民や観光客の侵入を防いだとしても・・・あどけない青春まっさかりの我々高校生は完全にくだんの教師を覚めた目でみていました。あれは手を加えた映像に違いない、と。
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Re:灰転がしさん (権助)
2023-11-02 08:29:54
コメントありがとうございます。
この当時は特撮よりも実写の方が安上がりだったんですが、このラストは凄い!
返信する
「渚にて」 (オーウェン)
2024-08-24 10:45:57
こんにちは。このスタンリー・クレイマー監督の映画「渚にて」が、反戦的なテーマを持っていることは自ずと明らかであるように思います。

遂に、誰もいなくなった広場にかかっている「まだ時間はある。兄弟たちよ」という横断幕が写し出されるシーンで、この映画は終るのですが、明らかにこの横断幕は、この映画を観ている人々に対して提示されているのだと思います。

この映画が製作された1950年代終盤というのは、冷戦下における、東西陣営の両極化が明瞭になり、軍拡の時代がまさに到来せんとしていたような時代でありました。

まだ時間があるというメッセージは、そういう軍拡競争が手遅れなポイントまで達するのを阻止することが、今ならまだ出来ると我々観る者に向かってアピールしているように思えます。

この映画の面白いところは、戦争の残虐さを残虐なシーンを見せることによって訴えるというような、通常よくある手法を用いるのではなく、逆に全くそういうシーンを描くことなく、見事に戦争の無益さというテーマを表現している点です。

例えば、核戦争で世界が壊滅したのなら、TV映画の「ザ・デイ・アフター」(1983)のような、どこもかしこも廃虚になっているような舞台を想像してしまうのですが、この「渚にて」には、ガラガラに崩れた廃虚など、どこにも登場しないんですね。

この映画においては、核戦争が発生したならば、軍事施設の次にターゲットになるであろうはずのサンフランシスコのような大都市ですら、無傷で残っているのです。

ただし、そこには誰一人生存者はいないわけであり、無傷で残った大都市に、ただの一人も人間が住んでいないという不思議な光景が、実に奇妙な虚無感を生み出すことに成功しているように思われます。

それから、放射能汚染による即時の生命の壊滅から免れた、地球上で唯一の国であるオーストラリアにも徐々に放射能が迫ってくるのですが、そこで営まれている生活が、最後の最後まで通常通り続いていく様を描いた後に、最後のシーンで、そのオーストラリアも無人の廃虚と化したシーンが写し出されます。

今まであったものがなくなってしまう様子を通じて、なんとも言えない虚無感、あるいは無為感が表現されているように思います。

こういう表現になったというのも、恐らくこの映画が製作された時代の、時代的な背景も一役買っていたのかもしれません。

もちろん、先ほど述べたような、東西の冷戦の初期の頃という背景もそうなのですが、この時代が、第二次世界大戦及び朝鮮戦争が終った後で、なおかつ、ベトナム戦争はまだ先であったという、中間的な時代であったということです。

戦争をリアルな戦争シーンとしてではなく、いわば"what-if"的なシナリオで描くような、婉曲的な表現方法が好まれたのかもしれないということです。

この映画の数年先には、キューバ危機のような事件も発生するのですが、「渚にて」という映画は、戦争の無益さを描いた、東西冷戦時代の映画の先駆けだと言ってもいいのではないでしょうか。

いずれにしても、「渚にて」は常套的な手段に頼らない、非常に変わった印象のある映画であり、カテゴリー的には、時としてSFとして扱われることもありました。

だが、製作意図という見地から見た場合には、時代的背景も考え合わせてみれば、SFというよりは、もっとより現実感覚へのアピールという側面が強い映画だったのではないかと思います。
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re:オーウェン様 (権助)
2024-08-24 11:23:20
コメントありがとうございます。
おしゃっる通り見事な反戦テーマ・ドラマだと思います。そして今でも十二分に通用する映画で、どこかで上映してくれたら是非観たいと思います。
(未だ映画館では見た事が無い!)
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