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Mikuのブログ

教師は単なる「労働者」なのか?─「駆け込み退職」多発に見る戦後教員の問題点

2013-01-29 19:36:46 | 教育・いじめ問題・児童虐待・少子対策

[HRPニュースファイル532]

教師は単なる「労働者」なのか?―「駆け込み退職」多発に見る戦後教員の問題点

国家公務員の退職金減額に伴い、自治体でも条例改正で退職金が引き下げられる中、退職金の減額前に早期退職する教職員が増えています。

朝日新聞の調べでは、「駆け込み退職」は9府県で少なくとも450人にのぼっています。(1/23 朝日「駆け込み退職、9府県で450人超 教師や警官に広がる」)

うち最も多かった埼玉県では123名が早期退職見込みで、その内の30名はクラスを持っている担任教員だったと発表されています。

これに対して、下村文科相は「決して許されざる(ことだ)」「自己の職責や使命感をもって職務を全うしてほしい。各教育委員会を通じて適切な対応を促す」と強く批判しています。(1/24 時事「『決して許されない』=教員の駆け込み退職−下村文科相」)

ただ、現行法で教員の自己都合退職を防止することは不可能で、各教育委員会による実効性ある対処というのはほぼ期待できません。

こうした異常事態に対し、マスコミやネット上でも議論が巻き起こっており、教師が年度途中で生徒を投げ出す無責任さを責めるコメントの他、そもそもこうした時期に退職金引き下げを行った行政判断のミスを指摘する声もあります。

確かに行政側として少し考えれば予測できたにもかかわらず、中途半端な時期にしたのは知恵が足りない面があります。

しかし一方で、この「駆け込み退職」がここまで話題になる背景には、やはり国民感情として教師は「聖職者」であってほしいという視点があるからでありましょう。

数十万円得するために、学年途中で生徒達を投げ出した教員が「労働者」意識丸出しのことに対して、誰しもが何とも残念な気持ちが残ることでしょう。

早期退職した一人ひとりについては事情が様々でしょうから、一概に論じることはできませんが、今回の件は、今や「教師は労働者」であることが市民権を得ていることを象徴する事件だと言えます。

では、教師は果たして「労働者」なのでしょうか?その概念は当然なのでしょうか?

実は「教師は労働者」という概念は、日本では戦後に生まれました。

はっきりとそれを規定したのは「日教組」が昭和27年に制定し昭和36年に一部改正されて現在も破棄されていない「教師の倫理綱領」にあります。

10項目のうちの8つめに「教師は労働者である」と書かれており、コメントとして「新しい人類社会の実現は、労働者階級を中心とする勤労大衆の力によってのみ可能である」という文言も残っております。

この部分を起草したのは東大教育学部教授の宮原誠一氏と言われ、日教組草創期に大きな影響力を発揮すると共に、日教組のみならず、東大教育学部を総本山として全国の旧帝大教育学部、さらにそれを理論的支柱にして各地域の教員養成システムをつくった全国の教員養成大学等へも影響を残しました。

※例えば、宮城では旧帝大の東北大学教育学部があり、それを具体化する宮城教育大学があり、その派閥が中心になって今も地元教育界は動いています。

よって日教組だけではく、戦後すべての日本の教育界の源流にはっきりと「教師は労働者」という種が植えつけられたのです。

なぜかというと、実は戦後GHQの占領政策のなかで共産主義が入り込んでおり、教育界には旧ソビエト教育学が入り込んだとする説が有力です。

【参考】幸福実現News26 高崎経済大学教授八木秀次氏(第2次安倍内閣「教育再生実行会議」委員)「日本の教育に流れる『ソビエト教育学』の毒水」⇒http://urx.nu/3910

現在、大学では表向きは、こうした共産主義的教育観は無くなっていますが、思想的には今も脈々と浸食が進んでいることが、今回の事件でも露呈しました。

いじめ問題や体罰、学力低下問題など問題山積の教育を改革するためには、これら根っこの思想から改革が必要であり、大学の教員養成システム自体の改革が急務です。

やはり根本に「教師は聖職者」であるという教師としての誇りを持たせ、子供たちを正しく導く能力と人格を備えている教師だからこそ、一般公務員よりも高い給与が保障されるのであり、「教師は労働者」と自ら考える人に高い給与を支払う必要は全くありません。

それは教育サービスを受け取る子供・父母、国民の当然の感情ですし、生徒よりも数十万の現金を優先する人は本来「先生」呼ばれる資格がなかったというべきです。

「駆け込み退職」した多くの教員達は「自己都合退職」よりも、民間であれば「解雇」を宣告すべき人材だったと言えます。

教師としての正しい使命感、聖職者意識を持ち、だからこそ生徒のために自己変革を怠らず命がけで指導に当たれる教師こそ求められていますし、政治として新しい教員養成システムの構築を行うべきです。(文責・宮城4区支部長 村上 善昭)

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胎児は人か人未満か?訴訟社会アメリカで起きた論争

2013-01-29 19:31:00 | トランプ大統領・アメリカ

胎児は人か人未満か? 訴訟社会アメリカで起きた論争
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=5545

過去の医療過誤事件における裁判の判決について、事件が起こった地元「コロラド・インディペンデンス紙」の記者が改めて問いかけたところ、アメリカのネット上で注目されている。

2006年にアメリカのコロラド州で、肺塞栓症の女性が病院に運び込まれたが、心臓麻痺を起こして間もなく亡くなった。同時に彼女の胎内にいた妊娠7カ月の双子も助からなかった。
それに対して、女性の死は防ぎきれなかったことは仕方がないとしても、「胎児の命を救えなかったのは救命に当たった医師の怠慢ではなかったのか」と亡くなった女性の夫が病院を相手どって訴訟を起こした。
コロラド州の裁判所は「まだ生まれていない胎児は"人"と認められないので人権はない。よって医師の責任は問えない」との判決を下した。

その後の議論の経過が、宗教に無関心な日本では考えられないものなのである。実は、その女性が救急搬送されたのが、全米で非営利の医療施設を展開しているカトリック系の病院だったからだ。
夫側が「カトリックの教義では、胎児も人であると定めているはず」と反論し、地元のカトリック教会の司教たちまでが巻きこまれて、「係争中の案件について現時点では明言できないが、確かにカトリックでは、受胎の瞬間から死の瞬間まで、人としての尊厳が守られるべきだと説いている。遺族のために、病院側にカトリックの教えに忠実な対応を誓わせるよう約束する」と声明を出す騒動に発展した。
産児制限や人工中絶を防ぐために強く主張されている「胎児も人」の教義が、病院側にとっては裏目に出たということだろうか。

アメリカの裁判で「生命や人権の定義」に関して、宗教の教義や倫理観を基礎に置いて議論をしようとすることは、日本でも見習うべき面がある。しかし、伝統的なキリスト教は、人間の生命について霊的な視点や正しい知識が不足しているために、不毛な論争に陥ってしまうことも否定できない。

幸福の科学は、「人間存在の本質である魂は永遠不滅であり、何度も転生輪廻を繰り返して魂修行をしている。地上に生まれ変わって来るときは親となる人と約束をし、母親の胎内に誕生した肉体に、およそ妊娠9週目くらいに魂が宿る」という、生まれ変わりの真実を説いている。つまり、前述の事例の「妊娠7カ月」では、すでに胎児には魂が宿っていたことになる。

突然の母親の死によって、宿っていた新しい生命も生まれることができなかったことは悲劇であり残念なことであるが、本当に議論されなければならないのは、亡くなった胎児の「人権の有無」ではなく、亡くなった人たちの魂が再びチャンスを得て地上に生まれ変わってこられるよう天国に還るための「魂のケア」が、医療の現場にも必要だということだろう。(宮)

【関連記事】
2012年4月号記事 キリスト教に足りない霊的知識
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=3869

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ネアンデルタール人のクローン製造を米科学者が計画 その是非は?

2013-01-29 19:26:49 | トランプ大統領・アメリカ

ネアンデルタール人のクローン製造を米科学者が計画 その是非は?
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=5544

ネアンデルタールと現代人のハイブリッドをクローン技術で作るため、代理母を募集するという途方もない計画がハーバード大学で進められようとしている。ジョージ・チャーチ教授がドイツのシュピーゲル誌のインタビューで語り、各紙が報じている。

チャーチ教授の計画によると、まずネアンデルタール人の骨のサンプルから遺伝コードを分析して人工的にDNAを作り、ヒトの幹細胞に注入、この細胞をヒトの胚に入れ、代理母の子宮に着床させるというもの。

教授は、ネアンデルタール人は高い知性を持っており、「新ネアンデルタール人」創造は人類に大きな利益をもたらすだろうと語っている。確かに最近の研究では、ネアンデルタール人は、その原始的というイメージとは異なり、様々な道具を使いこなし、知性も感性も豊かであったということが判明している。ちなみに、ゲノム解析が進むことで、どうやら、現生人類(ホモ・サピエンス)と異種交配を行ってもいたこともわかり始めている。ネアンデルタール人は人類の直系の祖先ではないとされていたが、どうやらそうでもないようだ。

人間のクローンは各国で禁じられているが、ネアンデルタール人は現代のホモ・サピエンスではないのだから法の適用外であると教授は言っている。ただ、こういった理屈は、適用される法の規定が欠けているというだけの法の欠缺(けんけつ)と言えるかもしれない。

しかし、霊的な真実を言うと、問題の本質は、そのようなことではない。人間の知性や感性など個性を決めるものは遺伝子ではなく、肉体に宿る「魂」であるということだ。肉体という器をどれほど精巧に作っても、そこに宿る魂が知性や感性などを決めるのだ。また、通常の生殖過程を経ない場合、動物霊が宿る可能性もあるともいわれている。

この「実験」には、倫理性を問う疑問や批判もあがっているが、正しい霊的知識がなければ、問題の本質は見えてこないだろう。(純)

【関連記事】
2004年9月号記事 「移植」に代わる先端医療を追う
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=198

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