一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『敗戦後論』

2006-04-17 | 乱読日記

加藤典洋という名前は、最近の評論などで批評/批判の対象として名前がよく出てくるなという印象はあったものの、読んだ事はありませんでした。本書(批評)は掲載・出版当時かなり話題になったようです。

標題作の「敗戦後論」(初出『群像』95年1月号)、「戦後後論」(同96年8月号)、「語り口の問題」(『中央公論』97年2月号)の3つの評論が収録されています。単行本は97年8月に講談社から出版されました。  

 そういえば、かれこれ10年前はまだインターネットなどは普及し始め(なにしろ"Windows 95"ですから)たばかりで、文芸誌とか単行本などを買って読まないかぎりはなかなか目にする機会もありませんでした(そういう意味では最近の話題の広がり方のスピードは恐るべきものがありますね)。 
 私自身この当時まだ家にPCを持ってなかったし、会社のPCも3つ以上窓をあけたり、プリントしようとしたり、ちょっと大き目の画像を貼り付けようとすると途端にフリーズするような代物でした。
 なので、日頃文芸誌などと全く縁のない人間が当時知る由もなかったわけです。


昔話はさておき


「敗戦後論」では戦争責任や靖国問題などをめぐる論争などは敗戦時の「ねじれ」を隠蔽していることに原因がある、と指摘します。
筆者は「平和憲法」について

 もし、ここに与えられているものが、わたし達の価値観からして、否定されるべきもので、ただそれが勝者の強圧下に「押しつけられ」ているにすぎないなら(中略)わたし達は面従腹背の態度でいったんはこれを受け入れ、後に独立の後、これを廃棄して、アッカンベーすればよい。
 しかし、わたし達はこれを「押しつけられ」、その後、その価値観を否定できない、と自分で感じるようになった。わたし達は説得された。しかし説得されただけではなくて、いわばその説得される主体ごと変わってしまったのだ。
(中略)
 当然ながら、この二重になったわたし達の平和憲法をめぐる「ねじれ」は、これを白日のもとに曝す形で公共化し、ねじれているが、よいものだ、という形にしない限り、わたし達自身によって抑圧され、わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲していないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる。

そしてその結果が戦争による死者の弔い方、謝罪の仕方の「分裂」としてあらわれる。
護憲派がアジアの二千万人の死者、原爆などの戦災犠牲者という「無辜の市民」を弔い・また謝罪するときには侵略者である「汚れた」死者は無視される。その一方で、改憲派は自国の三百万人の死者を「英霊」という清い存在として扱う。そこにもこの戦争が道義的にも正義のない戦争だった、という視点はない。
つまり両方の立場とも、原点のねじれを隠蔽しているという共通の根っこがあり、それはいわば違う人格ではなく、ひとつの人格の分裂した現れになっている、と説きます。

そして、この分裂からの脱却、原点における「ねじれ」を認識するために、美濃部達吉と大岡昇平を例に引きます。

美濃部達吉は、新憲法案を審議する枢密院の委員会の席上で、これを審議する事自体に異議を唱え、新憲法に強烈な反対をした。美濃部は

① 憲法改正を定めた帝国憲法の第73条は、日本がポツダム宣言を受け入れた時点で無効である。
② 憲法改正案でその存在が不適当であるとして廃止をめざされている枢密院がその改正を審議するというのは不可解である。
③ 前文に「日本国民が制定する」旨明言されている改正案が、勅命により、政府の起草、議会の協賛、天皇の裁可で公布されるのは「虚偽の宣言である」

と主張し、委員会、本会議でただひとり反対し、その後修正案の審議以降はすべて欠席します。

これは「明治人美濃部の古さの現れ」、または「自由主義者の面目」と評価する声に対し、筆者は美濃部は敗戦と日本国憲法のねじれを直視したと評価します。

 いわゆる美濃部意見書の中で、彼は、憲法改正は独立後、国民の手で(たとえば国民投票などにより)なされるのが望ましいが、それまで仮の形でやっていくことが難しく、いま憲法を改正しなければならないとしたら、それは、この降伏の現状を基礎に、たとえばつぎのようなものに”修正”されなくてはならないだろうと数か条の例をあげている。
 そこにあげられる改正憲法の第1条とはこのようなものである。

第一条 日本国憲法ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之ヲ統治ス

  (中略)
 戦争に負けるということは、いわば自分にとっての「善」の所与が奪われるということ、どのような願いもほんとうの形では果たされず、ねじれた形でしか世界が自分にやってこないということだが、その自覚がつまりは美濃部の出発点となっているのである。
 美濃部は、少なくともここでは、国の基礎である憲法を欺瞞の具にだけはしてはならないという立場に立っている。その意味は、不如意があれば不如意が、ねじれがあればねじれがそのまま映る歪みのない鏡で、憲法はあらねばならない、ということである。


また、筆者は大岡昇平に、戦争を経た「よごれ」「ねじれ」を自覚した存在として注目し、大岡の以下の文章を引用します。

・・・戦争の悲惨は人間が不自然に死なねばならぬという一事に尽き、その死に方は問題ではない。
 しかもその人間は多く戦時或いは国家が戦争準備中、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しく言えば、すべて身から出た錆なのである。
 広島市民とても私と同じ身から出た錆でもって死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。(『俘虜記』)


 日本国は再び独立し、勝手な時に日の丸を出せることになったが、僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土にあるかぎり、絶対に日の丸をあげない、ということである。
 捕虜になってしまったくらいで弱い兵隊だったが、これでもこの旗の下で、戦った人間である。われわれを負かした兵隊が、そこらにちらちらしている間は、日の丸は上げない。これが元兵隊の心意気というものである。(「白地に赤く」1957年)

 捕虜収容所では国旗をつくるのは禁ぜられていた。帰還の日が来て、船へ乗るためにタクロバンの沖に筏でひかれて行ったら、われわれが乗るのは復員船になり下がった「信濃丸」で、船尾に日の丸が下がっていた。
 海風でよこれたしょぼい日の丸だった。
 私が愛する日の丸は、こういうよごれた日の丸で、「建国記念日復活促進国民大会」なんかでふり回されるおもちゃの日の丸なんか、クソ食らえなのだ。(同上)

しかし、筆者は大岡は(川上肇らのように)自らを清廉なものとしてその「汚れ」を断罪するのとは異なると考えます。

大岡は『レイテ戦記』で神風特攻に触れ、こう書いている。

(勝利が考えられない状況で面子の意識に動かされ、若者に無益な死を強いたところに神風特攻のもっとも醜悪な部分がある、という指摘に続け--引用者)しかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリピンで400以上、沖縄1,900以上の中で、命中フィリピンで111、沖縄で133、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。
 想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意思が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。

この文章の書き手は「あの荒廃」の中になおこれだけの「強い意思」がありえたという。それはわれわれの「誇りだ」、と。ここにいう「誇り」の用法は、戦前の大日本帝国の「誇り」の用法とは異なっている。それは一回使われている。汚れている。しかしこれは、これこそが、「誇り」の正しい用法ではないだろうか。(中略)生きるという経験がいわば360度の広がりでわたし達に試練を与えるものである以上、わたし達は、こういう概念、正義、法、誇り、といったものについて、いわば一度使用された感覚、「よごれ」「しょぼくれた日の丸」を手にしている必要があるのである。

そして筆者は、戦後の「分裂」を克服するためには

日本の三百万の死者を悼むことを先において、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か

と問いかけます。


というのが「敗戦後論」のあらましです。

引用が異常に多くなったのは、私の言葉だけでは上手くまとめられなかったためが大きいのですが、この文章に対して「いま、自国の死者を先に弔う、という主張をすることの意味」という文脈での議論がなされ、筆者は戦前と戦後の「つながり」を論じたはずが戦後という「切断」の構造でとらえられたのはなぜか、と問いかけそれが「戦後後論」につながっていきます。

なので、できるだけ「かいつままない」ようにしたつもりです。
また、美濃部達吉や大岡昇平については、ぜひそのまま引用しないと迫力が伝わってこないと思ったので。

だいぶ長くなったので、今日はここまでにします。

「戦後後論」については、またあとで触れるかもしれませんが、私の要領を得ないまとめよりはお読みいただくのが一番かと思います。


(つづきはこちら

 







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買い手を選ぶ野菜

2006-04-16 | ネタ






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「なめ猫ぬりえ」

2006-04-16 | ネタ
息抜きネタのご紹介です。


頭が疲れているときや、ちょっと煮詰まったときなどに見るのが、中古マンガ販売の「まんだらけ」(上場企業してます^^ マザーズ:2652)のサイトにある岩井の本というコラム(岩井さんは今は札幌店の店長さんらしい)です。

商売柄、今昔のマンガをネタに、飄々と、かつ鋭くつっこんでくれます。
昔真剣に読んでいたマンガも今見ると確かにこうだよなぁと大笑いしてみたり、僕の知らない唖然とするような作品を紹介してくれたりします。
最近の作品への切りかたも見事で、しかもなかなか文才のある人なので、どの記事も楽しめます。


最近ウケたのが「なめ猫ぬりえ」



特に80年頃の「なめ猫ブーム」をご存知の方は涙なしには笑えないと思います。
表紙だけでなく、ぬり絵本体も笑えますし、何しろ解説が秀逸です。

職場で見て大笑いしてしまうと間違いなくヘンな人扱いされますから気をつけてくださいねw
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『模倣犯』

2006-04-15 | 乱読日記
宮部みゆきの『模倣犯』を読みました。


実は宮部みゆきを読むのは『火車』以来なのですが、嫌いというよりは『火車』を読んで、これははまりそうだ、という予感と作者の多作ぶりに危険を感じて今まで敬遠してきた、というのが正直なところです。

今回は単行本のときの評判を思い出したことと、店頭で見て表紙画が藤田新策さん(スティーブン・キングやディーン・クーンツなどの表紙で有名)だったことなどからので久しぶりに解禁しました。

読んでみて、期待にたがわずの傑作といっていいと思います。
トリックよりはストーリーで読ませる小説ですね。
文庫本で5冊一気に読んでしまいました。

ネタバレになると申し訳ないですから、内容についてはふれません(となると書くことがなくなってしまうのですがw)
それから、文庫本の裏表紙のあらすじも先に読まないほうがいいですよ。

人物造形がしっかりしているという以上に個々の登場人物の背景に深く入り込んでそれぞれの物語が交錯していくあたり、『バガボンド』に似ていますね。この小説も元は週間ポストの連載ということで、書き下ろしよりも横道にそれたりしがちな分、幅の広がりが出るのかもしれません。

続いて他の作品も・・・と思いかけたのですが、買って読まずに積んである本を目の前にして、ちょっと自制心が働いてます。
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謝礼は確かめてから渡しましょう

2006-04-14 | ネタ

「謝礼」渡したのに卒業できず 埼玉医大に返還請求
(2006年 4月11日 (火) 19:11 朝日新聞)

 卒業が決まった謝礼の現金を受け取りながら、のちに除籍処分にしたとして、埼玉医科大学(埼玉県毛呂山町)の元医学部生の男性(44)の母親(75)が11日、同大学の丸木清浩理事長ら3人を相手に、謝礼金計450万円の返還と慰謝料800万円を求める訴訟をさいたま地裁川越支部に起こした。男性が退学処分の無効を求めて起こした訴訟は、05年に最高裁で敗訴が確定した。
  訴状などによると、男性は85年に同大学に入学。93年に最終学年の6学年に進級後も留年を繰り返した。当時の学則で専門課程の在籍上限年数を過ぎた96年夏の追試にも合格せず、自主退学扱いとなった。同年12月に退学を知った母親が、未納だった学費計約2360万円を全額納めたと抗議したところ、翌97年2月に処分がいったん撤回された。
 同月末、教授らから「卒業でよかったね」などと声を掛けられた母親は、男性の卒業が決まったと思い込み、理事長と教授ら3人に「卒業を認めてくれたことへの謝礼」などとして現金100万~200万円を渡した。
 しかし3月、大学側から「卒業は翌年に延ばし、形だけの復学試験を受けてほしい」と言われ、男性は99年まで試験を受けたが合格せず、04年になって、97年当時に除籍処分になっていたことを知ったという。

一旦自主退学にしたのに学費(2300万もするんですか?何年分でしょう?)をもらったら処分を撤回するという大学側も大学側ですが、まあ、そっちの訴訟は決着がついてしまったわけで、そうなると謝礼を返還しろ、というのはそもそも難しそうですね(カネを渡すから退学処分を撤回してくれ、というようなワイロならともかく。)

今回の訴訟は、謝礼を受け取った事実が判決で公になることを避けるために被告が和解に応じてくる、と読んだのでしょうか。退学処分の訴訟といい、捨て身というかやけっぱち気味の訴訟ですね。
47thさんにTBいただいた日本人の法的リテラシーや法曹人口の増加の影響についての議論とはあまりに次元の違う情けない話ではあります。


それにしても、訴訟以前に、卒業できたかどうかを自分で学生課とかに確認もしないで最後に試験を受けた99年から04年までこの男性は何をやってたんでしょうね。
考えようによってはこういう人が医者にならなくてよかったのでしょう。


万が一医者になったら、こんなことをしでかすのではないでしょうか。

患者体内にiPod置き忘れ 滋賀・びわこ医大病院
(このリンクがしたかっただけのエントリですみません)

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新たな偽装問題勃発か?

2006-04-13 | ネタ

以前に小ネタ系エントリで書いた関係で目に留まった記事です。

セオリー、米高級ジーンズを販売・直営店も展開
(2006年4月12日 22:38 Nikkei Net)

婦人衣料「セオリー」を展開するリンク・セオリー・ホールディングスは11日、米高級ジーンズの「セブン・フォー・オール・マンカインド」の日本における独占販売権を取得したと発表した。百貨店・専門店に卸売りするほか、同ブランドの直営店を展開する。「セオリー」の店舗でもセブンの商品を販売し、手薄だったカジュアル分野を強化する。

このジーンズ、ウエストサイズの表記が実寸より小さいらしいです(こちらの記事参照)


ちなみにこんな感じのジーンズだそうです
(このモデルさんだったら何だってかっこよく見えると思いますが)


これで日本の女性にもウエストが細くなる方が続出するわけですね^^

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京極堂と法科大学院

2006-04-12 | 乱読日記

京極夏彦の『姑獲鳥(うぶめ)の夏』を読みました。

今までは伝奇物と決め付けて「読まず嫌い」でいたのですが、モチーフとしては伝説・怪奇談・妖術・呪術とか民俗伝承などが豊富に使われているものの、それらを妄信もせず、また合理主義で一刀両断にもしない作者独自の視点をからめ、見事なストーリーにしています。

文庫本で621ページというものすごい厚さ(文庫本がアメリカのステーキのようなプロポーション)ですが、中盤以降はスピード感も出て一気に読めます。

象徴的なのが実質的な主人公である「京極堂」の以下のセリフ

「地域の民俗社会にはルールがある。呪いが成立するにも法則というものがある。無意味な誹謗中傷では成立しません。民俗社会では呪う方と呪われる方に、暗黙のうちに一種の契約が交わされている。呪術はその契約の上に成り立っているコミュニケーションの手段です。しかし現代社会では、その契約の約款が失われてしまった。更に共同体の内部では、呪いに対する救済措置もきちんと用意されている。努力した結果の成功も憑物の所為にされる代わりに、自分の失敗で破産しても座敷童子の所為にできる。都市にそんな救済措置はありません。あるのは自由・平等・民主主義の仮面を被った陰湿な差別主義だけです。現代の都市に持ち込まれた呪いは、単に悪口雑言罵詈讒謗、誹謗中傷の類と何ら変わらぬ機能しか持たないのです。」

なかなか考えさせられるものがあります。

この作品は昭和20年代後半を舞台にしているのですが、都市化・近代化とコミュニティと紛争解決のメカニズムの変化という視点からも面白い指摘だと思います。


どこかで似たような文章が、と思い出したのが内田貴東京大学法学部教授の東京大学出版会誌「UP」でのエッセイ「法科大学院は何をもたらすのか または 法知識の分布モデルについて」
これは司法制度改革についての文章なのですが、現在から将来に向けての紛争解決のルールとメカニズムがどう変わっていくであろうか、という上の文章と似た切り口です。
(以下抜粋)

つまり,事前規制から事後監視・救済型社会への転換のためには,司法サービスをサポートするための十分な数の法曹が必要とされる,というわけである.ここにひとつの重大な政治的選択がある.国家の事前規制によって権利の侵害を防止するのではなく,事後の司法的救済によって権利侵害に対する保護を与える社会というイメージは,アメリカ型の社会をモデルとしたひとつの社会像であるが,それだけが唯一の可能な未来というわけではない.昨今,建築基準法違反事件を契機に,規制緩和の「影」の部分が語られているが,小泉構造改革を支持した日本の国民は,本当に,事後救済型の社会を選択したのだろうか.

アメリカには,約100万人の法律家がいる.このように法律専門家の数は多いが,他方で,法律専門家ではない人々には法知識はまったく分布していない.つまり,アメリカの法律家は,日本でいえば医者と同じで,法知識(医学知識)を独占しており,素人とプロの間の壁がはっきりしている.これを法知識の集中型モデルと呼ぼう.他方で,これまでの日本社会には,法知識が拡散して存在し,法曹ではない「法律家」が多数存在していた.これを法知識の拡散型モデルと呼ぶことにする.

もし日本が,司法制度改革がめざしたとおり,アメリカ的な法知識集中型社会に向かうとすれば,紛争の発生を未然に防ぐための事前規制の質は低下し,また法知識の欠如は社会の紛争解決能力を低下させ,紛争解決をもっぱら司法的手続に頼るようになるだろう.まさに事後救済型社会の到来である.しかし,紛争解決に要するリーガル・コストが極めて高いアメリカでは,必ずしも大多数の人々がそれを是としているわけではない.日本の将来についてブループリントを描く際には,もう少しあるべき社会像の多様性を考慮に入れてもよいように思う.

私自身は、いわゆる昔の日本流の紛争解決を全面的によし、とするものではないのですが、司法の近代化、法曹の充実といっても法律やルールは結局は人が作り人が運用するわけで、そこの部分を一般の社会から極端に外部化・専門化して隔絶しまうのは問題があると思います。

そこがノーチェックになるとすれば、法律の運用はそれこそ「共同体の合意したルール」を無視した「秘儀」になってしまいます。そうなったら「民俗社会における呪術」よりもはるかに不合理で有効に機能しないものになりかねません。


法曹の人数を増やす事で逆にアメリカのような訴訟社会になってしまい、司法サービスの充実の最終目的である紛争の予防と円滑な解決に結びつくのか、という指摘は色々な人によってなされています。
日本の司法制度改革もアメリカを意識した部分は大きいのでしょうが、「事後監視・救済型」になるといってもアメリカのようにたまに突拍子もない法律ができて、それをTrial and Errorのメカニズムの中で是正していくには、それを可能とするには同時に政治的・社会的土壌(アメリカが特殊?)が必要なように思います。

なので、日本だと(日本じゃなくても)もう少し振れ幅の少ない方式がいいのではないか、と思うのですが、一方、制度設計を考えるときに紋切り型な「自由・平等・民主主義」を適用(これは極端な「自己責任論」とか「市場原理主義」につながったりしますね)するだけでなく、上に出てきたような「地域の民俗社会のルール」(互酬性とか応報とか「村八分」でも火事と葬式の「二分」は付き合いを断ち切らない救済のしくみとか)というような昔から日本にある「ユルい」観点(過剰に様式化された「日本的伝統」でないやつです)を入れるのも大事なんじゃないかとふと考えました。






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お詫びにこられても・・・

2006-04-11 | 余計なひとこと

ウィニー:マンション見学8千人の情報流出 一部に年収も
(2006年4月11日 3時00分 毎日新聞)

 新築マンションを見学した人など約8100人分もの個人情報が、ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」を介してネット上に流出したことが10日、分かった。このうち約1000人分の情報には年収も記載されていた。総合商社「ニチメン(現双日)」と不動産大手「三菱地所」などが、千葉県内や東京都内で手がけたマンションの宣伝業務を担当した広告代理会社の関係者が収集、流出させたとみられる。

 広告代理会社は「アイ・アンド・キュー アドバタイジング」(藤井一彦社長、本社・名古屋市中区)。流出したのは、03年9月に同社を退職した元社員が集めたとみられる文書で、保存しているパソコンが暴露ウイルスに感染したらしい。

 アイ社によると、元社員が退職した後、別の社員に会社貸与のパソコンを引き継いだ。その社員がパソコンにウィニーを入れ、、流出データも存在していたという。同社は「流出したのは、うちの文書に間違いない。役員で手分けしてすぐにクライアントにおわびに行く」と話している。


昨今情報漏洩してしまった場合の危機管理対応が云々される中での上のようなコメントを出せる会社というのは実は結構懐が深いのかもしれません。

単に「まずはクライアントに頭を下げる(頭を下げればどうにかなる?)」というのが条件反射的に染み付いてしまっただけかもしれませんが・・・

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地獄の選択

2006-04-11 | ネタ

先週起こった突発事件への対応での会議。方向性は先週末にほぼ見えていたので焼肉を食べに行けたのですが、内容的には「A案B案どちらが被害が少ないか」というような厳しい選択です。

まあ、事ここに到ってはどうしようもないので粛々と意思決定するしかないのですが、そういえばblogで「進むも地獄戻るも地獄」などと書いてたな、などと考えていて、以下のような小話を思い出しました。

 地獄に落ちた男が閻魔大王の前に引き立てられてきた。
 閻魔大王曰く「お前は大悪人ではないので、自分でどこの地獄に行くのか選ばせてやろう」  
 そこで男は鬼に連れられていろいろな地獄を見て回ることになった。
 針山地獄や血の池地獄など、おどろおどろしい地獄を見て回る中で「ウンコ地獄」というのがあった。
 見ると囚人たちがウンコの池に落とされていて確かに汚いし臭いが、どことなくのんびりしている。
 他の地獄に比べたらはるかにましのようだ。
 男がここにします、と言いかけた瞬間、ウンコ地獄の番をしていた鬼が叫んだ。
 「休憩は終わりだ。さっさと潜れ!」

まあ、仕方ないので潜りましょう、という結論で会議終了。 

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「世界」の定義の仕方について

2006-04-10 | あきなひ

『ウェブ進化論』についてはいろいろなblogで取り上げられていますが、特にR30さんの整理が印象的でした(当然門外漢の私がたまたまたどり着いたサイトの中では、という限定つきです。)
リンク先は3/30のちょいと「熱め」な記事ですが、その前の書評その1その2ではもうちょっと冷静に、特にその2ではリアルのビジネスとの関係についても触れられています。
で、その「熱め」な記事から

既存メディアの人間が「大事なのは民主主義」とか「言論の自由を守れ」とか「ポピュリズムどーたら」とか議論している間に、Googleの中のエンジニアたちは黙々とコードを書き、スパムサイトの検閲を進め、メディア産業をブルドーザーで押し潰し、地ならしして新しい建物をガッツンガッツン建てていってしまうのである。Googleに地ならしされたくなければ、叫ぶより前に自分の考えを表したコードを書く(=ビジネスモデルを作る)しかない。コードが書けないなら、Googleの目の届かないところに逃げるしかない。
たとえGoogleが神だからといって、その神が企業であり、米国に実在する存在である以上、資本主義の原理から自由なわけがないというのは当たり前だ。そして、我々も同様に資本主義の中に生きている。であれば、Googleの長いしっぽの端っこを自分のビジネスのバリューチェーンに入れて商売するもよし、Googleとまったく違う価値観でネット上に新興宗教のようなサイトを作って客を集め、お金を回すもよし。好きに商売して生きていけば良い。

ただし、Googleがこれまで一言も「言論の自由が大事」とか「ポピュリズムがどーたら」とかの高尚な説を自ら考えてのたまったことがない、無言のブルドーザー集団だということだけは覚えておくべきだ。神かどうかよりも、そちらのほうがずっと大切な事実(FACTA)である。

平たく言えば、

 グーグルでは自らの検索システムの完成度を高めるべく優秀なエンジニアが日夜働いていて、その働きの中にはグーグルの検索システムを悪用する検索スパムなどを排除する(例:サイバーエージェント社のサイトが検索スパムとしてグーグルから検索不能にされた)ことも含まれている。
 これが進むとネットで見える範囲をグーグルが規定することになり、検索エンジンを使って集客しようというビジネスモデルはグーグルのプラットフォームの上でしか成り立たなくなってしまう。
 周囲の人間が世界の範囲を定めるという意味で「グーグル神」などと揶揄しようが「ウェブ上の民主主義」を云々しようが、インターネットの情報はグーグルのプラットフォームで日々再構成されつつあることを認識する事が大事なんじゃないか。

という事なんだと思います。

グーグルが中国において政府の検閲を容認したことについても議論がされていますが、これは「ネットの世界をすべて検索エンジンで認識しよう」というグーグルと「認識させたいものを選別する」という中国政府は、実は最初から「認識できる範囲が世界だ」という価値観を共有してたということなんだと思います。


昨日いただいたKobantoさん『ウェブ進化論』関係のエントリについてのコメントと、taghitさんの中国のネット関係の小ネタについてのコメントを拝見して、そんな事を考えました。



PS
bunさんが最近はじめられた「1990年以降の日本の経済政策において新古典派経済学が果した役割について」というシリーズがあります。
上の考えを敷衍すると、「完全競争下における市場メカニズム」に代表される新古典派(シカゴ学派)の理論においても、(グーグル的な)「現実の経済現象を合理的に説明できる枠組み」と(中国政府的な)「世の中を認識するにあらまほしき枠組み」が握手をして、その結果「あるべき論からの政策決定」という奇妙な構図が生まれたのではないか、というような分析も出来るかな、などと漠然と考えたりしています。
しかし如何せん知識不足でありますので、そちらへの乱入はもうちょっと勉強してからにします。

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「魂売ります」

2006-04-09 | 余計なひとこと

「私の魂売ります」=ネット競売に出品―中国
(2006年 4月 6日 (木) 01:50 時事通信)

【上海5日】中国でこのほど、ネットオークションに「自分の魂」を出品する男性が現れ、主催者が慌てて削除する騒ぎがあった。

出品したのは24歳の男性で、中国のネットオークション大手、淘宝網のホームページに先週、最低価格10元(約150円)で「魂」が登場した。中国のメディアがこれを取り上げて話題になったが、主催者は「魂を売るのは不適切」と判断し、削除した。

削除されるまでに58件の入札があり、価格は681元(約9900円)まで上昇していた。この男性は、「思いつきで出品しただけ」と話している。

主催者は「魂を管理できるのは神だけだと考えているので、削除した」と説明。魂は見ることも触ることもできず、売るものではない」と語った。〔AFP=時事〕

魂を救うのでなく「管理する」神様って、どこの神様なんだろう、という疑問はさておき、コメントに一ひねりほしかったですね。

「決済、特に受け渡しにおいてトラブルが発生する可能性が高い」と極めて事務的に片付けるとか
「入札者の9割が外国人であり、国家安全保障上看過できない」
「オークションに出品した時点で、出品者は金銭欲に魂を売り渡しており、そのような抜け殻の魂は既に出品する価値がないと判断した」

文句を言っている割には今ひとつの出来ですね・・・w
今日はとっとと寝ることにします。

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最後は焼肉

2006-04-08 | 飲んだり食べたり
昨日4連投の最後を締めたのが焼肉。正泰苑(芝大門店)に行きました。
銀座店には以前行ったことがあるのですが、価格的にはこちらのほうがお得。
本店は町屋なので、そこはもっと安いのかな?


だいたい夜が埋っているときに限って突発事件が起きたりするもので、最後までバタバタ。店に駆け込む直前の打合せでようやく方向性が見えた(といっても、血の池地獄と油地獄のどっちを選ぶか、というような楽しくない選択だったのですがw)のをいいことに今週の事は忘れて大盛り上がりしてしまいました。
(当然写真などは撮るヒマなしw)

セットした奴の話だと、ここは最初は肉の卸問屋の社長に連れてきてもらったとのこと。なら味だけでなく安全も保障つきだろうと、危険部位のことなど気にせずに、レバ刺、塩ハラミ、ロースタレ(生でも食べられる!)、コテコテホルモン(そういえば来週人間ドックだったことを思い出させるくらいの脂w)、テグタン(むちゃくちゃ辛い)など沢山いただきました。

ところで、その肉問屋さん。本社ビルの竣工パーティーの時には、1階に冷蔵車を横付けにしてビルの屋上で大焼肉パーティーだったそうです。
参加したかった・・・

このお店は人気店なので、かなり前でないと予約は難しいとか。
それでも行く価値ありだと思います。


ということで、今日は昼過ぎまで寝てました。
久しぶりに靴磨いたり包丁砥いだリと、地味な事でもして1日のんびりと気分転換しようと思います。

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JP Morgan Chased?

2006-04-07 | よしなしごと

 高校野球でも準々決勝と準決勝の間に1日休みを入れて投手に連投をさせないようにしているというのに、私は火曜日から会食の4連投です。
 昨日書いたように2試合目は延長戦にもつれこむ熱戦だったため試合後はへろへろ状態でしたが、3試合目は球数を意識しながらの投球を心がけたので、比較的元気に帰宅できました。

その3試合目は転職者の送別会。
行った先で功を焦って危ないことに手を染めたり、過去の悪行のスケープゴートとしてはめられたりしないようにね、という話も出たのですが、 それに関連した話がこれ、

一部業務の6か月間停止、JPモルガン信託銀行に命令
(2006年 4月 5日 (水) 21:16 読売新聞)  

 金融庁は5日、米大手金融グループのJPモルガン信託銀行に対し、不動産証券化業務で法令違反があったとして、不動産関連の新規業務を今月13日から6か月間停止する命令を出した。
 また、同信託銀行とJPモルガン・チェース銀行東京支店に対して、グループ運営体制の見直しなどを求める業務改善命令を出した。

 金融庁によると、JPモルガン信託銀行には不動産を審査する部署がなく、2003年から昨年まで、不動産所有者の言い値で証券化商品を作り、実際の価値より高い値段で機関投資家に販売していた。中には建築基準法に違反しているなど、証券化に適さない100件程度の物件も含まれていた。

新聞記事だとこれだけで、業務停止6ヶ月というのだから内部管理が相当いい加減だったのかなと思う程度なのですが、金融庁のHPで JPモルガン信託銀行株式会社に対する行政処分についてを見ると

Ⅰ.命令の内容
 銀行法第26条第1項及び金融機関の信託業務の兼営等に関する法律第8条の2、並びに、金融機関等による顧客等の本人確認等及び預金口座等の不正な利用の防止に関する法律(以下、「本人確認法」という。)第9条の規定に基づく命令(以下略)

ここで「本人確認法」が出てくることを頭の隅においてください。ちなみにこれはマネーロンダリングを防止するために預金や投資を受けいれるときには実質的な投資主体を確認しなさいよ、という法律です。

Ⅱ.処分の理由
 当庁の今般の立入検査(平成17年9月22日通知)及びその後の報告徴求により、当行の法令等遵守(コンプライアンス)及び経営管理(ガバナンス)態勢などに以下の重大な問題が認められたこと。
  特に、当行の資産流動化関連部門の営業、受託審査、受託後の運営・管理等については、取組方針の抜本的な見直し・改善、及び、態勢(人的構成と体制の構築を含む。)の構築・整備に専念させる必要性が確認されたこと。

1.法令違反等
(1)不動産を原資産(信託財産)とする流動化・証券化案件の不動産管理処分信託業務において、当行は引受けを行おうとする不動産の受託審査・査定等を行わずして(人的構成や体制を整備せずして)、その結果生じる対象物件の瑕疵やリスクを信託受益者等に転嫁して、受託による収益を収受する営業を推進している。
  当庁の今般の立入検査等により、当行が受託した信託財産(不動産)の状況や組成内容を検証した結果、適法状態への是正が困難な違法建築、収益還元法等を利用した物件評価の嵩上げ、流動化や開発等に不適の不動産や種地を使った金融取引、信託を導管体に物件を短期売買する租税回避などが多数確認され、現物不動産の実際の価値とは乖離した信託元本又は信託受益権価額、当該受益権の他者への譲渡の承諾、並びに、利益相反の営業が認められている。
 当行は、信託業務を兼営する銀行として、信用を失墜させることのないリスク管理及び内部管理態勢を整備しなければならないにもかかわらず、これを行わずに基本的な注意義務が履行できない態勢及び業務運営上の重大な問題が認められるとともに、不動産管理処分信託契約の受託者責任は免れず、信託法第20条及び信託業法第28条第2項(いわゆる善管注意義務)に違反していること。

(2)また、不動産の流動化・証券化案件の信託受託に伴う口座開設に関して、当行には適正な内部管理態勢や事務手順が整備されていないことから、本人確認法に規定する本人確認義務(第3条第1項及び第2項)違反、及び、本人確認記録の作成義務(第4条第1項)違反等が多数認められていること。

(3)加えて、上記(1)の営業推進により不動産管理処分信託の受託が急増する中で、これを適正に処理する事務管理及び内部管理態勢が整備されず、当庁への信託事務事故等の届出を行わずに、銀行法第53条及び金融機関の信託業務の兼営等に関する法律施行規則第12条の2(改正後は第31条第4項)に規定する届出義務に違反する事例が認められること。
(下線は筆者、以下略)

金融庁のリリースを読むと、要するに

素性を明かせない顧客から委託を受け、信託受益権を信託受託者として実勢とかけ離れた価格で売買したり、本来信託を受託できないような二束三文の物件も信託に入れて取引し、利益や損失の付け替えによる租税回避行為やマネーロンダリングに手を貸したんじゃないか(おまけに手間賃としてかなり無理なフィーの取り方をしてるし)

ということですよねぇ。

 察するに、 海外のプライベートバンクの顧客(○○国の大金持ちやら王族やら)のお忍びの投資とか、法人の損失先送りスキームとか節税スキームとかを不動産信託を通じてやっていたのではないでしょうか。
 だとすると、このあと国税とか金融庁の追加処分とかもあるのではないかと思います(ヤバイ筋とかが絡んでいるともっと大事になるでしょう)
 新聞が各誌ともさらっと書いているのは、「続報を待て」というようなサインが金融庁から出てたりするのでしょうか。
 6ヶ月間の新規営業停止というのも、免許取り消しを念頭に置いての、既存の受託物件を整理する猶予期間という見方もできます。

それとも単なる勘ぐりすぎというやつでしょうか?

個人的にはしばらく成り行きに注目です。

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法制度のtrial snd eror(へろへろ暫定版)

2006-04-06 | 法律・裁判・弁護士
昨日の朝のNHKBS世界のニュースでのアメリカの先住民族に認められたカジノの話。
これらのカジノは特別法で州法の適用除外が認められるため、カジノの営業ができるらしいですが、そこの女性従業員がセクハラや雇用差別を訴えようとしたところ、州裁判所の管轄外だとカジノ側から争われているとのことです。(ちょいと調べた範囲ではネットにはありませんでした)

じゃあ一体普段の警察活動とかどうしてるんだろう、という疑問なのですが、TVではカジノ側の弁護士曰く、州法の管轄外であり、自治のルールに従った裁きを受けるべきだ(それってなんなんだろう?)というようなことを言っています。

そうすると、いきなり連邦裁判所に訴えるのか、とか、その場合準拠する法律は何なのかとか、素人には不思議いっぱいです。

でも、簡単に州法への準拠や州の裁判管轄を認めてしまうと、そのほかのこと(税法とか客からの取り立てとか)にも影響が出るので、軽々には認められないというカジノの弁護士の立場も理解できます。

そうなると自分の雇用契約の準拠法や裁判管轄を確認するのも労働者の自己責任、というわけですね。
ただ長期的には、たとえば観光客の損害保険なども実は米国諸州の法律が適用にならないとするとそこでの事故は「旅行対象地でない」とかで適用にならなかったり(約款未確認)して、結局司法管轄問題はカジノの集客にマイナスになるということで現実的な解決がなされたりするのでしょうか。


一昨日のエントリを引用いただいた47thさんの「フィードバックとトライ・アンド・エラー」
を拝見しながら、日本的には政府提出法案だと法案提出前に関係官庁への照会をして重箱の隅までつつくので、こういうことが起きたりすると「そんなことも考えずに特別法なんか作るなんておかしいんじゃないか」ということになるわけですが、こういうのが平気で起きるのはいかにもアメリカ流だなぁと思った次第です。

昨晩飲みすぎてヘロヘロの状態でのエントリなのですが、忘れてしまう前にメモ代わりということでご容赦ください。
機会があれば後日補足しますので今日はこの辺で。
コメント (3)
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「言葉を抑圧するチカラ」からの解放

2006-04-05 | よしなしごと

タイトル的には互い違いにになっていてすみません・・・

亜門氏“革命的”女性器テーマ朗読劇
(2006年 4月 3日 (月) 06:13 スポーツニッポン)

演出家の宮本亜門氏(48)が、女性器をテーマにした朗読劇「V.M.(ヴァギナ・モノローグス)」(6月27日~7月2日、東京・青山スパイラルホール)を手がけることになった。(中略)

 女性劇作家イヴ・エンスラー氏の著書が原作。200人以上の女性へのインタビューを元に、性器について17のエピソードが描かれている。

  その内容は「自分のヴァギナを鏡で見るセラピーに参加した女性」の話や「呼び方」「匂(にお)い」など、赤裸々なもの。舞台では、3人の出演者が読み分け、劇中にはさまざまな「官能の声」が登場する場面も。

  奇抜で斬新な内容だが、すでに欧米、アジア、アフリカ、南米など60カ国以上で上演されており、メリル・ストリープやジェーン・フォンダらが出演者に名を連ねている。今回の上演は、女性の生き方を描く舞台を企画する「ホリプロ ウーマンズ・ビュー・シリーズ」(00年スタート)の新作プロジェクト。亜門氏は「台本を読んで、一目ぼれした。女性が女性を語ったさまざまな作品の中で、もっとも直接的で、ある意味で人の人生を変えるほど革命的な作品」と力を込める。

『ダ・ヴィンチ・コード』で、原始宗教での生の象徴であった女性がキリスト教下で抑圧されるようになった、という話や、その中でも、教会建築の装飾などで密かに女性を象徴するシンボルが取り入れられている、という話を読んだ後だったので、今までタブーとか不浄として抑圧されていたものを正面から取り上げようという運動は(「過剰なフェミニズム」という抵抗感なく)わかる感じもします。

なかなか男が観に行きにくそうな劇ですが、ちょいと興味あります。


あと、余談ですが、宮本亜門は沖縄に住んでいた(今も?)と思うのですが、沖縄だと日本における女性器の(呼び名の)タブーから自由になりやすいのかもしれません。

というのは、沖縄では女性器の呼び名が本土と異なっていて(それだけなら他の方言もあるでしょうが)、しかも本土の共通語の呼び名がほとんど通じないそうです(これはあまりないと思います)。

那覇市の郊外には、水鳥の生息地として国際的に重要な湿地を保護するラムサール条約に指定された漫湖(検索エンジンで妙なひっかかりかたをしたくないので振り仮名省略)という湿地帯があります(「漫湖 水鳥・湿地センター」のHPはこちら
知り合いの沖縄出身者のそのまた友人は、東京に出てきてひょんなことから高校の校歌を歌わされることになり、校歌の中の「漫湖のほとり」とかのフレーズが大受けしたのだけど、説明されるまで意味がぜんぜんわからなかったとか。

考えてみると、男性器には子供にも通じる通称があるわけで、女性器だけが呼ぶこと自体タブー視されているというのは、確かに妙な話かもしれませんね。

コメント (2)
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