馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【伊予国遠征2】河後森城1、永昌寺~古城

2021-06-25 22:59:23 | 伊予国の史跡

河後森城、「かごもり」と読む。

伊予と土佐の国境にある。だから、高知県からJR予土線でのアクセスもあり、です。

中世の巨大山城で愛媛県最大級と言われてる。

最大、じゃなくて最大級…

最初の城主は渡辺氏で鎌倉時代に入城したとされる。

国境のため土佐一条氏と長宗我部氏の戦闘の舞台となり、長宗我部氏が支配下となるが、秀吉の四国平定後は、小早川氏→戸田氏→藤堂氏→冨田氏と城主が変遷。

江戸時代は、伊達藩の領地となり付家老の桑折氏の居城となりました。

伊達家にとって国境の河後森城は要衝だったことがわかりますね。

なお、藤堂氏時代に天守が板島城(宇和島城)の月見櫓として移された、という説があります。


f:id:umahide:20210611151641j:image

松丸駅からパンフの徒歩ルートに従って山へ向かいました


f:id:umahide:20210611151705j:image

芝不器男という俳人の出身地で、いたるところに石碑、句碑があります。


f:id:umahide:20210611151729j:image

なお、芝氏は最初の城主渡辺氏の重臣だったが、戦国時代に渡辺氏を謀略で追い出し新城主となり一条氏や長宗我部氏の間をうまく立ち回った。

しかし、秀吉時代に追放されてしまった。

芝不器男はこの芝氏の子孫かも?ね。


f:id:umahide:20210611151758j:image

旧松丸街道の宿場として栄え、趣のある建物が残されてます。


f:id:umahide:20210611151820j:image

坂本龍馬が脱藩した時、土佐からこの松丸街道を通って伊予国へ抜けたそうです。


f:id:umahide:20210611151906j:image

松尾西小学校の横を通り


f:id:umahide:20210611151937j:image

「永昌寺」へ。


f:id:umahide:20210611152004j:image

山上の河後森城は詰城で、城主の普段の居館はこの永昌寺だったそうです。


f:id:umahide:20210611152027j:image


f:id:umahide:20210611152053j:image

境内には不器男の句碑と、


f:id:umahide:20210611152117j:image

城跡碑あります。


f:id:umahide:20210611152136j:image

車の場合、北の駐車場から登れるが、我が輩は永昌寺登山口から登りました


f:id:umahide:20210611152209j:image

10時05分、



f:id:umahide:20210612224031j:image
東第二曲輪と東第三曲輪の間に出ました。

「東2」の右上が主郭になる。

登山口から寺の登山口から7分ほどです

主郭は後回しにして、まずは東曲輪群を探索します。

東3から東4へは一段下がる

f:id:umahide:20210612224051j:image
右手の下は犬走通路かな?

そして、

東曲輪群と古城群の間の堀切が見えてきました
f:id:umahide:20210612224108j:image

犬走通路へ降ります

f:id:umahide:20210612224305j:image

曲輪の間の堀切へ


f:id:umahide:20210612224402j:image

門が復元されてます。

犬走から堀切へは通路として利用されたようで、門から旧松丸街道及び広見川方面への大手もしくは搦手の登城道があったかな?と想像できます。

堀の深さは3m、幅は4~7m

城内では最大の堀切です。

発掘調査で掘立柱跡が見つかったのでそれをもとに門が復元された。

f:id:umahide:20210612230032j:image

↑堀切・門の向こうの下が旧松丸街道、広見川。


f:id:umahide:20210612230941j:image

門の解説図があるが、読みにくい。

地元の小学生の手製の図は好感度大!

気持ちが嬉しいです。

堀切を越えて
本丸の下の段曲輪「古城第二曲輪」から階段を登り

【古城1、本丸】
f:id:umahide:20210618105527j:image

古城には、番小屋や櫓があった

配置図
f:id:umahide:20210618110336j:image

↑松野西小学校生徒の作品


f:id:umahide:20210618111232j:image

西側(街道側)に「石打棚」があった。

初耳の用語です


f:id:umahide:20210618111338j:image

板塀を使った防御壁
f:id:umahide:20210618111350j:image

柱跡などからの想定図です

色々と想像をかきたてられますな


f:id:umahide:20210618111656j:image

麓を見る。

眺望良し。

古城という名前から察するに鎌倉時代から戦国時代にかけての本来の城跡のメインはここだったのだろうね。

ここまで見てきて気づいたのは平坦な削平地ばかりで竪堀も土塁も見当たらない。

これが伊予国の古い城のあり方なのかな?

ちょっと物足りないような…

本丸の東の端から下をのぞく
f:id:umahide:20210618112226j:image

段曲輪、堀切が見える

道が無く恐いけど、なんとか降りてみた


f:id:umahide:20210618114839j:image

すぐに土橋、堀切
f:id:umahide:20210618115057j:image

堀切は短く薄い、竪堀として落ちてない

向こうに古城4と3が見えます


f:id:umahide:20210618115230j:image

古城4は古城3の下の段曲輪


f:id:umahide:20210618115308j:image

古城3は細長い曲輪で東尾根に伸びる


f:id:umahide:20210618115554j:image

先端近くまで進んだが下草多く
f:id:umahide:20210618115613j:image

引き返して

堀切・門へ戻りました

この後、新城、本郭へ向かいます

次回へ続く…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【伊予国遠征】その1、宇和島へ

2021-06-18 15:31:00 | 伊予国の史跡

2020年、伊予国へ遠征しました。その記録を紹介します。


2月のこの時期は母がリハビリ入院してました。
3月に退院予定だったので、今のうちということで愛媛県の百名城巡り遠征に旅立つことにしたのです。


2月20日(木)夜、新大阪駅阪急高速バスターミナル。

22時50分発、深夜高速バスに乗りました。


2月21日(金)早朝。

石鎚山SAで休憩。
f:id:umahide:20210603142113j:image

f:id:umahide:20210603142013j:image

アンパンマン列車が停まってました


f:id:umahide:20210603142158j:image

ここから汽車で移動。


f:id:umahide:20210603142215j:image

7時11分発に乗り、
8時04分「宇和島駅」着。

f:id:umahide:20210603142248j:image
宇和島は祖父の故郷。

祖父はある日行商に出て関西に行き、我がひこにゃん市に住み着いたと聞いてます。

我が輩は10数年前にマイカーで四国一周した時に宇和島に立ちよった。
と言ってもその時は豪雨で、通過しただけです。


駅のロッカーに荷物を預ける。
続百名城の「河後森城」向かうのだが、次のバスまでに50分あるので駅近辺を散策しました。


f:id:umahide:20210603142407j:image

マンホールにも牛が
f:id:umahide:20210603142427j:image

「龍光院」
宇和島初代藩主伊達秀宗が宇和島城の鬼門の抑えとして建立。
伊達家の祈願所となりました。


f:id:umahide:20210603142513j:image

西方向の宇和島城を見る。

f:id:umahide:20210603142531j:image
この寺は宇和島城の出城と言ってもいいと思います。


f:id:umahide:20210603142638j:image

時間が来たので駅前から8時54分発のバスに乗りました。
しばらく走った後、この辺かな?
と思い窓から北の方向を見ました。


f:id:umahide:20210603142709j:image
あの山の向こうに祖父の生家がありました。

現在は鬼北町ですが、合併前は広見町でした。
生家も墓も別の町に移ったそうで、もう広見町には何も残ってません。
なんか、寂しいですね。



f:id:umahide:20210603142738j:image
祖父はこのバス停から、もしくは予土線の近永駅から宇和島駅に向かい、近畿へ来たのかもね。


f:id:umahide:20210611113651j:image

9時40分、松丸駅前バス停で降りました。


f:id:umahide:20210603142806j:image

駅舎の中には河後森城の模型があります。


f:id:umahide:20210603142827j:image


f:id:umahide:20210603142844j:image


パンフレットを貰っていざ城跡へ出陣!


f:id:umahide:20210603142905j:image

その2に続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「庄堺公園(彦根市)」ハナショウブとバラとマダニ

2021-06-11 11:27:00 | 日記
庄堺公園は市内の隠れスポットと言ってもよい。
バラ園は春から秋にかけて。
この時期はハナショウブも素晴らしい





色とりどり





平日だったので管理してるおじさんが、池に入って花を摘んでました

日頃の世話が大変なんですよね



バラ園

以前はもっと背が高く仕立ててあったが今は低めに設定されてる。



梅雨入りが早かったせいか、ハナショウブの見頃も早いようです。


我が家の庭のアジサイ


梅雨生まれの我が輩としては嬉しい。
先日、蛍も一匹だけ跳んでました。
小さい頃は家のまわりに群れて跳んでたけどね。

そして、

マダニに咬まれた。
無理やり引き抜いたが、まだ生きてました。
医者で抗菌剤を処方してもらって現在、大丈夫です。

咬まれた日がわからない。
若狭の山城に登った時は完全防備だったので違う、と思う。
数日前に軽装で家の庭の草取りをした時に咬まれたのかも?

この時期はマダニとヒル、スズメバチ、マムシなど敵が多い。
お互い注意しましょう


馬《●▲●》助ヒヒーン♪




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白鳥越え】その5、北白川城出丸~ゴール

2021-06-03 13:56:43 | 山城国の史跡

白鳥越え、ラストです。

というか、

アップするのをすっかり忘れてました😅

2021年2月28日


16時02分
瓜生山へ向かう


f:id:umahide:20210527222022j:image

トレイルNo.59-4


f:id:umahide:20210527222051j:image
これより北白川城の本丸、瓜生山城に入ります

山頂部が主郭で東西に段曲輪が広がる
北尾根は曲輪が無さそうです。


f:id:umahide:20210527222203j:image

南尾根は東西二本の尾根に段曲輪が並ぶが単純ではない。

特に西尾根の先端部には堀切があり手前にはミニ畝堀があるとか?

f:id:umahide:20210527222315j:image
↑西尾段曲輪群を見る。
尾根を降りたいが時間がないので今回はあきらめた



f:id:umahide:20210527222902j:image
山頂主郭



f:id:umahide:20210527222925j:image
祠がある。

「元将軍地蔵」
なので、将軍山城とも呼ばれる


f:id:umahide:20210527223000j:image
解説板、

トレイルNo.59-1

膝が痛くなりもうこれ以上の探索は無理でした。

いつかリベンジします。



f:id:umahide:20210527225609j:image
清沢口石切場

f:id:umahide:20210527225724j:image


足を引きずって下る

f:id:umahide:20210527225755j:image
下りは膝の負担が大きい


f:id:umahide:20210527225820j:image
トレイルNo.58-1


f:id:umahide:20210527225838j:image
夜船閑話発祥の地


f:id:umahide:20210527225943j:image
ようやく麓に来ました

16時51分

f:id:umahide:20210527230027j:image
病院の塀

そして、
16時55分

f:id:umahide:20210527230106j:image
ゴール!

9時に出発したので、約8時間の行程でした。


f:id:umahide:20210527230133j:image

もう体がボロボロだったが、
ともかく白鳥越え、制覇しました。


以上、おしまい。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

先頃、中山道歩き難関の御嵩宿から大湫宿まで約20km、制覇しました。

ようやく、ですわ。

途中に駅もバス停もコンビニも店も自販機もない、ほとんど山歩き。

幕末、数宮様が通った道です。


f:id:umahide:20210528105323j:image

街道は20kmだが、最寄りの釜戸駅までは大湫宿から約5km、1時間ある。

つまり、合計25km、4万歩越えました。

おかげで、現在体調が悪い…😭


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする