その結果、大量の汗をかき体力を消耗させコロナに負けることになったのだと思います。
その結果、大量の汗をかき体力を消耗させコロナに負けることになったのだと思います。
館跡には現在「大泉寺」があります
阿野館は阿野全成が築いた居館でした
阿野全成は源義朝の子、
今年の大河ドラマ、
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
お城に関しては、純粋に城攻めだけ、と
街道歩きの寄り道、の二通り。
さらに、史跡巡り関連の山登りというのもあった。
【日本百名城・続百名城】
2月に愛媛県遠征をした。
2020年唯一の長距離遠征でした。
◆一日目、晴れ
宇和島駅
「河後森城」
伊予と土佐の県境。宇和島駅からバスで行きました。
途中に祖父の故郷がある。つまり、稀少な我が姓のルーツの地。ようやく来ることができた。そういう意味で感慨深いものがあった。
城跡はよく整備されていて見ごたえあった。
松丸駅前の足湯
再び宇和島駅に戻り、
沿岸防備の幕末砲台後
寄り道したために遅くなり、
「宇和島城」
夕方になったため必死で天守まで駆け上がった。
途中の高石垣をじっくり見なかったのが残念無念。
閉館間際の天守に入れてもらってスタンプ押した。
この後、一旦城の外に出て博物館など史跡見学して再び戻ったら城が閉鎖されていて、ロッカーに入れておいたバッグを取り出すことができなかった。
↑入口の門内のロッカー
翌朝、取り出すことできたが、もし宇和島のホテルに泊まってなければ悲惨な事態になってたと思う。
ホテルでは胆石症が再発してのたうち回った。
結局、宇和島城は苦い思い出となった。
祖父の故郷に来たのに墓参りせずに通過した罰だったのかも…
◆二日目、雨降り。
「大洲城」
ロッカーは駅じゃなくて、駅横の観光案内所にあります。
城下町巡りしてるうちにようやく胆石の苦痛から解放された。
城下町と川沿いの景色がナイス。
近江聖人と言われる中江藤樹ゆかりの場所もいい。
「湯築城」
午後は松山市へ移動。
道後温泉の湯築城へ。
実は昔、ここに来てる。
その時は城跡とは知らず、公園のトイレを借りただけだった…
道後温泉前の一六タルト店で、天ぷらタルトうどんを食べた。
これがこの日、唯一の食事でした…
道後温泉本館は凄い行列で、断念。
コロナ禍の今はガラガラだとか?
◆三日目、晴れ
「松山城」
昔来た時はローブウエイを利用したが、今回は東側から歩いて登城。
↑竪石垣を見るために二の丸まで下山して、再び登り、天守を見てまたまた竪石垣を見て下山した。
天守は開館前から行列できてた。
「今治城」
午後は今治へ移動。
天守だけでは物足りないので、少しだけ城下町探索した。
能島城へも行きたかったが時間切れ。
今治駅から路線バスで福山駅へ行き新幹線で帰宅した。
愛媛県の百名城スタンプは残り1つです。
この他に西国街道歩きの時に芥川山城のスタンプを押したので、
2020年の百名城スタンプは、合計7つだけでした。
コロナが早く終息してくれないと、これ以上スタンプが増えない…
その2に続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
前回、園部城跡の遺構、史跡をいくつか見逃したので今回はまずそれを消化する。
まずは、八木駅で下車して安楽寺に行き、移築された園部城の太鼓櫓を見学。
ついでに近くにある坊主塚古墳にも立ち寄った。
この付近、匂いが漂う。
そして、園部駅に移動。
小麦山に登った。
ここに園部城の櫓があったが、現在は何も無し。
あるのはたくさんの偉いさんの石碑群。
藪蚊につきまとわれて大変でした。
この後、ようやく本来の目的の山陰街道歩きに。
園部郵便局前の道路表示をみると、
なんと35度に!
猛暑日ですわ。
山に登ったので、すでに汗だくでした。
ここで郵便局に立ち寄る。
郵便局には専用の払込取扱票というのがある。
その手続きをすることにした。
日曜日なので、当然ながら窓口は閉まってます。
実は前日にATMで手続きできるという情報を得たので、早速ためしてみた。
ATMに取扱表を挿入する受け口があったので、入れた。
後は、画面の表示に従って操作するだけ。
支払いは現金だけではなくて、貯金通帳あるいは郵貯カードでも自動的に落としてくれる。
いやぁ、これは便利!
今まで全く気づかなかったのが情けない…
もうこれでイチイチ開店時間を気にして窓口に行く必要がない。
世の中便利になったもんですな。
してやったり、という思いで出ようとしたら、後から来た人が、これ忘れてませんか?
と、言われた。
払込取扱票が入ってた封筒ですわ。
何か1つすると、もう1つを忘れてしまう。
最近このパターンが増えてる。
ホントに
おむつ、
じゃなくて
おつむがヤバくなってきましたよ…
郵便局を出た後、
またまた寄り道。
丹波黒田城跡と上木崎城跡に登った。
暑いし正直キツかったです。
下山した時きはさすがにヨレヨレ、
ほぼグロッキー状態。
無事戻れただけでも奇跡、と言える。
登城詳細は後日アップします。
夕方5時、今の時期ならまだまだ明るくて歩けるが、もう体力が無かった。
なので、ここで退散。
バスで園部駅に戻りました。
結局、街道歩きは1キロも歩いてない。
寄り道ばかりで、32000歩、20キロでした。
丹波路は城跡多いので、当分の間園部駅御用達になりそうです。
帰りの電車は例のごとく
缶ビールとおつまみ。
いやぁ、今日は冷えたビールが美味しかった。
こんなに美味しいと思ったのは久しぶり。
猛暑と空きっ腹と体力低下した時のビールは最高ですな。
あまりにも喉越しが良かったので、
数駅で飲みほしてしまった
350じゃなくて、
500mlにすべきだったかな…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
2019年3月17日(日)
本丸の解説看板
「1346年、橋本正高が城の整備した」
橋本正高は、楠木正成の一族。
南朝方の城となったようですな。
「城域は出ノ丸として隣接する泉佐野市の城ノ山にまでおよび、紀州と泉州を結ぶ粉河街道を押さえる山城として戦略上重要な城」
城ノ山は、土丸城のこと。
2つの城は1対ですな。
紀州の根来衆は、この街道を越えて九条家の日根野荘園を侵略しにきた
のだろうね。
主郭の西の下の曲輪
再び関空方面を見ると雲行きが怪しくなってきた。
時刻は15時32分、
そろそろ下山しなければ!
千畳敷の横の道を下る
町石がある。
登山者にとってこれは励みになります。
『竪堀&土橋』
北からの侵入を防ぐ
その先に鳥居
二町
馬場跡の先端に休憩所
一気に下る
15時53分、
麓の池。
無事に下山できました。
実はこの途中で、
若いカップルとすれ違った。
女の子は普通の靴で、どうみても登山姿ではない。
しんどいようで、男の子が引っ張ってる
。
というか、もう夕方なのに登るとは!
大丈夫かいな?
しかも、雨がポツポツと降り始めてるのに。
国史跡土丸・雨山城跡の看板。
下山した登山道は楽チン。
熊取側から登るのが安全で楽です。
雨山を振り返って、見た
成合口バス停から南海バス(一時間に一本)に乗り熊取駅へ帰りました。
ちなみに、途中に野球で有名な
浪商高等学校がありました。
大阪体育大学の一貫校のようです。
ドカベンの香川選手、若くして亡くなりましたね。
Φ(*^ひ^*)Φ
九条公の現地屋敷があった大木地区へは時間的に無理だったので、
またいつか日根野に来たいと思います
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
泉佐野市といえば、豪華なふるさと納税が有名。
しかし、政府に睨まれて、
今回の特別交付税が大幅にカットされた。
ペナルティーではない!
と、国は言ってますが、
どうみても、
泉佐野市への当て付けですな。
国の言うことを素直に聞け!
というわけですわ。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
2019年3月17日(日)
13時53分
大きな看板が見えた。
ここは雨山城主郭の下の郭だ。
土丸城との分岐の表示は地面付近に小さな矢印板があるのみ。
左へちょこっと寄り道、
倒木の後ろに見えるのが、竪土塁かな?
イマイチよくわからない
再び看板の所に戻り右方向の斜面道へ。
上に
『井戸跡』
竹の覆いをずらすと、水があった。
さらに斜面を右手へ向かう
『月見亭』
向こうに見えるのは和歌山県方向かな?
すぐ下は崖だが、景色はいい。
月見亭の背後に細い空堀がある。
茂みでわかりにくい。
上に登った
『千畳敷』
ハイキングコースになってるので土丸城、雨山城の至るところにベンチが置いてある。
これは嬉しい。
「住民の森 熊取町」
土丸城は泉佐野市だが、雨山城は熊取町管轄。
左へ向かうと、
本丸休憩所。
ノートに記帳した。
本日、3組目ですな。
みなさん、グループで登ってる。
ひとりぼっちで登るのは我輩だけ…
こちらにも神社がある。
石製の祠。
ここが、雨山城の主郭です。
後編に続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
九条政基公、慈眼院付近に宿泊した。
肥沃な日根野荘園を見て大いに満足するが、この付近は開けすぎてる。
何よりも和泉国守護細川氏の拠点の佐野地区に近い。
いつ寝込みを襲われるかもしれぬ。
屋敷の防衛上ちょっと心もとないため、
九条公は翌日さらに奥の大木地区へ移動し、居館を定めて本拠としました。
その大木地区へ向かう手前にあるのが、
土丸城、雨山城。
城跡も国史跡の日根野荘園遺跡に追加指定されました。
天気悪いので、躊躇したが
思いきって登ることにした。
2019年3月17日(日)
13時53分
阪和道の高架下。
すぐ横に左へ向かう道がある
しばらく進むと
14時03分、
土丸城への登山口
登山道が整備されてるが急斜面の連続で大変。
九条政基公が本拠とした大木地区を眺める
谷あいに、いい景観が残されてるらしいが、
残念ながら城に登ったために結局、
行くことはできなかった。
残念無念…
大阪湾方向を見る
溜め池群、
向こうに関空、
さらにその向かうは淡路島かな?
急に天気が晴れてきたのは良かったが、暑いのなんの!
大汗かいた。
平な場所に出ました。
いよいよ城内のようです。
14時29分、
神社がある。
『土丸城跡』です。
看板の説明書によると、
「天平元年(729)年、地元の豪族日根野氏によって築かれた。
同三年高師泰が…」
あれ?おかしいぞ!
高師泰は、南北朝時代の武将。
時代が合わない。
ネットで調べると、
正平二年(1347年)、北朝方の日根野盛治が築いて籠もったが、南朝方の雨山城と対峙した。
とある。
でたらめな看板や!
なお、日根野氏は守護側だったために九条政基公と対立した。
日根野氏は土丸城で大木地区を監視し、土丸地区には盛んに横領を繰り返したとか?
しかし、九条公は村人との強い連帯で、守護勢力や根来寺を排除し四年間、現地で荘園経営を守ったのでした。
主郭の背後に空堀と土塁があるが、
倒木が邪魔してます。
次に雨山城へ向かう
この先端から尾根道を降りる
一旦下りになるが、
また上りになる。
向こうに山が見える
登山道整備されてるが、険しい所もあるので注意必要。
そして、
14時47分、
看板あり。
雨山城への入口だ。
続く…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪"
"滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭シンポジウム。
2019年3月10日(日)
前日に引き続き、安土に来ました。
本日はあいにくの雨降り☔️
でも、まる一日館内に座ってるだけなので、問題無し。
受付は点呼無し。
予約したのに、結果的に自由参加扱い。
どうやら、募集定員の300名に届かなかったようです。
確かに会場に入ると空席がいくつもありました。
天気悪かったからか?
午前中は中井教授の基調講演、
午後は、信長ゆかりの小牧山城・岐阜城・安土城、それぞれ発掘担当者の報告。
最後にパネルディスカッション。
という内容。
ちょこっと紹介。
まずは、基調講演
【信長の城】中井均滋賀県立大学教授
織豊系城郭の特徴は、
高石垣・金箔瓦・礎石建物(天守)。
『小牧山城』
石垣◯、瓦Ⅹ、天守▲
瓦は全く発見されてない。
天守たぶん無かっただろう。
最近の調査で山頂付近に玉石敷遺構が検出された。
山頂に信長あるいは家族の住居があった可能性あり。
安土城よりも先に山頂部が総石垣の城だった。
ただし、石垣の高さは低い。
*間々観音
『岐阜城』
石垣◯、瓦◯、天守△
天守はあったかも?
3つの城の中で唯一、信長以前からあった城(斎藤道三時代の城)
*伊奈波神社
『安土城』
石垣◯、瓦◯、天守◯
小牧山城→岐阜城→安土城で完成形。
天守に信長自身が住んだ。
*総見寺
3つの城に共通するのは、
山頂に詰城、麓に居館があった。
信長は権威を示すために決して山を下りなかった。
家臣には平地に城を建てさせた。
権威を見せる城として、信仰としての寺社を城に利用した。
………………午後の報告………………
【小牧山城】小野友記子、小牧市教委 小牧山課
紅一点の小野さん、久しぶりに拝見💓
シックな黒の服装でナイス。
ちょっと太ったかな?
石垣:チャートの自然石使用。
加工の痕跡無し。
信長以前の尾張で、石垣を使った城は無い。
小牧長久手合戦で家康の陣城になり、虎口や堀、土塁の一部が改変されてるが、基本的に現状のほとんどが信長時代の遺構。
途中で、動画による紹介があった。
やっぱりムービーはインパクトありますな。
【岐阜城】高橋方紀、岐阜市教委教育課
石垣:チャート。
一部に斎藤氏時代の石垣あり。
金箔瓦が発見されたが、信長ではなくて信忠かも?
山麓の居館部は巨石群とたくさんの庭園が配置されてる。
谷部の奥に高層建築あり。
山頂周辺にたくさんの砦群があり、
次々に石垣が見つかってる。
【安土城】滋賀県教委、仲川靖
石垣:ほとんど湖東流紋岩。
瓦は山頂の主郭部のみ。
『伝羽柴秀吉邸跡』には庭園遺構と主屋が2回以上の増改築あり。
中井氏説は、信長時代は麓の居館がここだった。
仲川氏説は、後に秀吉が三法師(織田秀信)を迎え入れるために改築したかも?。
Φ(*^ひ^*)Φ
お二方の説を合算すると、
伝羽柴邸跡は、本来信長の麓居館で、その後、秀吉が改築した。
だから、後世にここを秀吉邸と勘違いして伝わってしまった。
ということかな?
伝大手道は、発掘調査の結果、信長時代より後の遺構の可能性あり。
大手口は正親町天皇行幸用に4つの門があるが、すべて形状が異なる。
ホントに行幸用だったのか?
現在の入口の駐車場には内堀があった。
内堀を復元させたい。
以上、おおざっぱに紹介しました。私見も混ぜてるので、鵜呑みにして他所へ吹聴しないようにお願いします。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
最後に、皆勤賞の表彰式がありました。
延べ700名の参加者のなかで該当者はわずかに7名。
一人一人名前呼ばれて拍手浴びてました。
我が輩は、所用があって1回目をパスしたが、2回目以降皆勤したのに…
うーん残念無念。
実は、何年か前に完璧に皆勤賞だったことあるが、その時は、表彰式が省略された。
なんでやねん!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭探訪。
天主台石垣の上から琵琶湖を見る。
天気が良すぎて霞みのため見にくいが普通ならここから北の竹生島、
南の大津などすべて見渡せる。
当然ながら、家臣の城の長浜城・大溝城・坂本城も視野に入る。
琵琶湖に突き出た岬に築かれた安土城の重要さがわかりますな。
総見寺跡へ移動。
ここで、昼食休憩した。
某知事さん、
『今、何時?』
と美人秘書に聞いてる。
時計もってないんかい!
スマホを見ろよ!
昼食は高級レストランで食べるのかな?
我が輩もあんな身分になってみたいものです。
秘書さん、前回の坂本城と違って今回は山登りなのでズボンでした…
で、知事さんは先に下山されました。
三重塔及び二王門、どちらも甲賀郡から移築した。
信長時代以前の建物で貴重。
国重文に指定されてます。
お城の中に寺を建立し、それが現存してるのは極めて稀なのでは?
仁王門を下るとそのまま城下町の百々橋へ出られるが、現在は通行不可。
昔、無料だった頃は自由に入れたが、今は有料なのでわざわざ料金所まで迂回しなければならない。
そして、仁王門の下、百々橋まで来た。
信長は拝観料をとって総見寺を参拝させたそうです。
総石垣お城の先駆者とも言える信長ですが、寺の拝観料をとったことも歴史上の先駆けとも言えますな。
中井教授は、こちらが大手道だった、という見解。
ならば、仁王門は、大手門ということかな?
本来は仁王門から↓ここまで真っ直ぐ石段を降りられた。
↑これは数年前に探訪したときの画像
総見寺は、安土城の重要な防備の要としての役割りがあったのだろうね。
ちなみに、北側に七曲り道があった。
こちらは家臣や下級武士や町人などの道だったのでは?
と、我が輩は思ってます。
この後、城下町散策。
常楽寺港は、安土城築城の重要なキーになったとも言える。
木村氏城跡は、現在畑。
そして、最後は
『浄厳院』
安土城城下町の一番端っこにある。
本堂は国重文。
こちらも別の寺から移された。
明智光秀の丹波攻略で
丹波八上城の波多野兄弟が信長に殺された場所。
来年の大河ドラマで必ず登場すると思うのですが…
梅が満開でした
以上、探訪報告おしまい。
翌日は、この連続講座の総仕上げの
シンポジウムがありました。
2日連続の安土行きとなりました
馬《●▲●》助ヒヒーン♪