馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

井伊家四代藩主と永源寺と妹の関係は蜜だった、の巻

2024-09-29 11:05:00 | 近江の史跡
彦根城博物館で開催されてる企画展(9月29日まで)を見学、解説を受けました。

ホームページより画像を拝借

第四代藩主の直興は
徳川幕府で大老を勤め、彦根藩政の基礎を固めた人物。
彦根城主としては実質的に初代となる2代藩主直孝公が、3代目は直澄に、
そして4代目は直興に、と指名した。
4代目を直澄の子ではなくて、あえて養子として直興を指名する遺言を残したのは、
直興の聡明さを見抜いての判断だったのではないか、と推察します。
当時、直澄の子がまだ無かったので不安に感じての対策かも、ね。

直興、
大老としては、4代将軍家綱から7代家綱まで仕えた。
5代綱吉の将軍宣下の上使、朝鮮通信使の御用、日光東照宮修復の総奉行などを勤め、正四位上中将という井伊家では最高の官位を得ました。

また、藩政としては、
彦根藩士の履歴書ともいうべき『侍中由緒帳』の編纂、財政建て直しのための「上米(あげまい)」、領内の勤務体制としての筋奉行.町奉行制度を確立、
そして、藩主が自ら領内を巡見するという先例をおこないました。
つまり、北は余呉から南は日野まで藩主自ら出かけて視察したわけです。
そんなわけで、彦根藩中興の祖と呼ばれる。
直興は信仰にもあつく、
元禄8年、佐和山山麓に大洞弁財天を建立しました。
この造営に関しては藩主、家臣はもとより一般の領民から銭1文づつ寄付させて
、なんと25万9526名から銭270貫文を寄進させるというユニークな事業でした。
この寄進帳は当時の社会を知る一級の資料です。
大洞弁財天は彦根城の東、いわゆる鬼門の位置に当たる。
余談ですが、小さい頃、母が『大洞の弁天さんは女性だから、男女一緒に参拝すると、嫉妬して災いあるよ』
と言われたものです😅

一方、永源寺(東近江市高野)の中興のの祖と言われるのが
【南嶺慧詢(なんれいえじゅん)】
南嶺は、丹波亀岡の出身で、永源寺の住持となった。
皇室とも親しく、後水尾法王の養子にもなった。
歴代の住持が紫衣を着用して宮中に参内できる「常紫衣」の勅許を得ました。
紫衣と言えば、沢庵和尚の紫衣事件が有名ですよね。
紫衣は幕府の許可を得る必要がある。
そこで、南嶺は永源寺と繋がりがあった井伊家3代藩主の直澄を通じて将軍家綱の許可を得て、霊元天皇から正式に常紫衣を受けたわけです。

ちなみに永源寺は彦根城が攻められて危なくなった時は、最後の砦、詰城という認識の寺だったそうです。

その繋がりで、4代藩主直興は永源寺の南嶺と深い交流をするようになり、
御殿に南嶺を招き説法聴聞などおこない直興自身の逆修法要(生存中に死後の法要をおこなう)として五十回忌、百回忌、さらに家臣へも法要を勧めた。

この南嶺と直興の繋がりの記録として、 南嶺の一生を記述された「南嶺慧詢行状」という資料が発見されて今回の展示となったわけです。

通常、彦根藩主は亡くなると、
彦根の清凉寺や江戸の豪徳寺が墓所となるが、
直興は、南嶺に深く帰依してたので永源寺と松雲寺を指定しました。

永源寺はわかるが、
松雲寺て、何それ?
と思った人も多いでしょう。
実は我が輩も今回初めて知った。

永源寺住持を辞めた南嶺は現在の愛東町妹に松雲寺を再興し、開祖となった。
ここで晩年を過ごしたのです。
故に松雲寺は永源寺とともに直興の墓所とされ、その後も井伊家と交流されてます。
そして、この松雲寺に残された文書群が現在の研究に役立った。
松雲寺が井伊家に提出した由緒書によると、
宝暦七年(1757)
愛知郡妹村 松雲寺

と、記載されてる。
松雲寺は現在の東近江市(旧愛東町)妹町が住所なのです。

妹は「いもと」と読む。
本来は井元で、後に妹に改名された、
と考えられる。

我が輩は、近現代に改名されたと思ってたが、この文書によればすでに江戸時代中期頃に妹村として存在していたことがわかる。
いやぁ、まさかここで、妹地名の資料を確認できるとは!
講師の解説中、内心小躍りしてました🙌

ところで、この地域には愛知川沿いに河岸段丘を利用した城がいくつか築城された。

井元城もその1つ。

織田信長が鯰江城を攻めるために築いた付城とされて、重ね馬出という珍しい遺構が今も残されてる



この時は城跡を探索したが、松雲寺には立ち寄ってない。
すぐ近くなのに、
無知とはこういうことですわ



馬《●▲●》助ヒヒーン♪












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類は伊勢に集う、の巻

2024-09-16 23:38:00 | 近江の史跡
先週、栗東市で「中沢遺跡」の現地説明会がありました。
現地説明会はたいがい土日と決まってる。
親の介護とコロナのこともあり、現説の参加は長らくご無沙汰してた。

で、介護から解放されたので、久しぶりの参加です

現地は草津市と栗東市との境、
草津駅から旧中山道を約20分歩いた場所にあります。

少し到着が遅れて

すでに遺跡の説明会が始まってました

弥生時代から近世までの遺構が複数あるが、今回発見されたのは
弥生時代後期の中型掘立柱建物、
近江では最大規模だそうな。

見つかった遺物では、

高坏のこの小さな2つの破片が時代判定の決め手となった。
手のひらに収まる小さな小さな欠片ですが、
この形状が土器編年と照らし合わせて間違いないとわかったのです。
発掘調査担当者は大いに自慢してました。

この自慢話を聞いて、ふと思い出した。
昔、昔その昔、学生時代にお隣の野洲市(当時野洲町)で発掘調査の手伝いをしてました。
とある遺跡の周溝墓のなかから小さな土器の破片が見つかった。
師匠の古川さんが、土器の口縁部の形を見て『よし、わかった!』
遺跡の時代が決定できたので、すぐに調査終了した。
昭和50年代、都市開発のために遺跡の発掘調査が目白押し、この遺跡も充分に調査する時間が無かったのです。
それだけに、発掘調査担当者の技量が問われるわけで、
以来、担当者だった古川さん(元銅鐸博物館館長)のことを師匠と呼んでます。


 なお現説は猛暑のため約20分ほどで終了した
この後、

下鈎(しもまがり)遺跡を経て守山市の伊勢遺跡へ向かった。
下鈎遺跡は

道路と住宅の間の空間に

石碑があるのみ。
たいがいの遺跡は壊されます…
ま、この付近は犬も歩けば遺跡に当たると言ってもいい。
全部保存するのは難しいですわ。

そして、
【伊勢遺跡】へ
実は2回目、

前回は中山道歩きの次いでに立ち寄った


広場に解説板があっただけだったが、
後に
その遺跡の凄さから国史跡となり、



整備されて

立派な遺構の展示施設も造られた。

施設内に入ると、

模型もある。

パンフレットの画像。

伊勢遺跡は弥生時代後期、約100年間栄えた
祭祀に特化した遺跡。
2重の柵に囲まれた建物が中央にあり、楼観を伴い
その周囲に等間隔で円形に配置された祭殿がある。
王の住まいと思われる大型建物もあり、

このことから、各地の王がここに集い政治や祭祀をおこなったと考えられる。

それは、すなわち後の大和朝廷へ繋がる遺跡なのでは?
大胆な仮説を言えば、
大和朝廷の原型は伊勢遺跡にあった!
とも推測できますよね。


祭殿は伊勢神宮の神明造と似てます

ちなみに守山市伊勢の地名由来は
中山道と伊勢参り(旧東海道)とを結ぶ場所がここなので、伊勢と名づけられたとか?

展示の解説は、ボランティアガイドさんが丁寧に教えてくれた。
で、説明を聞いてるうちにどこかで聞いたよう声!
我が地元で毎月講座を受けてる講師だと気づいた💡

さらに、解説が終わりかけた頃、
なんと、長谷川先生が姿を現された

いやぁ、びっくりポン!
偶然とは言え、まさかここでお逢いするとは!
挨拶すると、同行の男性を紹介してくれました。
なんと、なんと、滋賀県の考古学界の重鎮、長老ともいうべき丸山先生でした。

恐れ多くも我が輩のような素人が挨拶できる人ではありません。
といいつつ、実は学生時代に野洲の発掘現場で一度お逢いしてる、と自慢たらしく述べた😅

丸山先生は師匠の古川氏の師匠、
つまり我が輩からしてみれば大師匠と言ってもいい

というわけで、
この伊勢遺跡で、偶然にも
大先生方に出逢うという奇跡に遭遇。

この不思議な奇縁に感動したのでした。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪





















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江藤氏館跡(安土町)

2024-09-08 23:32:00 | 近江の史跡
佐生日吉城探索後、移動した先は国特別史跡の「安土城」へ。
昔は自由にどこからでも出入りでき、安土城も無料で見学できた。
が、安土町が近江八幡市に編入されてからややこしくなった。
城跡は摠見寺の私有地です。土砂崩れ対策などで寺と近江八幡市が揉めて、一時期、駐車場やトイレが有料となったり、有為転変しました。
現在、安土城は摠見寺の管理で有料です。

今回駐車した場所は、摠見寺入山者専用駐車場で無料。

安土山の南端の尾根に出城があり、江藤氏館跡と言われてるが、
名前も詳細もよくわかってないようです。
観音寺城の出城が安土城の曲輪の一つに改変されたのか?
どうなんでしようかねえ?

我が輩、安土城には過去何度も登ってるが、今回長谷川博美先生に案内されるまでこの出城に関しては全く未知の世界でした。
地図を見れば一目瞭然、安土城と観音寺城との間の切通道に面する重要な位置にある。
数年前に朝鮮人街道歩きでここを通った時に曲輪らしき遺構がある、と横から見上げてたが、
なにしろ県道は歩道が無くて車がビュンビュンと走る💨
危なくて小走りで通りすぎただけでした。

尾根の上が館跡(出丸跡)。







横堀状の所から虎口へ
曲輪内部は綺麗に草刈りされてました。
南端に腰曲輪と犬走、竪土塁が。




中央に仕切土塁がある。
その手前に土盛りと溝状の堀がある。
これ大事!
甲賀や伊賀の城跡では高土塁の内側の麓が溝状になってるのを見かける。
排水用の溝なのか、その性格は我が輩にはよくわからないが、まさかここでも見られるとは!
長谷川先生は「さじき」と言われた

土塁の上から見おろすと桟敷のように見えます。
土塁の北東側はこちらも綺麗に草刈りされてました

曲輪から西側を見下ろす

竪堀状になってる。
竪堀の下は先に見た横堀状に。


曲輪の北端から下の堀切を見る。
真冬で単独行動なら藪の中を突っ込んでたと思う…

曲輪の東側へ

この竪土塁が横移動の障壁となる仕掛。


偏屈な我が輩は竪土塁の先端部下を回り込んで犬走へ

犬走を南下すると

竪堀状の崩れたような窪み

その横に

南へ伸びる大竪土塁

竪土塁を少し降りたが
危険なので見下ろすだけにして
戻りました。



以上です。

後の改変もあり、どこまでが本来の遺構かわからないが、
駐車場から手軽に土塁や堀切など山城の遺構を無料見学できるのは
まさに優良物件。

いい掘り出し物でした

長谷川先生に感謝。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


























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【佐生日吉城】東近江市

2024-09-02 23:15:00 | 近江の史跡
2024年8月22日
「玄米会」という名前の探訪会に参加しました。
玄米でも白米でも赤米でも何でもいいから食べさせろ!

あ、いや、失礼

我が輩、一匹狼、
親の介護やコロナなど諸般の事情により10年近く探訪会には全く参加せず、常に単独行動でした。
それだけに久しぶりのグループ活動で緊張する、の巻。

「佐生日吉城」
難読ですよね。
さそうひよし、と読む。
単に佐生城でもいいが、佐生町と日吉町の両方にまたがるので佐生日吉城としたのかも?
地名としての佐生町は「さそう」じゃなくて「さそ」と読む。
ますますややこしい


数年前に

東の和田山城とともに登ったことがあります。
だから、その時は佐生町の麓の墓地付近から登りました。
しかし、
今回は

車で北向岩屋十一面観音の駐車場へ。
麓の公園から車道があるので便利。
観音寺山までハイキングコースとして整備されてるので能登川駅から歩いて登るハイカーも多い。
午前中、米原市で長谷川博美先生の講座があり、予備知識を得て
午後から現地見学となりました
案内は同じく長谷川先生です

真夏ですが、駐車場から城跡へは綺麗に整備されていて歩きやすい。

我が輩は例のごとく少し離れて付いてゆく。
協調性に欠ける我が輩、
昔、グループから離されて迷子になったり、途中で勝手に離脱したこともあったなぁ…


このルートは駐車場から尾根を下るので楽ちんです。
ただし、帰りは登りとなる…

尾根筋に段曲輪群があるような…


突然巨岩が現れる!

振り向くと2つの巨石に囲まれた虎口の門に見える。
人工的に置いたのかな?
まさかね。

その先の左手(北側)に竪堀

さらに

左手に竪堀
右手にも薄くありそうで
ならば、堀切かも?

そして、

駐車場から約20分
主郭の西虎口です


石垣が折れ曲がり横から敵を狙う「横矢」
南面には
近世城郭を思わせる高石垣が東西に伸びる

高石垣
本丸ともいうべき観音寺城方面に向かって築かれてます。
おそらく麓の東山道(後の中山道)から見栄えがするから、それを意識して南面に高石垣を築いたのだろうが、
観音寺城の城主の六角氏はこれをどう思ったか?
了見の狭い主なら、
家臣の分際で小癪なやつ!と受け取ったかも?


東虎口付近の石垣は一部崩落


主郭内部は土塁に囲まれ
上下二段に分かれる

上段に石碑

後藤但馬守は後藤賢豊。
六角義賢の賢を字を貰ってる。

佐生城は守護大名佐々木六角氏の支城で、有力家臣の後藤氏が在城したと言われる。
六角氏は足利幕府のミニチュア版とも言われ、
足利幕府は有力な守護大名を束ねた象徴のような政権で基盤は軟弱でした。

同様に六角氏も有力な土豪が半独立的な家臣として存在しそれを統合する守護大名でした。
権威や忠誠心だけでいかに家臣を統率できるか、がすべてを左右する。
そんななか筆頭家老ともいうべき後藤氏を謀略で抑え込んだのが失敗の始まり、湖北の京極浅井氏に寝返る土豪も多く離反されて、六角氏は戦国大名になりきれず。
後に織田信長の近江侵攻ではもはや抗するすべもなく次々に支城が攻略され、東山道(後の中山道)を挟んだ反対側の箕作城が陥落するや甲賀郡へ落ち延びるしか無かった。

佐々木六角氏が家臣団を統率し戦国大名化していれば、信長は巨大な観音寺城を攻め落とすことは相当困難になり、その後の天下取りにも影響したのではないか?
と我が輩は考える。


北側虎口付近の高石垣
こちらもいいですね。

観音寺城の支城群でこれだけの高石垣が残ってる城はここだけ、でしょう。

東虎口へ戻り
長谷川先生が空堀へ案内してくれる

馬出し状になってます。
三方の虎口の防御が優れていて
改めて見事な城だと感じ入りました

以上、これにておしまい。

この他にも尾根に竪堀群や曲輪群があるのだが、真夏なので深入りは危険

撤収。

主郭及び通路に関しては真夏でも探訪できるが、
何しろ暑い、
わずか一時間ほどの滞在だが、猛暑で激汗、
真夏の山城攻めは厳しかった…

ちなみに、蚊、蛭など虫は大丈夫でした。

この後、安土城へ向かいます。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
ノロノロ台風に翻弄された1週間でした。
超巨大台風、九州に上陸するやいなやいっきに弱くなり、近畿まで来たら豆台風に。
しかしノロノロのために
台風が来なかったのに静岡県の大雨はひどかった。
結局、伊勢湾から東海付近で突然台風は消滅した。
こんな台風、生まれて初めて!
想定外という言葉はあまり使いたくないが、もう何が起きても不思議でない自然現象になってきた。
日本は温暖化から熱帯化に着実に変わってきてるようです

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が家のイチジク、
台風の被害は無かったが、カラスと猿の餌食となり無残なことに。

今年限りで伐採しようかと考えてます

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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京極氏の桃原城跡へ行った、の巻

2024-06-29 16:02:18 | 近江の史跡
親の介護で土日のお出かけは長年無理だったが、母入院中に付き、しばし介護から解放されて、
前日の加賀越中国遠征から帰宅後、さらにお出かけ。

6月22日(土)、
場所は犬上郡多賀町桃原。

グーグルナビで向かうと、多賀町河内風穴方面へ誘導され途中から山の中のウネウネ林道を進む。
この道大丈夫かな?と不安になりかけた頃、桃原集落に到着。

桃原は「もばら」と読む。
例によって多賀町の山奥の地域は廃村ばかり。
電波も繋がらない地域だが、
昔、「桃原ごぼう」という高級食材の産地でした。
そこで、現在は「桃原プロジェクト」という組織が結成されて桃原ごぼうの普及に尽力されてまして、
当日はその総会がありました。

バッジを頂いた。
2015年といえば、北国街道歩きを始めた年ですわ。

この総会の催しとして桃原城跡についての講演会があり、その聴講として参加したわけです。
講師は知る人ぞ知る超有名な長谷川博美先生
昔昔その昔、鎌刃城祭りで長谷川先生に鎌刃城跡を案内していただいた。
その時は名前から察するに女性かな?と思ったりしての参加‥😅
それはともかくとして
これが、その後の山城探索するキッカケとなった。
山城にハマったわけです。

で、講演会の内容の詳細は公表するわけにはいかないので、
ちょこっと概略だけ。
桃原城跡は阿弥陀ヶ峰をピークとする3つの尾根を囲む区域に築かれた。


桃原集落の南の山で、この近くを北伊勢美濃と近江を結ぶ五僧越えの道が通る。
関ヶ原の戦いで島津軍が多賀町へ退却した道として有名ですね。
つまり、街道を見据える城跡。

城主は京極政高(政経)。
この人、実は
室町幕府相伴衆で、近江・出雲・隠岐・飛騨の4カ国の守護大名でした。
その居城が、山奥の桃原城だったとは、驚きですよね。
当時、応仁の乱あり。
京極氏内部でも抗争があり、美濃の斎藤氏も派兵されるなど、頻繁に戦いが繰り返された。
北方の巨大な山城ともいうべき男鬼入谷城とともにこの山岳地帯にたくさんの砦や城が築かれた。
この桃原地域周辺にもいくつかの砦が長谷川先生によって発見されてます。
まだまだ、未発見の城跡があるかも?
まさに桃原城塞群の本拠地がこの桃原城
と言ってもいいのでは?

で、講演会終了後、
桃原城跡へ。
林道は狭くて片側は崖、対向車来たらどうにもならぬ。
下手くそな我が輩の運転はとても無理。

というわけで、
恐れ多くもかたじけなくも
長谷川先生の御車に乗せていただいて現地へ案内していただいた。

杉坂峠の御神木
ここに駐車スペースあり。

多賀大社の御神木です。

ここから北へ移動



そして、

坂虎口と大門跡

上が曲輪内部です

その先の土塁の上から角馬出方向を見下ろした。
土塁の切岸と下の帯曲輪、馬出土塁わかるかな?

さらに土塁ウォーク、西へ
明瞭な空堀

ここは土塁が奥へ伸びる



東西500mの長い土塁は
凄いものがある

土塁はここまで。

ここから尾根筋を林道へ下山しました。


今回は虎口と土塁のみの見学でした。
奥の山頂付近へは行ってません。
というか、行けない。

実はこの他にも写真撮ったがまともな画像が残ってない。
というのは、

ヒル、

ヒル

ヒル
梅雨どきの鈴鹿山系は
ヒルが大繁盛

次から次へとヒルがズボンを登ってくる
エイヤ、エイヤと
掴んでは投げ、
掴んでは投げで、
敵を払い落とす

まさにヒル戦争ですわ

幸いなことに血は吸われなかったが、ヒル攻撃のために城跡探索に集中できない。

ウーン‥😭
でも、長谷川先生の案内おかげで
桃原城入門できました。


感謝感謝の至です。


長谷川先生のブログ↓



※なお、電波の届かない山奥の城跡なので単独行動は慎重にしましょう。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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清滝山砦を妄想した、の巻

2024-04-23 17:04:00 | 近江の史跡
2024年4月8日
徳源院の導誉桜を見学した後、詰城ともいうべき清滝山砦を探索しました。
徳源院は京極氏の居城としての「柏原城」跡に建てられた、と言われる。

その詰城が「清滝山砦」
では、いざ登城。
普通の人は西の清滝神社から登るのですか、我が輩は変人なので東の麓からから登りました
登山口。

稜線に出ました。
これより妄想炸裂。
解説は無視してね。

登山道の左手に土塁が少しあり、東出丸と名づけた





通路曲輪と名づける。



そして、いよいよ本丸へ
堀切も土塁も無い虎口を入る。


主郭にNHKの施設があり、かなり改変されたと思われます。
盛土は施設の基礎だと思うが、主郭の建物の土壇だったかも
ここは土橋虎口状になってる‥
と思いませんか?




円形の窪地は


四角形の窪地は


西側の低段は

柵の曲輪🙌

西尾根へ向かう

主郭西側の広い削平地
右手の藪の下は帯曲輪状になってます

北尾根を少し下る

北側斜面は藪で入らなかったが、帯曲輪が東西に連なってるようです。
この付近を西出丸と名づけた。




下山道との分岐の先を見ると掘ったような窪みあり。


堀切の名残りだったりして‥
なので南尾根に向かうことにした。

特に遺構は見当たらなかったが、南出丸と名づけた。

以上おしまい

あくまでも妄想です。
砦跡の遺構は全体的に不明瞭でした


周回マップ。
なお、
下山ルートは危険なので絶対に真似しないでください。
麓の清滝神社からの正式な登山道を歩きましょう!

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が家の畑に竹林があり、今年もタケノコがニョキニョキと。
で、畑近くの人が採取したタケノコを段ボール箱いっぱい持ってきてくれました。

ありがたいのですが、
我が輩、料理はしない。
ましてや手間のかかるタケノコなんて。

母は噛めないので、タケノコを食べるのは無理。

というわけで、もったいないけど
全部捨てます

ウ~ン‥

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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道誉桜はどうよ?

2024-04-13 15:44:02 | 近江の史跡
米原市柏原
合併前は山東町でした。



徳源院さんの駐車場から桜並木の参道へ。

平日なので空いてたが、休日は遠くの臨時駐車場に停めるしかないと思います

ほどなく門前へ。
旧東山道がこの付近を通ってました

江戸時代は讃岐丸亀の京極氏が菩提寺として守護してました


そして、
2本の道誉桜

今まで桜の頃に来たこと無かったのです

立派な三重の塔
紅葉の時期も素晴らしいですよ。


京極家、歴代の墓所。
以前はここから参拝できたが、今はダメみたいです。

道誉は佐々木(京極)道誉のこと。
婆沙羅大名として有名ですよね。
足利政権を支えて佐々木家は室町幕府の重要な職を歴任する家柄になりました。


もう一度

道誉桜

この投稿時点ではもう散ってると思います


この後、背後の清滝山に登りました

続く‥


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今年も咲きました

桜ではない

梨の花です。

毎年花は咲くけど
今年も実は食べられないだろうな‥

ウ~ン‥










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松尾寺山砦、雪中行軍 その②

2024-03-26 14:08:00 | 近江の史跡
地藏峠から松尾寺山山頂を目指すのは断念、
その反対側の「松尾寺山砦」を経由して鎌刃城方面へ下山することにした

現地縄張図

まずは峠すぐそばの

尾根を西へ登る
尾根道に曲輪2

頂きに

そして


雪でもわかりますね。

堀切を越えて尾根を下る斜面に

さらに下ると


薄い堀切

砦跡はここまで。

とりあえず不本意ながら本日の目的達成

これより尾根道を下山




尾根の急斜面を雪中行軍
眺望は抜群なのですが‥
601mの八葉山がこの付近では一番高い

なので、ここからはひたすら坂を下ることに。


ようやく雪が少なくなった

竜王山山頂は岩だらけで、祠あり。

そして、

なんとか無事に林道に降りられた
ここは鎌刃城の駐車場です。
予定ではここから鎌刃城跡を探索しながら最初の駐車場へ戻るのですが、
これ以上雪山を登るのはイヤ

というわけで、
滑りやすいけど舗装された林道を下山しました。


以上おしまい。

普通の登山靴で雪中行軍したため、膝に負担がかかり、
右膝を痛めた

しばらく登山は無理です

動画



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

































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雪中行軍、松尾寺山へ。その①

2024-03-21 09:24:00 | 近江の史跡
松尾寺山砦は西坂集落からの松尾寺への参詣道の途中の峠付近の尾根にあります。
松尾寺山へは醒井養鱒場や鎌刃城方面などいくつかハイキング道があります。



今回は鎌刃城駐車場から西坂集落へ向かい参詣道を登山しました。

駐車場から徒歩約20分で
西坂の登山口に。

鉄塔
丁石があるので迷うことはないが、
この付近から雪が‥

予定では西坂砦を探索するつもりだったがやめた。

雪中行軍。
今思うと引き返すべきだった

とりあえずひたすら登ることに。

ここが松尾寺山と八葉山方面(鎌刃城跡)
との分岐の鞍部。
「地藏峠」


ここを登れば松尾寺山山頂だが
積雪であきらめる。



で、このあと反対側の松尾寺山砦を探索することにした

その2に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今朝の我が家の庭


お彼岸に雪が降った☃

あーサブー

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


















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長尾護国寺遺跡とセツブンソウ

2024-03-02 17:31:00 | 近江の史跡
米原市大久保。
伊吹山の尾根の裾野に「長尾護国寺」がある。正式には「惣持寺」。
古代、四十九坊の巨大寺院でした。
その痕跡が残っていて巡拝コースとして整備されてます。


なので、セツブンソウを鑑賞しつつ史跡巡りをしました。

駐車場は寺の前にもあります。

長尾坂へ



遺跡図




この下に段曲輪群(坊)が広がってたようです。

墓地の上の段に旧毘沙門堂(本堂)があった

登りました
背後に


背後の尾根のさらに上にも段曲輪がありそうだが、ここで断念。
下山しました。

そして、

この梅林の曲輪の斜面に
この場所を何度も通過した。
梅林はすぐにわかったが、セツブンソウに全く気づかず
近くの見学者に教えてもらって
ようやく見ることができた。

群生してるが、あまりにも小さすぎて見逃してました。
我が輩の目は節穴だと悟った

以上おしまい

近くに「大久保のセツブンソウ群生地」






Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

彦根城金亀公園、井伊直弼公像と梅の木
今、見頃です。

現在彦根城天守は改装中で入れません。
その代わりに佐和口多門櫓が公開されてます。

本丸、西の丸には行けます


馬《●▲●》助ヒヒーン♪



































コメント
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