馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

木俣清左衛門家

2023-05-29 11:59:00 | 近江の史跡
先日、土佐遠征をしたが、
土佐と言えば、
【木俣守勝】
土佐守と称してたので、井伊家の家臣は「土佐殿」と呼んでました。

木俣家は伊勢の神戸出身、
守勝は三河岡崎で生まれ家康の小姓を務めた。
その後、明智光秀の家臣になり頭角をあらわす。
本能寺の変後は再び家康の家臣となり
井伊家の目付として佐和山城に。
新しい城の選定に関しては、磯山や荒神山などいくつか候補があったが、
守勝は彦根山を推し、家康も了承しました。
そして、2代藩主井伊直孝を支えて筆頭家老となり、最大一万石の領地を得ました。
井伊家と縁戚関係をもち、他の家老とは別格の地位を得ます。

江戸時代、平和となり彦根城の実質上の大手は中山道に近い佐和口御門となり、
木俣家の屋敷も佐和山多聞櫓の内側にありました。
藩主の参勤交代でお国入りする時は必ず
佐和山御門を入り、木俣家屋敷で接待を受け、その後お城の表門へ入るのが慣例となりました。



ちなみに江戸城では将軍のお宮参りでは必ず井伊家に立ち寄るのと同じパターンで主君と筆頭家臣の絆を確かめるためと言って良い。

現在彦根城博物館では
木俣清左衛門家資料の企画展が開催されてます。

お越しヤス!


中堀のツル


佐和口多聞櫓
塀の向こう側に木俣家屋敷がありました。
ちなみに堀の反対側は井伊直弼が過ごした埋木舎があります


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が家のモミジ葉ゼラニウム

花が咲きました。
小さいです


花より葉っぱが魅力ですな。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が地方、早くも梅雨入り。

早すぎですな。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【土佐遠征】2、土佐中村城下町

2023-05-24 16:33:00 | 土佐国の史跡
2023年5月9日
土佐中村城を縦走し、北端の中の森駐車場から崖下へ降りた。



縄張り図では
詰城、今城との間に堀切があります


しかし、現在はグーグルマップ
大きな団地になって跡形もない

この小山は

城跡探索はここであきらめる

城下町探索をしながら駅へ戻ることにした。

昔、マイカーで四国一周した時は
中村市でした。
佐田沈下橋にも行きましたよ。

土佐中村は関白の家柄の一條氏の城下町で約百年続く戦国大名になりました。
まずはお墓へ。

民家横で、かなり迷いました
階段を上がると

後に長宗我部元親に攻め滅ぼされることになるのですが、
この辺の経過は司馬遼󠄁太郎の本が面白いです。

合掌!

城下町の中心部へ

次に
一條神社へ
小高い丘の上にあります
中村御所と呼ばれた

藤棚は時すでに遅し

じっくりと探索したかったが時間が無くて

境内から中村城跡を見る

階段下に

ここから駅へ急ぐ

このルートを足早に南下
一條氏は京都の碁盤目状の街並みを再現し、現在までその町割り残ってます
南には大文字山があり送り火もおこなわれてるそうです


9時24分
特急あしずり、高知行きに乗りました

ちなみに朝昼兼用のパン1個を列車内で食べた

次は長宗我部氏の山城へ


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家のミニバラ

昨年は全く咲かなかったけど、

今年は無茶苦茶咲きました

こんなに咲いたの初めて

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【土佐遠征】1、土佐中村城

2023-05-19 15:03:00 | 土佐国の史跡
最近1ヶ月近く体調不良となり、もうそろそろ我が人生も潮時か、と思われ。
ならば、最後の思い出として、
ケアマネさんにお願いして一週間の特別休暇をいただきました。
母は2回目のショートステイへ。
我が輩が倒れたら否応なく介護施設に入らねばならないので、お試し練習も兼ねて、です。
我が輩は鬼の居ぬ間に命の洗濯として
遠征に出かけることに。
北国街道歩き、前回は金沢で終了したので、今回は金沢から倶利伽羅峠を越えて富山県へ向けて歩く予定をたてた。
準備完了し、いざ出陣まで秒読み
と、思っていた矢先に
能登の大地震が。
余震の心配もあり、ケアマネさんの意見もいれてこちらは断念しました。
そこで、急遽計画変更。
四国のお城で唯一高知県だけが未踏だったので、土佐国の城を制覇することにしました。

2023年5月8日、
京都駅八条口。
深夜高速バスしまんとブルーライナーに乗りました

21時00分出発

途中、淡路サービスエリアで休憩


翌日
5月9日
道の駅あぐり窪川(四万十市)で休憩

そして、
6時45分
中村駅到着、下車。


昔、マイカーで四国一周した時は雨の降るなか、佐田の沈下橋に立ち寄り、
中村で宿泊した。
当時は中村市だったが、
現在は合併で四万十市になってます。

目的地は中村城ですが、駅から徒歩30分
以上かかる。
後の予定が詰まってるので、ここは駅前に停まってたタクシー(1060円)を利用した。
運転手さん色々と中村城のことを説明してくれて勉強になりました。

7時08分為松公園到着

実はここ道路になってますが、
本来は

堀切でした

堀切が桜の段と二の丸と為松城を分断してます
桜の段


二の丸には郷土博物館があります。

土塁が三方を巡ってます


為松城が本丸かな?
中村城は東城、為松城、今城跡などの城を総合して中村城と呼んでます
土佐中村城は、公家出身の一條氏がここに土着し、戦国大名になりました。



中村城には家臣の為松氏が入り築城したとされてます。
一條氏没落後は長宗我部氏、山内氏が支配したので、それぞれの時代の遺構が散在してます。
為松城跡は為松氏と山内氏の両方が居城としたようです

中の森手前に土塁が少しだけ残ってる。

この付近は動物園になったのでかなり破壊されてます

北端の駐車場までが城の主要部で
この下に大堀切があった


ウ~ン…

続く…



馬《●▲●》助ヒヒーン♪












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【御代参街道】15、岡本宿~鋳物師泉涌寺

2023-05-13 19:02:00 | 御代参街道
2020年6月7日
ガリ版伝承館に寄り道した後、




彦根藩の領地は蒲生郡日野町入口付近まで伸びてました

高木神社へ



滋賀県内の寺社の史跡巡りをすると信長焼討にあった、という解説がたくさん出てきます

祠横に京街道道標が


伊賀道と伊勢道は東海道の先で分かれます


宿場の石碑「…屋跡」の表示はこの他にもたくさんあります。
紹介しきれないので詳細は現地を歩いて確かめてください。




境内に
国重文の塔です




続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が家の赤いバラ
一昨年の豪雪で枝が折れたが、また復活してくれました

ペチュニアは秋まで咲いてくれるばず。
白い花はよくわからない



馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【富樫館跡】

2023-05-06 23:31:23 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【富樫館跡】石川県野々市市
とがしやかたあと。
野々市市は金沢市の南隣に位置し、金沢市のベッドタウンとして発展してます。
両方が合併すれば金沢市は50万人を超えます。
我が輩、7年ほど前から北国街道歩きをしてまして、
今やライフワークとなってる。
我が地元の鳥居本宿をスタートして北上し、福井県境の峠を越えて、さらに石川県に突入。
一昨年、松任市に到着。
そして、昨年野々市〜金沢まで歩きました。
野々市宿は宿場の雰囲気がよく残ってました。

しかし、キョロキョロするあまり、わずか数センチの段差につまづき横転しました。
大きな怪我にはならなかったけど、最近はホントによくコケます。
生傷が耐えない。そのうちとんでもない怪我をしそうな…
この野々市宿に富樫館がありました。
富樫といえば、「勧進帳」が有名。
義経弁慶が奥州に向かう時に事情を察しつつ安宅の関を無事に通してくれたのが富樫氏でした。
冨樫氏は加賀国の守護として野々市に居館を構えた。
現在、北陸鉄道石川線の「野々市工大前駅」の駅前に石碑と解説板があります。


ちなみに富樫一族の山川氏館跡の解説板も駅前にあります。
富樫氏の石碑は駅前にあるが、
守護所跡は少し南に行った場所に解説板がある。
発掘調査されて遺構が確認されてますが、現状は解説板のみで単なる平地です。
なお、野々市文化会館前には富樫家国の銅像と解説板があります。

富樫氏は加賀国守護でしたが、室町時代一向一揆に敗れて没落しました。
もし、富樫氏が戦国大名として生き残れば、野々市が石川県の中心地として発展し金沢はベッドタウンになってたかもね。
富樫氏は、本来藤原氏で石川郡富樫郷を拠点としたために富樫氏を名のったようです。
樫の木で富む土地だったのかな?
野々市の由来は諸説あります。
本来は布市で、布の市場が立った。
そして、野々市に変化したようですが、
その由来は間違い!
NO〜、ノー、NO〜市
と言われるかな?
以上、おしまい。
□■□■□■□■□■□■□■□■
地名パズル
 甲 主
○○○○←土佐県
古町津町
墳 街茶
群 道屋
   街
↑↑↑↑
美近肥加
濃江前賀
県県県県
 
答えは次回!
Φ(*^ひ^*)Φ
次回は、お盆休み頃を予定してます。
月曜日からコロナ禍も終わり平常運転になります。
お盆頃には復活してたりして…
昨日、能登で震度6の地震がありました。
次回の北国街道歩きは金沢から能登、そして富山県へと向かう予定です。
大丈夫かな?…
某ラジオのパーソナリティさんが、
「珠洲市てどこ?知らない」と言ってた。
珠洲市の読み方、今回の地震報道で初めて知ったという人もいるのでは?
我が輩、若い頃ゴールデンウィークに同僚と車で能登半島一周したことがあります。
北朝鮮による拉致事件が日本海側で頻繁に発生してた頃ですわ。
同僚とは別行動で輪島市の曽々木海岸を一人で散策した。
運が悪ければ、我が輩も拉致されたかも?です。
夕方、輪島市から半島をグルっと周って珠洲市内へ入った。
道路が渋滞してました。
すると、温泉街の呼び込みが寄ってきて車の窓越しにうるさく誘って来ました。
珠洲市で泊まる予定が無かったので煩かったですわ。
今はもう温泉の宿の呼び込みは無いだろうね。
もう何十年も能登半島には行ったことない。
久しぶりに行きたいです。
いやそれより、
地震の被害が増えないことを祈るばかりです。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【鷹尾山城】

2023-05-04 23:50:28 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介。
【鷹尾山城跡】兵庫県三木市
たかおやまじょうあと。
三木市役所の西側の丘陵上にある。
北側が三木城の本丸なので、南を護る支城の1つである。
戦国時代の有名な三木合戦では、本丸が別所長治、
鷹尾山城には長治の弟が護った。
しかし、織田軍に攻められて落城。
秀吉自身がこの鷹野山城に直接入って別所長治との降伏交渉をおこなった。
我が輩、2年前だったかな?
三木城の付城群を探索した。
三木城から南下したが、山の起伏のために迷ってしまい、犬の散歩をしてた女性に場所を尋ねた。
しかし、知らないと言う。
地元なのに知らないなんて…
結局のところそのまま坂を登ると市役所があり、その向かい側の体育センターの裏に城跡遺構がありました。
体育センターの前には城跡の解説板があり、犬の散歩をすれば気づくはずなんですがね。
ま、歴史に興味がないと気にしないか…
鷹尾山の地名由来はよくわからない。
鷹の尾のような形の山だからかな?
地形図を見ると確かに尾根が長く伸びてる形だが。
住所としては三木城本丸や三木市役所が、上の丸町。
鷹尾山城は、福井町になってる。
福井という地名は三木市となった時に新しく付けられた大字のようです。
三木市となる前は美嚢郡でした。
難しい漢字ですが、読みは「みのう」です。
由来は、
ネット検索すると
「神功皇后が、朝鮮出兵の途中、三木の君が峰で休座されたとき、土地の人がつぼに入れた酒を献じたことから御酒、美壷と呼ばれたのが始まりで、御酒が三木、美壷が美嚢(みのう)に転じた」
という説明があった。
君が峰、現在の住所は市役所の東側の地域の地名として残ってる。
御酒を「みき」と読むのはわかるが、
美壺を「みのう」とは読まない。
みつぼ、あるいはみこと読むはず。
嚢は「のう、どう、ふくろ」
どうして壺から嚢に変化したのか?
不思議ですね。
共通点はどちらも入れ物だということ。
それしかわからない。
鷹尾山の鷹は
言われを隠すよ、のう…
明後日に続く
Φ(*^ひ^*)Φ
NHK大河ドラマで井伊直政が登場してました。
徳川四天王の1人、後の佐和山城主です。
現在佐和山の麓の清凉寺(龍潭寺の隣)にお墓があります。
井伊家の菩提寺で歴代藩主の墓があります。
江戸時代の井伊家の文書を読むと
歴代藩主は毎月必ず清凉寺に参拝してます。行けない時は家臣が代拝してますが。
寺は石田三成の重臣島左近の屋敷があった場所に建てられました。
ところで、「清凉寺(せいりょうじ)」
つい最近まで我が輩は「清涼寺」と思っていて、原稿用紙に書き下してました。
「涼」も「凉」も同じ意味の漢字で、「にすい」か「さんずい」かの違いというものの寺名となると間違えてはいけません。
先輩に間違いを指摘されて愕然!
目からウロコ
いや、
我が輩は研究者失格
いや研究者じゃないっつうの。
とはいえ、情けないわ…
Φ(*^ひ^*)Φ
昨日大津市の膳所へ行った。
山への道の途中で名神高速道路の高架橋を渡る。
下の道路を眺めると
意外にも車はスムーズに流れていて大渋滞は無し。

拍子抜けでした。
ただし、夜はかなり混んでたそうですが…
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
夜、寝る前に必ず親の紙パンツを交換する。
母が「おや、今日は珍しく手が温かいな」と言った。
普段、我が輩の手は冷たいといつも愚痴を言われてる。
だから、驚いたのだ。
実は浴室で毛布を手洗いしたから温かったのです。
それに部屋の気温も23度になってる。
今夜は夏の夜、
暑いぞ!
熱中症に注意だき。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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地名夜話【朝倉館跡】

2023-05-02 23:02:26 | 歴史地理
地名ちょこっと紹介
【朝倉館跡】福井市
あさくらやかたあと。
福井市郊外の一乗谷地区に残る城館跡。
越前守護の朝倉氏の居館だった所で城下町を含めて全域が土の下に良好な状態で埋もれてました。
1967年から発掘調査がおこなわれて復元され、国の特別史跡に指定されてます。
国の特別史跡というのは、いわゆる国宝に値する史跡ということ。
我が県の安土城跡及び彦根城も同様に国の特別史跡です。
40数年前学生時代に見学に行きました。
資料館が発掘調査の拠点となっていてお粗末な造作でした。
しかし、いつの間にか一大観光施設となり百名城にも指定されました。
この建物も老朽化したため、昨年反対側の敷地に新しく資料館が建てられました。
新資料館、いつか見に行かねば!
以前にも述べたと思うが、昨年一乗谷の山城に登った。
昔は誰も登る人が無かったが、近年ハイキングコースが整備され、山城人気もありたくさんの人が登るようになりました。
巨大な山城で隅から隅まで探索したら帰りの汽車の時間に間に合わなくなり、路線バスも終了して困った。
しかし、復元建物の売店で働いてる女性が車で駅まで送ってくれて、無事に帰ることができた。
いやぁもう感謝感激飴おかき。
地獄に仏とはまさにこのこと。
実は北国街道歩きでも福井県の人に何度も助けられたことがある。
福井県の人はほんとに良い人ばかり、足向けて寝られませんわ。
それに引き換え、我が県民は…
朝倉氏の由来は、福井県ではなくて
但馬国養父郡朝倉。
平安時代に日下部氏が朝倉に居住し、朝倉氏と称した。
その後、別家が越前に移り守護の斯波氏を滅ぼして戦国大名となるのです。
なお、現在養父市八鹿町朝倉地区には朝倉城跡が残されてます。
いつか訪ねてみたい。
ちなに養父は「やぶ」、八鹿は「ようか」と読む。
難読ですよね。
この八鹿町の特産が山椒で、「朝倉山椒」と呼ばれてます。
この朝倉山椒の名付け親が、
驚くなかれ
牧野富太郎博士なのです。
新品種として登録されたそうです。
朝倉氏は我が近江の浅井氏と強い結びつきがあり、浅井氏の城や砦は朝倉氏の影響を受けたものがいくつもある。
浅井氏の本拠は伊吹山系。
牧野博士は伊吹山に何度も訪れて薬草などの研究をされました。
浅井氏、朝倉氏と牧野博士、
アサからぬ縁にバンザイサンショウ!
ちなみに牧野博士の2番目の奥さんは彦根藩士の娘さんでした。
その縁で彦根城にも訪れて
「オオトックリイチゴ」という新品種を発見されました。
トックリは徳利の形に似てるから。
彦根城でしか見られない固有種なので是非ともお越しいただき、とっくりと見てほしいものです。
明後日に続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
前回、美濃松山駅の読み方について述べたが、美濃紙は「みのうがみ」ではなくて「みのがみ」と読みますよね。
基本的に美濃は「う」を略して「みの」と呼ぶのが正解のようです。
ところで、京都市には
阪急「西院駅」がある。
当然ながら「さいいん」と読む。
しかし、嵐電の西院駅は「さい」と読む。
江戸時代「西院」を「さい」と呼んでたのを採用したもの。
だから、どちらも正しい。
でもどちらも「さいいん」と読んでしまうよね。
ちなみに嵐山の有名か酒の神様「松尾大社」は「まつおたいしゃ」と読むが、本来の読みは「まつお」ではなくて
「まつのお」。
のが入るのですの…
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
5月、皐月になりました。
我が家のサツキの花は今年も咲かなかったが、ツツジは綺麗に咲きました


今満開!


とはいえ、ツツジはツバキと同じく散ると汚い
ウ~ン…
明日から大型連休の後半戦に突入。
名神高速道路の大津インターチェンジ付近では30キロ以上の渋滞が予想されてます。
我が輩は山の上からその渋滞を見に行こうと思ってます
て、どんな趣味や?
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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