馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【旧東海道歩き56】『栗東市伊勢落~石部宿』湖南市

2019-08-28 23:43:33 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
14時41分、

長生寺から東へ向かうと町並みが途切れる
伊勢落集落は栗東市の東端だ。
左手に伊勢落の千本松があるようになってるが、探しても見つからずあきらめた。

上は名神高速道路。
街道はこの手前で2つに分かれる。
ふりかえってみる

真っ直ぐが下道、右折し山の中を越えるのが上道。
上道は膳所藩が造った新道で遠回りになる。しかも山の中を通る。
我が輩は下道を行く。
昔の人も上道は通りたくなかったそうですわ。


これより湖南市。
湖南市は甲賀郡石部町と甲西町が合併して誕生した。
同じ甲賀郡だが、
京阪神に近いということで両町は発展し、平成の合併では甲賀市には加わらなかった。

石部町のマンホール
画像では楕円形になってるが、当然ながら本物は真ん丸です。
町の花「サツキ」と「東海道石部宿歴史民俗資料館」がデザインされてます。

JR草津線沿いを進む

会社の名前が「こなん」
湖南市だけでなく野洲市、草津市、大津市なども湖南地域です

「栗東水口道路」の下を通る

国道1号線の慢性的な大渋滞を緩和するために栗東市から野洲川を横断して野洲川右岸を通るバイパスが造られた。
通勤時、この付近の渋滞はホントに半端ないですよ。

15時00分、
「宮川橋」

宿場らしい橋になってますね


次に「五軒茶屋橋」

ここで上道と下道が合流する。

解説によると、
1682年の大洪水で、東海道が消滅。
翌年、膳所藩の本多氏が南側に新道を造った。
この橋から南の山の中に五軒茶屋があった。
新道は山の中を通るため、「五軒の茶屋が石部宿から移転することになった」
↑この説明の意味がわからない。
五軒茶屋はこの橋のある下道に移ったということかな?
と、最初思ったが、
そうじゃなくて、石部宿にあった茶屋が山の中の上道に五軒揃って一緒に移ったということ。
一軒だけだと心細いので五軒が申し合わせて移ったようですな。
結局、明治時代に新道は廃止、本来の旧道が東海道の本道として復活したそうです。

江戸時代、下道はあくまでもバイパスだったようです。
いつか機会があれば、江戸時代の本道というべき上道を歩いてみるつもりです…

石灰岩の山

しばらく進んで、

橋を渡る

橋を渡った時に筋を間違えて県道118号を進んだため
西縄手跡を見逃した



で、ここで右折

『西の見附跡』

ここから石部宿となる。



すぐ横が、石部西交差点

少し進んで、

この左手の消火栓の手前に一里塚跡の看板があるはずだが、こちらも見逃した。

ボォっと歩いてんじゃねぇよ!
と言われそう。


旧東海道の矢印看板の所で右折


曲がった左手に



『鉤の手道』解説板
宿場ではよく見かける折れ曲がりです。
街道歩きにとっては嬉しいけどややこしくもある

道は突き当たる
さっきは右折したが、今度は

左へ曲がれという表示

このT字路右手角に
『田楽茶屋』


栗東市岡に三軒の田楽茶屋跡があったが、ここに目川の茶屋が再現された。

商い中なので、うどん食べたかったが、今回はパスした。


その57に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
胃がん検診でバリウム飲んだ。
下剤をもらって、下痢した。
以来、お腹の調子が悪い。
もう二度とバリウム飲みたくない😰
馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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彦根城とひこにゃんが、民間委託へ

2019-08-27 21:56:12 | 滋賀県情報

NHKニュース


彦根市は、国宝の彦根城と市の人気キャラクター「ひこにゃん」のさらなる活用を図ろうと、両者をセットにして観光PRに強みを持つ民間業者に運営を委託する方針を決めました。

これは、彦根市の大久保貴市長が26日の定例会見で明らかにしました。
彦根市ではこれまで、市の人気キャラクター「ひこにゃん」については、彦根城周辺でのパフォーマンスに限って民間業者に委託してきましたが、新たに彦根城の運営も民間に委託し、両者をセットで運営してもらうことで、さらなる活用を図るねらいです。
市へ届け出れば、彦根城内で新たなイベントを企画し、「ひこにゃん」を積極的に登場させることも可能になるということです。
市では将来の支出を約束する「債務負担行為」として、来年度から3年分の委託費用およそ8億6000万円を補正予算案に盛り込み、来月2日から開かれる定例市議会に提出する方針です。
可決されれば、ことし10月をめどに委託先を募り、年内には業者を決めたいとしています。
大久保市長は、「『ひこにゃん』を城とともに外部委託することによって、これまでよりもスムーズに活動できるようになる。彦根城を訪れた人たちが楽しみながら文化財に触れられるような環境を整えていきたい」と話しています。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
民間委託にすれば、殿様商売から脱却。
ひこにゃんの活用&活動はこれまでよりもアップしそうですね。
入場者が低迷してるのでその打開策として導入することにしたそうだが、これはあくまでも表向きの理由。
本音は、
市が財政難のため、彦根城維持の費用を大きく削減するのが目的。
たくさんの職員がリストラされますわ。

彦根城は、国宝&特別史跡に指定されてる。
民間に任せて大丈夫なのか?
入場者を増やすために、とんでもない企画が出て
知らないうちに石垣が壊されたり変な建物が出来たり、
ということが起こったらどうするの?
ちょっと心配だにゃん!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【旧東海道歩き55】『和中散本舗~徳生寺』栗東市

2019-08-26 22:00:03 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
13時31分、
和中散本舗を出て東へ向かう

T字路に来ました


東海道は右折します。
右手に、先に紹介した日向山が見えます


左手に新善光寺への案内看板あり

『新善光寺道の道標』


「是より一町餘(余)」


新善光寺には昔、マイカーに両親を乗せて連れて来たことあるが、あまり記憶にないので立ち寄ることにした。

林公民館



二階建ての大きな山門

「九品寺新善光寺」


鎌倉時代中期、信濃の善光寺阿弥陀如来像を分身を安置したのが始まり。
枯山水庭園が美しいそうです


栗東八景、

彼岸の繁華、と書いてある
お彼岸は凄い人で賑わうのだろうね。
新善光寺は中山道と東海道、どちらからも行きやすい場所にある。
両方の街道からの参拝者を取り込める街道の要衝ですな。

14時01分、

街道に戻りました

石柱あり!

「従是東膳所領」
是より東、膳所領
膳所藩の東の端はここまでだったということです。

薬師如来堂

長徳寺

飛び出し坊や

道標
「新善光寺道 従是三丁」
「如来堂道」
旧東海道は道標が充実してる
それにひきかえ北国街道は…


さらに東へ

右手の奥、日向山の麓に
『岩上神社』


ここのベンチで昼食にしました

パンを食べた
遅い昼食ですわ。

14時32分、
街道歩き再開。

変わった花ですね。


「徳生寺」


栗東市の観光マップでは徳正寺と記載されてる。


間違ってるぞ!



その56に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
健診受けた。
血圧が高いため、眼底検査と心電図を追加で受けさせられた。
後日、赤紙が来るだろうな😥


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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『多喜山城②』栗東市

2019-08-25 21:58:19 | 近江の史跡

2019年2月3日(日)、
主郭北側から
東側へ向かう

この付近へ来ると土塁っぽいですな。

東虎口へ来ました


土塁に挟まれた通路

折れ曲がる
さらに折れ曲がる
画像はイマイチだが、
縄張り図では、枡形がしっかりとわかりますね

土塁の上に登る
右上が櫓台を囲む土塁

穴蔵を見下ろす。

四角形の土塁に囲まれた窪み。
画像では分かりにくいですね。

縄張り図で想像してください


米原市の鎌刄城では、北端部に半地下式の礎石建物が検出されていて、後の天守の先駆けともいうべき櫓があったと推定されてる。
こちらも同様に櫓台の下の穴蔵かもね。

山頂部から主郭を見る

山頂に石が積まれていて222.9mと書いてある。
栗東市付近の平地は約100mなので比高差120mの山です



主郭北側へ移動

こちらの土塁はちょこっとわかりやすいかな?

解説板

織田信長軍が築いたそうです。
敵は伊賀・甲賀に逃げ回るが、隙あらば襲ってきたりする佐々木六角氏。
誰が城代になったか、不明のようです。

近江の山城の本としてはバイブルとも言うべき
『近江の山城ベスト50を歩く』
の縄張り図、

現地の縄張り図と
ほぼ一緒なのですが、
よく見ると東虎口と西虎口の表示が逆!
当然ながら現地の縄張り図の方が正しい。

近江の山城ベスト50の本、所々このような間違いがある。
甲賀土山城では、腹立つので案内板に「間違い」と落書きしたぞ!
て、もう消えてるだろうけど…

ちなみにこの本は今年の春に最新版が出ました。
この間違いは訂正されてると思うのだが…

野洲川、三上山を見る


西虎口に戻った

普通の人はこのまま石段を降りるのだが、変人の我が輩は
再び東虎口に引き返し、
東側から下山することにした

羊歯が密生


なんとか登山道あり

段々曲輪や堀切、竪堀が無いか左右を見渡すが
イマイチわからない


東側は六角氏の本拠の甲賀方面なのでこちらの防備が厚いはず!


土塁かな?と思って眺める

池です。

たぶん農業用だと思う


薮を掻き分ける



田んぼに出ました

登山口を振り返ってみる

登山口の目印として杖を2本、木に立て掛けて置いたので、

挑戦したい人はどうぞ!


今、登った日向山を見る

旧東海道をのぞむ位置にあり、
湖南地域と甲賀郡地域の境目を見張る城跡ですな。

以上おしまい


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

熱帯夜も解消、
夜は布団無しだと
寝冷えする

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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『多喜山城①』栗東市

2019-08-24 14:43:52 | 近江の史跡

2019年2月3日(日)、
日向山古墳から北へ移動

11時21分、登山口。

竜王宮の鳥居

左手に竹薮
入るな、ということなのであきらめる。


721段の石段を登る

資材を運ぶレールのようです。
子供なら乗れそうだが…


370段目

この踊り場は、古墳なら墳丘の1段目かな…
曲輪跡かも?


家族連れの後ろを追いかける

また鳥居



電波塔か変電所のような施設
削平地に造られることが多いので曲輪跡だと思う

曲輪下で家族連れが休憩してるので追い越す。


主郭手前の曲輪。

二の丸と名付ける

最後の急斜面を登ると
三つ目の鳥居

麓から約15分です

これは石垣の一部のようです

石垣を越えると主郭。
内部は

石垣の内側の土塁との間が堀状になってる。

先ほどの二の丸南側の腰部から折れ曲がって主郭に入る、いわゆる枡形虎口の通路ですな。

二の丸の南側に戻り、

折れ曲がりをたどってみた。






721段目の標識
ここが主郭の入り口で門があったかも?
現地の縄張図に加筆した。
本来の登城道は妄想です…


湖南アルプスを見る
いつか縦走しなければなるまい

南側の低い土塁を進む

と言ってもどこが土塁?
修行が足りない初心者マークの我が輩は認識できない。


竜王宮に参拝する。

竜宮の池

どんな干ばつでも水が絶えたことないらしい。
山頂なのに不思議ですな。

その②に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
珍しく今週は土日、出かけない
体力と気力温存し、夏の疲れを癒す😅
馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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『日向山古墳』栗東市

2019-08-23 13:22:45 | 近江の史跡

2019年2月3日(日)、
10時35分、

またしても手原駅です。
駅前に「東経136度の…」モニュメントがあり、

地名由来が書いてある。
手の赤ん坊、手が孕ませた村が手原の由来。
手原は、手孕村。
女性が、その身体に男性の手が接触したのが原因で孕み、片手を産んだという説話による。
ま、あくまでも説話、伝説です。

再び、稲荷神社。

「手原ベンチ」がユニークですね。
地名由来と関連付けてます。

ただし、こちらは
歌舞伎の「源平布引滝」で、
子供を産んだのは手だけだと偽り助けた。
木曽義仲の母の話。
転じて、地域の子供を見守る活動に結びつけて設置されたようです。

境内の端っこに
「赤坂山記念碑」


南のほうに赤坂という地区があるのでその付近に赤坂山があったのでは?
江戸時代より手原地区の共有山として管理していて、地区の開発や財政に役立ったということで、記念碑が建てられたようです。

門柱が2本ある。

前回紹介したが、明治時代なって建てられた厚進学校→手原小学校の校門の門柱。


このブログで、志津地区、岡地区を紹介してきたが、今回の手原地区も同じく地元の人の郷土愛というか意識に脱帽です。
我がひこにゃん市も見習うべきだが…

旧東海道を進む
行者堂。

「道標」

上鈎←手原→小野(?)
前回、街道歩きした時にこの道標を見逃してる。
街道歩き、見落としがあるので何度も歩くべきですな。

11時00分、
「六地蔵一里塚」

旧東海道はここの分岐で和中散本舗の方へ向かうが、
ここで東海道とお別れ、今回は分岐を右方向へ。

最近あちこちへ出かけるとGoogleマップのナビをよく活用するようになった。
「右方向へ」、「南方向へ」進め!などという指示が出ることがあるが、自分の今の位置からどっちが右なのか?どっちが南なのか?、
わからない時がある。
それがわからないから、ナビに頼ってるのに!
と、文句言うことがある…

公園に親子狸?

NHK朝ドラ「なつぞら」の後は、信楽地区が舞台となる「スカーレット」が始まります。
楽しみですね。

公園と書いたが

『名勝大角氏庭園』の表示があるので、ここも庭園の一部なのかな?

庭園裏の土塁にそそられます。

病気です…
土塁を越えると庭園内に入れると思うが不法侵入になるので、やめましょう


旧和中散本舗バス停

「こんぜ(金勝)めぐりちゃんバス」が走ってるが本数が少なすぎる


郵便局から山を仰ぎ見る

11時10分墓地に来ました。

手原駅から約35分かかった。
節分だからか、墓参りする人が多かった。

『日向山古墳』にっこうやまこふん
説明板の前に駐車されてるので撮影できない。


墓地の裏山に古墳。

日向山古墳は、
円墳で、片袖式の横穴式石室がある。
盗掘されてるが、6世紀頃の有力氏族の墓と考えられている。

古墳の上に登りました。

墓地を見下ろす

古墳と墓地が一体化してるのがいい。



石室への入り口

こりゃダメですな

次回は山に登ります


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
夕べは涼しかった
久しぶりにぐっすり寝られた
気温が少し下がっただけでこんなにも快適になるんですね。
今日は扇風機いらない。
そのかわり、ひどい雨!
お出かけ予定を中止しました…



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き54】『六地蔵一里塚~和中散本舗』栗東市

2019-08-22 07:04:03 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
12時59分、
『東海道一里塚』碑
現在、六地蔵という地名ですが、本来は「梅の本村」でした。
江戸時代に大きな梅の木があったのが由来。
この梅の木の木陰で薬を売ってたのが和中散。

「間の宿六地蔵 西へ至目川一里塚」と書いてある。
Googleマップで目川一里塚跡からの距離を調べたら3.8kmでした。
約一里だから、正解ですな。
石碑の反対側には

「和中散のまち六地蔵/東へ至石部の宿」
草津宿と石部宿の中間に位置するので間の宿として旅人の休憩場所となり、梅ノ木立場として栄えた。
その名物が和中散でした。
この後、和中散へ行きます。
というか、実はこの日の目的は東海道歩きじゃなくて和中散を見学するためだったのです。

栗東八景「積日の海道と城跡」

日向山登城記は後日アップします。

すぐに右手に
『和中散本舗』

国重要文化財 大角家住宅。
寛永年間(1624~)に建てられた。

吊り看板には

「根本梅木 本家 ぜさい」

屋根は普通の桟瓦だが、

白い卯建壁の上の屋根は本瓦葺きになってる


庇の下の柱は一本おきに外されるようになっていて、
あげ戸を上下して茶釜を備えて旅人にふるまったそうです。

左手の切妻の四脚門と白い袖塀が、本陣への入り口


それまで基本的に予約無しの見学はダメだったが、今回から春と秋の特定の日曜日に限り特別一般公開されるようになった。
なので、やって来たのです。
入場券は400円也。


中に入ると土産物が売っていて、
ボランティアガイドさんが解説してくれました。


「わちうさん」の額

本元家梅木村元祖、
かな書看板他に類なし、

和中散は、同業者が五軒に増えたので区別するために
本家本元だと主張したのです

本家は「是斎(ぜさい)」と称し、大角氏を名乗る。
元和年間、京都の名医半井(なからい)朴養のむすめをめとった。
その時に引出物として和中散、奇妙丸(小児薬)などの製法が贈られたので売薬を始めた、という。
慶長16年、徳川家康が近江永原に来た時に腹痛を訴えたので、和中散を服したらたちまち快癒。
一躍有名になったそうです。

近江永原といえば、野洲市の永原御殿が徳川将軍専用の宿泊所で朝鮮人街道近くに設置された。
御殿だが、その造りは城跡と言ってよい。
いつかアップします。

天井にツバメさんの巣。

巣の跡がいくつもあり、歴史が感じられる。
いいですね。

入り口の部屋、

薬を量る天秤はかり、がある。
天井の太い梁が凄い。

最初は薬屋さん専門だったが、隣に座敷を増築し、「梅の木小休み本陣」と称して天皇・公家・大名などの休憩所になった。

庭に明治天皇、皇太后様が休憩された記念碑が建てられてる。

右横に式台、「本陣玄関」
屋根は千鳥破風で、軒先が長めの庇になってる。

庇の下の欄間の彫刻には亀、松、梅などが緻密に描かれてる



四脚門の内側

部屋の奥へ進むと由緒ありそうな屏風が並ぶ

突き当たりはひときわ高い上段の間、


玉座と書いてある。

中央に草履が置いてあるが、天皇はこれを履いて庭の築山に登られたそうです。

襖絵

国指定名勝庭園

奥に見えてる山が日向山(にっこうやま)で借景として取り入れている
小堀遠州作と伝えられてる

カキツバタかな?
ちょうど見ごろでございました。

入り口の反対側の土間には
『木製製薬機』

車輪を2人で回転させて石臼を廻し粉薬をつくった。
国内で唯一現存という貴重なもの。



外に出ました。
旧東海道を挟んで反対側に屋敷あり。

本瓦葺きで、長屋門のような造りです。
こちらは
『大角家住宅隠居所』国重文


家族は本陣に住むわけにはいかないので、こちらを住居とした。

現在もこちらに住んでおられるのかな?

以上です。

公開初日だったので次から次へと見物客が来てました。

ただし、アクセス悪い。
バス便少ないから、手原駅から約25分歩くか、

草津駅からレンタサイクルか、

タクシーで6分か、
ですな。


その55に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
地蔵盆になると、子供の頃は複雑な気持ちになったものです。
お供えのお菓子もらえるが、夏休みの宿題の追い込みもある…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き53】『手原稲荷神社~六地蔵一里塚』栗東市

2019-08-21 07:11:15 | 東海道歩き『近江路』

2017年5月28日(日)、
JR草津線手原駅


駅前に『手原遺跡』古代建物群

栗東商工会館建設に伴う発掘調査で発見された。
白鳳時代~平安時代にかけての遺構が検出され、栗太郡の中心地として役場があったと推定されてます。
以前紹介した岡遺跡が栗太郡衙跡と言われるので、この手原遺跡との関係はどうなのか?気になりますな…

そして、前回ゴールした手原稲荷神社からスタート!

稲荷神社由緒

里中大明神を祀る。
室町時代の木造男神座像があるようです
1245年馬渕広政が勧請し、子孫は手原氏と称した。
境内に松の大木があり「笠松の宮」と呼ばれ旅人の休息場となった。

明治天皇の休息された。


12時36分、東へ向かう。

「厚進学校跡」

明治8年に創設された。
後に手原小学校となり、
他の学校と統合されて現在は葉山小学校(手原駅北側)です。
というか、標柱を見るとなんでもかんでも反応して撮影してしまう…

「手原醤油顕彰碑」

塩屋藤五郎家。


解説によると、幕末から大正時代にかけて三代目と四代目が醤油醸造で稼いだ資金で郷土の発展に大いなる寄与があったので、顕彰碑を建てた、ということですな。

隣は
『里内呉服店』

かぎて屋さん。
こちらは国の登録有形文化財。
明治5年創業、大正11年までの50年間呉服店を営んだ。

廃業したが、2007年に85年ぶりに再開した。
今の時代、呉服屋さんは大変だろうが、頑張って商売続けてほしいものですね。



名神高速道路栗東ICへの取付道路が見えてきた

道路下を越えて真っ直ぐ進む

左手に
西厳寺

『肩かえの松』


旅人が松の下で休息した時に、駕籠や荷物を反対の肩にかけ変えた。


ショルダーバッグ、首や肩がこるので時々、左右かけ変えるようにしてます。
さらにズボンのポケットの財布やスマホもわざと左右変えることがある。
いつも同じ位置だと身体に負担がかかると思うんですよね。
まさにこのことか?

右隣は小野公民館

さらに進む。

向こうにちょっと小高いやまが見えてます。
城跡ですよ。

『修齊学校跡』

手原に造られた厚進学校は明治8年だったが、こちら六地蔵地区には明治6年に修齊学校が建てられた。
明治24年に簡易梅ノ木小学校となり、厚進学校ともう一校と統合されて葉山小学校になった。
『巡査駐在所跡』
こちらはよくわからない…

野洲川の対岸の三上山を見る

12時59分
手原稲荷神社から約23分
『六地蔵一里塚』



その54に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
お盆過ぎたら気温が下がってきた。
夜は秋の虫が鳴いてます
もう秋ですな


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【長浜城跡試掘調査現地説明会】

2019-08-19 23:12:31 | 歴史講座、講演

2019年8月17日(土)
長浜城跡で、秀吉時代の石垣が発見されたという報道があり、
その現地説明会が開催されたので暑いなか、出陣しました。

場所は長浜駅西口『豊公園(ほうこうえん)』

公園に入ると檻があります。
サルが2匹います。

暑さのためか?1匹はダウンしてます。
なんでサルを飼ってるのかよくわからないが、
秀吉のあだ名が猿という逸話にちなんで、という人もいます…

すでにたくさんの人が集まってました。

普通の土日は、ボケモンGoをする人でいっぱいなのですが、今回は蹴散らしたぞ!
というか、あの人この人その人この人あの人、相変わらず見知った顔ぶれが何人もいるので、目を合わさないようにしてました。
て、我が輩は逃亡者か?

今回の発掘調査は、あくまでも豊公園を整備するための試掘調査。
長浜城跡の調査ではないので、極めて限定的です。

昭和44年に第1次調査がされて、
湖岸に向かう石垣群が発見されていて秀吉時代以後の石垣と推定されてます。
この延長線を伸ばして推定したのが
図の青線。


本丸と思われる青線上の9ヵ所を設定して発掘した。
しかし、思わしい結果が出なかった。
そこで、
【調査区1】
図を見ればわかるが、推定線から外れてる。
たまたまここを掘ったら石垣遺構が出てきた、という。
つまり、本丸推定線はどうも怪しいですね。

8個の根石が連なっている。

ひときわ大きい石が1つあるが、これは二段目の石垣。
散らばってる小さな石は石垣を裏込めする栗石。
で、たまたま東端で南に石列が折れ曲がってる場所も確認できた。
うまいこと,
コーナーを引き当てたものですな…
東から見る

石材が不揃いで、矢穴技法が用いられてないので、城主だった秀吉~山内一豊時代に築造された石垣ではないか、と推測されたわけです。

そんなわけで、本丸はもっと東へ拡大してるかも?
という見解でした。
ただし、この遺構が本丸跡なのかどうかはわからないけど…

博物館前から天守台跡へ移動する

【調査区5】
こちらは、現在秀吉像が建ってる推定天守台跡の南下付近。


巨石なので、天守台石垣の一部かな?


と、思われるが、イマイチ不明…

説明が終わり、大正時代に積まれた石垣を見学したら、


『矢穴』の張紙が設置されてました。

今回の説明会のために急きょ表示したようですな。

この石垣は、その辺に散らばってた石を大正時代に適当に積んだもので、秀吉時代当時の石垣そのままではない。
積み方はデタラメだが、石そのものは長浜城のいろんな時代の石だというのは間違いない。

最後に、太閤井戸。


実は太閤さんとは全く関係ない。
近世以降の農業井戸跡だそうです。

以上おしまい。

暑いので早めに退散しました


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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地名夜話19.08.18

2019-08-18 22:05:52 | 歴史地理

地名ちょこっと紹介

【天草諸島】熊本県
あまくさしょとう
有名なので今さら説明不要だが、島原半島の南に連なる島々の総称。
大きく上島と下島に分けられ、島全体に約12万人が暮らす。
修学旅行で、雲仙に宿泊した後、口之津港からフェリーで天草に渡り天草五橋を通って熊本市の水前寺公園に行きました。
懐かしいなぁ、また行きたいなぁ。

天草の由来は諸説あり、よくわかってない。
植物の天草が由来、
天は海女、草は人→漁民、
その他いろいろあるが、いつのまにか天草郡という郡名になったという。

で、なんで今回天草諸島を取り上げたかというと、年号が令和になったからである。
実は以前にも述べたが、「令」のつく地名を探した。
クイズとして出題できるような有名な地名が無かったが、
そんななか、天草の別名が
苓州・苓洲(れいしゅう)だと知った。
植物の甘草が「苓」と呼ばれたので、アマクサ繋がりで天草諸島を苓州と呼ぶようになったそうです。

厳密には令和の令と苓州の苓は全く違う漢字だが、ともかく似てるということで今回の出題としたのです。

なお、天草諸島には『苓北町(れいほくまち)』がある。
苓州の北に位置するので苓北と名付けられた。
江戸時代まで天草諸島のなかで一番栄えた中心地で、代官所が置かれた。
富岡城跡が残されていて
砂嘴によって囲まれた巴湾が天然の土塁となってるらしい。
島原・天草一揆の激戦地となった島原半島の原城とともに富岡城にも是非とも訪れたいと思ってる。

一揆の地なので一気に駆け抜けたいものですな。


以上おしまい。

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地名パズル

   坂
 須亀本
◯◯◯◯←丹波国
住宿宿
宿  
↑↑↑↑
篠山東滋
山陰海賀
街街道県
道道 

難しいので、
ヒント!

来年の大河ドラマ


答えは次回!

Φ(*^ひ^*)Φ
前回、紹介した映画『ひろしま』、
録画に失敗しました。

たぶんもう再放送はないだろうな…

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
秋篠宮さまと悠仁さまがブータンへ別便で出発されました。
親子なんだから一緒に行けばいいのに!
と、思った人も多いと思うが、
これは不測の事態を避けるためなのです。
どういうことかわかりますか?
次の天皇継承順位は、
秋篠宮様が1位、
悠仁さまが2位、
もしも、ご家族全員が何かの不測の事態に遭遇すれば、
次の天皇継承者がいなくなる。
つまり、極端な話、天皇家の正統な血筋が途絶えるかもしれないということなのです。
しかし、別々に行動すれば、片方が災難にあっても片方が皇位継承できるわけで、まさに危機リスク回避としては最善の策!

昔、本能寺の変では織田信長と信忠親子が京都にいたために討死、織田家は没落しました。

この教訓から
後に徳川家康は、息子の秀忠を江戸に先に帰らせ、
関ヶ原の戦いの時はあえて一緒に行動しなかった。
幕府を開設後、家康が駿府に移ったのも危機回避のためなのです。

と、我が輩は考えてます…


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今朝、ひこにゃん駅のホームで、ベンチに座ろうとしたら、
財布がある。
どうやら忘れ物のようです。
すぐに駅の改札口に行き、駅員に渡しました。
駅員が、『持ち主が現れなかったら拾い主に…』
と言うので、
無用です、と断った。
代償は期待してない。
我が輩は無欲でバカ正直者なんですわ。
なお、
財布にはカードが入ってるのが見えたので、持ち主はたぶん現れるとおもいますよ。

なんだかんだ言ってるうちに
今年もお盆が終わりました。

長い連休をとった人も明日から仕事なのでは?

お盆が終わると、急速に秋がやってきます。
なんか寂しいものがありますな。

次回の配信はクリスマス頃になると思います。

それまでお元気にお過ごしくださいませ!



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント
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