彦根城博物館で開催されてる企画展(9月29日まで)を見学、解説を受けました。
ホームページより画像を拝借
永源寺はわかるが、
織田信長が鯰江城を攻めるために築いた付城とされて、重ね馬出という珍しい遺構が今も残されてる
ホームページより画像を拝借
第四代藩主の直興は
徳川幕府で大老を勤め、彦根藩政の基礎を固めた人物。
彦根城主としては実質的に初代となる2代藩主直孝公が、3代目は直澄に、
そして4代目は直興に、と指名した。
4代目を直澄の子ではなくて、あえて養子として直興を指名する遺言を残したのは、
直興の聡明さを見抜いての判断だったのではないか、と推察します。
当時、直澄の子がまだ無かったので不安に感じての対策かも、ね。
直興、
大老としては、4代将軍家綱から7代家綱まで仕えた。
5代綱吉の将軍宣下の上使、朝鮮通信使の御用、日光東照宮修復の総奉行などを勤め、正四位上中将という井伊家では最高の官位を得ました。
また、藩政としては、
彦根藩士の履歴書ともいうべき『侍中由緒帳』の編纂、財政建て直しのための「上米(あげまい)」、領内の勤務体制としての筋奉行.町奉行制度を確立、
そして、藩主が自ら領内を巡見するという先例をおこないました。
つまり、北は余呉から南は日野まで藩主自ら出かけて視察したわけです。
そんなわけで、彦根藩中興の祖と呼ばれる。
直興は信仰にもあつく、
元禄8年、佐和山山麓に大洞弁財天を建立しました。
この造営に関しては藩主、家臣はもとより一般の領民から銭1文づつ寄付させて
、なんと25万9526名から銭270貫文を寄進させるというユニークな事業でした。
この寄進帳は当時の社会を知る一級の資料です。
大洞弁財天は彦根城の東、いわゆる鬼門の位置に当たる。
余談ですが、小さい頃、母が『大洞の弁天さんは女性だから、男女一緒に参拝すると、嫉妬して災いあるよ』
と言われたものです😅
一方、永源寺(東近江市高野)の中興のの祖と言われるのが
【南嶺慧詢(なんれいえじゅん)】
南嶺は、丹波亀岡の出身で、永源寺の住持となった。
皇室とも親しく、後水尾法王の養子にもなった。
歴代の住持が紫衣を着用して宮中に参内できる「常紫衣」の勅許を得ました。
紫衣と言えば、沢庵和尚の紫衣事件が有名ですよね。
紫衣は幕府の許可を得る必要がある。
そこで、南嶺は永源寺と繋がりがあった井伊家3代藩主の直澄を通じて将軍家綱の許可を得て、霊元天皇から正式に常紫衣を受けたわけです。
ちなみに永源寺は彦根城が攻められて危なくなった時は、最後の砦、詰城という認識の寺だったそうです。
その繋がりで、4代藩主直興は永源寺の南嶺と深い交流をするようになり、
御殿に南嶺を招き説法聴聞などおこない直興自身の逆修法要(生存中に死後の法要をおこなう)として五十回忌、百回忌、さらに家臣へも法要を勧めた。
この南嶺と直興の繋がりの記録として、 南嶺の一生を記述された「南嶺慧詢行状」という資料が発見されて今回の展示となったわけです。
通常、彦根藩主は亡くなると、
彦根の清凉寺や江戸の豪徳寺が墓所となるが、
直興は、南嶺に深く帰依してたので永源寺と松雲寺を指定しました。
永源寺はわかるが、
松雲寺て、何それ?
と思った人も多いでしょう。
実は我が輩も今回初めて知った。
永源寺住持を辞めた南嶺は現在の愛東町妹に松雲寺を再興し、開祖となった。
ここで晩年を過ごしたのです。
故に松雲寺は永源寺とともに直興の墓所とされ、その後も井伊家と交流されてます。
そして、この松雲寺に残された文書群が現在の研究に役立った。
松雲寺が井伊家に提出した由緒書によると、
宝暦七年(1757)
愛知郡妹村 松雲寺
と、記載されてる。
松雲寺は現在の東近江市(旧愛東町)妹町が住所なのです。
妹は「いもと」と読む。
本来は井元で、後に妹に改名された、
と考えられる。
我が輩は、近現代に改名されたと思ってたが、この文書によればすでに江戸時代中期頃に妹村として存在していたことがわかる。
いやぁ、まさかここで、妹地名の資料を確認できるとは!
講師の解説中、内心小躍りしてました🙌
ところで、この地域には愛知川沿いに河岸段丘を利用した城がいくつか築城された。
井元城もその1つ。
織田信長が鯰江城を攻めるために築いた付城とされて、重ね馬出という珍しい遺構が今も残されてる
この時は城跡を探索したが、松雲寺には立ち寄ってない。
すぐ近くなのに、
無知とはこういうことですわ
馬《●▲●》助ヒヒーン♪