馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
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【伊予国遠征15】大洲城その4

2022-02-08 22:05:31 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。

缶コーヒー飲んで体調回復したので午後の探索に。
「おはなはん通り」


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NHK朝ドラの舞台になりました。
ドラマ見てないけど、樫山文枝さんと高橋幸治さんのお姿は印象的ですよね。

再放送してほしい。


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水路と屋敷の街並み、いい雰囲気で残ってます。
城下町歩きの醍醐味です


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東京ラブストーリーのロケ地にもなったそうです。
このドラマも見てない…


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城下町を右へ左へ巡回した後、


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「旧八幡浜街道」
大洲と八幡浜を結ぶ街道。
三の丸の南側に位置する

「曹渓院」


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大洲藩主加藤家の菩提寺


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墓所に参拝。


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石碑「少年中江藤樹当山天梁に学ぶ」
近江聖人中江藤樹は14歳の時この寺で勉学しました。

堀が見えてきました


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大洲城外堀の南端部です。

左手が高校でその前の通りは


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三の丸並木道と呼ばれ、ここに西門がありました。


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石垣がいいですね。


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外堀を眺める


ノーベル物理学賞を受賞された中村修二博士顕彰碑。


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大洲高校出身だったのですね。


お姫様公園に来ました。


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国重文の三の丸南隅櫓と国登録有形文化財の旧加藤家住宅が残されてる


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「三の丸南隅櫓」


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先に見た苧綿櫓と同じく二重櫓で袴腰型石落が付く。
この石落は外堀側にしか付いてないので間近では撮影してない。


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外堀側からの望遠画像で確認できます
苧綿(おわた)櫓と違って内部公開されてます。


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ちらっと見ました。
どこの城でも櫓の内部は基本的に収蔵庫なので武骨・素朴な造りなのであまり興味ありません。


「旧加藤家住宅」


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大正時代に造られた旧大洲藩主の邸宅。


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内部は立入禁止で、外から眺めるのみ。


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映画「男はつらいよ」のロケ地になったそうな。


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格式あるお殿様のお家の雰囲気を味わえます。


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というか、江戸時代の木造櫓と大正時代の洋風似の建築物が並んでる姿が面白い。


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石垣とカーブを描く道が城下町の名残を思わせます


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そして、
「至徳堂」


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中江藤樹邸跡です。


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ここを見たくてわざわざ遠回りして巡回してきたが、こちらは裏口。


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裏門の隙間から内部をのぞいただけ。
反対側に表門があり内部見学できるのにこの時は気づかなくて、このまま立ち去った。
今思うと残念無念、後悔しきり…


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バス停三の丸


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内堀に戻りました


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このはT字路になっていて、外堀横の南の通路から三の丸に侵入した敵はここで突き当たり左右に分かれて内堀沿いを進むことになる。
兵が分散させられるのです


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内堀通路
折れて曲がる道になってる。

13時00分。


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大手口に戻りました。
これで城下町探索終わり。
臥龍山荘など見逃した史跡多いけど、大雑把なりに城下町の全体像をつかめて満足しました。


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我がひこにゃん城下町より雰囲気いいんじゃないか?と思います。
うーん、悔しいなぁ…

大洲駅へ戻ります

途中に
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武田成章生誕地。
なんと、五稜郭設計者。

町歩きをすると犬が棒に当たる方式でいろんな史跡を発見できるという嬉しさ、

やめられないです


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13時30分「伊予大洲駅」


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松山行きのバスは長時間待ちになるため汽車で行くことにしました。


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次回へ続く~

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家の近くの川によく来ます

餌をついばんでます





馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征14】大洲城その3

2022-01-30 22:22:04 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。
大洲城、本丸南側と二の丸の間の通路へ移動した。


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本丸の高石垣を見上げる。


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段になってます。
「ここから天守閣にあがれません」という表示が。
いいんです、我が輩は石垣が見たいだけなので。


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本丸の張り出した石垣。
石垣が斜めから真っ直ぐ立ち上がる。
いいですね。
いわゆる横矢掛けで、二の丸からの登城道をにらんでます。

横移動し狭い通路を苧綿(おわた)櫓へ向かう。


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だが、立入禁止!
この先へは行けないので下へ迂回した。


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「苧綿櫓」国重文


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二層二重。石落は黒い下見板張なのでよく目立つ。
苧と綿を保管してたのかな?
防御的には肱川につきだして横矢掛け、北側だけでなく南側の大手門をもにらむ位置です。
石垣は昭和34年に嵩上げされた。

嵩上げされる前↓


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苧綿櫓の近くに「神伝流発祥の地」碑。


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剣術かと思いきや、古式泳法のことでした。
甲冑を着たままでも水中を泳げる泳法です。
元和3年(1617年)頃に大洲藩初代藩主「加藤貞泰」の従兄弟である加藤主馬光尚(1617~20在藩)によって、肱川で創始された。
いざというときに役に立つのでもっと広く普及させてほしいものです。
ちなみに我が輩は全く泳げません

苧綿櫓から肱川沿いに石垣が延びてます。


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いい雰囲気ですね。
大洲市の意気込みを感じます。
護岸の石垣を見ながら川沿いを東へ向かう


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肱川大橋の下をくぐる

大橋を越えて
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左へ向かうと城下町ですが、右側には昔、船橋がかけられていたのでここが北からの出入口だったのでしょう。

東横町通りに入ると


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「おおず赤煉瓦館」
昔は銀行でした。

レンガ舗装の道


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城下町らしい雰囲気の街角


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レトロ看板


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正直言って羨ましい。
我がひこにゃん城下町にはほとんど残ってない…


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そして、「大洲まちの駅あさもや」


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雨宿りも兼ねてここで昼休憩しました。
例の腹痛が続いてるので昼食はやめて自販機の缶コーヒーだけ口に入れた。

すると、腹痛が治まりました。

いやゃ嬉しかった、です。

この時、ようやくわかった。
とにかく食べなければ身体の調子が良い、ということを…


次回へ続く~


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征13】大洲城その2

2021-12-15 20:39:44 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。

大洲城天守は連結式層塔型。


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層塔型は江戸時代以降の建築方法で、1609年城主となった脇坂安治の時に建てられた。

真っ白の建物が多いが、こちらは黒白。


明治時代に解体され、2004年に復元されたのが現在の姿。
脇坂氏といえば、近江小谷城の出身。
大和高取城→淡路洲本城→大洲城、
最後は播州龍野城主となりました。
いずれも訪城済です。
ただし、龍野古城がスズメバチ規制で入山禁止になってたので、いつかリベンジするつもりです。
ま、龍野古城は脇坂氏の城跡ではないけどね。
10時35分、天守に入った。


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550円也。


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百名城スタンプ押した。
天守雛型があります。


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層塔型はシンプルでわかりやすい形ですよね。内部は通柱が貫いてるのでお寺の四重塔を連想させる。
ただし、お寺の塔は基本的に奇数なので四重の塔は無い。
形がシンプルなので、各階に千鳥破風を付けて装飾し豪華さを出してます。
雛型をよく見ると内部の通柱と外側の隅柱以外は各階の柱の位置がバラバラ。
これは耐震対策なのか、単に構造上の結果なのか?
気になりますね。

内部を見学。


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狭間、


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武者走り、


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階段


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具足は脇坂氏の後に城主となった加藤氏のもの。


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階段の横に心柱。
心柱(通柱)は中央じゃなくて片側に寄ってるのは階段が心柱に沿って付けられたため、だとか?


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一階と二階は吹き抜けです。


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破風の間。

破風は外から見れば装飾性を持つが内側は兵の隠れ家にもなり、外を見張る役割がある。


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最上階です。


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肱川を見てます


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雨で霞んでます。


天守と連結する二重櫓。
「高欄櫓」


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中途半端に高欄が付けられてる。
高欄から月見をしたそうな。


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「台所櫓」
高欄櫓より大型。
天守と同じく黒色の下見板張りなってるので、こちらは小天守と言える。


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約30分ほど見学して外に出ました。


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もう一度、連結天守。

まだ雨が降ってます
川向こうに富士山の形の山が見える。


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冨士山と書いて「とみすやま」と呼ぶ。
梶原景時が名付けたとか?
というか、関東武者の景時はいつ四国に来たのだろうか?

二の丸(北の丸)へ。


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搦手門跡へ
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搦手門外側の内堀跡は現在、菖蒲園になってます。


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内堀の幅は18mの大規模なもの。


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2段石垣↓


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犀川の河原まで下った
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天守を見上げる
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水手櫓


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普通、こちらまで来る人はいません。

もう一度登って

本丸へ戻りました。
「中江藤樹像」


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近江聖人と呼ばれてます。

藤樹は近江出身ですが、米沢藩主加藤家の家臣中江家の養子となり、藩主の加藤家が大洲に移った時に中江家も大洲に移りました。

その後脱藩して故郷の近江に戻り陽明学を究め実践し広めました。


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間近で見たかったが、工事のため近寄れない。

せっかく来たのに、残念無念…


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この後、犀川からオワタ櫓を見て城下町へ向かいます


次回へ続く~


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征12】大洲城その1

2021-11-29 23:00:28 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。
↑これ、来年ならすべて2のゾロ目ですな。


【大洲城(おおずじょう)】
1331年、宇都宮豊房が築き、戦国時代の約200年間、宇都宮氏の居城となった。
最初は地蔵ヶ嶽城と呼ばれた。
秀吉時代に小早川隆景、戸田勝隆が入り、
1595年、藤堂高虎が宇和島城主となり支城ともいうべき大洲城に入り、高虎以後、脇坂、加藤らが近世城郭として現在の姿に改修した。
ちなみに高虎は、最初宇和島城、次に大洲城、その次に今治城、そして最後に伊勢安濃津城へと石高を増やして出世していきました。
江戸時代、外様大名は中央から地方へと領地を移されるのに対して
逆に外様の西国大名が栄転して近畿東海という重要な伊賀伊勢の地に移されたのは高虎だけです。
それほど家康に信頼されたのですな。
なお、地名としての「大洲」、
本来は大きな港という意味の「大津
」で脇坂氏の頃に大津城を大洲城に改名したそうです。
考えてみれば、高虎は宇和島・大洲・今治・安濃津というように重要な港の城主を履歴してますね。

歴史解説はこれくらいにして
城内に入ります
まず観光駐車場の左隣の
「二の丸大手門(櫓下御門)跡」


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内堀に架けられた土橋に門があり橋を渡って入る枡形構造。

↓通路は土橋だった
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石垣の上に櫓と櫓門があった。


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枡形通路を入る

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二の丸は上段、中段、下段に分かれていて、
下段は、表御殿があり今でいうと役場の機能を果たしていた。
現在は市街地となってる。
中段は、奥御殿で殿様の私的な空間でした。


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奥御殿跡
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右手には下台所、馬屋、武具蔵など実務上の建物群があった。


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そのなかで「下台所」だけが現存、国重要に指定されてます。


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城内の食料庫だったそうな。


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坂道を登ります


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高石垣


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二の丸上段を横目に見て本丸下段へと入ります
上段には何も建物が無かったので、兵の訓練所、集合場、だったのかな?
敵が入ってきたら二の丸上段と本丸両方から挟み撃ち攻撃できますな。

本丸下段へ
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本丸下段
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井戸があるので、井戸丸と呼ばれてた
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振り返って二の丸を見下ろす
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本丸下段から上段に入り


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いよいよ天守に突入します

宇和島城と違って時間に余裕があるので天守内をじっくりと見ることができます。


次回へ続く~


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【伊予国遠征11】二日目、大洲城へ

2021-11-21 22:42:25 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)
18時50分。

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ホテルチェックイン。
荷物はリュックだけ…
部屋のお風呂に入ったら急に腹痛が!
胆石に伴う痛みで、これで通算何回目か?
痛みに慣れてきたけど、痛い。
ベッドに戻りしばらく様子見。
なんとか沈静化したので安堵する。
今思うにこの時すでに胆嚢は機能してなかったので、いつ激痛で救急車で運ばれてもおかしくない状況でした。
宇和島病院で緊急手術もありえた。
もしそうなってたら宇和島の親戚を含めて家族一同から何を言われたか…

初日はこれにて終了。
31710歩、約20kmでした。

≡≡≡≡≡2月22日(土)≡≡≡≡≡≡

二日目。

冬の朝6時はまだ暗い
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6時過ぎに起きて桑折門へ行きロッカーからバッグを回収しました。

閉門が早いが開門も早い…


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宇和島城、まだ暗い

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ホテルに戻り朝食をとった。
これがいけなかった。
しばらくしてまたまた腹痛が!
昨夜と違って緩やかなボディブローをくらってるような痛み。
なんとか歩けるがこれ以上ひどくなったら予定変更して急ぎ帰宅しなければならない。
憂鬱なまま8時15分、ホテルチェックアウト。
すぐ近くの宇和島バスセンターへ。


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真剣に雨が降りはじめてお腹も気持ちも重くなった。
8時30分発、松山道後温泉行き急行バスに乗りました。
宇和島~松山への路線バスは充実していて、一時間に1~2本間隔で運行されてます。
大洲城へは大洲本町バス停が最寄りとなるが、荷物を預けるロッカーのことを考えて通過し、


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バス内から大洲城を見る、

雨で煙ってる


9時38分、大洲駅前で下車しました。


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バス代は千円也。

↓大洲駅
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駅の隣に観光案内所があり、ここにロッカーが併設されていて一日100円也。
パンフレットをもらって大洲城へ向かいました。

「八幡神社」
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出先ではその日に最初に訪れた神社に参拝し、一日の安全を祈願します。

お賽銭もはずみます。
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「耳地蔵」
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「行者様」解説
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我が輩、耳が遠くなってきてるし10年前から蝉の鳴き声のような耳鳴りに悩まされてる

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祈願しても耳は治りませんわ…

耳地蔵の所で左折し商店街を進む
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10時11分

肱川橋を渡る
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なんか工事中


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大洲城天守が見えてきた。

雨でも雰囲気いいです。

晴れの日なら素晴らしい絶景だろうね。

「苧綿(おわた)櫓」国重文。
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おわた櫓が見えます

肱川橋を渡って右折する。
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いい感じの蔵?
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郵便局
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マンホール
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肱川の鵜飼が描かれてます。

駐車場、トイレ
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この付近は、大手門から内堀にかかる橋を渡り櫓下御門へ向かう場所になります


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次回へ続く~


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【伊予国遠征10】宇和島城その3、残念な一日目だった

2021-11-01 22:39:00 | 伊予国の史跡

2020年2月21日(金)

16時30分、
上り立ち門を出て、
南の方の史跡巡りをした。


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まずは
「伊達博物館」


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句碑がある


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「我が祖先は奥の最上や天の川」
この句は松根東洋城という人の作品です。
松根家は、山形の最上義光に仕え、現在の鶴岡市の松根城跡付近を治めてたようです。
後に伊達家の家臣として重きをなした。
東洋城という名まえにひかれて立ち寄ったが、「城」とは全く関係なくて本名の「豊次郎(とよじろう)」のダジャレで、とよじろう→とうようじょう→東洋城と名のったそうな。
芭蕉の影響を受けた俳人だが、明治維新では土佐の後藤象二郎とともに王政復古に尽力した人。

城といえば、

ちょっと余談になるけど、
昔、旧中山道歩きで岐阜県大垣市の赤坂に着いた時に、美濃赤坂本陣跡を探索することにした。
関ヶ原合戦の時に徳川家康が岡山に本陣を構えた。


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石碑の背後の山が岡山(勝山)。

その遺構が残ってるので登ろうとしたが寺の私有地で立入禁止になってた。


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それでもあきらめきれず山の回りを一周して


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お墓参りという顔つきで寺の墓地から登ったが、


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通せんぼ!
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途中で引き返しました。
残念だが、仕方ない。
その下山の時に、立派な墓碑を見つけて読んでみると「奥津城」という文字を見つけた。


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この山もしくは付近に奥津という城があったのか?
いろいろと調べてるうちに我が無知さを思い知らされた。
「奥津城」は「おくつき」と読む。
意味は神道でのお墓のこと。
お城とは全く関係ない。
なんでもかんでも「城」という文字についつい反応してしまう我が性分は、お城病ですわ…

余談終わり。

伊達博物館内に入りました(500円)。
高齢者割引で、400円でした。


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時節柄、伊達家ゆかりの雛人形展示がありました。
あまり興味ないのですぐに退出しました😅
「伊達宗城侯像」


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宗城、「むねなり」と読む。
幕末から明治維新にかけて活躍した人です。
養子なので伊達家の血を受け継いでいません。


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宗城と西郷隆盛が会見した場所と松並木


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16時45分、
名勝「天赦園」 400円


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伊達家の藩主隠居所と庭園です。
閉園は16時30分なので中には入れなかった


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梅だけ見て通過。


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神田川の橋を渡る

宇和島藩城下町は、辰野川と神田川に挟まれた扇状地に築かれた。
天然の外堀と言ってもいい。
この外堀沿いに集中的に寺が配置されてるのは防御のためかもしれないですな。


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泰平寺の隣に


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「大村益次郎居住跡」


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宗城が招いてここに住まわせた。
本来の名前は村田亮庵。
宇和島藩では米六俵扶持(給料)だったので
村田亮庵を蔵六と改名したそうです。
後に大村益次郎と改名し明治維新で活躍しました。

17時06分、お城へ引き返します。


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山の上に天守が見えます

税務署隣に


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「児島惟謙生誕地」


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ここの住所は堀端町。
宇和島城の内堀は五角形で現在の道路がその痕跡か?
だから内堀の外側となるようです。

「和霊神社」


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五角形の堀の角の位置にあり堀の内側です
この手前に追手門がありました。


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今夜泊まるホテルは神社のすぐ近くですが、その前に桑折氏長屋門に戻ってロッカーの中のバッグを取り出さねばならない

17時17分、長屋門に戻りました。

が、閉門されてた。
城山に入れない!
ロッカーのバッグを取れない!

天守のおじさん、6時まで開いてると言ってたのに!
で、手元のパンフを見たら冬2月までは17時までと書いてある。

おじさんに騙された~。


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どこか侵入できる場所が無いか、城山の周囲を探すことにした。

なかなか見つからなくて、
散歩してるおじさんに他の侵入口を尋ねたら、
一緒に探してあげる、と言ってくれたので、2人で五角形の道路沿いを一周しました。
当然ながら搦め手の上り立ち門も閉門されてました。
1人なら、どこかの隙間から直登りをしたかもしれないが、おじさんと一緒なのでそれはできない。

さらに日没で暗くなり、ここはあきらめました。

結果的には堀跡巡りをしたことになる。

そして散歩のおじさんに礼を言ってお別れしました。
地元の方の親切に感謝です。

18時00分、
商店街の天ぷら屋さんで夕食。


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酎ハイとたらふく天ぷらを食べた。

しかし、これが大失敗。

「お城のロッカー」と「天ぷら」
この2つでこの日は最悪の結果となるのであった…

18時50分、ホテル。
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チェックイン。

荷物はリュックのみ。

着替えなどが入ってるバッグはお城のロッカーの中です…


次回へ続く~

前回までの日付が2021年になってました。

今気づきました。

遠征したのは2020年、

昨年の2月です。

申し訳ない


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征9】宇和島城その2天守から搦手へ

2021-10-19 22:16:33 | 伊予国の史跡

2020年2月21日(金)

15時55分、「天守」
滑り込みセーフで天守に入りました。


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係員のおじさん、
『もう閉めるよ。』
えー?
まだ5分前だけど…

おじさん、
『片付けるまでに帰ってね。時間無いし、料金は無料にしとくわ。』

すみません、最上階まで上がって2分で降りてきますから、
と言って内部を見学させてもらいました。
勿論、百名城スタンプも押しましたよ。


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この時点ですでに閉館の16時を過ぎてました。
て、冬とはいえ4時に閉めるなんて…

縮尺10分の1の模型


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江戸時代の本物ですよ。
当初藤堂高虎が創建した時は、彦根城のような望楼型天守でした。
現在の天守は伊達家が層塔型に再建されたものです。
層塔型は一階から三階まで通し柱が貫いてます。
形がシンプルですが堅固だと言われる。
とはいえ宇和島城天守は破風が多く豪華さもあります。


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現存天守の階段はどこでも急で危険ですな。


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一気に最上階に。
姫路城、大阪城、名古屋城などと違って小ぶりの天守なのですぐに登れます


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先に訪れた樺島灯台、多賀神社などが見えます


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この景色は最高ですな。

急いで天守入口へ戻ったら16時4分。
超過してました。
謝ったら、
おじさんが『城山公園は6時まで開いてるから城内をゆっくり見てください』
と言ってくれた。

ありがとうおじさん。


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天守横及び裏は立入禁止で入れなかった。

「二の門跡」


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礎石あり。
登る時に見逃してた


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「藤兵衛丸」


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建物は三之丸にあった武器庫の山里倉庫です。


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現在は城山郷土館になってる。

藤兵衛丸の石垣は、藤堂高虎の頃の最古の石垣だと言われる。


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加工してない自然石を積んでます。


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一番広い「長門丸」は公園になってます


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この付近は「代右衛門丸」「式部丸」かな?
記憶が薄れて覚えてない…


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そして、南側の搦手へ。
「上り立ち門」


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現存する薬医門としては最大級で、創建も高虎頃にまで遡るかも?と言われてる。


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門前に
「児島惟謙銅像」


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歴史上有名な大津事件では
行政政治家の圧力に屈せず、司法権を確立した人ですね。


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まかり間違えば大国ロシアと全面戦争になったかもしれない裁きでした。


次回へ続く~

Φ(*^ひ^*)Φ

机の上に置いとくだけで勝手に花が咲く

と言われて



その通りに咲きました。

「コルチカム」という花です。


水も肥料も不要。

球根だけで咲く。

生命力の強い草花ですな。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征8】宇和島城その1、滑り込みセーフ?

2021-10-08 22:10:04 | 伊予国の史跡

2020年2月21日(金)
15時40分、
「桑折長屋門」


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この付近は三之丸で、三之丸御殿があった場所。
昭和時代に桑折家長屋門が移されてここが現在の登城口となった。
桑折(こおり)家は伊達家の血縁で、政宗が宇和島伊達家の目付として付けた家老。
当初、河後森城の城代でした。


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2月は天守の閉館が16時。
あと20分しかないので急いで駆け上がりました。


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長屋門の裏のロッカーにバッグを放り込み身軽にした。
このロッカーは100円ですが、荷物を取り出せば返金されます。
石垣がナイス!


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長屋門の裏の石段の坂を登る。
彦根城の表門からの石段を連想させます。


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石段から長屋門を見下ろす


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急な坂を登る。


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高石垣が待ち構える。
じっくりと石垣を見たいが時間がない。


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15時48分「井戸丸」


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城山には3つの井戸があり、こちらは三之丸からの登城道にある貴重な井戸。


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井戸丸を見下ろす


彦根城では黒門からの急な坂の途中に井戸曲輪がありその上が天守ですよね。


三の門跡付近の高石垣、


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横矢がかかってる。
見事ですね!

二之丸へ


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向こうに天守が見える。


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あともう少しだ。


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最後の石段を登る


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本丸入口の「一の門」跡


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振り返ると宇和島湾が見える。
素晴らしいですね。

そして、
15時55分、「天守」


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我が国現存12天守の1つで、国重文。


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唐破風に、丸に縦三本の家紋。


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天守に入りました。

15時56分


係員のおじさん、
『4時だから、もう閉めるよ!

えー?

次回へ続く~



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征7】樺島砲台~城山登山口へ

2021-10-01 21:45:56 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)
河後森城から宇和島駅に戻ったのが
14時20分。
このまますぐに宇和島城へ向かうべきなのだが、ちょこっと寄り道することにした。
結局、これが大きな失敗に…
駅から港へ向かう。


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宇和島社会福祉センター、


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電話ボックスの上に牛鬼。
毎年7月に「うわじま牛鬼まつり」が盛大に催されるが、今年は例のごとく中止になったそうです。
ちなみに我が輩が訪れたこの時は松山市でコロナ感染者が1名、
という状態。
その後、まさかこんなに大感染するとは誰も想像しなかった…

「宇和島市歴史資料館」


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由緒ありそうな建物ですよね。
明治17年(1884)9月、宇和島広小路(宇和島城の南東)に「宇和島警察署」として建てられたもの。
その後、
昭和28年から、南宇和郡西海町(現:南宇和郡愛南町)に移築され、役場となり、
平成4年(1992)に宇和島に戻り、復元されました。
明治時代の「擬洋風建築」として
平成8年(1996)に登録有形文化財に指定されました。

で、この隣に
14時46分、
「樺島砲台跡」。


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幕末の安政2年に宇和島藩が海防のために海を埋め立てて築いた。
お台場と呼ばれたそうで、これは復元です。
五門の砲台が設置された。


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自由に内部へ入れます。
周囲は堀のようになってるが海だったと思います。


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隣の資料館に詳しい展示物があるそうだが、時間がないので入ってません。
東京のお台場が続百名城に指定されたので行ってみたいけど、行けるかな?


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砲台見学後、真っ直ぐ駅へ戻るべきなのだが
ガイドマップを見ると須賀川の対岸に「多賀神社」を見つけた。
我が地元の多賀大社と関係ありそうなのでちょこっと立ち寄ることにした。

15時06分、「多賀神社」


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確かに多賀大社の分社なのだが、
入口の自然石には
「千五百守社」と刻まれてる。


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「ちいほもりのやしろ」と読むそうです。
この地域では最古の社という意味があるとか?


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境内に入ると、異国風の石像がある。
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↑中央に男根像、その向こうに信楽の狸像

奥の社殿には


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またしても男根。
そういえば、ガイドブックには「凸凹神堂」と書いてある。
性に関する社でもある。

宇和島藩伊達家と彦根井伊家は、初代藩主より縁戚関係にあるため、多賀大社の分社として祭ったが、本来は原始的な伝統のある地域の社だったのかも?ね。

時間がないので寄り道はこれくらいにして急いで宇和島城へ向かいました。

その途中に
「穂積橋」


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宇和島藩士で法学者の「穂積陳重」の功績を称えて名付けられた橋。


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銅像として仰がれるよりもみんなに渡ってもらえる橋になったほうがいい、と言う氏の思いを尊重したそうです。


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食堂もある。

橋の近くに
「高野長英の隠れ家」


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宇和島藩主伊達宗城が長英の才能に魅せられて招聘し、ここに匿った。


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長英は蘭学の教授の他に藩の砲台建設にも携わりました。

残念ながら、最後は幕府に捕らえられ無念の死となりました。

城下町にはこのような史跡がいっぱいあるが、もう寄り道できない!

急ぎました
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15時40分、

城山登山口到着。
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目の前に見える桑折氏長屋門を入って天守まで駆け足で登ります。

というのは、

天守は16時で閉館。

あと20分しかない。

冬場は早く閉まるのです。

て、早すぎやろ!


次回へ続く~



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【伊予国遠征6】河後森城5、風呂ヶ谷から下山

2021-09-02 22:10:58 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)

土塁、堀切、竪堀、復元建物など見所満載の「西第十曲輪」


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山城の防御の最前線に位置する曲輪として非常に重要な郭と言える。

馬蹄形、U字形の曲輪に関しては

次のような解説がなされてる。
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中世の山城は山の尾根を利用するのでこのような形になるケースがある。

門からの通路を下って風呂ヶ谷へ下山することにした。
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こちらは駐車場から登る場合の登山道で百名城スタンプを押すだけならこのルートが手っ取り早い。

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「井戸」
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谷の奥にある。

本郭の真下に位置する。


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↑井戸の上の段々


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風呂ヶ谷の入口を見る

左手に新城

新城に登った時に竪堀をみつけられなかったので
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下から見上げて、この付近が竪堀かな?

と推測した。


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駐車場のある風呂ヶ谷入口まで来ました
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普通ならここで帰るのだが


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どうしても竪堀群を見たくてちょこっと寄り道。


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↑溝の脇に登れそうな道を見つけた


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上に西十曲輪の建物が見えます。

斜面の白い部分は崩落を防ぐための土嚢です


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土嚢の下が堀


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堀切、土橋、竪堀

これでとりあえず満足しました。

帰ります


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梅園

そして、

13時、JR松丸駅に戻りました。

時刻表を調べるとバスのほうが早く宇和島駅に戻れるので帰りもバスにした。

バスは36分後なので、

駅の足湯に浸かって昼のパンを食べた


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2月の寒い時期に

足湯は気持ちいいです。
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で、この後バス停に行くとおばあさんがいて、ちょこっと話をした。

今から松山へ行くと言う。

俳句の会に参加するそうです。

愛媛県は俳句の国ですな。

一句作った

伊予の城 ハイクの疲れは 足湯で

もう一句

松丸駅 虎口でバスを待ち丸

お粗末様でした。

午後は宇和島城を駆け足で探索します。

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

金メダルひこにゃん!
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金メダルは噛むものじゃない!

メダルにしがみつくひこにゃんだにゃー!


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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