先週、栗東市で「中沢遺跡」の現地説明会がありました。
現地は草津市と栗東市との境、
少し到着が遅れて
すでに遺跡の説明会が始まってました
弥生時代から近世までの遺構が複数あるが、今回発見されたのは
高坏のこの小さな2つの破片が時代判定の決め手となった。
道路と住宅の間の空間に
石碑があるのみ。
前回は中山道歩きの次いでに立ち寄った
広場に解説板があっただけだったが、
立派な遺構の展示施設も造られた。
模型もある。
伊勢遺跡は弥生時代後期、約100年間栄えた
祭殿は伊勢神宮の神明造と似てます
現地説明会はたいがい土日と決まってる。
親の介護とコロナのこともあり、現説の参加は長らくご無沙汰してた。
で、介護から解放されたので、久しぶりの参加です
現地は草津市と栗東市との境、
草津駅から旧中山道を約20分歩いた場所にあります。
少し到着が遅れて
すでに遺跡の説明会が始まってました
弥生時代から近世までの遺構が複数あるが、今回発見されたのは
弥生時代後期の中型掘立柱建物、
近江では最大規模だそうな。
見つかった遺物では、
高坏のこの小さな2つの破片が時代判定の決め手となった。
手のひらに収まる小さな小さな欠片ですが、
この形状が土器編年と照らし合わせて間違いないとわかったのです。
発掘調査担当者は大いに自慢してました。
この自慢話を聞いて、ふと思い出した。
昔、昔その昔、学生時代にお隣の野洲市(当時野洲町)で発掘調査の手伝いをしてました。
とある遺跡の周溝墓のなかから小さな土器の破片が見つかった。
師匠の古川さんが、土器の口縁部の形を見て『よし、わかった!』
遺跡の時代が決定できたので、すぐに調査終了した。
昭和50年代、都市開発のために遺跡の発掘調査が目白押し、この遺跡も充分に調査する時間が無かったのです。
それだけに、発掘調査担当者の技量が問われるわけで、
以来、担当者だった古川さん(元銅鐸博物館館長)のことを師匠と呼んでます。
なお現説は猛暑のため約20分ほどで終了した
この後、
下鈎(しもまがり)遺跡を経て守山市の伊勢遺跡へ向かった。
下鈎遺跡は
道路と住宅の間の空間に
石碑があるのみ。
たいがいの遺跡は壊されます…
ま、この付近は犬も歩けば遺跡に当たると言ってもいい。
全部保存するのは難しいですわ。
そして、
【伊勢遺跡】へ
実は2回目、
前回は中山道歩きの次いでに立ち寄った
広場に解説板があっただけだったが、
後に
その遺跡の凄さから国史跡となり、
整備されて
整備されて
立派な遺構の展示施設も造られた。
施設内に入ると、
模型もある。
パンフレットの画像。
伊勢遺跡は弥生時代後期、約100年間栄えた
祭祀に特化した遺跡。
2重の柵に囲まれた建物が中央にあり、楼観を伴い
その周囲に等間隔で円形に配置された祭殿がある。
王の住まいと思われる大型建物もあり、
このことから、各地の王がここに集い政治や祭祀をおこなったと考えられる。
それは、すなわち後の大和朝廷へ繋がる遺跡なのでは?
大胆な仮説を言えば、
大和朝廷の原型は伊勢遺跡にあった!
とも推測できますよね。
祭殿は伊勢神宮の神明造と似てます
ちなみに守山市伊勢の地名由来は
中山道と伊勢参り(旧東海道)とを結ぶ場所がここなので、伊勢と名づけられたとか?
展示の解説は、ボランティアガイドさんが丁寧に教えてくれた。
で、説明を聞いてるうちにどこかで聞いたよう声!
我が地元で毎月講座を受けてる講師だと気づいた💡
さらに、解説が終わりかけた頃、
なんと、長谷川先生が姿を現された
いやぁ、びっくりポン!
偶然とは言え、まさかここでお逢いするとは!
挨拶すると、同行の男性を紹介してくれました。
なんと、なんと、滋賀県の考古学界の重鎮、長老ともいうべき丸山先生でした。
恐れ多くも我が輩のような素人が挨拶できる人ではありません。
といいつつ、実は学生時代に野洲の発掘現場で一度お逢いしてる、と自慢たらしく述べた😅
丸山先生は師匠の古川氏の師匠、
つまり我が輩からしてみれば大師匠と言ってもいい
というわけで、
この伊勢遺跡で、偶然にも
大先生方に出逢うという奇跡に遭遇。
この不思議な奇縁に感動したのでした。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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