馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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【伊予国遠征12】大洲城その1

2021-11-29 23:00:28 | 伊予国の史跡

2021年2月22日(土)、二日目。
↑これ、来年ならすべて2のゾロ目ですな。


【大洲城(おおずじょう)】
1331年、宇都宮豊房が築き、戦国時代の約200年間、宇都宮氏の居城となった。
最初は地蔵ヶ嶽城と呼ばれた。
秀吉時代に小早川隆景、戸田勝隆が入り、
1595年、藤堂高虎が宇和島城主となり支城ともいうべき大洲城に入り、高虎以後、脇坂、加藤らが近世城郭として現在の姿に改修した。
ちなみに高虎は、最初宇和島城、次に大洲城、その次に今治城、そして最後に伊勢安濃津城へと石高を増やして出世していきました。
江戸時代、外様大名は中央から地方へと領地を移されるのに対して
逆に外様の西国大名が栄転して近畿東海という重要な伊賀伊勢の地に移されたのは高虎だけです。
それほど家康に信頼されたのですな。
なお、地名としての「大洲」、
本来は大きな港という意味の「大津
」で脇坂氏の頃に大津城を大洲城に改名したそうです。
考えてみれば、高虎は宇和島・大洲・今治・安濃津というように重要な港の城主を履歴してますね。

歴史解説はこれくらいにして
城内に入ります
まず観光駐車場の左隣の
「二の丸大手門(櫓下御門)跡」


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内堀に架けられた土橋に門があり橋を渡って入る枡形構造。

↓通路は土橋だった
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石垣の上に櫓と櫓門があった。


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枡形通路を入る

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二の丸は上段、中段、下段に分かれていて、
下段は、表御殿があり今でいうと役場の機能を果たしていた。
現在は市街地となってる。
中段は、奥御殿で殿様の私的な空間でした。


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奥御殿跡
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右手には下台所、馬屋、武具蔵など実務上の建物群があった。


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そのなかで「下台所」だけが現存、国重要に指定されてます。


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城内の食料庫だったそうな。


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坂道を登ります


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高石垣


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二の丸上段を横目に見て本丸下段へと入ります
上段には何も建物が無かったので、兵の訓練所、集合場、だったのかな?
敵が入ってきたら二の丸上段と本丸両方から挟み撃ち攻撃できますな。

本丸下段へ
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本丸下段
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井戸があるので、井戸丸と呼ばれてた
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振り返って二の丸を見下ろす
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本丸下段から上段に入り


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いよいよ天守に突入します

宇和島城と違って時間に余裕があるので天守内をじっくりと見ることができます。


次回へ続く~


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【伊予国遠征11】二日目、大洲城へ

2021-11-21 22:42:25 | 伊予国の史跡

2021年2月21日(金)
18時50分。

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ホテルチェックイン。
荷物はリュックだけ…
部屋のお風呂に入ったら急に腹痛が!
胆石に伴う痛みで、これで通算何回目か?
痛みに慣れてきたけど、痛い。
ベッドに戻りしばらく様子見。
なんとか沈静化したので安堵する。
今思うにこの時すでに胆嚢は機能してなかったので、いつ激痛で救急車で運ばれてもおかしくない状況でした。
宇和島病院で緊急手術もありえた。
もしそうなってたら宇和島の親戚を含めて家族一同から何を言われたか…

初日はこれにて終了。
31710歩、約20kmでした。

≡≡≡≡≡2月22日(土)≡≡≡≡≡≡

二日目。

冬の朝6時はまだ暗い
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6時過ぎに起きて桑折門へ行きロッカーからバッグを回収しました。

閉門が早いが開門も早い…


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宇和島城、まだ暗い

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ホテルに戻り朝食をとった。
これがいけなかった。
しばらくしてまたまた腹痛が!
昨夜と違って緩やかなボディブローをくらってるような痛み。
なんとか歩けるがこれ以上ひどくなったら予定変更して急ぎ帰宅しなければならない。
憂鬱なまま8時15分、ホテルチェックアウト。
すぐ近くの宇和島バスセンターへ。


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真剣に雨が降りはじめてお腹も気持ちも重くなった。
8時30分発、松山道後温泉行き急行バスに乗りました。
宇和島~松山への路線バスは充実していて、一時間に1~2本間隔で運行されてます。
大洲城へは大洲本町バス停が最寄りとなるが、荷物を預けるロッカーのことを考えて通過し、


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バス内から大洲城を見る、

雨で煙ってる


9時38分、大洲駅前で下車しました。


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バス代は千円也。

↓大洲駅
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駅の隣に観光案内所があり、ここにロッカーが併設されていて一日100円也。
パンフレットをもらって大洲城へ向かいました。

「八幡神社」
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出先ではその日に最初に訪れた神社に参拝し、一日の安全を祈願します。

お賽銭もはずみます。
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「耳地蔵」
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「行者様」解説
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我が輩、耳が遠くなってきてるし10年前から蝉の鳴き声のような耳鳴りに悩まされてる

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祈願しても耳は治りませんわ…

耳地蔵の所で左折し商店街を進む
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10時11分

肱川橋を渡る
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なんか工事中


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大洲城天守が見えてきた。

雨でも雰囲気いいです。

晴れの日なら素晴らしい絶景だろうね。

「苧綿(おわた)櫓」国重文。
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おわた櫓が見えます

肱川橋を渡って右折する。
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いい感じの蔵?
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郵便局
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マンホール
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肱川の鵜飼が描かれてます。

駐車場、トイレ
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この付近は、大手門から内堀にかかる橋を渡り櫓下御門へ向かう場所になります


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次回へ続く~


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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2021/11/13 坂本城石垣

2021-11-13 23:25:49 | 滋賀県情報
余裕があれば見に行きたい
馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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伊賀【平ノ沢城跡】ひらのさわじょうあと

2021-11-12 22:33:46 | 伊賀国の城跡、史跡

2021年1月10日(日)
旧大和街道歩きで、途中に城跡があると立ち寄ってみたくなる。
そこに山があるから登る、
という登山家と同じ心理です。
旧東海道関宿から分かれて国道25号線を西の柘植宿へ向かってひたすら進む。


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次の市場宿(加太駅付近)との中間付近に「金場(かねば)」地区があり、小さな宿場だったようです。
「鐘鋳場(かねいば)」という鐘を造る鋳物場があったとか?
現在の住所は亀山市関町金場。



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旧道は国道から分かれて集落の中を進む。
金場公民館前で昼食を済ませて午後一番に平ノ沢城跡を探索することにした。
加太川に越川大橋があり橋を渡って川沿いに山の麓まで行けそうに思ったが、私有地や田畑の畔を進むのは難しそうなのであきらめた。

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↑無理です。

集落を抜けて国道を進む。


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城跡は加太川の対岸の山の麓なので、川を渡らねばならない。


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渡る場所を探していて、しばらく進むと国道から川原へ降りられる通路を見つけた。

地蔵堂付近から川沿いへ
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川原へ下る
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対岸へ渡れる場所を探した。


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意外に水嵩があり恐かったが、飛び石の要領でおもいきってなんとか渡った。

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渡って

堤の上にでると土塁→石積あり。


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山の麓の平場で、川が大きく蛇行してる場所なので洪水があるだろうし、その対策の土留石だと思われる。
山に向かって段々畑や屋敷などを構えた痕跡かもしれない。


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さらに進むと明瞭な土塁、石垣があり、これは城跡だと確信した。


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↑土塁、石積などうろ覚えで記入したので不確か。

位置は不正確です

そして、削平地が広がり

獣捕獲用の檻の近くに
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先端部に
「平乃澤城址」関町教育委員会
の標柱が建てられてました。


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この標柱の下にも石垣がありその下は曲輪か屋敷だったのではないか?


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↑下段曲輪から上段を見上げた


すぐ近くに井戸跡のような物も。


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南北朝時代、南朝方だった楠木正盛(正成の祖孫)がここに落ち延びて城を築いた
と、亀山市教育委員会のパンフに記載されてます。

城跡の由来はこれだけ。

後に畑などに開墾された痕跡のようでもあり、どこまでが城跡か判然としないが、ともかくも楠木氏が隠れて住むにはもってこいの場所だと思いました。

陸伝い、山裾伝いでいくルートを探せばあるかもしれないが、
今回は危険な川原を渡って探索しました。

危ないので良い子は絶対に真似しないようにお願いします。

なお、JR関西本線加太駅から東へ徒歩約30分の位置です。

以上おしまい。


この後、ネット検索して

「三重の中世城館」という教育委員会発行の報告書がネットで公開されていて、スマホにダウンロードしました。

そのなかから、平ノ沢城跡の解説と縄張図を見つけた。

参考までに掲載します。

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わかりにくい縄張図だが、無いよりマシ!

この縄張り図持っていってもう一度探索してみたいな😅

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【伊予国遠征10】宇和島城その3、残念な一日目だった

2021-11-01 22:39:00 | 伊予国の史跡

2020年2月21日(金)

16時30分、
上り立ち門を出て、
南の方の史跡巡りをした。


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まずは
「伊達博物館」


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句碑がある


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「我が祖先は奥の最上や天の川」
この句は松根東洋城という人の作品です。
松根家は、山形の最上義光に仕え、現在の鶴岡市の松根城跡付近を治めてたようです。
後に伊達家の家臣として重きをなした。
東洋城という名まえにひかれて立ち寄ったが、「城」とは全く関係なくて本名の「豊次郎(とよじろう)」のダジャレで、とよじろう→とうようじょう→東洋城と名のったそうな。
芭蕉の影響を受けた俳人だが、明治維新では土佐の後藤象二郎とともに王政復古に尽力した人。

城といえば、

ちょっと余談になるけど、
昔、旧中山道歩きで岐阜県大垣市の赤坂に着いた時に、美濃赤坂本陣跡を探索することにした。
関ヶ原合戦の時に徳川家康が岡山に本陣を構えた。


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石碑の背後の山が岡山(勝山)。

その遺構が残ってるので登ろうとしたが寺の私有地で立入禁止になってた。


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それでもあきらめきれず山の回りを一周して


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お墓参りという顔つきで寺の墓地から登ったが、


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通せんぼ!
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途中で引き返しました。
残念だが、仕方ない。
その下山の時に、立派な墓碑を見つけて読んでみると「奥津城」という文字を見つけた。


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この山もしくは付近に奥津という城があったのか?
いろいろと調べてるうちに我が無知さを思い知らされた。
「奥津城」は「おくつき」と読む。
意味は神道でのお墓のこと。
お城とは全く関係ない。
なんでもかんでも「城」という文字についつい反応してしまう我が性分は、お城病ですわ…

余談終わり。

伊達博物館内に入りました(500円)。
高齢者割引で、400円でした。


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時節柄、伊達家ゆかりの雛人形展示がありました。
あまり興味ないのですぐに退出しました😅
「伊達宗城侯像」


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宗城、「むねなり」と読む。
幕末から明治維新にかけて活躍した人です。
養子なので伊達家の血を受け継いでいません。


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宗城と西郷隆盛が会見した場所と松並木


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16時45分、
名勝「天赦園」 400円


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伊達家の藩主隠居所と庭園です。
閉園は16時30分なので中には入れなかった


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梅だけ見て通過。


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神田川の橋を渡る

宇和島藩城下町は、辰野川と神田川に挟まれた扇状地に築かれた。
天然の外堀と言ってもいい。
この外堀沿いに集中的に寺が配置されてるのは防御のためかもしれないですな。


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泰平寺の隣に


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「大村益次郎居住跡」


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宗城が招いてここに住まわせた。
本来の名前は村田亮庵。
宇和島藩では米六俵扶持(給料)だったので
村田亮庵を蔵六と改名したそうです。
後に大村益次郎と改名し明治維新で活躍しました。

17時06分、お城へ引き返します。


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山の上に天守が見えます

税務署隣に


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「児島惟謙生誕地」


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ここの住所は堀端町。
宇和島城の内堀は五角形で現在の道路がその痕跡か?
だから内堀の外側となるようです。

「和霊神社」


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五角形の堀の角の位置にあり堀の内側です
この手前に追手門がありました。


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今夜泊まるホテルは神社のすぐ近くですが、その前に桑折氏長屋門に戻ってロッカーの中のバッグを取り出さねばならない

17時17分、長屋門に戻りました。

が、閉門されてた。
城山に入れない!
ロッカーのバッグを取れない!

天守のおじさん、6時まで開いてると言ってたのに!
で、手元のパンフを見たら冬2月までは17時までと書いてある。

おじさんに騙された~。


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どこか侵入できる場所が無いか、城山の周囲を探すことにした。

なかなか見つからなくて、
散歩してるおじさんに他の侵入口を尋ねたら、
一緒に探してあげる、と言ってくれたので、2人で五角形の道路沿いを一周しました。
当然ながら搦め手の上り立ち門も閉門されてました。
1人なら、どこかの隙間から直登りをしたかもしれないが、おじさんと一緒なのでそれはできない。

さらに日没で暗くなり、ここはあきらめました。

結果的には堀跡巡りをしたことになる。

そして散歩のおじさんに礼を言ってお別れしました。
地元の方の親切に感謝です。

18時00分、
商店街の天ぷら屋さんで夕食。


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酎ハイとたらふく天ぷらを食べた。

しかし、これが大失敗。

「お城のロッカー」と「天ぷら」
この2つでこの日は最悪の結果となるのであった…

18時50分、ホテル。
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チェックイン。

荷物はリュックのみ。

着替えなどが入ってるバッグはお城のロッカーの中です…


次回へ続く~

前回までの日付が2021年になってました。

今気づきました。

遠征したのは2020年、

昨年の2月です。

申し訳ない


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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