馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

認知されてない城跡(斧磨西城)発見?、の巻

2022-07-27 12:05:54 | 近江の史跡

最近は、猛暑のなか多賀参詣道を歩いてる。

いくつかルートがあり、今回は春日橋ルート。

東近江市八日市から多賀大社まで歩く。

国宝の天台宗系寺院、湖東三山を通るので湖東三山ルートと呼ぶことにした。

2022年6月27日


金剛輪寺と西明寺の間に「斧磨」という集落がある。


f:id:umahide:20220716162245j:image

有名な難読地名です。

斧磨、「よきとぎ」と読む


f:id:umahide:20220716162306j:image

斧磨集落の北西の入口に

「八幡神社」がある。


f:id:umahide:20220715155616j:image

石段を登って参拝した。


f:id:umahide:20220715155628j:image

この後、歩道のない国道を歩かねばならないので交通安全を祈願した


f:id:umahide:20220715155640j:image

斧磨集落を見下ろす

手前下には公園。

参拝後、地形図を見ると神社横の山が丸形になってる。


f:id:umahide:20220715232726j:image

円墳か何かあるかも?

簡単に登れそうなので少し探索することにした。



↑虎口付近←すでに城跡と思ってる

すぐに土塁が!
f:id:umahide:20220715234109j:image

これは古墳ではない

城跡じゃないですか!

どうみても人工的な土塁ですよ
f:id:umahide:20220715234228j:image

土塁の上から内部を見る
f:id:umahide:20220715234301j:image

平坦な削平地になってる

ただし、南側は崖となって下の公園に。
f:id:umahide:20220715234408j:image

全体が土塁で囲まれていれば間違いなく曲輪ですが…。

公園を作るために南側が削られて改変されたのか?

あるいは自然災害で崩落したのか?


f:id:umahide:20220715234604j:image

城内から虎口→神社方面を見る。

枡形状虎口に見えなくもない

いやぁ!これは嬉しい!


新発見の城跡だ!

大慌てで略図を書きました
f:id:umahide:20220715234733j:image

Googleマップの位置

f:id:umahide:20220715234830j:image

大胆な推測をすると

公園が曲輪③、

神社本殿が曲輪②

そして、今回発見の土塁付近が曲輪①主郭、

と思えませんか?

帰宅して国土地理院の明治以前の図を見た


f:id:umahide:20220715234933j:image

うーん微妙…

斧磨地区には遺跡も城跡も確認されてないので城跡なら新発見と言える。

とりあえず、

【斧磨西城】

と名付けた

とはいえ、

堀切は?

竪堀は?


神社の古社か、関連施設、もしくは寺院があった名残では?

近代に何か建てるために、あるいは耕作のために整地したのでは?

と、言えなくもない。


地元で聞き取り調査したわけでもないので

確かなことは言えません。

なんでもかんでも城跡に結びつけて考えてしまうお城病、

病人の戯言、根拠のない妄想でして、


以上、妄想劇場、おしまい。


街道歩き、頑張らねば!


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【太堂城跡】彦根市

2022-07-12 23:24:21 | 近江の史跡
前回紹介した河瀬城跡からさらに南にJR東海道線沿いに進んだ地域が「太堂町」
で、城跡があったとされる。
彦根工業高校


太堂町への案内板


聖徳太子ゆかりの太子堂があり、地名としては後に太堂に変化したと考えられる。
だから、読みは「たいどう」。

集落に入ると鳥居が。


「阿自伎神社行宮所」
豊郷町安食に阿自伎神社があり、その御旅所かな?
豊郷町の阿自伎神社から流れる水路は安食川と呼ばれ

太堂町の条里制区画を乱してる

この安食川は水田を潤す大事な川だが、同時に城館を囲む堀としての役割もあったかも?


この太堂地区の南に宇曽川が流れていて対岸には肥田城がありました。
肥田城主高野瀬氏の重臣だったのが久木氏で、久木氏の居館が太堂城でした。
そんなわけで、前回までは河瀬氏系列の城跡ばかりだったが、今回の太堂城から南は高野瀬氏系列の城跡群となる。

太堂町公民館
集落の中心部に来ました
さらに西北に進むと

「浄称寺」

地元の方に御伺いしたら、
寺の前の道は「ばば」と呼ばれてたそうです。
小字名としては残ってないが、おそらく「馬場」のことでしょう。
城の正面の道だったのでは?と仰った。

で、この道を北上すると

薮があり
阿自伎社霊地となってる
小字「大屋敷」はこの付近



よく見ると盛土が土塁のように見える


位置的にも寺からこの薮付近が城跡だったと推定できます

遠景
↑「お屋敷やぶ」と地元では呼ばれてるそうです

彦根市教育委員会文化財課の解説シートによると
水路や「大屋敷」「堀ノ岸」などの小字名から現在の浄称寺の北の薮付近が城跡と推定される。
とある。



なお、解説シートによると
久木氏は高野瀬氏とともに浅井方として肥田城の水攻めや野良田合戦で活躍する。
浅井氏滅亡後は柴田勝家に仕えた。
しかし、一向一揆の鎮圧戦で高野瀬氏とともに一族は自害したそうです

以上です

馬《●▲●》助ヒヒーン♪







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする