馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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【大和長寿道】その6おふさ観音

2019-07-06 22:41:45 | 大和国の史跡
"2019年6月2日(日)
昼前に桜井駅をスタート、
寄り道しすぎたため藤原宮跡はほぼスルー、
そして、ラストは、
16時00分、
『おふさ観音』到着!

ぎりぎり間に合いました

「門」

入ると、バラがいっぱい。

バラ祭りが開催中でした。

受付してもらった。

「本堂に上がってください」
と言われて向かったが、
よく考えたら雨のなかを急いだため
靴の中がびしょ濡れ。
濡れた靴下のまま畳の上を歩くのは、マズイ。
なので、丁重にお断りしました

受付の人は、
「また来てください。
期間中ならこの券で参拝できますから」

と、優しい対応をしてくれたが、
結局、行けなかった。
橿原市は遠いですわ。

本尊の十一面観音は、癪の観音様なので、
お腹の痛み、胸の痛みが改善します。
拝めないとは残念無念!

おふさとは、観音堂を建てた娘さんの名前だそうです。

「次は、できれば3時までに入ってくださいね」
と、念を押された。

う~ん…

とりあえず、ぼけ封じのお願いをしました。


バラをひとしきり堪能した




日本庭園の円空庭へ。


池に亀

池に鯉



この花はちょっと変わってますね。

名前はわからないが…

これにて予定終了。
門前通りの店で、

『さなぶり餅』を食べました

公式ホムペの由緒説明によると、
「田植えを終わった大和の農家では、 さなぶり餅を搗いて田の神に供え、 畔道で食した。
いわゆる糯米(もちごめ)の餅ではなく、 小麦餅。」

さなぶりの語源は、
「一般には半夏生餅(はんげしょうもち)、またはそのまま小麦餅といいます。
「さなぶり」の「さ」は田の神様。
「なぶり」は、昇りを表現した言葉といわれています。
田植えを終えた農家の人たちが無事農作業を終えたことを、
田の神様に感謝しお供え物をして共に食し休息をした日のことをいいます。」

↑公式ホムペの画像を拝借。



カップに入っていて、きな粉と黒蜜をかけて食べました
お腹すいてたので美味しかったです。

『長寿道完歩記念の証』

頭からぼけ封じの安倍文殊院と、
身体からぼけ封じのおふさ観音、
両方でスタンプ押してくれます。

長寿道を五回完歩すると、記念品をもらえるそうです。

来年も元気なら、
来年もボケてないなら、
また挑戦してみようかな?

近鉄大和八木駅から帰りました。

近鉄電車は長椅子なので、缶ビール飲みにくいが、端っこに座って飲みました

アルアル中ですわ。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【大和長寿道】その5みずし観音、藤原宮跡

2019-07-05 18:01:16 | 大和国の史跡
"2019年6月2日(日)

安倍文殊院から西へ向かった

14時48分、

天香久山の近くまできました。

大津皇子が、磐余(いわれ)の池を詠んだ句

『みずし観音』妙法寺

参道

奥へ進むと
「ぼけよけ地蔵」

ここでぼけよけの願いをして、
この後、本堂の観音様にお礼をして
般若心経を1巻お供えをすれば、
祈願成就するそうです。

本堂に行く前に
左へ下る

「光明不動」

この自然石に不動明王様の姿が見えれば眼病が治る


我が輩には見えません
だから、飛蚊症になったのか…

そして、
「本堂」

説明書によると、
当山の観音様は吉備真備公が唐に留学するに当り、航海の安全と学問の成就を守っていただいた観音で、
一緒に渡海した阿倍仲麻呂が遂に帰国の目的を果たせなかった事を思うときしみじみと加護の有り難さを感じた真備は寺を建てた…

さて、我が輩のぼけよけの願いは叶うのか?

15時18分
雨がひどいので香具山に登るのはやめ。

ホントはもっと寄り道したいが
時間が迫ってるので、ひたすら真っ直ぐ歩いた

15時28分
『藤原宮の東面中門』

門を警護した氏族の名前をとって、「建部(たけるべ)門」と呼ばれたそうです。


『特別史跡藤原宮跡』

この図を見ると藤原宮、どんだけ大きいねん、と思えてきますね。

「朝堂院東門」

9本の柱が復元されてます。

ラジコンやゴルフの練習はやめましょう!

「朝堂院西門」

こちらは、6本の柱が復元されてる。

東門も西門も八脚門なのですが…

「西面大垣」
藤原宮は、1キロ四方の大きさで、
周囲は大垣で囲まれ、外側に幅5mの外濠、内側にも内濠があった。

今回の目的の一つは、藤原宮を確認すること。
しかしながら、
時刻は
15時49分、
あかん!
間に合わない!

4時までにおふさ観音に入らねばならない

なので、ゆっくりと藤原宮跡を見てるわけにいかない

悔しいが、急ぎました

続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

gooブログの他にアメブロ、はてなブログ、Instagram、Twitter、
いろいろと毎日アップしてると
ややこしくなってこんがらがってきた…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【大和長寿道】その4、『安倍文殊院』後編

2019-07-04 09:36:36 | 大和国の史跡

2019年6月2日(日)
"境内の東側、奥の院へ向かう



『不動堂』

この奥に

『東古墳』飛鳥時代


詳しく調査してないのでどんな古墳か不明らしい。
昔、水が湧いていて、
智恵の水として使用された。

中には入れません

『白山堂』室町時代

国重文。
縁結びの神様です。

さらに奥に晴明堂や展望台があるが、なぜかここで引き返した

本堂の南の建物で
お茶菓子いただきました。
これは拝観券とセットになってました。
ここでひと息つけ、ということか。

一端、境内の外に出てぐるっと回り、
『表山門』


山門からの参道

境内の中から行けばすぐなのに、なんでこんな大回りしたのかわからない


この無駄な動きが、後の歩きに大きくひびいたのです…


表山門から西南へ向かうと
『安倍寺跡』国史跡

阿倍氏一族の本拠地に建立された安倍寺跡。
七世紀中頃以降に造られたようです。


伽藍配置は、
 講堂
 |
塔ー金堂

法隆寺式、川原寺式に近いそうです。



塔の基壇


安倍寺跡石碑

礎石らしきものがある

こちらは位置的に金堂跡か?

雨が降りだしたので、
傘さして西へ向かいました。"



続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
Instagramが不具合でアップできない!



馬《●▲●》助ヒヒーン♪



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【大和長寿道】その3、『安倍文殊院』前編

2019-07-03 08:01:33 | 大和国の史跡
他の記事に追われて飛び飛びになってるが、大和長寿道歩きの続きです

"2019年6月2日(日)

12時42分
安倍文殊院山門前、
奥へ進むと駐車場があり

駐車場の片隅に「いわれ茶屋」。

よく考えたら昼食べてない。
パン持ってきてない。
なので、入りました

「亀パン(噛めパン)」

パンの中身の餡はカボチャ。
カボチャは、知恵・健康・ぼけ封じに効能があるカロチンを含んでる。
さらに、よく噛むことで頭脳が活性化される。
だから、これを食べると亀のように長寿になるという意味。

亀パンセットをいただきました。
蒸し暑かったのでドリンクはアイスコーヒー。
500円也。

このお茶屋さんが駐車場の管理してます。
駐車場の売上がメインのようです。

拝観受付。

チケット出したら本堂で見せろ、と言われた。
受付の背後にある金閣浮御堂に入ろうとしたら、ここは別料金だと言われた。

つまり、この付近は無料で、有料の浮御堂を監視するために設置されたようです。

『西古墳』

飛鳥時代の古墳で、なんと特別史跡に指定されてる。

石舞台古墳やキトラ古墳、高松塚古墳などと同じ重要度の古墳だとは、びっくりポンでした。

なのに自由に入れるとは!

石室に入りました

真四角の巨石が凄いですね。
正確な築造技術は圧巻です。

願かけ不動さんがありました。
弘法大師が造られたとか?
現在の墓主です。
解説によると、
大化元年に初の左大臣となり、安倍文殊院を創建した安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の墓と言われてるそうです…

有名な阿倍仲麻呂の望郷の詩の石碑。

そして、本堂。

本来は南西にある安倍寺跡にあったが、鎌倉時代にここに移された。
しかし、永禄6年、松永弾正の兵火で焼失した。

松永久秀と言えば悪人の代表みたいに言われてるが、
最近は見直されて、決して悪者ではないそうです。
現在の本堂は、1565年に再建された。

ここで受付して、はんこ押してもらった。

本堂内でお坊さんの解説があり、
国宝の本尊文珠菩薩像をおがんで
ぼけ封じの祈願しました。

撮影不可なので、画像はありません。

本堂の隣に道標がありました。

本来は伊勢街道沿いにあった。
花崗岩製。
街道歩きで、いろいろ道標見てきたが、これほど立派なのは珍しい。
解説板には『大道標』と書いてある。



「右 はせ(長谷)いせ(伊勢)
左 たへま(当麻)大坂 道」
長谷は長谷寺、伊勢街道
当麻は当麻寺、竹之内街道


「右 あべ(安倍)
左 をか寺(岡寺) みち」

「左 あべ(安倍)をか寺(岡寺)
よしの(吉野)かうや山(高野山)」

江戸時代、寛政10年(1798)に建立された


後編に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

さすがに7月になると、
雨が多い

梅雨最盛期ですね。

九州地方が大変そうです

心配です


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
"

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【大和長寿道】その2、『土舞台』『艸墓古墳』へ

2019-06-21 08:24:42 | 大和国の史跡

2019年6月2日(日)
安部山城跡から移動
『土舞台』

大きな広場になってる。
先ほどの広場が本丸ならこちらは二の丸になるかも?



土舞台碑

ここで聖徳太子が舞を御覧になった。
芸能発祥の地と呼ばれる。

碑文は、桜井市出身の
保田 與重郎の筆だそうか。

保田 與重郎の名前で思い出した。
過去の我がブログを読んだことのある人は覚えてるかな?
大津市膳所の義仲寺再建に尽力し、
保田氏の墓もある。

木曽義仲、松尾芭蕉の信奉者だったようですね。
そういや、芭蕉も司馬遼太郎も竹内街道と縁がある。
こうなると、どうしても武内街道歩かねばならないぞ!


土舞台を降りた後、
艸墓古墳を探すが、見つからない。


迷ってたら、向こうからやってきた若者がスマホで調べてくれて
イシブタイ古墳がそちらの後ろの方にありますよ、と教えてくれた。

イシブタイ古墳?
明日香の石舞台ならずっと南のほうのはず。
いぶかしながら、若者が教えてくれたとおりに行ったら、
土舞台に戻った。

イシブタイじゃなくて土舞台じゃないですか!
今行ってきたばかりやんか。

まったくもう!
我が輩は行きたいのは
艸墓古墳や!

で、住宅地のなかの奥にようやく見つけた
『艸墓古墳(くさはかこふん)』
別名、カラト古墳。


七世紀なので、古墳時代が終わりを迎える頃の古墳ですわ。
石室が見られるという情報だったので来たのだが、


残念ながら立ち入り禁止でした。
"この付近は古墳だらけ。
安倍山城や土舞台も本来は古墳だったのでは?

次に訪れたのが、
『谷首古墳』

六世紀末~七世紀初め頃で、「方墳」
別名、谷汲古墳。

横穴石室がある。

天井板が斜めに下がってる

奥を撮影したが、画像ではわかりませんな。

両袖式です。
先ほどの艸墓古墳も同じような横穴式石室らしい。

古墳の上に登った
『八幡神社』

墳丘の上に建てられた。

西側に石段があるので下った

段々になってるのは、古墳の名残か?

さらに西へ移動。

『御門神社』

御門大神史跡(みかどおおかみしせき)

由緒を読むと、
安倍晴明を祀ってる。
第八代孝元天皇の皇子の大彦命の子孫が安倍晴明。
この付近は安倍一族の地で、安倍仲麻呂も晴明もこの地で生まれたそうです。
安倍家は土御門家を名乗ったので、
これにちなんで御門(みかど)神社と名付けられた、という。

鳥居の向こうに小さな祠があります。

薄気味悪いので、奥へ入るのはやめた。

次はいよいよ、
安倍文殊院に参拝します



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ


スマホやパソコンの見すぎで
若いのに飛蚊症になる人が増えてるそうです。

気をつけましょう!


右目がすぐに痛くなって長く画面を見られなくなってきた

飛蚊症は絶対に治らないそうだし、困ったもんですわ。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【大和長寿道】その1、『安倍山城跡』

2019-06-20 07:09:25 | 大和国の史跡
"2019年6月2日(日)

戒重陣屋跡は、あくまでも寄り道。
本来の目的は、大和長寿道を歩くこと。
と言っても、知らない人多いと思う

実はJRのチラシで初めて知ったのです。
最近ぼけ化が進みつつあるので、その対策として誕生日記念に歩くことにしました。
桜井駅からボケ封じの寺社に立ち寄り畝傍駅、大和八木駅まで歩く
直線距離にして約5キロです。

桜井駅の観光案内所で、長寿道のマップを所望したら、
無い!
と言われた。

仕方ないので、事前にネットで調べた地図を頼りに歩くことにしました。

桜井駅から南に進む道に

『歴史街道』の表示が。

12時10分、三宝稲荷神社参道

左手に『桜の井』

第17代履中天皇ゆかりの井戸。
磐余稚桜宮がここにあったとか?

井戸のそばに桜が植えられてたので桜井。

この井戸が桜井市の地名由来になった。

南隣に
『若櫻神社』


参道右手に、若桜の井戸が復元されてる。

さっきの井戸があるのになんでここにも造ったの?

「磐余稚桜宮伝承地の解説」

履中天皇が磐余(いわれ)で船遊びをしていた時に、杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちた。
なので磐余稚桜宮と命名したとか?

無事に長寿道を走破して、長生きできますようにお祈りしました。


右→土舞台の看板に従って右へ。


坂を登る

曲輪の跡かな?

と、思って見る

さらに左手に回り込む

山頂へ。

12時25分、

公園化された広場になってる。
ここが、
『安倍山城跡』

南朝方の駿河狩野氏が築いたとか?
後に南朝方の戒重城を攻めるため北朝方の細川顕氏がここに陣を敷いた。
さらに、その後に松永久秀が布陣した。

土舞台へ向かう

右手に下の段の曲輪への道がある

崖道の草むらをゆく
どんどん藪化する


ついにあきらめて、引き返しました。

やっぱり城跡は冬でないとダメですな。



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家の紫陽花、

ちょこっと、色が変わり始めた

梅雨入りは今週末か?


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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【大和戒重陣屋跡】

2019-06-15 07:31:35 | 大和国の史跡
"2019年6月2日(日)

桜井駅から西へ徒歩約12分

『春日神社』

この近辺に大和戒重(かいじゅう)陣屋があったそうです。

織田有楽斎長益の子の長政によって戒重藩一万石が立藩された。
有楽斎といえば、東京の有楽町の地名になった人ですね。
大河ドラマ『真田丸』では、井上順さんが演じてました。
徳川方の間者としての扱いでした。

戒重藩は後に芝村陣屋に移転した。

なので、境内を見回ったが、

遺構らしきものは残ってない。

というか、陣屋跡の説明看板もない…

城跡以外としては、

「敏達天皇訳語田(おさだ)・幸玉宮(さちたまのみや)推定地」



戒重村の小字「和佐田(わさだ)」が明治以前は「他田(おさだ)」だった。
さらに、春日神社が他田(長田)宮と称したのが、推定の由来のようです。

敏達天皇は第30代の天皇ですが、どちらかというと奥さんの推古天皇のほうが知名度高いですね。

仏教伝来では、
廃仏派の物部氏の意見を受けて仏像や仏殿を焼いたそうです。
そんなわけで、
わざわざ桜井駅からここまでやってきたが城跡に関しては骨折り損でした。

桜井駅へ戻るときに
ちょこっと歩いたのが
『竹内街道・横大路』

竹内街道は日本最古の街道と言われる。
堺市と葛城市を結ぶ道。
いわば、街道歩きにとっては聖地の街道と言ってよい。
いつか必ず制覇するつもりです。

横大路は、伊勢街道。
今回ちょこっと歩いたのは、横大路です。

両方合わせて歩きたいものです。

て、あっちの街道、こっちの街道と、間口広げすぎて
また、中途半端な歩きになりそう…


というか、戒重陣屋の立地は
この竹内街道と伊勢街道をにらむ位置だということに気づいた!

これが、今回の唯一の収穫か?


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今日は風雨激しいので、
お出かけは難しい。
おとなしく引きこもる、
かな…😣


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


"
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大和郡山城

2019-05-14 16:28:18 | 大和国の史跡
土曜日は奈良県へ向かった。

降りた駅は、近鉄郡山駅。

奈良盆地は暑い。

大和郡山市役所へ直行。


市役所裏で発掘調査がおこなわれた。

その現地説明会があるという情報を入手したので、急遽予定を変更してやってきたのです。

市役所、ボロボロの建物。
で、新庁舎を建てるのでその前に発掘をしたそうです。
市役所は、郡山城三の丸の東の端っこ、五軒屋敷があった場所。


若い女性の担当者が説明してくれました。







中央を貫く溝があり、その東側に礎石建物と遺物が見つかった。


16世紀末~19世紀にかけての遺構で三期にわかれる。
建物の遺構は1期で16世紀~17世紀。




礎石は、五輪塔や石臼が含まれてた。

中央の南北溝は2期、17世紀~18世紀。
屋敷内の区画溝と推定される。

溝の西側は、3期、19世紀。
↓南側


北側が土坑1で、池。


暗渠を通して南側の土坑2に排水された。
南側は排水施設と考えられる。

五軒屋敷がいつつくられたか、わかってないが、今回の発掘調査で、三期にわかれて変遷していった、とわかった。

さらに東側を掘れば、城の中堀の遺構が出てくるはずなので、そちらも掘ってくれるといいのですが…

↑右側に中堀があったはず


この後、お城へ向かいました。

確か7年ほど前ですが、郡山城に来たことある。
ブログでも少しアップしたと思う…

追手向櫓ー多聞櫓ー追手門ーー東隅櫓、
これが、まず最初の大手の関門。

↑東隅櫓


↑追手門


↑多聞櫓

枡形になっていて、素晴らしい。

『柳沢文庫』

内部は前回に見学した。
今回は、スタンプ押したい。

なんと、展示替えのため閉館してる。
でも、係員さんがいて、
続百名城スタンプgetできました。
良かった、良かった。

そして、本丸へ。






有名なさかさ地蔵が石垣のなかに嵌め込まれてます。



前回来た時は危険なので、天守台に上がるのは不可でした。
我が輩、無視して登りましたが…


現在は綺麗に整備されて、安全に登れます。
あまりも綺麗なのでびっくりポンでした。
ボランティアガイドさんがたくさんいて、個々の見学者に説明してました。
なぜか、我が輩には誰も来てくれなかったが…
いや、いいんです。
ガイドさんなんか不要。
一人できままに見て歩くほうが楽しいのですわ。

城のまわりをぐるっと隅から隅まで見て、
この後、城下町を見学。

最後は、外堀を見た。

↑北門として冠木門が復元されてる

近世のお城にとって、外堀は生命線。
一番重要な防御施設。
外堀が突破されたら、お城は丸裸になって簡単に落城します。
大阪城がその典型ですな。
外堀は埋め立てられて残らない宿命になってる。
郡山城は、一部分ですが、綺麗に残っていて緑地公園として整備されてました。




いやぁ、これは嬉しかった。

↑南門


我がひこにゃん城も見習うべきです。

そんなわけで、暑いけど大いに満足しました。

金魚のマンホール

大和郡山市といえば、金魚ですよね。


今回は時間がなくて行けなかった筒井城跡や環壕集落などにもまた改めて行きたい。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今回は、新デジカメですべて撮影しました。
優秀なので、気に入りました。

心配してたバッテリーも長持ち。
予備のバッテリー買う必要なし。
ま、夏だからなのかもしれないけどね。

ともかく満足です。
ちょっと重いのが残念だけど…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
"
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