馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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β《#^ひ^♯》でヒヒーン

小谷城と虎御前山城

2021-02-04 10:57:50 | 歴史講座、講演

彦根市の聖泉大学の無料公開講座が開催されてます。

メールで申し込めば、
YouTubeのURLが送られてくるのでスマホで見ることができます。

小谷城と虎御前山城の縄張りについて県立大学の中井教授が解説されてます。

聖泉大学は、看護師養成機関だと思ってたので、このような講座があるのは驚きでした。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【長浜城跡試掘調査現地説明会】

2019-08-19 23:12:31 | 歴史講座、講演

2019年8月17日(土)
長浜城跡で、秀吉時代の石垣が発見されたという報道があり、
その現地説明会が開催されたので暑いなか、出陣しました。

場所は長浜駅西口『豊公園(ほうこうえん)』

公園に入ると檻があります。
サルが2匹います。

暑さのためか?1匹はダウンしてます。
なんでサルを飼ってるのかよくわからないが、
秀吉のあだ名が猿という逸話にちなんで、という人もいます…

すでにたくさんの人が集まってました。

普通の土日は、ボケモンGoをする人でいっぱいなのですが、今回は蹴散らしたぞ!
というか、あの人この人その人この人あの人、相変わらず見知った顔ぶれが何人もいるので、目を合わさないようにしてました。
て、我が輩は逃亡者か?

今回の発掘調査は、あくまでも豊公園を整備するための試掘調査。
長浜城跡の調査ではないので、極めて限定的です。

昭和44年に第1次調査がされて、
湖岸に向かう石垣群が発見されていて秀吉時代以後の石垣と推定されてます。
この延長線を伸ばして推定したのが
図の青線。


本丸と思われる青線上の9ヵ所を設定して発掘した。
しかし、思わしい結果が出なかった。
そこで、
【調査区1】
図を見ればわかるが、推定線から外れてる。
たまたまここを掘ったら石垣遺構が出てきた、という。
つまり、本丸推定線はどうも怪しいですね。

8個の根石が連なっている。

ひときわ大きい石が1つあるが、これは二段目の石垣。
散らばってる小さな石は石垣を裏込めする栗石。
で、たまたま東端で南に石列が折れ曲がってる場所も確認できた。
うまいこと,
コーナーを引き当てたものですな…
東から見る

石材が不揃いで、矢穴技法が用いられてないので、城主だった秀吉~山内一豊時代に築造された石垣ではないか、と推測されたわけです。

そんなわけで、本丸はもっと東へ拡大してるかも?
という見解でした。
ただし、この遺構が本丸跡なのかどうかはわからないけど…

博物館前から天守台跡へ移動する

【調査区5】
こちらは、現在秀吉像が建ってる推定天守台跡の南下付近。


巨石なので、天守台石垣の一部かな?


と、思われるが、イマイチ不明…

説明が終わり、大正時代に積まれた石垣を見学したら、


『矢穴』の張紙が設置されてました。

今回の説明会のために急きょ表示したようですな。

この石垣は、その辺に散らばってた石を大正時代に適当に積んだもので、秀吉時代当時の石垣そのままではない。
積み方はデタラメだが、石そのものは長浜城のいろんな時代の石だというのは間違いない。

最後に、太閤井戸。


実は太閤さんとは全く関係ない。
近世以降の農業井戸跡だそうです。

以上おしまい。

暑いので早めに退散しました


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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講座、【令和】

2019-06-17 07:20:24 | 歴史講座、講演
"2019年6月15日(土)
一昨日の新聞、チラシが多かった。
「月の真ん中市セール」と書いてある。
6月15日は、年金が振り込まれる日なので、これ目当てのセールですわ。
我が輩も8月からなんとかまともに年金がもらえます。
しかし、以前にも述べたが、公的年金だけでは生活できない。
毎月貯金を崩してます。
我が輩はどうせ長生きできないのでかまわないが、
長生きしたい人は2000万円以上目指して貯金しましょう!

天気予報で風雨強く大荒れと言ってたので、お出かけは中止するつもりだったが、一向に雨降らないので
午後、長浜城博物館に行き、講座を受けました。

お題は、【万葉集と令和】
令和←スマホの予測変換で出てこない。
困ったもんレイワ!
講師の磯崎さんが、令和の令は良いという意味、令嬢の令です。
と、言う。

なるほど、令嬢か!

広辞苑へ、
【令嬢】れいじょう
『他人の娘の尊敬語。令愛』

Φ(*^ひ^*)Φ
令愛?

再び広辞苑へ
【令愛】れいあい
『他人の娘の尊敬語。令嬢』

Φ(*^ひ^*)Φ
同じ意味でした。
でも、令愛という熟語は初耳。
また一つ勉強になったぞ!

万葉集講座は人気無いのでいつも空席ありだが、
今回は令和に関する話ということで会場は珍しく超満員でした。
仕方ないので補助席に座ることになった。

元号「令和」の由来となったのは万葉集の巻五、
梅花の歌32首があり、その序文として大伴旅人が書いた文章から採用された。

その序文によると、
天平2年(730)、正月13日に大宰府の長官だった大友旅人の宅にみんなが集まって梅話の宴会を催した。
「時に初春の[令]月にして、気淑(よ)く風[和](やわら)ぎ、梅は…」
と、書いてある。

広辞苑へ、
【令月】れいげつ
『万事をなすのによい月。めでたい月』
『陰暦2月の異称』

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
初春の良い月となり、風も和んだので宴会を催した、
詩を詠み、大いに語らい、和やかに飲みました、
というわけですな。

この梅花の宴に参加した人物は、
長官の大伴旅人の他に、次官、三等官などの役人はもとより、
筑前国、筑後国、豊後国、壱岐国、対馬国、薩摩国、大隅国など九州各地の官吏が参加した。
なぜか、肥後と日向の役人が見当たらないのは、大宰府の管轄ではなかったのかな?

818番の歌
「春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮さむ」
詠み人は、
『筑前守 山上大夫』
中国風に書かれてる。
山上は、有名な山上憶良。
大夫は長官のことで、筑前国の長官という肩書。
大伴旅人とともに万葉集の編集をした山上憶良の歌です。
梅の花の宴の序文は山上憶良が書いたという説もあります。

講座では32首全部解説してくれました。
詳細は省略。

伴氏は、天皇に直接仕える伴造。
軍事的集団でもある。
その伴造を統括するのが大伴氏。
大伴金村の頃が全盛期だったが、朝鮮問題で失脚。
その後、旅人や家持が挽回するが、
藤原氏の台頭でジリ貧となり、
旅人は、神亀4年(727)12月頃大宰府長官に左遷されました。
この時、63歳。
隠居してもいい歳に九州まで行かされたのです。
そして、天平2年(730)正月、梅の花の宴を催したのです。
10月、旅人は大納言になり、
12月、ようやく任を解かれ、帰京できました。
しかし、翌年の7月亡くなりました。
67歳でした。

大伴氏は、この後
藤原種継事件で衰退、
大伴から伴へ改名、その他一般の貴族となったのであった。

Φ(*^ひ^*)Φ

令和、めでたい元号だが、

大伴旅人にとっては、
ホントにめでたかったのか?

考えさせられますね。


ちなみに、
何年か前に太宰府に行きました。
梅花の宴が催された大宰府政庁跡の奥の四王寺山の麓から斜面を登り、
百名城の大野城跡を目指したが
危うく転落しそうになりました

結局、大野城の百間石垣を見られなかった。

令和何年かの梅の頃にリベンジしなければ!



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長岡京市シンポジウム、その2

2019-06-07 17:41:55 | 歴史講座、講演
"2019年6月01日(土)

仁木氏の基調講演の後、
ディスカッションがあった。

ブラタモリで一躍有名人になった
京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんが登場。
地形に詳しく話が面白い。


さすが、ですわ。

仁木氏が、
「どうして勝龍寺城は台地の上(現在のJR長岡京駅付近)に造らなかったのか?」
という問いに対して

梅林さんの解答は、
『集水場だったから』

なんか、答えになってないような…

光明寺断層の末端に位置していて水が集まる場所だったから、
という理由です。

Φ(*^ひ^*)Φ
信長は、家臣の城は山に造らせない。
必ず、水利交通に便利な低地に城を築かせた。
長浜城、坂本城、大溝城、北ノ庄城などなど。
だから、勝龍寺城も同じ理屈なのでは?
低湿地や水堀に囲まれた惣構えの城は、山城よりも意外に防備に優れてる、と我が輩は思います。


◯光秀の本陣というべき『御坊塚』は、従来「境野1号墳」と推定されてきた


現在はサントリー京都工場の敷地の中なので、立入禁止。
↓仕方ないので隣の墓地から様子をうかかった。




しかし、
近年は「恵解山(いげのやま)古墳」という説が有利になってます。

梅林さんが、調べた結果によると
現在は前方後円墳として綺麗に整備されてるが、









昔は、長方形の形だった。

つまり、整備する前は古墳を陣城として改造された痕跡の姿が残ってた

発掘調査では鉛玉が発見されてるので陣が敷かれたのはほぼ間違いない。
ただし、土豪の神足氏、三好氏、細川氏、そして、光秀、
どの時代に改変したかは、不明。

さらに、梅林さんは
大胆にも
恵解山古墳に6つの曲輪があったと、
推定された。

いやぁ、これはびっくりポンです!

会場内、撮影不可だったので曲輪の画像をアップできないのが残念無念。
ま、あくまでも推測の曲輪。
梅林さんは、城郭研究者でもないので、あえてレジメにも掲載してくれなかった。

いやそれより、
前方後円墳として整備する前に実測して誰かが、縄張り図を作成してほしかった、です。


後円部は、現在は墓地になってる。
城の曲輪跡のように見えなくもない。
陣城として改変された痕跡かも?ね。



「太閤記」には、
塚に光秀軍の兵が約5000人駐屯した、と記載されてる。

そこで、
梅林さんは、この恵解山古墳に何人収容できるか、計算された。

その結果は、約2308人という数字でした。

ほほー!

ですわ。


シンポジウムは昼に終了。
午後は、勝龍寺城跡を探訪しました

次回に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今朝起きたら
右目の中を変なものが動き回ってる。

今も動いてる。

聞くところによると

飛蚊症
だとか?

加齢に伴うもので、
死ぬまで治らないらしい。

よりによって本日とは!


先日、頼んでもいないのに

介護保険被保険者証が届いた

もう完璧に年寄りの仲間入りですわ…


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長岡京市シンポジウム、その1

2019-06-06 22:02:04 | 歴史講座、講演
"2019年6月01日(土)

京都府、JR長岡京駅前のバンビオにおいて、
大河ドラマ記念シンポジウムがあり、参加した。

光秀関連ということで、会場は満員。
定員の300人を超えたかも?





基調講演は、
『地形から見る光秀・藤孝
―勝龍寺城と山崎合戦の秘密―』
大阪市立大学の仁木宏さん。

その内容は、

【勝龍寺城に関して】
◇1560年頃、三好長慶方が勝龍寺城を築城
◇細川藤孝が大規模改造。
織田権力の技術で築造した。
安土城よりも先行。
◇現在の勝龍寺城跡、沼田丸、神足神社、勝龍寺集落をふくむ惣構の城下町だった。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
惣構え、と聞いてびっくりポンでした。
◇立地としては、小畑川と犬川の合流点。

舌状台地の先端部で、
台地の上ではなくて、平地に築かれた


【山崎・勝龍寺城合戦】
●天下分け目の天王寺合戦という言い方は、江戸時代の軍記物の創作。
●小泉川を挟んで光秀軍と秀吉軍が対峙した。
しかし、具体的史料がない。
●光秀の本陣は「おんぼう(御塚)」、
ここに5000の兵が集結した。
信用性が低い。
事実とは言えない
◯確かな第1級史料によると、
山崎と勝龍寺城の間が主戦場
◯光秀は退却して勝龍寺城に入るが、やがて退出した

◇ある程度、確かな史料によると、
街道沿いに高山・中川・堀が山崎に陣取り、光秀軍が山崎を攻める
山手左翼を羽柴秀長、黒田、
南手右翼を池田、浅野、加藤、
3つの流れで攻撃し、光秀軍を攻撃した。

なので、
★合戦は小泉川を挟んで行われたのではない。
★光秀の本陣は、勝龍寺城の南方か?
★天王寺合戦、山崎合戦という呼び方は間違い。


天下分け目の

『山崎・勝龍寺城合戦』

と呼ぶべきである。

天王山では合戦が無かったようですな。


その2に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

大豆パワーに関しては今までいやというほど聞かされてきた。

さらに、
昨日のNHKガッテン!では、
大豆たんぱく質が、筋力アップさせる、
と言ってた。
食べるだけで筋力アップするなんて
びっくりポンですな。

途中で寝落ちしたので、
ホントに効果があるのか、検証を見られなかったが…

いやそれより、

我が輩は大豆の食べ過ぎで、

腸の調子が悪い!

と、思うのだが…


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