2020年2月21日(金)
15時55分、「天守」
滑り込みセーフで天守に入りました。
係員のおじさん、
『もう閉めるよ。』
えー?
まだ5分前だけど…
おじさん、
『片付けるまでに帰ってね。時間無いし、料金は無料にしとくわ。』
すみません、最上階まで上がって2分で降りてきますから、
と言って内部を見学させてもらいました。
勿論、百名城スタンプも押しましたよ。
この時点ですでに閉館の16時を過ぎてました。
て、冬とはいえ4時に閉めるなんて…
縮尺10分の1の模型
江戸時代の本物ですよ。
当初藤堂高虎が創建した時は、彦根城のような望楼型天守でした。
現在の天守は伊達家が層塔型に再建されたものです。
層塔型は一階から三階まで通し柱が貫いてます。
形がシンプルですが堅固だと言われる。
とはいえ宇和島城天守は破風が多く豪華さもあります。
現存天守の階段はどこでも急で危険ですな。
一気に最上階に。
姫路城、大阪城、名古屋城などと違って小ぶりの天守なのですぐに登れます
先に訪れた樺島灯台、多賀神社などが見えます
この景色は最高ですな。
急いで天守入口へ戻ったら16時4分。
超過してました。
謝ったら、
おじさんが『城山公園は6時まで開いてるから城内をゆっくり見てください』
と言ってくれた。
ありがとうおじさん。
天守横及び裏は立入禁止で入れなかった。
「二の門跡」
礎石あり。
登る時に見逃してた
「藤兵衛丸」
建物は三之丸にあった武器庫の山里倉庫です。
現在は城山郷土館になってる。
藤兵衛丸の石垣は、藤堂高虎の頃の最古の石垣だと言われる。
加工してない自然石を積んでます。
一番広い「長門丸」は公園になってます
この付近は「代右衛門丸」「式部丸」かな?
記憶が薄れて覚えてない…
そして、南側の搦手へ。
「上り立ち門」
現存する薬医門としては最大級で、創建も高虎頃にまで遡るかも?と言われてる。
門前に
「児島惟謙銅像」
歴史上有名な大津事件では
行政政治家の圧力に屈せず、司法権を確立した人ですね。
まかり間違えば大国ロシアと全面戦争になったかもしれない裁きでした。
次回へ続く~
Φ(*^ひ^*)Φ
机の上に置いとくだけで勝手に花が咲く
と言われて
その通りに咲きました。
「コルチカム」という花です。
水も肥料も不要。
球根だけで咲く。
生命力の強い草花ですな。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
2020年2月21日(金)
15時40分、
「桑折長屋門」
この付近は三之丸で、三之丸御殿があった場所。
昭和時代に桑折家長屋門が移されてここが現在の登城口となった。
桑折(こおり)家は伊達家の血縁で、政宗が宇和島伊達家の目付として付けた家老。
当初、河後森城の城代でした。
2月は天守の閉館が16時。
あと20分しかないので急いで駆け上がりました。
長屋門の裏のロッカーにバッグを放り込み身軽にした。
このロッカーは100円ですが、荷物を取り出せば返金されます。
石垣がナイス!
長屋門の裏の石段の坂を登る。
彦根城の表門からの石段を連想させます。
石段から長屋門を見下ろす
急な坂を登る。
高石垣が待ち構える。
じっくりと石垣を見たいが時間がない。
15時48分「井戸丸」
城山には3つの井戸があり、こちらは三之丸からの登城道にある貴重な井戸。
井戸丸を見下ろす
彦根城では黒門からの急な坂の途中に井戸曲輪がありその上が天守ですよね。
三の門跡付近の高石垣、
横矢がかかってる。
見事ですね!
二之丸へ
向こうに天守が見える。
あともう少しだ。
最後の石段を登る
本丸入口の「一の門」跡
振り返ると宇和島湾が見える。
素晴らしいですね。
そして、
15時55分、「天守」
我が国現存12天守の1つで、国重文。
唐破風に、丸に縦三本の家紋。
天守に入りました。
15時56分
係員のおじさん、
『4時だから、もう閉めるよ!
えー?
次回へ続く~
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
2021年2月21日(金)
河後森城から宇和島駅に戻ったのが
14時20分。
このまますぐに宇和島城へ向かうべきなのだが、ちょこっと寄り道することにした。
結局、これが大きな失敗に…
駅から港へ向かう。
宇和島社会福祉センター、
電話ボックスの上に牛鬼。
毎年7月に「うわじま牛鬼まつり」が盛大に催されるが、今年は例のごとく中止になったそうです。
ちなみに我が輩が訪れたこの時は松山市でコロナ感染者が1名、
という状態。
その後、まさかこんなに大感染するとは誰も想像しなかった…
「宇和島市歴史資料館」
由緒ありそうな建物ですよね。
明治17年(1884)9月、宇和島広小路(宇和島城の南東)に「宇和島警察署」として建てられたもの。
その後、
昭和28年から、南宇和郡西海町(現:南宇和郡愛南町)に移築され、役場となり、
平成4年(1992)に宇和島に戻り、復元されました。
明治時代の「擬洋風建築」として
平成8年(1996)に登録有形文化財に指定されました。
で、この隣に
14時46分、
「樺島砲台跡」。
幕末の安政2年に宇和島藩が海防のために海を埋め立てて築いた。
お台場と呼ばれたそうで、これは復元です。
五門の砲台が設置された。
自由に内部へ入れます。
周囲は堀のようになってるが海だったと思います。
隣の資料館に詳しい展示物があるそうだが、時間がないので入ってません。
東京のお台場が続百名城に指定されたので行ってみたいけど、行けるかな?
砲台見学後、真っ直ぐ駅へ戻るべきなのだが
ガイドマップを見ると須賀川の対岸に「多賀神社」を見つけた。
我が地元の多賀大社と関係ありそうなのでちょこっと立ち寄ることにした。
15時06分、「多賀神社」
確かに多賀大社の分社なのだが、
入口の自然石には
「千五百守社」と刻まれてる。
「ちいほもりのやしろ」と読むそうです。
この地域では最古の社という意味があるとか?
境内に入ると、異国風の石像がある。
↑中央に男根像、その向こうに信楽の狸像
奥の社殿には
またしても男根。
そういえば、ガイドブックには「凸凹神堂」と書いてある。
性に関する社でもある。
宇和島藩伊達家と彦根井伊家は、初代藩主より縁戚関係にあるため、多賀大社の分社として祭ったが、本来は原始的な伝統のある地域の社だったのかも?ね。
時間がないので寄り道はこれくらいにして急いで宇和島城へ向かいました。
その途中に
「穂積橋」
宇和島藩士で法学者の「穂積陳重」の功績を称えて名付けられた橋。
銅像として仰がれるよりもみんなに渡ってもらえる橋になったほうがいい、と言う氏の思いを尊重したそうです。
食堂もある。
橋の近くに
「高野長英の隠れ家」
宇和島藩主伊達宗城が長英の才能に魅せられて招聘し、ここに匿った。
長英は蘭学の教授の他に藩の砲台建設にも携わりました。
残念ながら、最後は幕府に捕らえられ無念の死となりました。
城下町にはこのような史跡がいっぱいあるが、もう寄り道できない!
急ぎました
15時40分、
城山登山口到着。
目の前に見える桑折氏長屋門を入って天守まで駆け足で登ります。
というのは、
天守は16時で閉館。
あと20分しかない。
冬場は早く閉まるのです。
て、早すぎやろ!
次回へ続く~
馬《●▲●》助ヒヒーン♪