2009/03/23
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(1)円明園のネズミウサギどろぼう
貧富の差が大きくなるに連れ、泥棒も増えています。昔は窓を開け放しで出かけることもできた専家楼(大学外国人専門家宿舎)ですが、今回、支配人さんから入り口ドアと各室の窓を確実に施錠するよう固く言い渡されました。
バスの中ではバックをしっかり胸にかかえること。道を歩くときショルダーバックのベルトは肩にかけるのではなく、首を入れて斜めにかけ、バックを手でおさえること。海外生活の基本です。
2007年に、大連でひったくりにあい被害届を出しましたが、旅行保険でも現金の補償はしてもらえません。バッグと財布と、財布の中に入れておいたアクセサリーの分が旅行保険で補償されました。
現在の中国は貧富の階層差が大きくて、スーパーの店の前には物乞いもいます。一方、豪邸をぽんと建てて高級車を乗り回す人たちもいます。
世界のお金持ちのなかでも、最近話題になった人がいます。サンローランコレクションを競り落とした中国人富豪のこと。
北京オリンピック後に中国関連の話題が世界的なニュースになったひとつといえば、サンローランコレクションのオークション落札の話題でしょう。
イヴ・サンローラン(フランスのモードデザイナー)の遺産、競売で売れた美術品だけでも463億円。マチスの絵「黄水仙と青・ピンクの敷物」が1枚で38億円。
春庭は、「モリスデザインのクッションがひとつ6000円もするから買えない」ってときは、しみじみ貧乏が身につまされたのですが、400億円となると頭が金額についていかず、貧乏をひがんでいる余裕もなく腹も立たない。とはいえ中国政府は腹を立てています。
オークションに出された「十二支ブロンズ像ウサギとネズミの頭部像」は、北京の円明園から英仏連合軍が略奪した品だからです。牛、猿、虎、猪、馬の5体は中国政府がとりもどしていますが、竜、蛇、羊、鶏、犬の5体は今も行方不明で所在があきらかではありません。
円明園からの略奪美術品のうち、サンローランのコレクションに含まれていたネズミとウサギの頭部像について、中国側は「盗まれた文化財は国際法で返還が義務づけられている」と主張しましたが、フランス裁判所は「このネズミとウサギ頭部像は、きちんとした売買履歴を持ち、正当な所有者による出品である、という判断で競売を認める判決を下しました。
新華社通信が3月2日付けで報じたところによると。ウサギ&ネズミ頭像を電話参加で競り落としたのは中国人富豪。落札者は「支払い(日本円で34億円)は拒否。ブロンズ像は中国に返還されるべきなのでオークションに参加した」という声明を出したそうです。
円明園泥棒の一件。「盗まれた文化財は国際法で返還要求できる」というほうも、どうやら100年200年たつと時効みたい。時効ということにしないと、大英博物館など展示品がほとんどなくなってしまう。
支払い期日がすぎたら落札者の権利は消える契約でしょうから、もう一度オークションをやり直すことになるのでしょうか。私のひったくり被害は保険でカバーできましたが、円明園泥棒の後始末は処理が長引きそうです。
<つづく>
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2009年03月24日
ニーハオ春庭略品博物館」
2009/03/24
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(2)略奪品博物館
150年前、ウイリアム・モリスは、結婚の翌年1861年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、家具などの制作販売をはじめました。「苺どろぼう」と名付けられたデザインの壁紙やカーテンなどは、大人気商品となりました。150年たっても、同じデザインの商品がスカーフやブックカバーになって売られています。
イギリスでモリスのアーツ&クラフツ製品が売れ出したころ、中国は1842年のアヘン戦争後のドサクサ時代。清朝末期の混乱の中、円明園は1860年に英仏連合軍によって焼き討ちされ、円明園内の大量の美術品が略奪され国外へ流出しました。私は1994年に北京に滞在したとき遺跡公園としてにぎわっている円明園を訪れ、往時をしのびました。中国政府は国の遺産として一部の復元を決めています。略奪された美術品の回収をはかり、返還要求や買い戻し活動をしているところです。
モリスの代表作「苺どろぼう」は、小鳥がイチゴをついばんでいる美しいデザインです。このパテント、モリスの死後誰が管理しているのでしょうか。著作権は死後50年、意匠権は20年保護されますが、モリスが亡くなって113年も経っていますから、使いたい放題?使ったもん勝ち。モリスの「苺どろぼう」は150年たっても、私たちの生活に美しいデザインを与えてくれているのですが、各地の略奪美術品に関わる問題は、解決がむずかしい。
略奪された世界遺産、大英博物館など各地で保存されています。大英博物館からエジプトの博物館へ返還されたものなどもあります。エジプトできちんと管理され、公開されていくのなら、返還は妥当なことだと思います。
略奪の運命にあった各地のお宝、その後の運命はさまざまです。世界の文化遺産を博物館で保存していなかったら、はたしてきちんと保全していくことができるのかという微妙な問題もあります。タリバーンによって破壊されてしまったバーミヤン渓谷の磨崖仏像の悲惨を思うと、現地に残したからと言ってそれが最善の方法とも思えないのです。
バーミヤン磨崖仏像、崖を削るのはたいへんだから、そのまま現地に残されました。運び出せる大きさの仏像は、バーミヤン渓谷から国外へ流出したものも多い。発掘者がそのまま持ち帰って各国に残したものもある。東京国立博物館の東洋館などに展示されているバーミヤン仏像の中にも、きちんとした購入記録がある品だけでなく、来歴不明のものもあります。でも、これらの仏像がタリバーンの地に残されていたら「すべての偶像を否定する。仏像は壊されなければならない」と考えるイスラム原理主義タリバーンによって破壊されていたかもしれません。
購入記録や来歴の残されていない略奪品と思われる品は、本国できちんとした管理がなされることを確認して返還されるべきだと思いますけれど、国家による国宝の保全は、とても難しい問題です。政情安定していない国では、しばしば政変やクーデターがおこり、前代の遺産は略奪散逸するからです。
国立科学博物館チームがアフリカで恐竜化石の発掘作業をしたときのこと。発掘者側が半分を持ち帰ってよいと許可されて日本に化石を持ち帰ったのに、為政者が変わったら約束が反故にされ、全部返せといわれました。出土地の国の要求に従って貴重な化石資料を返却したところ、その国の政変後にはすべて資料が散逸し、せっかくの恐竜化石が未研究のまま消えてしまいました。科博にあったレプリカが唯一の研究材料になった、ということを下記のコラムに書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d424#comment
<つづく>
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2009年03月25日
ニーハオ春庭「紫禁城どろぼう」
2009/03/25
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(3)紫禁城どろぼう
北京の故宮博物館は、建物(紫禁城)は残されていますが、中にあった100万点以上の宝物は、蒋介石の大陸脱出時にほとんどが台北に持ち出されました。宝物の多くが流入したはずの台湾。台北の故宮博物館に飾ってあるのはレプリカが多いそうです。「本物はいつのまにか流出し、政治資金や宋美齢(蒋介石夫人1893-1981)のドレスやアクセサリーに化けてしまった」と、ツアーの台湾人ガイドさんから聞きました。
レプリカ説は台北雀のおしゃべり噂にすぎないのでしょうが、案外真実をついているのかもしれないとも感じます。台北の本省人の中には、蒋介石を恨んでいる人もいるので、蒋介石憎ければ宋美齢のドレスも憎いのでしょう。蒋介石ら外省人(大陸系台湾人・大陸から国共内戦前後に移住してきた人々)と内省人(もともと台湾に移住していた中国人)の対立は最近は緩和してきましたが、まだまだ、外省人が権力武力を楯に本省人を迫害したことを恨みに感じている人もいる。宋美麗の華麗なファッションに悪口を言いたい、という気持ちはわかります。
北京政府は、中国から流出した美術品の回収を行っていますが、紫禁城や円明園から流出した膨大なお宝は、行方のわからないもののほうが多いでしょう。北京の故宮博物館で皇帝の衣装や西太后(1835-1908)のアクセサリーなどの展示を見た覚えがあります。本物だったのかどうかはさだかではありません。
豪奢な副葬品がぎっしりあったという西太后(1835-1908)のお墓。西太后は清朝末期に絶大な権力をふるった皇太后です。もともとは身分が低い妃でしたが、咸豊帝の嫡男を出産したことから、皇后(東太后)を圧倒する権力をにぎりました。夫の死後幼い息子を帝位につけ権力を手にし、日清戦争や義和団事件前後の清朝政治に関与しました。西太后の辣腕によってかろうじて保たれていた清朝は、西太后の甥、溥儀を最後の皇帝として滅亡しました。清朝の最後の威厳を示す葬儀は盛大で、お墓の副葬品も豪奢なものでした。
清朝滅亡した後に、西太后のお墓はたちまち盗掘でカラッポになってしまいました。内乱が続いた時代でしたから、お墓を守る人もいなくなってしまったのでしょう。
西太后のお墓を紹介している『天津イガ栗』というサイトによると、「副葬品の宝物は、蒋介石の国民党軍が全部略奪した」と、説明が書いてあるそうです。共産党政府としては盗掘はすべて国民党の仕業、とするのが「政治的に正しい言説」になるのだろうと思います。
http://igaguri.sakura.ne.jp/kanko/sintoryo.html
光緒帝(西太后の甥、ラストエンペラー溥儀の従兄1874-1908)は、3歳で即位してから30年間は西太后の傀儡皇帝でしたが、しだいに傀儡であることにあきたらぬ思いをもつようになりました。自立した権力を持つ皇帝になろうとしたため、それを察知した西太后が毒殺したのではないか、と言われてきましたが、病死説と毒殺説の両方が出て100年、どちらとも決着がついていませんでした。思いがけず死因が判明したのは、盗掘で何も残されていないとされたお棺に残されていたわずかな髪の数本の分析によるそうです。
<つづく>
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2009年03月26日
ニーハオ春庭「墓盗人」
2009/03/26
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(4)墓盗人
光緒帝の恵陵は、1938年に盗掘され、皇帝と皇后のお棺の中はからっぽにされてしまいました。
砒素中毒という死因が発表されたのは、1980年代に国家文物部門が再調査した際に、からっぽだったお棺に光緒帝の遺骨と遺髪が残留していたのが発見され、2003~2008年に分析結果が出たことによります。
「光緒帝は遺髪分析により急性砒素中毒した」という死因が報じられています。中国ニュース通信社による記事は下記URLに。
http://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html
包振遠(北京市公安局(警察)調査研究員)が、2008年5月発行の歴史専門誌「近代史研究」に「清末の光緒帝の死因はヒ素中毒だった」との論文を発表したことに対し、北京市公安局刑事捜査総隊政治処と北京市公安局法医学検査実験鑑定センターは、包振遠氏は調査に加わっていない、包氏が持ち出したデータには改竄が加えられていると発表しました。包氏はこの発表に対して名誉毀損訴訟を起こしており、砒素中毒死説の真偽をめぐって決着がつくのはまだ先になりそうです。
いずれにせよ、毒を盛ったと噂される西太后も盛られたほうの光緒帝も、墓のなかでは等しく丸裸にされてしまった、、、、
静かに永遠の眠りにつくには、墓のなかに骨しか残らない庶民のほうがいいのか。いや散骨して骨ものこさないほうがさらに安眠できるかも。
西太后(1835-1908)と同じ時代に生きた人、14代徳川将軍の正室となった静寛院宮/和宮親子(かずのみやちかこ1846-1877)がお墓の中に持ち込んだ物は、愛する夫の写真でした。
増上寺墓地改装の際、徳川歴代の墓地が改められ、和宮のお墓にも調査が入りました。143cmの遺骸の胸に直垂姿をした若い男性の写真乾板が胸に抱かれていました。
日にあたったその写真は翌日には薄れて見えなくなってしまい、だれの写真だったのかわからなくなってしまいました。公武合体という政略結婚であったにもかかわらず、親密な夫婦の愛情を育んだと言われている徳川家茂の写真であったという説に一票。
家茂の写真を盗んだのは、日光だともいえますが、保存法を考えずに乾板写真を日光にさらしてしまった調査団一行。
幕末の歴史も現在さまざまな資料が発掘され、日本の近代史に新たな光が当たっています。
私は日本と諸外国の交流史のうち、ことばの交流史に興味をもっています。古代の漢字流入と漢字をもとにする仮名表記の成立、日本語への外来語の流入過程などです。
2008年に語彙論を1本まとめました。外来語「ミシン」の日本語語彙への定着の過程を記した論文です。明治時代、ほとんどの英語単語は翻訳されて和製漢字語となりました。
A steam locomotiveは蒸気機関車と翻訳され、Postal servicesは郵便制度と翻訳されたのに、なぜ、ミシンは縫製機や裁縫機という翻訳語が普及しなかったのか、について考察した論文です。春庭、カフェ日記にエッセイを書いているだけじゃなくて、ちゃんと日本語研究もしているんです。
最初にミシンを使った人と言われているのが天璋院(1836-1883)です。ミシン論を書く中で、ハリスの献上品というミシンが、幕末から明治へと移り変わる際にどのような運命をたどったのか調べたのですが、ミシンの行く末について記された文献は見つかりませんでした。天璋院は1863(文久3)年の大奥の火事で焼け出され、このとき、おもだった大奥女中たちを退職させています。おそらくは火事の際、重いミシンは運び出せずに焼けてしまったのではないか、と推測されるのですが、真相はわかりません。
天璋院が江戸城を立ち去るとき、身の回りの品以外は持ち出しを禁止し、すべてを江戸城に残したと伝えられています。徳川将軍の書籍コレクションである紅葉山文庫の所蔵品は、国立文書館にそっくり保存され、われわれ国民が閲覧できます。政変に際しても略奪者や墓盗人が出なかったのは、歴史を伝える上で喜ばしいことです。
中国書籍は、政変のたびに散逸消滅して中国本国には残されていないものも多い。宋代・明代・清代の貴重な書籍のうち、紅葉山文庫にだけ残された書物もあります。代々の将軍が中国書籍の輸入をはかり、保存したおかげです。鎖国政策をとって他藩が中国や西欧から新しい知識や文物を輸入できないようにしたのは、輸入品を幕府が独占し、新しい知識文物を将軍の権威を高めるための道具としたからと言えますが、輸入書をはじめ将軍家の宝物の多くがそのまま保全されたこと、文化的文物の保存について考えさせられる事例です。
<つづく>
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2009年03月27日
ニーハオ春庭「サンローランの水着」
2009/03/27
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(5)サンローランの水着
千年前の正倉院宝物がそっくり残されている日本は、世界でも稀な例といえるでしょう。
たとえば、フランスではマリーアントワネットの衣装やアクセサリーのコレクションなどはたちまち散逸しました。だれが、どうやって手に入れて売りにだされたのか知りませんが、マリーアントワネット所有物は、ときどきオークションに登場します。
チャールズ英国皇太子が、離婚前のダイアナさんにプレゼントとして贈った品のひとつも、「マリーアントワネット愛用の天蓋つきベッド」でした。
ルイ16世は、ベッドの中であまり王妃と親密ではなかったと歴史は伝えていますし、マリーアントワネットもルイ16世もギロチンに消えたことを思うと、不吉なプレゼントだったのかもしれません。ダイアナさんは、離婚後に謎の交通事故死。あのベッドは今どうなっているのかしら。
フランスの法律についてはよくわからないけれど、円明園から運び出されたウサギとネズミ頭像は、サンローランコレクションのオークションで2800万ユーロ、34億円で落札。
20世紀後半のファッション史に大きな足跡残したサンローランの衣装。
ピエール・ベルジュさん、イヴのモード資料が散逸しないように、しっかり保存してくださいね。オークションで436億円も売り上げた分、一部をゲイ団体に寄付するということですが、サンローラン博物館の維持管理もしっかりとお願いします。
イブ・サンローラン博物館、パリ市内にあります。
サンローランは現役時代、服飾デザインのアトリエを構え、数々の作品を生み出しました。2002年に引退した後、このアトリエはサンローランの作品をはじめとするファッションや芸術、美術作品などを展示するモードの博物館となりました。イブ・サンローランがこれまでに発表したオートクチュール・コレクションの代表作、デッサン、デザイン画、型紙、アクセサリーなど、貴重な記録が特別保管室に保存されています。
サンローランコレクションの出品者ピエール・ベルジュは、サンローラン社の元会長で、イヴ・サンローランの公私にわたる長年のパートナーでした。ピエールは、二人三脚でサンローランのデザインを世界的なモードにし、ふたりして50年にわたって美術品を収集してきました。
イヴが2008年6月に亡くなり、ピエール・ベルジュは相続した美術品のほとんどをクリスティオークションで売り払うことにしました。オークション収益金の一部はゲイ・コミュニティーに贈られるほか、エイズ研究などに寄付されるそうです。一部ってどれくらい?あのぅ、日本の貧乏な教師に贈られる分なんて、ないでしょうね。ほんの一部でいいんだけれど。ぱちもんYSLロゴのスカーフでも買いますから。
値段のことばかり言ってなんですけれど、中国製のバスタオル、近所のスーパーで30元(450円)ほどで売っています。日本のデパートで、サンローランロゴがついていれば、バスタオル1枚で3000~5000円。むろん、私は日本でも中国でも中国製を愛用しています。安物はそれなりで、品質のよいものは少ないけれど。
たった一枚、私のタンスの中にあるYSLロゴのついているものといえば、姉からもらった水着のみ。近頃はプールに行くこともないので、タンスの奥深く保存され、散逸することも略奪されることもないでしょう。
さて、タオルは間に合っているとして、果物を仕入れに市場へ行ってみましょう。果物が安い近所の青果市場に出ている苺を買うときの注意。農産物は日本に比べて格安とはいえ、うまさ甘みはそのときどきで変わります、苺が山に盛られている中から一個だけ、つまみ食いして、甘さを確かめてから買いましょう。甘くなかったら買うのをやめるけど、そうなると苺ひとつぶ、苺どろぼう?1個なら試食を許してくれるかしら。
薄給の貧乏教師だけれど、略奪などせずにきちんと買い物をして中国生活を過ごすつもりです。
薄給なので、衣料品はまだ何も買っていません。例年女性教師たちは当地でチャイナドレス(旗包チーパオ)を誂えるのですが、チーパオは、すらりとした人でないと着こなすのが難しい。私が着るとビヤ樽にチーパオ。はい、ご想像の通り、どんどん太っています。26日夜は、近所の「東方餃子王」という有名チェーン店へ行きました。おいしい焼き餃子水餃子をお腹一杯食べて16元(250円)ほどでした。タンスの奥のサンローラン水着、帰国したらこの身が入らなくなっているかも。
<おわり>
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2009年03月28日
ニーハオ春庭「食べ歩き」
2009/03/28
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(1)食べ歩き
中国生活、最初の第1週は、当地の気候と生活に慣れること、第2週は授業が開始され、授業のリズムに慣れること、これだけでせいいっぱいでした。
宿舎と大学の間を往復するだけ。近所のスーパーと大学内の学生用スーパーで必需品を買い物するだけ。
中国にきても、春庭のショッピングは日本と同じく、「安物買いの銭失い」です。
失敗の買い物第一号お茶ボトル。空気が乾燥していてのどが渇くので、人々はお茶のボトルを持ち歩いています。日本の百円ショップで売っているようなプラスチックの水筒は7~10元(100~150円)です。ステンレスの保温ボトルは30~50元。ぐっと割高になります。
大学内の店にあったステンレスボトル、15元だったので、「お、これはお買い得品、でもほかの品は30元なのに、どうしてこれだけ15元なんだろう」と思いつつ買いました。
お茶を入れて教室に持っていきました。飲んでみると、猫舌の私にちょうどいい冷め具合。保温がきかない保温ボトルだった。欠陥商品について、なんの説明もなくほかの商品といっしょの棚に並べておいたら、割引値段だとしても日本なら苦情がいくところですが、中国では、「なぜ、これは値段が安いのか」と質問しないで飛びついた私が悪いということになるのでしょう。猫舌春庭は熱いお茶は苦手だってことで、ま、いいか、という買い物でした。
なにしろ中国語ができないので。買い物は商品を指さして「これ=チュィガ(東北なまりなので、標準中国語普通話とちょっと発音が違う)」といって、「多少銭ドゥオシャオチェン」これだけですませる。 まだ、市場にもデパートにもでかけていません。歩いていける近所のスーパー、ハンクーロンのほか、市内にはウォルマートやカルフールが出店しているので、もう少し暖かくなったら、ショッピングに出かけてみましょう。
ご近所食べ歩き、27日夜は、韓国料理の店。まずは定番。石焼きビビンバ、冷麺、サムゲタン、チャプチ(春雨と肉野菜の炒め物)を食べました。東北地方には朝鮮族が多く住んでおり、朝鮮料理の店はもともとたくさんありましたが、経済開放後、韓国資本がどっと入り込み、韓国料理店も市内に増えてきました。韓国料理と朝鮮料理、値段はそれほど変わらないけれど、朝鮮族の人たちに言わせると味付けは微妙に異なるのだそうです。でも、私の舌には、どちらも「マシッソヨ=おいしい」で、違いはわかりません。
先週の土曜日21日の夕食は、「火鍋」を食べに行きました。同じ留学生教育部で仕事をしている日本人教師の食事会。留学生教育部は、中国に留学している日本人学生への中国語教育、英語圏へ留学する中国人学生への英語教育、日本へ留学する中国人学生への日本語教育を行っている学部です。文科省派遣の私たちは、国費留学生担当です。
私たち短期文科省派遣教師6人と、大学現地採用組の日本人準教授とその夫人。非常勤講師の若い女性教師ふたりとの「どうぞよろしく」の顔合わせ。この女性ふたりは、私が1996年から2007年まで出講していた大学の卒業生なので、埼玉キャンパスの話など、地元トークができます。
火鍋は中華風鍋料理です。ひとりひとり個別の鍋にしてもらいました。私は大鍋にみんなが直箸をつっこむ鍋を食べることができないのです。取り箸を用意しておいても、必ずだれかが直箸をつっこむ。お茶の稽古ができなかったのも、ひとつの茶碗を回し飲みすることに耐えられなかったから。これは私のビョーキです。
大テーブルにひとりずつの前に鍋がおかれ、野菜や肉はテーブル中央の回転部分に大盛りになっているので、ほかの人の箸が触っていないであろう部分をねらって、とります。
それぞれ豆腐や湯葉、好みの野菜を鍋に入れて煮ながら食べます。煮ながら食べるといっても、猫舌の私はしばらくタレの中につけておいて、さましてから食べる。タレはバイキング方式で様々な味のタレと薬味を自分で選びます。私はごまだれと酢醤油ダレにしました。ビールもいっぱい飲んで、一人50元750円ほど。
お昼ご飯は、大学職員食堂でセルフサービスのランチ。無料の食券をもらっています。中華おかずが4、5品と、スープ。ご飯と饅頭(マントー=蒸しパン)が並んでいます。
毎日たくさん食べていて、ちょっと体重も心配になってきたので、そろそろダイエットも考えなければ。それじゃ、ダイエットは来週から。
<つづく>
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2009年03月29日
ニーハオ春庭「停電」
2009/03/29
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(2)停電
3月25日木曜日は、午前中いっぱい停電でした。日本でも停電がありますけれど、落雷や送電線の事故で停電になることがニュースとして報道されるくらいの頻度。当地では昔はしばしば電力不足のための停電があったけれど、最近は電力事情も改善された、と喜んでいた矢先、25日には半日間の停電。朝6時から12時まで大学内に電気がつきませんでした。副校長先生の説明では、電力不足なのではなく、大学内電気工事のための停電だったというのですが、日本のように、授業のある平日は電気工事を避けるということはないらしい。
エレベーターが動かず3階講師室まで階段を上るくらいはダイエットにもなることでかまいませんが、教室内設置のコンピュータシステムが作動しないのはこまりました。教室に自分のパソコンを持っていき、自分ではUSBファイルを見ながら授業ができますが、プロジェクターには投影されません。システムの中にあるCDやビデオも動きませんから、日本でやっているように、黒板に文型を書いたり絵カードを使って文型提示したり、なんとか授業をこなしました。
学生達は昔と変わらず優秀です。去年の10月にアイウエオの読み方書き方から日本語教育を初めて、実質5ヶ月間日本語を練習してきました。5ヶ月の間に、日本の中学生が3年間の初級英語教育を終えるのと同じほどの能力を獲得しています。ただし、中国の学生は文字にたよるので、読むのは皆じょうずですが、教科書を見ないでする会話や聞き取りが下手です。
私の授業では、自分で日本語文を産出したりペアで会話をかわす練習を中心にしています。
27日夜は、1週間の仕事を終え肩こりをほぐすべく「盲人按摩院」へ行ってみました。「盲人按摩院」という大きな看板を掲げた店が1分以内に歩ける範囲で3~4軒もあり、まずは一軒ずつ回ってみて、いちばん相性のよさそうなところを贔屓にしようと思います。
2週間の疲れをほぐしてもらう全身保健コース、80分で50元でした。2007年には90分40元だったので、値上がりしていることになりますが、まあ、ほかの物価も上がっているので、按摩代も上がっているのは仕方がない。
仰向けで頭から足へとすすみ、うつぶせになって首から足へ。最後に腰掛けて肩と首筋。揉むというより、ものすごい力で押すやり方で、痛かったけれど、ほかの按摩院でもこういう押し方だったから、これが中国按摩の標準なのかもしれません。「痛いからもっと弱く」と言えないので、そのまま押されていました。
ほかの場所なら「因為疼所以請使変得更加軟弱」と紙に書いて渡すところですが、残念ながら、盲人按摩院では筆談ができない。
四声が苦手なので、発音が下手です。「自分が語学下手だと、日本語ができない学生の気持ちがわかる」と、言い訳しつつ、今回も中国語は少しも上達しないでしょう。
<つづく>
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2009年03月30日
ニーハオ春庭「中国的咖喱飯」
2009/03/30
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(3)中国的咖喱飯
28日の昼ご飯は、仕事でペアを組む中国人先生との食事会。2007年にペアを組んだリー先生と2009年今年のペアのシャ先生。リー先生はご主人と中学生の息子さんの3人家族。シャ先生は30代の独身男性です。博士論文執筆中で、結婚は博士号取得後に考えるそうです。
日本人教師と中国人教師がペアでクラスを担任し、中国人先生が文法の説明をします。基本的には日本と同じく直接法(ダイレクトメソッド=日本語だけで日本語を教える)で教えることになっていますが、中国語での説明もあります。
日常会話ならなんとかこなせるようになっている学生もいますが、まだまだ耳が弱く、十分に文の産出ができない学生も多い。私は最初から、「私は日本語とスワヒリ語がわかります。中国語はできませんから、教室では日本語で話してください」と言ってあります。
学生は、どうしても中国人の先生には中国語で話してしまうので、日本語で質問させることは、会話の訓練になります。
口は回らないけれど、ほとんどが理工系の学生なので、理屈で理解しないと納得しない学生も多く、いろいろ質問がでます。
A:「お出かけですか」B:「ええ、ちょっと病院へ」という会話をしたあと、(1)Aが「えっ、どうして病院へいくんですか」と質問するのと、(2)A「えっ、病院へ?どうしたんですか」
とたずねるのでは、どう違うのか、という質問がありました。
(1)は、病院へ行く理由をたずねています。Bの答えは(1)「風邪をひいたんです」「友達のお見舞いに行くんです」など、なぜ病院へいくのかを答えます。(2)の「どうしたんですか」は、Aの状態、体調をたずねています。自分の体調が悪くないときは「ええ、ちょっと友達が入院しているのでお見舞いに」と、答えるし、体調が悪いときは「ええ、風邪をひいてしまって」など、自分の体調を答えます。
結果的には同じことを答えることになっても、「どうしてですか」と「どうしたんですか」という質問の内容は異なります。 日本語母語話者は「どうしてですか」と「どうしたんですか」の使い分けを自然に身につけていますが、日本語学習者は、この区別をひとつひとつ覚えなければなりません。
金持ちで余裕のありそうな友人に借金を申し込んだら相手が断ってきました。金持ちなのに。そういうときは「え、どうして貸してくれないんですか」と質問します。
「どうしたんですか」とたずねるときは、相手の状態をたずねています。相手がいつも快く金を貸してくれていたこれまでの経緯があり、金を貸してくれないってことは、よほど相手の経済状態が悪くなったのだろうという推測をした場合に「え、どうしたんですか」「どうかしたんですか」などと質問できる。単純に金を貸してくれない理由をきくときは「どうしたんですか」とは聞けない。
文法説明や表現の微妙なちがいを解説するのも日本語教師の仕事ですが、初級のうちは「理屈はいいから、とにかく覚えないと先に進まない」という状況もあります。
中国人先生とペアを組んで、中国語で説明したほうがさっさと理解してもらえることは説明をしてもらって、私たち日本人教師は、できるかぎり実際の場面を設定して、現実の会話をしていけるように工夫をしていきます。
貧乏春庭、早くも半月分の給料が終わりそうです。4月上旬の給料日までに足りなくなったら、ボスが貸してくれると言ってくれました。経済問題は中国でも春庭の最大関心事ですが、なんとか工夫をしています。
28日土曜日は、カレーライスを作りました。近所のスーパーで普段は10元というカレールーが特売で売られていました。昔は日本式カレーをつくろうとしたら、日本食材店で輸入品の割高なカレールーを買わなければなりませんでしたが、日本式カレールー(SBゴールデンカレー)が「SB金牌咖喱・日式調味[土夬]」として売られています。120g6皿分で8元。ジャガイモ6個4元、タマネギ6個3元にんじん2本2元と肉かたまり500g15元。合計30元450円。
肉は骨付きの固まりなので、ぐつぐつ茹でておいしいスープもとれました。できあがった半分は冷蔵庫にとりおき、土曜日の夜と日曜日の朝、カレーを食べました。骨付き肉のだしがきいたのか、日本で作るよりおいしくできたと思います。
どんどん「丸く」なっていく教師を見た学生から「どうしたんですか、その体」ときかれるかもしれません。このときは「どうしてですか、その体」とは聞けない。
質問に対して、現在の状態を答えなければなりません。「ええ、毎日食べ過ぎて。中華料理もおいしいし、日式咖喱飯もおいしくて、体重がちょっと、、、、」
「体重がちょっと」どういう状態なのか、ご想像の通り。
<つづく>
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2009年03月31日
ニーハオ春庭「行列のできる店」
2009/03/31
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(4)行列のできる店
日本は花冷えとのこと。当地でも30日の帰宅バスは、風花の舞う中を走りました。西の方に沈む夕日が曇り空を通してもわかるのですが、ふわふわした小雪が道に落ちていきます。池や川の氷はほとんど溶けたのですが、まだまだ花には遠い。
花より団子の春庭。当地でも「花より豆餅」の生活です。今回は行列のできる豆餅店のご紹介。
中国人留学生が日本に来て、最初に感心することがあります。日本の電車ホームの整列乗車です。これまで中国では列をつくる文化があまりなかったので、列を作るお店というのは珍しかった。どんなことでも我先に行おうとする結果、かえって混乱しものごとの遂行が遅くなるのが中国式やりかたで、列を作って粛々と待つ、ということがなかなかできない国民性でした。
2007年から2年ぶりに中国へ赴任して、驚いたことのひとつ。町に「行列のできる店」ができたこと。近所の人気「緑豆餅店」には、いつ見ても20人くらいが列を作って買っています。昼はいつも行列が途絶えませんが、夜7時すぎると列が5人くらいになるので、そのころをねらって買いにいきます。が、運が悪いとすでに売り切れで買えない。列が少なくてまだ餅が残っている時間を見計らうのが、微妙なタイミングとなります。
ストレス解消には、食べまくることが何よりという春庭です。今いちばんのお気に入りは、この緑豆餅屋で、緑豆餡と小豆餡が入った焼き餅を買うこと。さめてもおいしいけれど、熱々の焼きたての味は格別です。難点は、薄い餅皮がぼろぼろこぼれること。餅といっても、日本のような米餅ではなく、小麦粉の薄皮餅だからと思います。
「清宮・緑豆餅」。人民広場にもチェーン店があり、私が買うのは桂林路にある支店。「添加剤、防腐剤無添加」というのがウリで、緑豆と小豆の2種類だけ。あんこを薄い皮で包み、焼いてあります。中国には珍しい「ほんのりした甘さ」で、豆の本来の味が生きている。お菓子といえば何でもメチャ甘なのが中国菓子だと思っていたので、この「ほんのり甘い」に行列があることが、驚きでした。
食生活も充実して、昔はお正月や結婚式に食べるごちそうだった水餃子を日常的に食べられるようになった中国の人々が「甘くない餡」を求めるようになったのかと思います。
生活の変化。1994年には、教室の机の上にはコーヒーなどの空き瓶が並んでいました。空き瓶をどこからか手に入れてお茶の葉を入れ、ポットのお湯を入れて飲むのが「教室文化」でした。それが、2007年には「空き瓶のお茶」が教室に1つか2つくらいになり、プラスチックの水筒が机の上に並んでいました。2009年には空き瓶は完全に姿を消し、プラスチックの水筒も少数派。多数派はステンレス保温ボトル。30元~50元するボトルを学生の身分で気軽に買えるようになっていることが、中国経済の急成長をあらわしているように思います。
昔の学生たち、農村の出身だったりすると、貧乏生活をよく知っていました。
「使役受け身文」の練習で「こどものころ、野菜がきらいでしたが、母に食べさせられました」という例文があります。この例文を示すために、前提として野菜の好き嫌いを質問することにしています。
「○○さん、子供の頃、野菜が好きでしたか嫌いでしたか」と質問すると、「先生、私たちが子供の頃、農村は野菜しかおかずがありませんでした。嫌いも好きもなく、野菜だけ食べていました。野菜しかないのですから、野菜を食べさせられる、ではなく、野菜を食べるしかない、でした」という話が学生から出て、みな「うん、うん」とうなずいて教室に笑い声がおきました。
今教室にいる学生の大半は「ひとりっこ」で、子供の頃から大切に育てられてきた「小皇帝」「小公主」たちです。中国全土から選抜されている優秀な学生たちであることは昔と変わっていませんが、私にとっては「貧乏時代を知っている」人のほうが、つきあいやすい。なにせ春庭は、「結婚以来、どん底貧乏」を続けているので。
そんな貧乏春庭ですが、今朝もストレス解消のために、朝、起きたら一番に買い置きの緑豆餅を食べました。朝起きたらといっても、午前1時半に目が覚めてしまった。夕べは眠くて8時半に寝てしまいましたから、まあ、睡眠時間は5時間ほどとれているのですが、ストレスが睡眠にあらわれているのかもしれません。1994年には、拘束時間は朝8時から11時半までで、午後は宿舎に帰ってよかったのです。授業準備は自室でおこなうことができました。2007年は、留学生教育部のキャンパスがバスで30分のところに移転しており、7時半の専用通勤バスに乗って17時のバスで帰る生活になりました。
8時から17時まで拘束時間。そのうち11時半から13時半まで、2時間も昼休みがあるので、中国人先生達は昼寝をしたり、スポーツをしたりします。校舎の4階に職員専用のジムがあり、卓球台、ビリヤード、ベンチプレスなどの筋トレマシーンがあります。
でも、日本人講師室内では、昼休みの間も皆、授業準備や書き取りテスト、漢字テストの採点などをしており、休むどころではありません。私も授業時間以外は、学校でも家でもパワーポイントの授業スライドを作ることで、全時間を使っています。これじゃ、食べる以外にストレス解消の時間がないのも当然。
はい、緑豆餅、今朝も食べます。今朝といっても、3月31日、午前2時。うん、ほんのり甘くておいしい。ストレス解消には、緑豆餅をたべるしかない。
<おわり>
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(1)円明園のネズミウサギどろぼう
貧富の差が大きくなるに連れ、泥棒も増えています。昔は窓を開け放しで出かけることもできた専家楼(大学外国人専門家宿舎)ですが、今回、支配人さんから入り口ドアと各室の窓を確実に施錠するよう固く言い渡されました。
バスの中ではバックをしっかり胸にかかえること。道を歩くときショルダーバックのベルトは肩にかけるのではなく、首を入れて斜めにかけ、バックを手でおさえること。海外生活の基本です。
2007年に、大連でひったくりにあい被害届を出しましたが、旅行保険でも現金の補償はしてもらえません。バッグと財布と、財布の中に入れておいたアクセサリーの分が旅行保険で補償されました。
現在の中国は貧富の階層差が大きくて、スーパーの店の前には物乞いもいます。一方、豪邸をぽんと建てて高級車を乗り回す人たちもいます。
世界のお金持ちのなかでも、最近話題になった人がいます。サンローランコレクションを競り落とした中国人富豪のこと。
北京オリンピック後に中国関連の話題が世界的なニュースになったひとつといえば、サンローランコレクションのオークション落札の話題でしょう。
イヴ・サンローラン(フランスのモードデザイナー)の遺産、競売で売れた美術品だけでも463億円。マチスの絵「黄水仙と青・ピンクの敷物」が1枚で38億円。
春庭は、「モリスデザインのクッションがひとつ6000円もするから買えない」ってときは、しみじみ貧乏が身につまされたのですが、400億円となると頭が金額についていかず、貧乏をひがんでいる余裕もなく腹も立たない。とはいえ中国政府は腹を立てています。
オークションに出された「十二支ブロンズ像ウサギとネズミの頭部像」は、北京の円明園から英仏連合軍が略奪した品だからです。牛、猿、虎、猪、馬の5体は中国政府がとりもどしていますが、竜、蛇、羊、鶏、犬の5体は今も行方不明で所在があきらかではありません。
円明園からの略奪美術品のうち、サンローランのコレクションに含まれていたネズミとウサギの頭部像について、中国側は「盗まれた文化財は国際法で返還が義務づけられている」と主張しましたが、フランス裁判所は「このネズミとウサギ頭部像は、きちんとした売買履歴を持ち、正当な所有者による出品である、という判断で競売を認める判決を下しました。
新華社通信が3月2日付けで報じたところによると。ウサギ&ネズミ頭像を電話参加で競り落としたのは中国人富豪。落札者は「支払い(日本円で34億円)は拒否。ブロンズ像は中国に返還されるべきなのでオークションに参加した」という声明を出したそうです。
円明園泥棒の一件。「盗まれた文化財は国際法で返還要求できる」というほうも、どうやら100年200年たつと時効みたい。時効ということにしないと、大英博物館など展示品がほとんどなくなってしまう。
支払い期日がすぎたら落札者の権利は消える契約でしょうから、もう一度オークションをやり直すことになるのでしょうか。私のひったくり被害は保険でカバーできましたが、円明園泥棒の後始末は処理が長引きそうです。
<つづく>
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2009年03月24日
ニーハオ春庭略品博物館」
2009/03/24
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(2)略奪品博物館
150年前、ウイリアム・モリスは、結婚の翌年1861年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、家具などの制作販売をはじめました。「苺どろぼう」と名付けられたデザインの壁紙やカーテンなどは、大人気商品となりました。150年たっても、同じデザインの商品がスカーフやブックカバーになって売られています。
イギリスでモリスのアーツ&クラフツ製品が売れ出したころ、中国は1842年のアヘン戦争後のドサクサ時代。清朝末期の混乱の中、円明園は1860年に英仏連合軍によって焼き討ちされ、円明園内の大量の美術品が略奪され国外へ流出しました。私は1994年に北京に滞在したとき遺跡公園としてにぎわっている円明園を訪れ、往時をしのびました。中国政府は国の遺産として一部の復元を決めています。略奪された美術品の回収をはかり、返還要求や買い戻し活動をしているところです。
モリスの代表作「苺どろぼう」は、小鳥がイチゴをついばんでいる美しいデザインです。このパテント、モリスの死後誰が管理しているのでしょうか。著作権は死後50年、意匠権は20年保護されますが、モリスが亡くなって113年も経っていますから、使いたい放題?使ったもん勝ち。モリスの「苺どろぼう」は150年たっても、私たちの生活に美しいデザインを与えてくれているのですが、各地の略奪美術品に関わる問題は、解決がむずかしい。
略奪された世界遺産、大英博物館など各地で保存されています。大英博物館からエジプトの博物館へ返還されたものなどもあります。エジプトできちんと管理され、公開されていくのなら、返還は妥当なことだと思います。
略奪の運命にあった各地のお宝、その後の運命はさまざまです。世界の文化遺産を博物館で保存していなかったら、はたしてきちんと保全していくことができるのかという微妙な問題もあります。タリバーンによって破壊されてしまったバーミヤン渓谷の磨崖仏像の悲惨を思うと、現地に残したからと言ってそれが最善の方法とも思えないのです。
バーミヤン磨崖仏像、崖を削るのはたいへんだから、そのまま現地に残されました。運び出せる大きさの仏像は、バーミヤン渓谷から国外へ流出したものも多い。発掘者がそのまま持ち帰って各国に残したものもある。東京国立博物館の東洋館などに展示されているバーミヤン仏像の中にも、きちんとした購入記録がある品だけでなく、来歴不明のものもあります。でも、これらの仏像がタリバーンの地に残されていたら「すべての偶像を否定する。仏像は壊されなければならない」と考えるイスラム原理主義タリバーンによって破壊されていたかもしれません。
購入記録や来歴の残されていない略奪品と思われる品は、本国できちんとした管理がなされることを確認して返還されるべきだと思いますけれど、国家による国宝の保全は、とても難しい問題です。政情安定していない国では、しばしば政変やクーデターがおこり、前代の遺産は略奪散逸するからです。
国立科学博物館チームがアフリカで恐竜化石の発掘作業をしたときのこと。発掘者側が半分を持ち帰ってよいと許可されて日本に化石を持ち帰ったのに、為政者が変わったら約束が反故にされ、全部返せといわれました。出土地の国の要求に従って貴重な化石資料を返却したところ、その国の政変後にはすべて資料が散逸し、せっかくの恐竜化石が未研究のまま消えてしまいました。科博にあったレプリカが唯一の研究材料になった、ということを下記のコラムに書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d424#comment
<つづく>
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2009年03月25日
ニーハオ春庭「紫禁城どろぼう」
2009/03/25
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(3)紫禁城どろぼう
北京の故宮博物館は、建物(紫禁城)は残されていますが、中にあった100万点以上の宝物は、蒋介石の大陸脱出時にほとんどが台北に持ち出されました。宝物の多くが流入したはずの台湾。台北の故宮博物館に飾ってあるのはレプリカが多いそうです。「本物はいつのまにか流出し、政治資金や宋美齢(蒋介石夫人1893-1981)のドレスやアクセサリーに化けてしまった」と、ツアーの台湾人ガイドさんから聞きました。
レプリカ説は台北雀のおしゃべり噂にすぎないのでしょうが、案外真実をついているのかもしれないとも感じます。台北の本省人の中には、蒋介石を恨んでいる人もいるので、蒋介石憎ければ宋美齢のドレスも憎いのでしょう。蒋介石ら外省人(大陸系台湾人・大陸から国共内戦前後に移住してきた人々)と内省人(もともと台湾に移住していた中国人)の対立は最近は緩和してきましたが、まだまだ、外省人が権力武力を楯に本省人を迫害したことを恨みに感じている人もいる。宋美麗の華麗なファッションに悪口を言いたい、という気持ちはわかります。
北京政府は、中国から流出した美術品の回収を行っていますが、紫禁城や円明園から流出した膨大なお宝は、行方のわからないもののほうが多いでしょう。北京の故宮博物館で皇帝の衣装や西太后(1835-1908)のアクセサリーなどの展示を見た覚えがあります。本物だったのかどうかはさだかではありません。
豪奢な副葬品がぎっしりあったという西太后(1835-1908)のお墓。西太后は清朝末期に絶大な権力をふるった皇太后です。もともとは身分が低い妃でしたが、咸豊帝の嫡男を出産したことから、皇后(東太后)を圧倒する権力をにぎりました。夫の死後幼い息子を帝位につけ権力を手にし、日清戦争や義和団事件前後の清朝政治に関与しました。西太后の辣腕によってかろうじて保たれていた清朝は、西太后の甥、溥儀を最後の皇帝として滅亡しました。清朝の最後の威厳を示す葬儀は盛大で、お墓の副葬品も豪奢なものでした。
清朝滅亡した後に、西太后のお墓はたちまち盗掘でカラッポになってしまいました。内乱が続いた時代でしたから、お墓を守る人もいなくなってしまったのでしょう。
西太后のお墓を紹介している『天津イガ栗』というサイトによると、「副葬品の宝物は、蒋介石の国民党軍が全部略奪した」と、説明が書いてあるそうです。共産党政府としては盗掘はすべて国民党の仕業、とするのが「政治的に正しい言説」になるのだろうと思います。
http://igaguri.sakura.ne.jp/kanko/sintoryo.html
光緒帝(西太后の甥、ラストエンペラー溥儀の従兄1874-1908)は、3歳で即位してから30年間は西太后の傀儡皇帝でしたが、しだいに傀儡であることにあきたらぬ思いをもつようになりました。自立した権力を持つ皇帝になろうとしたため、それを察知した西太后が毒殺したのではないか、と言われてきましたが、病死説と毒殺説の両方が出て100年、どちらとも決着がついていませんでした。思いがけず死因が判明したのは、盗掘で何も残されていないとされたお棺に残されていたわずかな髪の数本の分析によるそうです。
<つづく>
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2009年03月26日
ニーハオ春庭「墓盗人」
2009/03/26
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(4)墓盗人
光緒帝の恵陵は、1938年に盗掘され、皇帝と皇后のお棺の中はからっぽにされてしまいました。
砒素中毒という死因が発表されたのは、1980年代に国家文物部門が再調査した際に、からっぽだったお棺に光緒帝の遺骨と遺髪が残留していたのが発見され、2003~2008年に分析結果が出たことによります。
「光緒帝は遺髪分析により急性砒素中毒した」という死因が報じられています。中国ニュース通信社による記事は下記URLに。
http://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html
包振遠(北京市公安局(警察)調査研究員)が、2008年5月発行の歴史専門誌「近代史研究」に「清末の光緒帝の死因はヒ素中毒だった」との論文を発表したことに対し、北京市公安局刑事捜査総隊政治処と北京市公安局法医学検査実験鑑定センターは、包振遠氏は調査に加わっていない、包氏が持ち出したデータには改竄が加えられていると発表しました。包氏はこの発表に対して名誉毀損訴訟を起こしており、砒素中毒死説の真偽をめぐって決着がつくのはまだ先になりそうです。
いずれにせよ、毒を盛ったと噂される西太后も盛られたほうの光緒帝も、墓のなかでは等しく丸裸にされてしまった、、、、
静かに永遠の眠りにつくには、墓のなかに骨しか残らない庶民のほうがいいのか。いや散骨して骨ものこさないほうがさらに安眠できるかも。
西太后(1835-1908)と同じ時代に生きた人、14代徳川将軍の正室となった静寛院宮/和宮親子(かずのみやちかこ1846-1877)がお墓の中に持ち込んだ物は、愛する夫の写真でした。
増上寺墓地改装の際、徳川歴代の墓地が改められ、和宮のお墓にも調査が入りました。143cmの遺骸の胸に直垂姿をした若い男性の写真乾板が胸に抱かれていました。
日にあたったその写真は翌日には薄れて見えなくなってしまい、だれの写真だったのかわからなくなってしまいました。公武合体という政略結婚であったにもかかわらず、親密な夫婦の愛情を育んだと言われている徳川家茂の写真であったという説に一票。
家茂の写真を盗んだのは、日光だともいえますが、保存法を考えずに乾板写真を日光にさらしてしまった調査団一行。
幕末の歴史も現在さまざまな資料が発掘され、日本の近代史に新たな光が当たっています。
私は日本と諸外国の交流史のうち、ことばの交流史に興味をもっています。古代の漢字流入と漢字をもとにする仮名表記の成立、日本語への外来語の流入過程などです。
2008年に語彙論を1本まとめました。外来語「ミシン」の日本語語彙への定着の過程を記した論文です。明治時代、ほとんどの英語単語は翻訳されて和製漢字語となりました。
A steam locomotiveは蒸気機関車と翻訳され、Postal servicesは郵便制度と翻訳されたのに、なぜ、ミシンは縫製機や裁縫機という翻訳語が普及しなかったのか、について考察した論文です。春庭、カフェ日記にエッセイを書いているだけじゃなくて、ちゃんと日本語研究もしているんです。
最初にミシンを使った人と言われているのが天璋院(1836-1883)です。ミシン論を書く中で、ハリスの献上品というミシンが、幕末から明治へと移り変わる際にどのような運命をたどったのか調べたのですが、ミシンの行く末について記された文献は見つかりませんでした。天璋院は1863(文久3)年の大奥の火事で焼け出され、このとき、おもだった大奥女中たちを退職させています。おそらくは火事の際、重いミシンは運び出せずに焼けてしまったのではないか、と推測されるのですが、真相はわかりません。
天璋院が江戸城を立ち去るとき、身の回りの品以外は持ち出しを禁止し、すべてを江戸城に残したと伝えられています。徳川将軍の書籍コレクションである紅葉山文庫の所蔵品は、国立文書館にそっくり保存され、われわれ国民が閲覧できます。政変に際しても略奪者や墓盗人が出なかったのは、歴史を伝える上で喜ばしいことです。
中国書籍は、政変のたびに散逸消滅して中国本国には残されていないものも多い。宋代・明代・清代の貴重な書籍のうち、紅葉山文庫にだけ残された書物もあります。代々の将軍が中国書籍の輸入をはかり、保存したおかげです。鎖国政策をとって他藩が中国や西欧から新しい知識や文物を輸入できないようにしたのは、輸入品を幕府が独占し、新しい知識文物を将軍の権威を高めるための道具としたからと言えますが、輸入書をはじめ将軍家の宝物の多くがそのまま保全されたこと、文化的文物の保存について考えさせられる事例です。
<つづく>
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2009年03月27日
ニーハオ春庭「サンローランの水着」
2009/03/27
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(5)サンローランの水着
千年前の正倉院宝物がそっくり残されている日本は、世界でも稀な例といえるでしょう。
たとえば、フランスではマリーアントワネットの衣装やアクセサリーのコレクションなどはたちまち散逸しました。だれが、どうやって手に入れて売りにだされたのか知りませんが、マリーアントワネット所有物は、ときどきオークションに登場します。
チャールズ英国皇太子が、離婚前のダイアナさんにプレゼントとして贈った品のひとつも、「マリーアントワネット愛用の天蓋つきベッド」でした。
ルイ16世は、ベッドの中であまり王妃と親密ではなかったと歴史は伝えていますし、マリーアントワネットもルイ16世もギロチンに消えたことを思うと、不吉なプレゼントだったのかもしれません。ダイアナさんは、離婚後に謎の交通事故死。あのベッドは今どうなっているのかしら。
フランスの法律についてはよくわからないけれど、円明園から運び出されたウサギとネズミ頭像は、サンローランコレクションのオークションで2800万ユーロ、34億円で落札。
20世紀後半のファッション史に大きな足跡残したサンローランの衣装。
ピエール・ベルジュさん、イヴのモード資料が散逸しないように、しっかり保存してくださいね。オークションで436億円も売り上げた分、一部をゲイ団体に寄付するということですが、サンローラン博物館の維持管理もしっかりとお願いします。
イブ・サンローラン博物館、パリ市内にあります。
サンローランは現役時代、服飾デザインのアトリエを構え、数々の作品を生み出しました。2002年に引退した後、このアトリエはサンローランの作品をはじめとするファッションや芸術、美術作品などを展示するモードの博物館となりました。イブ・サンローランがこれまでに発表したオートクチュール・コレクションの代表作、デッサン、デザイン画、型紙、アクセサリーなど、貴重な記録が特別保管室に保存されています。
サンローランコレクションの出品者ピエール・ベルジュは、サンローラン社の元会長で、イヴ・サンローランの公私にわたる長年のパートナーでした。ピエールは、二人三脚でサンローランのデザインを世界的なモードにし、ふたりして50年にわたって美術品を収集してきました。
イヴが2008年6月に亡くなり、ピエール・ベルジュは相続した美術品のほとんどをクリスティオークションで売り払うことにしました。オークション収益金の一部はゲイ・コミュニティーに贈られるほか、エイズ研究などに寄付されるそうです。一部ってどれくらい?あのぅ、日本の貧乏な教師に贈られる分なんて、ないでしょうね。ほんの一部でいいんだけれど。ぱちもんYSLロゴのスカーフでも買いますから。
値段のことばかり言ってなんですけれど、中国製のバスタオル、近所のスーパーで30元(450円)ほどで売っています。日本のデパートで、サンローランロゴがついていれば、バスタオル1枚で3000~5000円。むろん、私は日本でも中国でも中国製を愛用しています。安物はそれなりで、品質のよいものは少ないけれど。
たった一枚、私のタンスの中にあるYSLロゴのついているものといえば、姉からもらった水着のみ。近頃はプールに行くこともないので、タンスの奥深く保存され、散逸することも略奪されることもないでしょう。
さて、タオルは間に合っているとして、果物を仕入れに市場へ行ってみましょう。果物が安い近所の青果市場に出ている苺を買うときの注意。農産物は日本に比べて格安とはいえ、うまさ甘みはそのときどきで変わります、苺が山に盛られている中から一個だけ、つまみ食いして、甘さを確かめてから買いましょう。甘くなかったら買うのをやめるけど、そうなると苺ひとつぶ、苺どろぼう?1個なら試食を許してくれるかしら。
薄給の貧乏教師だけれど、略奪などせずにきちんと買い物をして中国生活を過ごすつもりです。
薄給なので、衣料品はまだ何も買っていません。例年女性教師たちは当地でチャイナドレス(旗包チーパオ)を誂えるのですが、チーパオは、すらりとした人でないと着こなすのが難しい。私が着るとビヤ樽にチーパオ。はい、ご想像の通り、どんどん太っています。26日夜は、近所の「東方餃子王」という有名チェーン店へ行きました。おいしい焼き餃子水餃子をお腹一杯食べて16元(250円)ほどでした。タンスの奥のサンローラン水着、帰国したらこの身が入らなくなっているかも。
<おわり>
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2009年03月28日
ニーハオ春庭「食べ歩き」
2009/03/28
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(1)食べ歩き
中国生活、最初の第1週は、当地の気候と生活に慣れること、第2週は授業が開始され、授業のリズムに慣れること、これだけでせいいっぱいでした。
宿舎と大学の間を往復するだけ。近所のスーパーと大学内の学生用スーパーで必需品を買い物するだけ。
中国にきても、春庭のショッピングは日本と同じく、「安物買いの銭失い」です。
失敗の買い物第一号お茶ボトル。空気が乾燥していてのどが渇くので、人々はお茶のボトルを持ち歩いています。日本の百円ショップで売っているようなプラスチックの水筒は7~10元(100~150円)です。ステンレスの保温ボトルは30~50元。ぐっと割高になります。
大学内の店にあったステンレスボトル、15元だったので、「お、これはお買い得品、でもほかの品は30元なのに、どうしてこれだけ15元なんだろう」と思いつつ買いました。
お茶を入れて教室に持っていきました。飲んでみると、猫舌の私にちょうどいい冷め具合。保温がきかない保温ボトルだった。欠陥商品について、なんの説明もなくほかの商品といっしょの棚に並べておいたら、割引値段だとしても日本なら苦情がいくところですが、中国では、「なぜ、これは値段が安いのか」と質問しないで飛びついた私が悪いということになるのでしょう。猫舌春庭は熱いお茶は苦手だってことで、ま、いいか、という買い物でした。
なにしろ中国語ができないので。買い物は商品を指さして「これ=チュィガ(東北なまりなので、標準中国語普通話とちょっと発音が違う)」といって、「多少銭ドゥオシャオチェン」これだけですませる。 まだ、市場にもデパートにもでかけていません。歩いていける近所のスーパー、ハンクーロンのほか、市内にはウォルマートやカルフールが出店しているので、もう少し暖かくなったら、ショッピングに出かけてみましょう。
ご近所食べ歩き、27日夜は、韓国料理の店。まずは定番。石焼きビビンバ、冷麺、サムゲタン、チャプチ(春雨と肉野菜の炒め物)を食べました。東北地方には朝鮮族が多く住んでおり、朝鮮料理の店はもともとたくさんありましたが、経済開放後、韓国資本がどっと入り込み、韓国料理店も市内に増えてきました。韓国料理と朝鮮料理、値段はそれほど変わらないけれど、朝鮮族の人たちに言わせると味付けは微妙に異なるのだそうです。でも、私の舌には、どちらも「マシッソヨ=おいしい」で、違いはわかりません。
先週の土曜日21日の夕食は、「火鍋」を食べに行きました。同じ留学生教育部で仕事をしている日本人教師の食事会。留学生教育部は、中国に留学している日本人学生への中国語教育、英語圏へ留学する中国人学生への英語教育、日本へ留学する中国人学生への日本語教育を行っている学部です。文科省派遣の私たちは、国費留学生担当です。
私たち短期文科省派遣教師6人と、大学現地採用組の日本人準教授とその夫人。非常勤講師の若い女性教師ふたりとの「どうぞよろしく」の顔合わせ。この女性ふたりは、私が1996年から2007年まで出講していた大学の卒業生なので、埼玉キャンパスの話など、地元トークができます。
火鍋は中華風鍋料理です。ひとりひとり個別の鍋にしてもらいました。私は大鍋にみんなが直箸をつっこむ鍋を食べることができないのです。取り箸を用意しておいても、必ずだれかが直箸をつっこむ。お茶の稽古ができなかったのも、ひとつの茶碗を回し飲みすることに耐えられなかったから。これは私のビョーキです。
大テーブルにひとりずつの前に鍋がおかれ、野菜や肉はテーブル中央の回転部分に大盛りになっているので、ほかの人の箸が触っていないであろう部分をねらって、とります。
それぞれ豆腐や湯葉、好みの野菜を鍋に入れて煮ながら食べます。煮ながら食べるといっても、猫舌の私はしばらくタレの中につけておいて、さましてから食べる。タレはバイキング方式で様々な味のタレと薬味を自分で選びます。私はごまだれと酢醤油ダレにしました。ビールもいっぱい飲んで、一人50元750円ほど。
お昼ご飯は、大学職員食堂でセルフサービスのランチ。無料の食券をもらっています。中華おかずが4、5品と、スープ。ご飯と饅頭(マントー=蒸しパン)が並んでいます。
毎日たくさん食べていて、ちょっと体重も心配になってきたので、そろそろダイエットも考えなければ。それじゃ、ダイエットは来週から。
<つづく>
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2009年03月29日
ニーハオ春庭「停電」
2009/03/29
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(2)停電
3月25日木曜日は、午前中いっぱい停電でした。日本でも停電がありますけれど、落雷や送電線の事故で停電になることがニュースとして報道されるくらいの頻度。当地では昔はしばしば電力不足のための停電があったけれど、最近は電力事情も改善された、と喜んでいた矢先、25日には半日間の停電。朝6時から12時まで大学内に電気がつきませんでした。副校長先生の説明では、電力不足なのではなく、大学内電気工事のための停電だったというのですが、日本のように、授業のある平日は電気工事を避けるということはないらしい。
エレベーターが動かず3階講師室まで階段を上るくらいはダイエットにもなることでかまいませんが、教室内設置のコンピュータシステムが作動しないのはこまりました。教室に自分のパソコンを持っていき、自分ではUSBファイルを見ながら授業ができますが、プロジェクターには投影されません。システムの中にあるCDやビデオも動きませんから、日本でやっているように、黒板に文型を書いたり絵カードを使って文型提示したり、なんとか授業をこなしました。
学生達は昔と変わらず優秀です。去年の10月にアイウエオの読み方書き方から日本語教育を初めて、実質5ヶ月間日本語を練習してきました。5ヶ月の間に、日本の中学生が3年間の初級英語教育を終えるのと同じほどの能力を獲得しています。ただし、中国の学生は文字にたよるので、読むのは皆じょうずですが、教科書を見ないでする会話や聞き取りが下手です。
私の授業では、自分で日本語文を産出したりペアで会話をかわす練習を中心にしています。
27日夜は、1週間の仕事を終え肩こりをほぐすべく「盲人按摩院」へ行ってみました。「盲人按摩院」という大きな看板を掲げた店が1分以内に歩ける範囲で3~4軒もあり、まずは一軒ずつ回ってみて、いちばん相性のよさそうなところを贔屓にしようと思います。
2週間の疲れをほぐしてもらう全身保健コース、80分で50元でした。2007年には90分40元だったので、値上がりしていることになりますが、まあ、ほかの物価も上がっているので、按摩代も上がっているのは仕方がない。
仰向けで頭から足へとすすみ、うつぶせになって首から足へ。最後に腰掛けて肩と首筋。揉むというより、ものすごい力で押すやり方で、痛かったけれど、ほかの按摩院でもこういう押し方だったから、これが中国按摩の標準なのかもしれません。「痛いからもっと弱く」と言えないので、そのまま押されていました。
ほかの場所なら「因為疼所以請使変得更加軟弱」と紙に書いて渡すところですが、残念ながら、盲人按摩院では筆談ができない。
四声が苦手なので、発音が下手です。「自分が語学下手だと、日本語ができない学生の気持ちがわかる」と、言い訳しつつ、今回も中国語は少しも上達しないでしょう。
<つづく>
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2009年03月30日
ニーハオ春庭「中国的咖喱飯」
2009/03/30
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(3)中国的咖喱飯
28日の昼ご飯は、仕事でペアを組む中国人先生との食事会。2007年にペアを組んだリー先生と2009年今年のペアのシャ先生。リー先生はご主人と中学生の息子さんの3人家族。シャ先生は30代の独身男性です。博士論文執筆中で、結婚は博士号取得後に考えるそうです。
日本人教師と中国人教師がペアでクラスを担任し、中国人先生が文法の説明をします。基本的には日本と同じく直接法(ダイレクトメソッド=日本語だけで日本語を教える)で教えることになっていますが、中国語での説明もあります。
日常会話ならなんとかこなせるようになっている学生もいますが、まだまだ耳が弱く、十分に文の産出ができない学生も多い。私は最初から、「私は日本語とスワヒリ語がわかります。中国語はできませんから、教室では日本語で話してください」と言ってあります。
学生は、どうしても中国人の先生には中国語で話してしまうので、日本語で質問させることは、会話の訓練になります。
口は回らないけれど、ほとんどが理工系の学生なので、理屈で理解しないと納得しない学生も多く、いろいろ質問がでます。
A:「お出かけですか」B:「ええ、ちょっと病院へ」という会話をしたあと、(1)Aが「えっ、どうして病院へいくんですか」と質問するのと、(2)A「えっ、病院へ?どうしたんですか」
とたずねるのでは、どう違うのか、という質問がありました。
(1)は、病院へ行く理由をたずねています。Bの答えは(1)「風邪をひいたんです」「友達のお見舞いに行くんです」など、なぜ病院へいくのかを答えます。(2)の「どうしたんですか」は、Aの状態、体調をたずねています。自分の体調が悪くないときは「ええ、ちょっと友達が入院しているのでお見舞いに」と、答えるし、体調が悪いときは「ええ、風邪をひいてしまって」など、自分の体調を答えます。
結果的には同じことを答えることになっても、「どうしてですか」と「どうしたんですか」という質問の内容は異なります。 日本語母語話者は「どうしてですか」と「どうしたんですか」の使い分けを自然に身につけていますが、日本語学習者は、この区別をひとつひとつ覚えなければなりません。
金持ちで余裕のありそうな友人に借金を申し込んだら相手が断ってきました。金持ちなのに。そういうときは「え、どうして貸してくれないんですか」と質問します。
「どうしたんですか」とたずねるときは、相手の状態をたずねています。相手がいつも快く金を貸してくれていたこれまでの経緯があり、金を貸してくれないってことは、よほど相手の経済状態が悪くなったのだろうという推測をした場合に「え、どうしたんですか」「どうかしたんですか」などと質問できる。単純に金を貸してくれない理由をきくときは「どうしたんですか」とは聞けない。
文法説明や表現の微妙なちがいを解説するのも日本語教師の仕事ですが、初級のうちは「理屈はいいから、とにかく覚えないと先に進まない」という状況もあります。
中国人先生とペアを組んで、中国語で説明したほうがさっさと理解してもらえることは説明をしてもらって、私たち日本人教師は、できるかぎり実際の場面を設定して、現実の会話をしていけるように工夫をしていきます。
貧乏春庭、早くも半月分の給料が終わりそうです。4月上旬の給料日までに足りなくなったら、ボスが貸してくれると言ってくれました。経済問題は中国でも春庭の最大関心事ですが、なんとか工夫をしています。
28日土曜日は、カレーライスを作りました。近所のスーパーで普段は10元というカレールーが特売で売られていました。昔は日本式カレーをつくろうとしたら、日本食材店で輸入品の割高なカレールーを買わなければなりませんでしたが、日本式カレールー(SBゴールデンカレー)が「SB金牌咖喱・日式調味[土夬]」として売られています。120g6皿分で8元。ジャガイモ6個4元、タマネギ6個3元にんじん2本2元と肉かたまり500g15元。合計30元450円。
肉は骨付きの固まりなので、ぐつぐつ茹でておいしいスープもとれました。できあがった半分は冷蔵庫にとりおき、土曜日の夜と日曜日の朝、カレーを食べました。骨付き肉のだしがきいたのか、日本で作るよりおいしくできたと思います。
どんどん「丸く」なっていく教師を見た学生から「どうしたんですか、その体」ときかれるかもしれません。このときは「どうしてですか、その体」とは聞けない。
質問に対して、現在の状態を答えなければなりません。「ええ、毎日食べ過ぎて。中華料理もおいしいし、日式咖喱飯もおいしくて、体重がちょっと、、、、」
「体重がちょっと」どういう状態なのか、ご想像の通り。
<つづく>
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2009年03月31日
ニーハオ春庭「行列のできる店」
2009/03/31
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(4)行列のできる店
日本は花冷えとのこと。当地でも30日の帰宅バスは、風花の舞う中を走りました。西の方に沈む夕日が曇り空を通してもわかるのですが、ふわふわした小雪が道に落ちていきます。池や川の氷はほとんど溶けたのですが、まだまだ花には遠い。
花より団子の春庭。当地でも「花より豆餅」の生活です。今回は行列のできる豆餅店のご紹介。
中国人留学生が日本に来て、最初に感心することがあります。日本の電車ホームの整列乗車です。これまで中国では列をつくる文化があまりなかったので、列を作るお店というのは珍しかった。どんなことでも我先に行おうとする結果、かえって混乱しものごとの遂行が遅くなるのが中国式やりかたで、列を作って粛々と待つ、ということがなかなかできない国民性でした。
2007年から2年ぶりに中国へ赴任して、驚いたことのひとつ。町に「行列のできる店」ができたこと。近所の人気「緑豆餅店」には、いつ見ても20人くらいが列を作って買っています。昼はいつも行列が途絶えませんが、夜7時すぎると列が5人くらいになるので、そのころをねらって買いにいきます。が、運が悪いとすでに売り切れで買えない。列が少なくてまだ餅が残っている時間を見計らうのが、微妙なタイミングとなります。
ストレス解消には、食べまくることが何よりという春庭です。今いちばんのお気に入りは、この緑豆餅屋で、緑豆餡と小豆餡が入った焼き餅を買うこと。さめてもおいしいけれど、熱々の焼きたての味は格別です。難点は、薄い餅皮がぼろぼろこぼれること。餅といっても、日本のような米餅ではなく、小麦粉の薄皮餅だからと思います。
「清宮・緑豆餅」。人民広場にもチェーン店があり、私が買うのは桂林路にある支店。「添加剤、防腐剤無添加」というのがウリで、緑豆と小豆の2種類だけ。あんこを薄い皮で包み、焼いてあります。中国には珍しい「ほんのりした甘さ」で、豆の本来の味が生きている。お菓子といえば何でもメチャ甘なのが中国菓子だと思っていたので、この「ほんのり甘い」に行列があることが、驚きでした。
食生活も充実して、昔はお正月や結婚式に食べるごちそうだった水餃子を日常的に食べられるようになった中国の人々が「甘くない餡」を求めるようになったのかと思います。
生活の変化。1994年には、教室の机の上にはコーヒーなどの空き瓶が並んでいました。空き瓶をどこからか手に入れてお茶の葉を入れ、ポットのお湯を入れて飲むのが「教室文化」でした。それが、2007年には「空き瓶のお茶」が教室に1つか2つくらいになり、プラスチックの水筒が机の上に並んでいました。2009年には空き瓶は完全に姿を消し、プラスチックの水筒も少数派。多数派はステンレス保温ボトル。30元~50元するボトルを学生の身分で気軽に買えるようになっていることが、中国経済の急成長をあらわしているように思います。
昔の学生たち、農村の出身だったりすると、貧乏生活をよく知っていました。
「使役受け身文」の練習で「こどものころ、野菜がきらいでしたが、母に食べさせられました」という例文があります。この例文を示すために、前提として野菜の好き嫌いを質問することにしています。
「○○さん、子供の頃、野菜が好きでしたか嫌いでしたか」と質問すると、「先生、私たちが子供の頃、農村は野菜しかおかずがありませんでした。嫌いも好きもなく、野菜だけ食べていました。野菜しかないのですから、野菜を食べさせられる、ではなく、野菜を食べるしかない、でした」という話が学生から出て、みな「うん、うん」とうなずいて教室に笑い声がおきました。
今教室にいる学生の大半は「ひとりっこ」で、子供の頃から大切に育てられてきた「小皇帝」「小公主」たちです。中国全土から選抜されている優秀な学生たちであることは昔と変わっていませんが、私にとっては「貧乏時代を知っている」人のほうが、つきあいやすい。なにせ春庭は、「結婚以来、どん底貧乏」を続けているので。
そんな貧乏春庭ですが、今朝もストレス解消のために、朝、起きたら一番に買い置きの緑豆餅を食べました。朝起きたらといっても、午前1時半に目が覚めてしまった。夕べは眠くて8時半に寝てしまいましたから、まあ、睡眠時間は5時間ほどとれているのですが、ストレスが睡眠にあらわれているのかもしれません。1994年には、拘束時間は朝8時から11時半までで、午後は宿舎に帰ってよかったのです。授業準備は自室でおこなうことができました。2007年は、留学生教育部のキャンパスがバスで30分のところに移転しており、7時半の専用通勤バスに乗って17時のバスで帰る生活になりました。
8時から17時まで拘束時間。そのうち11時半から13時半まで、2時間も昼休みがあるので、中国人先生達は昼寝をしたり、スポーツをしたりします。校舎の4階に職員専用のジムがあり、卓球台、ビリヤード、ベンチプレスなどの筋トレマシーンがあります。
でも、日本人講師室内では、昼休みの間も皆、授業準備や書き取りテスト、漢字テストの採点などをしており、休むどころではありません。私も授業時間以外は、学校でも家でもパワーポイントの授業スライドを作ることで、全時間を使っています。これじゃ、食べる以外にストレス解消の時間がないのも当然。
はい、緑豆餅、今朝も食べます。今朝といっても、3月31日、午前2時。うん、ほんのり甘くておいしい。ストレス解消には、緑豆餅をたべるしかない。
<おわり>