2009/08/05
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(1)旧友と再会
中国滞在最後のイベントは、帰国の前の大連旅行でした。
大連には友人のハンさんが住んでいます。ハンさんは、若いながら大学で準教授に昇進して半年たったところです。たいへん優秀な人ですが、「学部によっては、私の年齢ではなかなか昇進のチャンスがなく、上の世代の人が大勢チャンスを待っているところも多いのに、私の所属する学部では、ちょうど世代の穴があったので、昇進できたのは、運がよかったからです」と謙虚に語っていました。
昇進のためには、英語試験や論文審査のほか、学長ほかお歴々の前での口頭発表や口頭試問を繰り返し、研究学会での発表の評価など、たくさんの関門があったということです。 ご主人の理解もあり、お姑さんが、11歳の娘シンシンちゃんの世話をしてくれる、という恵まれた環境もさることながら、彼女自身が努力家であることが、若い準教授の誕生となったのだろうと思います。
2007年に大連に滞在したときは、ハンさんの受け持ちクラスで飛び入り日本語授業をしたこともありました。今回はすでに期末試験を終えて、あとは期末の教員会議のみというところにおじゃましました。
今回、私のパソコンもケータイも壊れてしまったという状況のなかで、連絡が行き届かなかったのですが、私が夜行寝台の列車を降りて出口に向かうと、ちゃんとハンさんが「センセー!」と、待っていてくれました。
今では準教授の彼女のほうこそ「センセー」なのに、15年前と同じように、「センセー」「ランリン」と呼び合う二人です。
15年前、彼女は私が勤務した中国の大学の日本語学科学生でした。私が働いた学部とは別の学部でしたが、私の中国語家庭教師を務めてくれたり、幼かった娘と息子のシッターとして世話をしてくれました。その後、彼女が日本に来て働いていたときは、東京の我が家にも遊びに来てくれました。2007年には、久しぶりに旧交温めることができました。
7月23日の朝、大連駅からまずは、大学本部キャンパスの近くにある彼女の住まいに向かいました。ご主人の会社から支給されている社宅と、彼女の勤務先大学から支給されている職員住宅は人に貸し、現在は娘のシンシンちゃんが通っている大学附属小学校に徒歩3分という地に家を買って住んでいます。大学の元教授たちが住んでいる古いマンションで、若い世代はハンさん一家くらいということですが、おばあちゃんおじいちゃんが孫の世話をすることが多い中国なので、小学生くらいの子どもの姿もたくさん見かけます。シンシンの世話をしているのも、すぐ近所に住んでいるハンさんのご主人のお母さん。
5階にある住まいは、リビングルーム、夫妻の部屋、シンシンの部屋と台所、バスルームです。
大連など大都市では、「有名進学校に近いこと」が、親の家探しの第一条件なのだそうです。進学校の区域に住民票があることが進学に有利とされているので、進学校の周囲の住宅の値段は金融危機があろうと不況だろうと、どんどん高くなっているのだといいます。
自身が準教授への昇進を果たした今、彼女の一番の関心事は一人娘の進学。現在勤務している大学の付属小学校の生徒なので、大学附属中学校への進学は難しくないけれど、歩いて数分のところにある超有名進学校への入学を狙っているので、受験はたいへんだと話していました。
<つづく>
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2009年08月06日
ニーハオ春庭「鉛筆の歌」
2009/08/06
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(2)鉛筆の歌
シンシンちゃんやハンさんのお姑さんといっしょに、朝市へでかける途中、シンシンちゃんを入学させたいという有名進学校の前を通りました。北京大学、清華大学など、中国のトップクラスの大学への進学率がたいへん高いという学校で、門の横の掲示板に、生徒の写真付きで今年の進学者たちが張り出されていました。
進学希望者の全国統一試験(中国の大学入学統一試験「普通高等学校招生全国統一考試験(高考 gāo kǎo)」)は、6月8日9日に実施され、試験点数によって進学できる大学が決まります。各大学ごとの入試というのはなく、一回限りの試験で一生の進路が決まってしまう。日本より過酷な入試制度です。
掲示板に張り出された大学名を見ていると、ウァア、スンゴイ!と目を見張らされます。
日本の週刊誌に高校別の大学進学者が発表されることがありますが、個人の顔写真までは出すことはない。日本でこのように顔写真付きで出したら個人情報うんぬんの問題になるでしょうけれど、校門脇に並べられた顔写真はどれも誇らしげです。
中国ではかっての「国家重点大学」という国の重要大学の呼び方が、1995年以後は「211工程」(Project 211)と変わりましたが、今でも一般の人は「重点大学とそうでない大学」というふうに分けて呼んでいます。中国でも大学の数は増えているけれど、重点大学であるかどうかによって、就職にも差がでます。
私のクラスに集まってきていた国費留学生候補者の所属大学もこの「プロジェクト221」の大学でした。日本以上に学歴社会である中国では、「211工程」の大学に進学できるかどうかは、人生を左右します。
シンシンちゃんの教育のため、ハンさんは一ヶ月2400元をつぎ込んでいると語っていました。一般の大学卒業生の月給にあたる金額です。一週間のうち、ピアノ、一回110元、英語家庭教師一回100元、卓球教室一回60元、ダンス30元。一週間に4回のお稽古事で、300元、一ヶ月ではトータル2400元になるのだということです。
中国上層社会での教育熱について聞いてはいましたが、実際目の前に「大切に育てられている一人っ子小公主(リトルプリンセス)」がいると、中国で進学するのもたいへんだなあという気持ちになります。教育にお金をかけるかわりに、衣服はお下がりですませるのが、ハンさんの子育て方針だと言っていました。
シンシンちゃんは、2年前に会ったときに比べるとだいぶ背が伸び、眼鏡をかけたことで、ちょっと大人っぽい印象に変わりました。
本が好きでよく読んでいたせいか、目が悪くなってしまったと、ハンさんの嘆き。今いちばんのお気に入りの本は『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』だそうです。2年前はディズニーの絵本がお気に入りでしたから、読書の面でも成長ぶりが分かります。
マーマにならって、私を「センセー」と呼び甘えてきます。今回は「ジャンケンポン、あっちむいてホイ」が気に入って、何度も「センセー、アッチムイテ」と、遊びたがりました。
ダンスや英語のレッスンは大好きだけれど、ピアノと卓球はあまり好きではないというのですが、「弾いてみて」とリクエストすると、今練習中のスカルラッティのソナタを弾いてくれました。ときどきミスタッチがありましたが、いやいやでもちゃんと練習しているのだとわかりました。
シンシンに「Can you play piano?」と聞かれて、「両手で弾けるのは、今やバイエルだけだから、片手で弾く」と言って、「これなら、聞いたことがあるかな」と『里の秋』を右手だけで弾きました。
ピアノはリビングルームにおいてあり、リビングの向かい側はシンシンの部屋。部屋には、ベッドと勉強机。机の上には、マーマやナイナイ(奶奶=父方のおばあちゃん)に買ってもらった鉛筆がならんでいます。
広い中国には、1本の鉛筆を買うにさえ不自由している子どももいるという現実をシンシンが知るのは、まだもう少し先のことになるでしょうか。
鉛筆1本買うにも、何の不自由もしていないシンシンがもう少し大きくなったら、ひとつの歌を教えようと思います。
両手で伴奏を弾くのは私にはまだできないけれど、いつかシンシンに聞いてほしい歌。
一本の鉛筆の歌。
♪一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く
一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く
<つづく>
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2009年08月07日
ニーハオ春庭「大連自然博物館」
2009/08/07
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(3)大連自然博物館
大連に着いた日の午前中、雨模様でしたが、星海広場という海岸を散歩しました。大連はさまざまな地層が露出していることで有名な都市で、海岸にも、黒石礁などの貴重な地層があちこちにあり、観光名所になっています。
黒石礁風景区の写真のサイトをリンク
http://people.icubetec.jp/special/mapchina/liaoning/pm/a778f01952ef4051a5ac6aa72889d426
これらの地層を見ているうち、雨がぱらついたので、星海広場に建っている自然博物館で雨宿り。私が「中を見たい」というと、ハンさんは、博物館に勤務している知り合いに電話をかけて、入館許可をもらってくれました。
この博物館は3日前以前に予約しておかなければ、すぐには入れない場所だったのですが、特別に許可されて中に入れることになりました。貴重な展示品の保護の意味もあり、3日以上前に予約をして身元確認ができてからやっと見学が許可されるということでしたが、博物館研究者の知り合いで身元は確かなハンさんですから、すぐに見学できることになり、ラッキーでした。
知り合いという人は、ハンさんとは「登山の会」の仲間です。大連付近の山を歩いて植物採集を続け、つい最近、新種を発見したという女性植物研究者でした。
中国でコネを利用して得をしたのは、はじめてのことです。何のコネもない春庭だったので。
自然博物館の内部は、東京上野の科学博物館と似たような展示でした。階ごとに岩石と地層、植物、哺乳動物、鳥類、海の生き物などのコーナーがあり、さまざまな標本が展示してあります。中国の子どもたちが自然科学の一端に触れられるようになっていますが、上野の科博に比べると、まだまだ展示に工夫の余地がありそうです。
最近の日本の博物館は、研究の機能のほか、教育の機能も充実してきていますが、中国では博物館の普及、教育の機能はこれからだろうと感じました。ただ、予約は必要なものの、博物館の入館は無料。これは日本も見習うべきでしょう。日本の国立の博物館は独立法人になって経営が苦しいのはわかりますが、一般の人の入館料は国民の財産として無料にすべきと思います。
岩石や地層を展示している1階、2階以上の植物、動物、海洋生物など、テーマごとにしっかりした展示でしたが、現在の上野の科博などの展示方法からみると、専門的な知識を持っている人でないとわかりにくい展示が多いように思えました。
専門的知識のない者にもおもしろく興味をもてるように見せる、という点では、上野の科博は展示方法も洗練されていて、小さな子どもでも、科学への興味が持てる館内構成になっています。大学メンバーズシップという制度があって、大学の職員証を見せると無料で入れるので、折りにふれて科博を見ているのですが、改装のたびに展示が充実してきたと感じています。
中国の博物館から日本へ研究留学する学者は少なくないだろうけれど、専門の学芸員、キュレーターの養成にも、科博や国立博物館への留学生を送り出せたらいいのになあと、思いました。展示方法ひとつで、ひとつの科学的な展示品が「へぇ」と眺めるだけのものから、無限の科学への興味をひきおこす魔法の品に変わるからです。
科博にも鯨の骨格標本やプラスチックモデルはありますが、大連自然博物館には、日本にはない展示として、海岸に打ち上げられた鯨をそのまま剥製にして展示してある階が、迫力ありました。ミンククジラ、ナガスクジラ、マッコウクジラなどが、巨大な体躯が展示されていたので、鯨といっしょに写真をとりました。剥製の制作に薬品処理を行っているせいか、においがきつかったけれど、鯨の大きさを実感できました。。
<つづく>
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2009年08月08日
ニーハオ春庭「少女と子犬」
2009/08/08
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(4)少女と子犬
博物館から歩いて、ブランチをとりに人気の火鍋店へ。昼時にはちょっと早い時間だったので、待たずに入れましたが、昼時夕食時はいつも列を作って人々が待っている店なんだって。それでウエイトレスたちは何を勘違いしたのか、非常にいばっていて、このごろではサービスが最低だと、ハンさんは嘆いていました。
それでも、デパートもレストランも店員が「国家公務員」でみんな威張っていた時代に比べると、まだましなんじゃないかと思う。サービス悪くても、中国ではサービスの質はどこも悪いから、結局おいしい店が繁盛する。それでますますサービス悪くなる。でも、繁盛している店の食材は回転が早くて深浅だから、おいしい火鍋(シャブシャブ)でした。
私は、夜行寝台車を降りる前にちょこっとパンケーキやナッツを食べて朝ご飯代わりにしたので、早めのお昼がちょうどよく、おなかいっぱい食べました。薬味のおかわりやお水を頼んでもすぐには持ってきてくれなかったりしたけれど、肉も野菜もおいしくいただきました。
シンシンちゃんは、小学校の正式科目でも英語授業を受けていますが、ほかに、アメリカ人教師から、毎週英語のレッスンを受けています。英会話がとても上達していて、私とはもっぱら英語で会話しました。読むのは複文OKだけれど、会話では複文が出てこずに単文だけで話す私の英語力とちょうどいいくらいのシンシンちゃんの英語会話力なので、2年前にはジェスチャーでコミュニケーションをとっていたのに比べると、いろいろなおしゃべりができました。
かわいいシンシンちゃんに、「センセー、Do you like dog?」と質問されて「Of course, but do you mean dog as a pet or dog as a meat? In my childhood, I had a cute dog. I like dog very much. But, in the Korean restaurant I like dog meat 」と、答えたら、おばあちゃんが飼っている子犬を私に見せたいのだと言います。あはは、犬肉が好きかどうかではなく、ペットのことだったのね。シンシンは学校から帰ってくると、近所に住んでいる父方のおばあちゃんといっしょにすごしていますが、おばあちゃんは、最近犬を飼い始め、今シンシンは子犬に夢中で、「リリヤ」と呼び、かわいがっています。
火鍋の昼食後、午後、奶奶(ナイナイ=父方のおばあちゃん)が夕食準備をし、マーマが大学の会議に出かけました。「センセー接待係」はシンシンです。いっしょにシンシンの小学校まで散歩に行きました。住まいは5階ですが、エレベーターがないので、ちょっと上り下りがきついですが、道路を隔てて、空き地を越えていくと、目の前が小学校です。
空き地には、近所の人が思い思いの野菜を植えています。トウモロコシ、ピーマン、トマト、南瓜などが育っていました。ここもやがては整備されて何らかの建物が建つのかもしれませんが、ちょっとした空き地があれば、たいていそこは畑となるのが、東京などの空き地と違うところかも。東京だと、空き地は駐車場になる。
空き地でリリヤを放しましたが、まだよちよち歩きの子犬はあまり歩きたがらず、歩かせると行き先とは反対の方向に行きたがる。シンシンは手提げ袋の中に子犬を入れて抱えて散歩しました。
小学校はすでに夏休みになっているので、校門から中へは許可された人しか入れないというので、門の前で何枚か写真をとりました。小学校前でリリヤを袋から出して歩かせようとしたら、リリヤはよその知らないおばさんにくっついてトコトコ歩き出し、シンシンはまた、袋に入れてしまいました。「子犬の散歩」として出てきたのですが、リリヤはほとんど歩かなかった。
「少女と子犬」の写真は、とてもかわいらしくて、よい「大連記念」になりました。
<つづく>
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2009年08月09日
ニーハオ春庭「大連海鮮料理」
2009/08/09
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(5)大連海鮮料理
家に戻って、シンシンが習っているダンスの発表のビデオを何本か見ているうち眠くなったので、お昼寝。夜行寝台車でも十分に眠れたと思っていましたが、朝5時起きだったので、少し睡眠不足だったのか、2時間ほど眠りました。
昼寝から起きて、シンシンと「あっちむいてホイ」をして遊んでいると、家庭教師のエリスがやってきました。エリスは大連の外国語大学のひとつで英語教師をしています。
名前は、アリスかと思ったらエリスだというので、ドイツ系のアメリカ人なのかと思いました。
私の勤務校で、アメリカ人英語教師のトムは日本語教師の2倍の給料を得ており、その金額の差を知ったとき、私たちは「うぁあ、どうしてアメリカ人教師は2倍ももらえるのよっ」と思ったものですが、中国で働きたいという英語ネイティブの教師はまだまだ少ないので、希少価値分が給与に反映されているということです。
日本語教師のほうはというと、中国で仕事をしていた日本人ビジネスマンが、退職後に中国で日本語教師になったりする例も多く、日本語教師はいくらでも補充がきくと思われている。日本語基礎は中国人教師が教え、ネイティブには「ビジネスで役立つ会話」などを担当させる学校が多いので、日本語文法や音声学など日本語学を学んだ者より、「ビジネス日本語」を知っている者のほうが重宝だ、というわけです。
日本語教師、日本国内だけでなく大陸でも待遇は悪い。
と、愚痴はともかく、シンシンが英語レッスンを受けている間にハンさんが大学の会議をすませて帰宅し、ハンさんのご主人も帰宅しました。
ハンさんのご主人は、大連開発区に本社がある化学会社に勤務しています。お姑さんを大事にするハンさんなので、家族はとても仲良く暮らしている様子でした。
11歳の孫を持ち、髪が白いので、私よりずっと年上に思えたお姑さん、実は私より一歳年下でした。ハンさんが大学の会議に出ている間、台所で朝市で選んだ海鮮類を下ごしらえして、水餃子も皮から作って夕食の準備を整えてくれました。
ご主人が帰宅したので、シンシンが英語レッスンを終える前に食事を始めました。ハンさん、ご主人のリューさん、ご主人のお母さん、私。ビールで乾杯し、テーブルには、朝市でハンさんとお姑さんが品定めした大連特産品の海鮮のごちそうが並んでいます。蒸しあわびがメインディッシュ。山葵醤油でおいしくいただきました。
あわびやなまこ、わかめは、大連の海岸での養殖が盛んで、大連の漁業は近海の漁以上に養殖産業が発達しています。日本で鮑をおなかいっぱい食べるなんてできないことなので、「どうぞ、どうぞ」の声に甘えて、どんどん食べました。蝦の炒め物、魚の蒸し煮もおいしい料理でしたが、なんといっても鮑がごちそうです。
主食の水餃子は、セロリと牛挽肉。これもおいしかった。
夜は、大学本部キャンパスの中にあるホテルに泊まりました。大連観光シーズンのため満員で、「一泊ならあいている部屋があるけれど、二泊はできない」と言われて、一泊だけ宿がとれました。
<つづく>
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2009年08月10日
ニーハオ春庭「金石縁の巨石」
2009/08/10
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(6)金石園の巨石
大連2日目は、海浜リゾートへのピクニックに出かけました。ご主人が会社に行ったあと、お姑さん、ハンさん、シンシンちゃん、私、4人で新交通路線で大連郊外の金石灘リゾート地区(金石灘(滩)国家風(风)景名勝(胜)区)へ。快軌3号線に乗って、金石灘駅まで50分ほど。
いつもは星海広場の海岸がすぐ近くにあるので、遼東半島の郊外地域に位置する金石灘へは出かける機会が少なく、今回はシンシンちゃんにとっても、初めての海岸リゾート遊覧になるということでした。東京でいうと、お台場の海は近いのでいつも来ているけれど、たまには三浦海岸に遊びに行く、ってところです。
金石灘駅で、ハンさんは「リゾート半日遊覧」のチケットを購入。一枚60元です。このチケットに、遊覧バスのほか、蝋人形館、地層公園、中国武術館などの入場券が含まれています。
最初は蝋人形館。ほんとうは、私としては蝋人形はパスしてもいいかなという気分でしたが、シンシンちゃんやお姑さんにとっては、中国の有名人や世界の有名なお話しの主人公を見るのは楽しみなことだろうと思っていっしょに入館しました。
最初のコーナーは、北京オリンピックのメダリストたち。また、NBAバスケットチーム、ヒューストンロケッツのスター選手、姚明(ヤオミン)の人形と写真を撮るコーナーなどがありました。姚明、身長228cmということは新聞などで見ていたし、写真も見たことあったのですが、蝋人形の前に立ったら、あまりのデカさに、圧倒されました。蝋人形館をちょっと馬鹿にしていましたが、姚明のデカさを実感しただけでも、入ってよかった。
メダリストコーナーのあとは、毛沢東、周恩来ら偉人コーナー、歴史上の人物コーナーには、始皇帝や康煕帝など中国史の人物のほか、世界史コーナーにはヒットラーやらビルゲイツやら。中国人はお金持ちが大好きなので、ビルゲイツはどこに行っても人気者です。
世界の有名なお話コーナーでは、ロミオとジュリエットとか、白雪姫とかの蝋人形。ここらへんは、さっさと通り過ぎました。シンシンにとっては、蝋人形で見たお話に興味を持って、これから読書レパートリーになっていけばいいと思います。
正式名称「金石世界名人蝋像館」の前で写真を撮って、次の観光ポイントに向かう遊覧バスに乗りました。
次は、私には興味津々の金石園(金石縁公園)へ。大連にはさまざまな地質の標本が露出しているのですが、この金石園は、5~7億年前の海底の地質が海岸に隆起して、さまざまな形の石のオブジェになっています。
「岩の上に上ること禁止」と書いてありますが、見物客はどしどし登っていって、写真を撮りあっている。石が層になっているようすがよくわかります。こんなに大勢の人が登っていったら、層の部分が削れてしまうではないか、と心配になったのですが、3万㎡という園内の、研究用には保存された場所があって、こちらは観光客用に公開されている場所なのだ、と思うことにしました。
北京オリンピック前には、政府はやっきとなって観光地のマナー向上キャンペーンを繰り広げましたが、どこにでもゴミを捨てる、ちょっとした暗がりでは誰かしらが立ち小便をしているという中国マナーは、オリンピック終了後は元の黙阿弥で、どうも改善の見込みはないらしい。
金石園の写真を載せているブログをリンク
http://japanese.dda.gov.cn/2009/06/14/1080.shtml
<つづく>
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2009年08月11日
ニーハオ春庭「海の恋」
2009/08/11
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(7)海の恋
大連には海水浴ができる海岸がたくさんありますが、シンシンちゃんといっしょの海浜ピクニックは、「海の恋海岸」へ。ここは、大連で結婚式を挙げるカップルが、結婚前に婚礼前撮り写真を撮影するときの名所です。私たちが海辺で一休みしている間にも、プロによる写真撮影をしている若いカップルがいました。
私のクラスの班長さんキンセイさんも5月の休暇の際に大連で結婚写真を撮影したということでした。撮影は何カ所かを移動して行うのでとても疲れたと言っていましたが、この海の恋海岸でも撮影したかどうか、8月に再会したら聞いてみましょう。
海の恋海岸で、海辺にシートを広げて、大の字になって私とハンさんが寝ている間、シンシンちゃんはおばあちゃんといっしょに膝まで海に入って大喜びです。波と戯れている少女の姿、ほんとうにほほえましく、ほのぼのとしてきました。
海に入って泳いでいる人も何人かいましたが、ほとんどの人は、波打ち際で波と戯れている。中国13億人の大部分は泳げない。
私のクラスでアンケートをとったら、大学院修士修了生20名のうち、泳げる人は半分に届かなかった。エンテイさんは、今年初めて友人に泳ぎ方を教えてもらったそうで、彼を含めても10人未満。
中国内陸部の海や川から遠い学区で育った人は、ほとんど泳げない。学校にプールはないし、水泳教育は中国の学校体育の項目に含まれていない。スイミングスクールに通える上層部の子弟であるか、少年宮などで特別な英才教育を受けたという人でないと、泳ぎ方を習うチャンスがないのです。飛び込みやシンクロナイズドスイミング、競泳での記録台頭著しい中国ですが、一部の英才教育を受けて選手となる人のほかは、水に縁のない人のほうが圧倒的。
戦後日本で、あっという間にどんな山間僻地の小学校でもプールを設置した、あれはいったいどういう教育施策によったのだろうと、今更ながら不思議に思いました。日本は川が多く、水遊びできる川もあって、プールがなくても泳げる子どもはたくさんいたのに、学校プールの普及はめざましかった。
幼稚園や小学校1年2年のころ、私は、家から歩いて3分のところに流れる吾妻川で浮き輪でぱちゃぱちゃやっていました。私の小学校にプールができたのは、私が3年生のとき。姉が毎月とっていた小学生雑誌の付録の「ひとりで泳げるようになる本」というのを読んで、その通りにやってみて、浮き輪なしで一人で泳げるようになりました。
娘が小学1年生のとき、担任教師から「学校は水に慣れさせる場であって、泳げるように教育するところではない」と断言するのを聞いて、娘と息子はスイミングスクールに通わせました。極貧の我が家が教育にお金をかけたのは、このスイミングスクールだけ。娘と息子は、この夏のローマ世界水泳大会をライブで全中継見るほどの水泳好きに育ちました。(ライブを見るために昼夜逆転生活をしていた。予選が始まる午後6時前におき、ライブで午前2時から4時までの決勝を見てから寝る、という生活を10日間)
娘は高校の、息子は中学校の水泳部に入って選手になりましたが、今は全然泳がず、もっぱらフェルプスや入江、古賀のタイムに一喜一憂してさわぐだけです。たまには海辺へでもでかけて、「海の恋」とやらに遭遇してほしいのに、昼夜逆転生活をぐうたらと続けています。そりゃあ、背泳ぎの入江も古賀も、解説していた平泳ぎの北島もイケメンですけれど、テレビの中の水しぶきでは、足にも手にも水はひっかからない。
中国では、ミドルクラスの教育熱で、スイミングスクールに子どもを通わせる親も増えてきたそうですが、まだまだ北京上海などの大都市に限られており、全国の子どもたちが泳げるようになるのは先のこと。
そうね、海で泳ぐのもいいけれど、海岸で恋を語り合うのはもっといいかも、ここは「海之恋」海岸だし。
なんていうことを思いめぐらしながら、海岸の砂に上に横たわって大連の空を見ていました。
私もちょっとだけ海に足を浸して、波の満ち引きを味わいましたが、すぐに貝と石を拾い集めるほうに回りました。日本の地質学の先生たちへのおみやげの石。
葫蘆島市の海辺に行ったときも渤海湾の石を拾いました。大連市も渤海湾のはしっこの半島ですから、基本的にそれほど変わった石の構成ではないとは思うものの、専門家が見たら、葫蘆島の浜辺の砂と大連の浜の砂を比較したら興味深いものであるかと思います。日曜地学ハイキングでお世話になった先生方にいつかお渡ししたいと思って、石や砂を持ち帰ることにしました。
お姑さんがゆでてくれたトウモロコシやソーセージを食べ、桃をむいてお昼ご飯を潮風と共に味わいました。「海之恋」海岸、やっぱり私は「海の恋」より「海の食欲」でした。潮風ランチも満腹です。
<つづく>
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2009年08月12日
ニーハオ春庭「カンフーショウと満族レストラン」
2009/08/12
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(8)カンフーショウと満族レストラン
金石灘は、海岸線が20キロも続く天然の地質博物館です。金石縁公園は、5~7億年前につくられた太古の地質地層を見ることが出来ましたが、このあたりの海岸全部が、地質公園。大連の海岸に、さまざまな地質の岩があります。岩礁や岸壁の形やさまざまな色の奇岩があり、海触暗礁林と呼ばれています。
数億年という年月と風雨に晒された岩は、珍獣奇獣を連想させる形や、小豆色や黄金色など鮮やかな色を見せており、岩というより天然の芸術品です。
地質学の専門家でない一般の観光客に人気なのは、見立ての岩。日本でも「烏帽子岩」とか「夫婦岩」とか、海岸の岩がいろいろな形に見える場所が観光名所になっていますが、大連でも同じ。「ベートーベン(貝多芬)の頭」という名の岩あり、「恐竜が海を飲み込む」という岩あり。恐竜が首を伸ばして海に口をつけているように見える岩、ほんとうに海水を飲み込もうとしているように見えます。
金石灘最後の観光スポットは、中華武館という場所での武術ショウ。昔の武術館を模した大きな建物。舞台にスモークがたかれ、武術ショウが始まりました。少林寺、カンフーなどの中国伝統武術が見た目も鮮やかに、次々に繰り広げられます。
山東省の武術大会でチャンピオンになったという若い女性武術家は、鎖鎌や棒術で華麗な技を披露していました。そのほか、剣山の上に横たわって、腹の上にまた人が乗って剣山を重ねたり、ガラスを粉々に割ってその上で武術を行ったり、これでもかってぐあいに「すんごい!」技が披露され、日々鍛錬を怠らない中国武術の伝統を見せつけました。
この武術館の隣は、「大連模得芸術学園」です。この、「大連モデルアートスクール」というのは、中国で有数のファッションモデル養成学校。校長は中国出身者で世界的に活躍したモデル出身の方で、ハンさんは、大連のタウン情報誌記者として働いていた頃にインタビューをしたことがあると話していました。とても華やかで美しい人だったそうです。
1993年創立の大連モデル芸術学校は、中国初の国家公認のモデル養成校として、この校長の薫陶のもと、中国全土、そして世界的に活躍するモデルを輩出し、中国人モデルのの多くがこの学校の卒業生なのだそうです。
ハンさんと、武術もいいけれど、このモデル学校も観光コースに入れて、ファッションショウを見せてくれればいいのにね、と話し合いました。
海辺リゾートの夕暮れを身ながら、大連中心街に戻り、夕食は近頃評判という満族料理の店へ。満州八旗の貴族だった祖先を持つ人が、最近の少数民族ブームにのって、満州族の貴族料理の店を開き、大評判なのだとか。久光という日系企業のデパート9階にある「多雨褒王府」という店です。
入り口には満州貴族の衣装をつけたウエイトレスが迎えてくれて、席につきました。ハンさんは、「ここも人気店になるにつれ、サービスが悪くなった」と言います。電話予約をし、少し遅れるという連絡をしてあったにもかかわらず、「時間に客が来なかったから」と言う理由で予約席がなくなっており、別の席が用意されるまでちょっと待たされました。
料理は、一般の中華料理とはひと味変わったメニューもあり、おいしかったです。
「多雨褒王府」を紹介しているブログをリンク
料理の写真など
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuaki930jp/18373706.html
店の内装とウエイトレスの衣装
http://www.dalian2.cn/1/viewspace-323#xspace-tracks
おいしい満族料理を堪能し、7月24日夜10時発の夜行寝台車に乗車しました。ハンさんには、8月の再会を約束し、今回の中国滞在最後の楽しい旅を締めくくりました。
<つづく>
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2009年08月13日
ニーハオ春庭「絵馬にこめた願い」
2009/08/13
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(1)絵馬に込めた願い
7月25日には、4ヶ月半を過ごした宿舎の荷物整理。8月に再訪したときのために夏服や日用品を残しておくことにして、段ボール一箱とキャリーカート二つを残しました。一番重い本と書類は段ボールにつめて、郵便局へ。SAL便(7kg380元)で送り出しました。あとは、適当にスーツケースにつめて、25kgの飛行機荷物制限内になるように調整。
残りは手荷物。手荷物はパソコン2台。おみやげのうち壊れ物と、石と砂も手荷物。重たいものは、スーツケースに入れると超過料金を取られるから、手荷物のカートに入れます。
7月25日夜は、同僚と最後の晩餐。桂林路のちょっとこじゃれたレストランバーで、4ヶ月半の思い出を語りながら中国赴任最後の夕食をいただきました。
雪も降った3月から、過ぎてしまえばあっという間の4ヶ月半でした。それぞれクラスや町のなかで、いろいろな思い出があったのをふりかえり、しみじみビールやカクテルを飲みました。
一番楽しかった思い出は?一番たいへんだったことは?など、お互いに披露し合い、それぞれ別々に出かけた旅行の写真を見せ合いました。
一番若いバンブー先生は、私がしたかった「内モンゴル出身の学生といっしょに、学生が帰省するする村へついていく」という旅行を実施しました。私の部屋に遊びに来た蒙古族のボタンさんに出した私の希望は、「伝統的なゲル(包・パオ)」に住んでいる人がいたら、そこにホームステイしたい」というものでした。内モンゴル出身のボタンさんは、「モンゴル共和国(外モンゴル)にはまだ包で暮らしている人もいるけれど、内モンゴルでは中国政府の定住政策があるので、遊牧生活している人はほとんどおらず、皆、定住の住宅に住んでいる。包(パオ)は、ホテルしかない」ということでした。
パオに泊まれないなら、無理して今回内モンゴルに行かずに、大連の友人を訪問するということにした私でしたが、バンブー先生はボタンさんとともに内モンゴルへ行き、彼女の家や、羊牧場を経営しているおじさんの家にホームステイをしたと、写真を見せてくれました。モンゴル族伝統の衣装を着て白馬に乗って写真をとっているバンブー先生、カッコいい。ハンサムな先生が文字通りの白馬の王子になっていました。
一家は羊を一頭解体して、ごちそうしてくださったということです。
「やはり、日本人だから、羊をしめるのを逐一見ているのはつらかったけれど、せっかくの好意で羊をごちそうしてくれるのだから、見ているのが礼儀かと思って、最初から最後まで見ていた。血も腸につめてソーセージにするところも、これは日本では絶対に作らない料理だから、貴重なシーンと思って見ていた」と話していました。ううっうらやましい。私もいっしょに行きたかったけれど、ボタンさんはバンブー先生のクラスの学生だから、ちょっと遠慮したんです。
若くて優秀なバンブー先生、4ヶ月半の授業でもさまざまなアイディアを出して工夫しており、パワーポイントファイルの作成でもがんばっていました。
「~できるように」という文型の練習のときに、私も彼のアイディアの「絵馬に願い事を書き入れてみよう」という教室活動をまねっこでやらせてもらいました。
パワーポイントで絵馬の写真を見せ、それから神社に絵馬の願い事を奉納しているようすの写真、絵馬に合格祈願や安産祈願などの願い事が書かれている写真を見せました。絵馬の形をA5サイズに印刷したものに「学生の日本語が上手になりますように」「家族が健康に暮らせるように」と書いた私の絵馬の見本を見せ、学生それぞれに、絵馬に願い事を書かせたのです。「日本に留学できるように」「博士号がとれるように」「一家が平安でありますように」など、それぞれの願い。「3班の学生と先生がみな健康でありますように」という気遣いの絵馬もありました。
書き上げた絵馬は、教室に張り出し、最後は学生に「願い事が叶えられたら、お焚きあげといって、燃やすんですよ」と、解説して持ち帰らせました。
「健康で中国の任務を遂行できますように」「クラス全員、2級レベル試験に合格できますように」という私の願いも満願となり、絵馬授業は大成功でした。
<つづく>
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2009年08月14日
ニーハオ春庭「再見中国」
2009/08/14
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(2)再びの大陸
いっしょに4ヶ月半を過ごした日本人教師たち、それぞれに思い出を胸につめ、お土産もスーツケースに詰めて、帰国の朝を迎えました。
7月26日早朝の便で成田へ。
空港の手荷物検査でひっかかったのは、ペットボトルに入れた大連海辺の砂でした。X線でのスキャン画面を見ると、爆発物が入ったボトルのように見えたのか、キャリーカートを開けるよう係官に言われました。「これ、大連の思い出の砂ですよぅ。怪しいもんじゃありません」と(日本語で)主張し、中国語上手な同僚が説明してくれました。引き留められるかと覚悟したのですが、公用旅券のおかげか、係官は「sorry」と言って通してくれました。イェンチュヮン先生、援護をありがとう。
充実していた4ヶ月半の思い出をアルバムに整理しきれないうちに、再び中国へ向かいます。旅行や宿舎での生活部分はまだまとめていないのですが、学生たちとすごした学校での思い出は、pptファイルにまとめました。「3班思い出のアルバム」「3班の仲間たち」という」写真集をパワーポイントファイルにしたので、学生たちにコピーして渡すつもりです。
クラスの学生がときどきメールを送ってくれるので、1ヶ月離れていた気持ちはぜんぜんしていなくて、ずっと学生たちといっしょにいる気分でしたが、いよいよ再会できます。
学生のひとりは、みんなで楽しく笑った話をメールに書いてくれました。
「今、私たちは専門によって、新しいクラスを再編しましたが、原3班の皆さんはいつも一緒に話したり、遊んだりします。みんな一緒にご飯を食べている時、よく先生と一緒に暮らした時期を懐かしみます。3班で勉強する時間が一番短い私はいつもそばでみんなの話を聞きます。みんなの話や笑顔から、先生と一緒に暮らした時の楽しさがよく分かりました。
ある日、ヨウさんは「老師悄悄的走了,帯走了教我的所有語法」(先生はそっと日本へ帰りました。教えてくださった日本語も全部連れていきました)と言う冗談を言いました。彼は中国の詩人、徐志摩の書いた『再別康橋(さようなら ケンブリッヂ)』という有名な詩を模倣して言いましたから、みんなよく笑いました」
「再別康橋」という詩は、中国の国語教科書にも載っている有名な詩です。それをパロディにして、専門日本語が難しくて四苦八苦して学習しているようすを「先生は教えた日本語を全部日本へ連れて行った」と冗談を言って笑っている仲間たち、ほんとに愉快でなごやかな、いいクラスでした。
医学用語、経済用語などの難しい専門日本語に苦労しているようすはメールでもよくわかりましたが、日本語が一段と上達しているようすを知るのが、楽しみです。
絵馬に願いを書き込んだ通り、「日本語が上達するように」「博士号がとれるように」という希望に向かって、日本語学習を続けていることでしょう。
広大な中国、行きたかったけれど行けなかったところがたくさんあります。3回目の中国滞在を終えたと思ったら、早くも4回目の中国訪問へ。
半年ずつ滞在した前の3回と異なり、4回目は、2週間の滞在で短いですが、4回目の目玉は、中国と北朝鮮国境にそびえる長白山(北朝鮮側の呼び名は白頭山)登山です。標高2744m、頂上の「天池」というカルデラ湖を見るのが目的です。
この山の名前、このあたりを支配していた満州族のことば満州語で「ゴルミン・サンギヤン・アリン(Golmin Šanggiyan Alin、=どこまでも白い山」という意味です。満州族が漢族の文化と同化して、漢字翻訳の「長白山」という名になりました。
ゆっくり時間をかけて、安全登山を心がけます。
では、4回目の中国行き。行ってまいります。本日出発、帰国は月末。
<おわり>
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(1)旧友と再会
中国滞在最後のイベントは、帰国の前の大連旅行でした。
大連には友人のハンさんが住んでいます。ハンさんは、若いながら大学で準教授に昇進して半年たったところです。たいへん優秀な人ですが、「学部によっては、私の年齢ではなかなか昇進のチャンスがなく、上の世代の人が大勢チャンスを待っているところも多いのに、私の所属する学部では、ちょうど世代の穴があったので、昇進できたのは、運がよかったからです」と謙虚に語っていました。
昇進のためには、英語試験や論文審査のほか、学長ほかお歴々の前での口頭発表や口頭試問を繰り返し、研究学会での発表の評価など、たくさんの関門があったということです。 ご主人の理解もあり、お姑さんが、11歳の娘シンシンちゃんの世話をしてくれる、という恵まれた環境もさることながら、彼女自身が努力家であることが、若い準教授の誕生となったのだろうと思います。
2007年に大連に滞在したときは、ハンさんの受け持ちクラスで飛び入り日本語授業をしたこともありました。今回はすでに期末試験を終えて、あとは期末の教員会議のみというところにおじゃましました。
今回、私のパソコンもケータイも壊れてしまったという状況のなかで、連絡が行き届かなかったのですが、私が夜行寝台の列車を降りて出口に向かうと、ちゃんとハンさんが「センセー!」と、待っていてくれました。
今では準教授の彼女のほうこそ「センセー」なのに、15年前と同じように、「センセー」「ランリン」と呼び合う二人です。
15年前、彼女は私が勤務した中国の大学の日本語学科学生でした。私が働いた学部とは別の学部でしたが、私の中国語家庭教師を務めてくれたり、幼かった娘と息子のシッターとして世話をしてくれました。その後、彼女が日本に来て働いていたときは、東京の我が家にも遊びに来てくれました。2007年には、久しぶりに旧交温めることができました。
7月23日の朝、大連駅からまずは、大学本部キャンパスの近くにある彼女の住まいに向かいました。ご主人の会社から支給されている社宅と、彼女の勤務先大学から支給されている職員住宅は人に貸し、現在は娘のシンシンちゃんが通っている大学附属小学校に徒歩3分という地に家を買って住んでいます。大学の元教授たちが住んでいる古いマンションで、若い世代はハンさん一家くらいということですが、おばあちゃんおじいちゃんが孫の世話をすることが多い中国なので、小学生くらいの子どもの姿もたくさん見かけます。シンシンの世話をしているのも、すぐ近所に住んでいるハンさんのご主人のお母さん。
5階にある住まいは、リビングルーム、夫妻の部屋、シンシンの部屋と台所、バスルームです。
大連など大都市では、「有名進学校に近いこと」が、親の家探しの第一条件なのだそうです。進学校の区域に住民票があることが進学に有利とされているので、進学校の周囲の住宅の値段は金融危機があろうと不況だろうと、どんどん高くなっているのだといいます。
自身が準教授への昇進を果たした今、彼女の一番の関心事は一人娘の進学。現在勤務している大学の付属小学校の生徒なので、大学附属中学校への進学は難しくないけれど、歩いて数分のところにある超有名進学校への入学を狙っているので、受験はたいへんだと話していました。
<つづく>
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2009年08月06日
ニーハオ春庭「鉛筆の歌」
2009/08/06
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(2)鉛筆の歌
シンシンちゃんやハンさんのお姑さんといっしょに、朝市へでかける途中、シンシンちゃんを入学させたいという有名進学校の前を通りました。北京大学、清華大学など、中国のトップクラスの大学への進学率がたいへん高いという学校で、門の横の掲示板に、生徒の写真付きで今年の進学者たちが張り出されていました。
進学希望者の全国統一試験(中国の大学入学統一試験「普通高等学校招生全国統一考試験(高考 gāo kǎo)」)は、6月8日9日に実施され、試験点数によって進学できる大学が決まります。各大学ごとの入試というのはなく、一回限りの試験で一生の進路が決まってしまう。日本より過酷な入試制度です。
掲示板に張り出された大学名を見ていると、ウァア、スンゴイ!と目を見張らされます。
日本の週刊誌に高校別の大学進学者が発表されることがありますが、個人の顔写真までは出すことはない。日本でこのように顔写真付きで出したら個人情報うんぬんの問題になるでしょうけれど、校門脇に並べられた顔写真はどれも誇らしげです。
中国ではかっての「国家重点大学」という国の重要大学の呼び方が、1995年以後は「211工程」(Project 211)と変わりましたが、今でも一般の人は「重点大学とそうでない大学」というふうに分けて呼んでいます。中国でも大学の数は増えているけれど、重点大学であるかどうかによって、就職にも差がでます。
私のクラスに集まってきていた国費留学生候補者の所属大学もこの「プロジェクト221」の大学でした。日本以上に学歴社会である中国では、「211工程」の大学に進学できるかどうかは、人生を左右します。
シンシンちゃんの教育のため、ハンさんは一ヶ月2400元をつぎ込んでいると語っていました。一般の大学卒業生の月給にあたる金額です。一週間のうち、ピアノ、一回110元、英語家庭教師一回100元、卓球教室一回60元、ダンス30元。一週間に4回のお稽古事で、300元、一ヶ月ではトータル2400元になるのだということです。
中国上層社会での教育熱について聞いてはいましたが、実際目の前に「大切に育てられている一人っ子小公主(リトルプリンセス)」がいると、中国で進学するのもたいへんだなあという気持ちになります。教育にお金をかけるかわりに、衣服はお下がりですませるのが、ハンさんの子育て方針だと言っていました。
シンシンちゃんは、2年前に会ったときに比べるとだいぶ背が伸び、眼鏡をかけたことで、ちょっと大人っぽい印象に変わりました。
本が好きでよく読んでいたせいか、目が悪くなってしまったと、ハンさんの嘆き。今いちばんのお気に入りの本は『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』だそうです。2年前はディズニーの絵本がお気に入りでしたから、読書の面でも成長ぶりが分かります。
マーマにならって、私を「センセー」と呼び甘えてきます。今回は「ジャンケンポン、あっちむいてホイ」が気に入って、何度も「センセー、アッチムイテ」と、遊びたがりました。
ダンスや英語のレッスンは大好きだけれど、ピアノと卓球はあまり好きではないというのですが、「弾いてみて」とリクエストすると、今練習中のスカルラッティのソナタを弾いてくれました。ときどきミスタッチがありましたが、いやいやでもちゃんと練習しているのだとわかりました。
シンシンに「Can you play piano?」と聞かれて、「両手で弾けるのは、今やバイエルだけだから、片手で弾く」と言って、「これなら、聞いたことがあるかな」と『里の秋』を右手だけで弾きました。
ピアノはリビングルームにおいてあり、リビングの向かい側はシンシンの部屋。部屋には、ベッドと勉強机。机の上には、マーマやナイナイ(奶奶=父方のおばあちゃん)に買ってもらった鉛筆がならんでいます。
広い中国には、1本の鉛筆を買うにさえ不自由している子どももいるという現実をシンシンが知るのは、まだもう少し先のことになるでしょうか。
鉛筆1本買うにも、何の不自由もしていないシンシンがもう少し大きくなったら、ひとつの歌を教えようと思います。
両手で伴奏を弾くのは私にはまだできないけれど、いつかシンシンに聞いてほしい歌。
一本の鉛筆の歌。
♪一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く
一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く
<つづく>
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2009年08月07日
ニーハオ春庭「大連自然博物館」
2009/08/07
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(3)大連自然博物館
大連に着いた日の午前中、雨模様でしたが、星海広場という海岸を散歩しました。大連はさまざまな地層が露出していることで有名な都市で、海岸にも、黒石礁などの貴重な地層があちこちにあり、観光名所になっています。
黒石礁風景区の写真のサイトをリンク
http://people.icubetec.jp/special/mapchina/liaoning/pm/a778f01952ef4051a5ac6aa72889d426
これらの地層を見ているうち、雨がぱらついたので、星海広場に建っている自然博物館で雨宿り。私が「中を見たい」というと、ハンさんは、博物館に勤務している知り合いに電話をかけて、入館許可をもらってくれました。
この博物館は3日前以前に予約しておかなければ、すぐには入れない場所だったのですが、特別に許可されて中に入れることになりました。貴重な展示品の保護の意味もあり、3日以上前に予約をして身元確認ができてからやっと見学が許可されるということでしたが、博物館研究者の知り合いで身元は確かなハンさんですから、すぐに見学できることになり、ラッキーでした。
知り合いという人は、ハンさんとは「登山の会」の仲間です。大連付近の山を歩いて植物採集を続け、つい最近、新種を発見したという女性植物研究者でした。
中国でコネを利用して得をしたのは、はじめてのことです。何のコネもない春庭だったので。
自然博物館の内部は、東京上野の科学博物館と似たような展示でした。階ごとに岩石と地層、植物、哺乳動物、鳥類、海の生き物などのコーナーがあり、さまざまな標本が展示してあります。中国の子どもたちが自然科学の一端に触れられるようになっていますが、上野の科博に比べると、まだまだ展示に工夫の余地がありそうです。
最近の日本の博物館は、研究の機能のほか、教育の機能も充実してきていますが、中国では博物館の普及、教育の機能はこれからだろうと感じました。ただ、予約は必要なものの、博物館の入館は無料。これは日本も見習うべきでしょう。日本の国立の博物館は独立法人になって経営が苦しいのはわかりますが、一般の人の入館料は国民の財産として無料にすべきと思います。
岩石や地層を展示している1階、2階以上の植物、動物、海洋生物など、テーマごとにしっかりした展示でしたが、現在の上野の科博などの展示方法からみると、専門的な知識を持っている人でないとわかりにくい展示が多いように思えました。
専門的知識のない者にもおもしろく興味をもてるように見せる、という点では、上野の科博は展示方法も洗練されていて、小さな子どもでも、科学への興味が持てる館内構成になっています。大学メンバーズシップという制度があって、大学の職員証を見せると無料で入れるので、折りにふれて科博を見ているのですが、改装のたびに展示が充実してきたと感じています。
中国の博物館から日本へ研究留学する学者は少なくないだろうけれど、専門の学芸員、キュレーターの養成にも、科博や国立博物館への留学生を送り出せたらいいのになあと、思いました。展示方法ひとつで、ひとつの科学的な展示品が「へぇ」と眺めるだけのものから、無限の科学への興味をひきおこす魔法の品に変わるからです。
科博にも鯨の骨格標本やプラスチックモデルはありますが、大連自然博物館には、日本にはない展示として、海岸に打ち上げられた鯨をそのまま剥製にして展示してある階が、迫力ありました。ミンククジラ、ナガスクジラ、マッコウクジラなどが、巨大な体躯が展示されていたので、鯨といっしょに写真をとりました。剥製の制作に薬品処理を行っているせいか、においがきつかったけれど、鯨の大きさを実感できました。。
<つづく>
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2009年08月08日
ニーハオ春庭「少女と子犬」
2009/08/08
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(4)少女と子犬
博物館から歩いて、ブランチをとりに人気の火鍋店へ。昼時にはちょっと早い時間だったので、待たずに入れましたが、昼時夕食時はいつも列を作って人々が待っている店なんだって。それでウエイトレスたちは何を勘違いしたのか、非常にいばっていて、このごろではサービスが最低だと、ハンさんは嘆いていました。
それでも、デパートもレストランも店員が「国家公務員」でみんな威張っていた時代に比べると、まだましなんじゃないかと思う。サービス悪くても、中国ではサービスの質はどこも悪いから、結局おいしい店が繁盛する。それでますますサービス悪くなる。でも、繁盛している店の食材は回転が早くて深浅だから、おいしい火鍋(シャブシャブ)でした。
私は、夜行寝台車を降りる前にちょこっとパンケーキやナッツを食べて朝ご飯代わりにしたので、早めのお昼がちょうどよく、おなかいっぱい食べました。薬味のおかわりやお水を頼んでもすぐには持ってきてくれなかったりしたけれど、肉も野菜もおいしくいただきました。
シンシンちゃんは、小学校の正式科目でも英語授業を受けていますが、ほかに、アメリカ人教師から、毎週英語のレッスンを受けています。英会話がとても上達していて、私とはもっぱら英語で会話しました。読むのは複文OKだけれど、会話では複文が出てこずに単文だけで話す私の英語力とちょうどいいくらいのシンシンちゃんの英語会話力なので、2年前にはジェスチャーでコミュニケーションをとっていたのに比べると、いろいろなおしゃべりができました。
かわいいシンシンちゃんに、「センセー、Do you like dog?」と質問されて「Of course, but do you mean dog as a pet or dog as a meat? In my childhood, I had a cute dog. I like dog very much. But, in the Korean restaurant I like dog meat 」と、答えたら、おばあちゃんが飼っている子犬を私に見せたいのだと言います。あはは、犬肉が好きかどうかではなく、ペットのことだったのね。シンシンは学校から帰ってくると、近所に住んでいる父方のおばあちゃんといっしょにすごしていますが、おばあちゃんは、最近犬を飼い始め、今シンシンは子犬に夢中で、「リリヤ」と呼び、かわいがっています。
火鍋の昼食後、午後、奶奶(ナイナイ=父方のおばあちゃん)が夕食準備をし、マーマが大学の会議に出かけました。「センセー接待係」はシンシンです。いっしょにシンシンの小学校まで散歩に行きました。住まいは5階ですが、エレベーターがないので、ちょっと上り下りがきついですが、道路を隔てて、空き地を越えていくと、目の前が小学校です。
空き地には、近所の人が思い思いの野菜を植えています。トウモロコシ、ピーマン、トマト、南瓜などが育っていました。ここもやがては整備されて何らかの建物が建つのかもしれませんが、ちょっとした空き地があれば、たいていそこは畑となるのが、東京などの空き地と違うところかも。東京だと、空き地は駐車場になる。
空き地でリリヤを放しましたが、まだよちよち歩きの子犬はあまり歩きたがらず、歩かせると行き先とは反対の方向に行きたがる。シンシンは手提げ袋の中に子犬を入れて抱えて散歩しました。
小学校はすでに夏休みになっているので、校門から中へは許可された人しか入れないというので、門の前で何枚か写真をとりました。小学校前でリリヤを袋から出して歩かせようとしたら、リリヤはよその知らないおばさんにくっついてトコトコ歩き出し、シンシンはまた、袋に入れてしまいました。「子犬の散歩」として出てきたのですが、リリヤはほとんど歩かなかった。
「少女と子犬」の写真は、とてもかわいらしくて、よい「大連記念」になりました。
<つづく>
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2009年08月09日
ニーハオ春庭「大連海鮮料理」
2009/08/09
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(5)大連海鮮料理
家に戻って、シンシンが習っているダンスの発表のビデオを何本か見ているうち眠くなったので、お昼寝。夜行寝台車でも十分に眠れたと思っていましたが、朝5時起きだったので、少し睡眠不足だったのか、2時間ほど眠りました。
昼寝から起きて、シンシンと「あっちむいてホイ」をして遊んでいると、家庭教師のエリスがやってきました。エリスは大連の外国語大学のひとつで英語教師をしています。
名前は、アリスかと思ったらエリスだというので、ドイツ系のアメリカ人なのかと思いました。
私の勤務校で、アメリカ人英語教師のトムは日本語教師の2倍の給料を得ており、その金額の差を知ったとき、私たちは「うぁあ、どうしてアメリカ人教師は2倍ももらえるのよっ」と思ったものですが、中国で働きたいという英語ネイティブの教師はまだまだ少ないので、希少価値分が給与に反映されているということです。
日本語教師のほうはというと、中国で仕事をしていた日本人ビジネスマンが、退職後に中国で日本語教師になったりする例も多く、日本語教師はいくらでも補充がきくと思われている。日本語基礎は中国人教師が教え、ネイティブには「ビジネスで役立つ会話」などを担当させる学校が多いので、日本語文法や音声学など日本語学を学んだ者より、「ビジネス日本語」を知っている者のほうが重宝だ、というわけです。
日本語教師、日本国内だけでなく大陸でも待遇は悪い。
と、愚痴はともかく、シンシンが英語レッスンを受けている間にハンさんが大学の会議をすませて帰宅し、ハンさんのご主人も帰宅しました。
ハンさんのご主人は、大連開発区に本社がある化学会社に勤務しています。お姑さんを大事にするハンさんなので、家族はとても仲良く暮らしている様子でした。
11歳の孫を持ち、髪が白いので、私よりずっと年上に思えたお姑さん、実は私より一歳年下でした。ハンさんが大学の会議に出ている間、台所で朝市で選んだ海鮮類を下ごしらえして、水餃子も皮から作って夕食の準備を整えてくれました。
ご主人が帰宅したので、シンシンが英語レッスンを終える前に食事を始めました。ハンさん、ご主人のリューさん、ご主人のお母さん、私。ビールで乾杯し、テーブルには、朝市でハンさんとお姑さんが品定めした大連特産品の海鮮のごちそうが並んでいます。蒸しあわびがメインディッシュ。山葵醤油でおいしくいただきました。
あわびやなまこ、わかめは、大連の海岸での養殖が盛んで、大連の漁業は近海の漁以上に養殖産業が発達しています。日本で鮑をおなかいっぱい食べるなんてできないことなので、「どうぞ、どうぞ」の声に甘えて、どんどん食べました。蝦の炒め物、魚の蒸し煮もおいしい料理でしたが、なんといっても鮑がごちそうです。
主食の水餃子は、セロリと牛挽肉。これもおいしかった。
夜は、大学本部キャンパスの中にあるホテルに泊まりました。大連観光シーズンのため満員で、「一泊ならあいている部屋があるけれど、二泊はできない」と言われて、一泊だけ宿がとれました。
<つづく>
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2009年08月10日
ニーハオ春庭「金石縁の巨石」
2009/08/10
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(6)金石園の巨石
大連2日目は、海浜リゾートへのピクニックに出かけました。ご主人が会社に行ったあと、お姑さん、ハンさん、シンシンちゃん、私、4人で新交通路線で大連郊外の金石灘リゾート地区(金石灘(滩)国家風(风)景名勝(胜)区)へ。快軌3号線に乗って、金石灘駅まで50分ほど。
いつもは星海広場の海岸がすぐ近くにあるので、遼東半島の郊外地域に位置する金石灘へは出かける機会が少なく、今回はシンシンちゃんにとっても、初めての海岸リゾート遊覧になるということでした。東京でいうと、お台場の海は近いのでいつも来ているけれど、たまには三浦海岸に遊びに行く、ってところです。
金石灘駅で、ハンさんは「リゾート半日遊覧」のチケットを購入。一枚60元です。このチケットに、遊覧バスのほか、蝋人形館、地層公園、中国武術館などの入場券が含まれています。
最初は蝋人形館。ほんとうは、私としては蝋人形はパスしてもいいかなという気分でしたが、シンシンちゃんやお姑さんにとっては、中国の有名人や世界の有名なお話しの主人公を見るのは楽しみなことだろうと思っていっしょに入館しました。
最初のコーナーは、北京オリンピックのメダリストたち。また、NBAバスケットチーム、ヒューストンロケッツのスター選手、姚明(ヤオミン)の人形と写真を撮るコーナーなどがありました。姚明、身長228cmということは新聞などで見ていたし、写真も見たことあったのですが、蝋人形の前に立ったら、あまりのデカさに、圧倒されました。蝋人形館をちょっと馬鹿にしていましたが、姚明のデカさを実感しただけでも、入ってよかった。
メダリストコーナーのあとは、毛沢東、周恩来ら偉人コーナー、歴史上の人物コーナーには、始皇帝や康煕帝など中国史の人物のほか、世界史コーナーにはヒットラーやらビルゲイツやら。中国人はお金持ちが大好きなので、ビルゲイツはどこに行っても人気者です。
世界の有名なお話コーナーでは、ロミオとジュリエットとか、白雪姫とかの蝋人形。ここらへんは、さっさと通り過ぎました。シンシンにとっては、蝋人形で見たお話に興味を持って、これから読書レパートリーになっていけばいいと思います。
正式名称「金石世界名人蝋像館」の前で写真を撮って、次の観光ポイントに向かう遊覧バスに乗りました。
次は、私には興味津々の金石園(金石縁公園)へ。大連にはさまざまな地質の標本が露出しているのですが、この金石園は、5~7億年前の海底の地質が海岸に隆起して、さまざまな形の石のオブジェになっています。
「岩の上に上ること禁止」と書いてありますが、見物客はどしどし登っていって、写真を撮りあっている。石が層になっているようすがよくわかります。こんなに大勢の人が登っていったら、層の部分が削れてしまうではないか、と心配になったのですが、3万㎡という園内の、研究用には保存された場所があって、こちらは観光客用に公開されている場所なのだ、と思うことにしました。
北京オリンピック前には、政府はやっきとなって観光地のマナー向上キャンペーンを繰り広げましたが、どこにでもゴミを捨てる、ちょっとした暗がりでは誰かしらが立ち小便をしているという中国マナーは、オリンピック終了後は元の黙阿弥で、どうも改善の見込みはないらしい。
金石園の写真を載せているブログをリンク
http://japanese.dda.gov.cn/2009/06/14/1080.shtml
<つづく>
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2009年08月11日
ニーハオ春庭「海の恋」
2009/08/11
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(7)海の恋
大連には海水浴ができる海岸がたくさんありますが、シンシンちゃんといっしょの海浜ピクニックは、「海の恋海岸」へ。ここは、大連で結婚式を挙げるカップルが、結婚前に婚礼前撮り写真を撮影するときの名所です。私たちが海辺で一休みしている間にも、プロによる写真撮影をしている若いカップルがいました。
私のクラスの班長さんキンセイさんも5月の休暇の際に大連で結婚写真を撮影したということでした。撮影は何カ所かを移動して行うのでとても疲れたと言っていましたが、この海の恋海岸でも撮影したかどうか、8月に再会したら聞いてみましょう。
海の恋海岸で、海辺にシートを広げて、大の字になって私とハンさんが寝ている間、シンシンちゃんはおばあちゃんといっしょに膝まで海に入って大喜びです。波と戯れている少女の姿、ほんとうにほほえましく、ほのぼのとしてきました。
海に入って泳いでいる人も何人かいましたが、ほとんどの人は、波打ち際で波と戯れている。中国13億人の大部分は泳げない。
私のクラスでアンケートをとったら、大学院修士修了生20名のうち、泳げる人は半分に届かなかった。エンテイさんは、今年初めて友人に泳ぎ方を教えてもらったそうで、彼を含めても10人未満。
中国内陸部の海や川から遠い学区で育った人は、ほとんど泳げない。学校にプールはないし、水泳教育は中国の学校体育の項目に含まれていない。スイミングスクールに通える上層部の子弟であるか、少年宮などで特別な英才教育を受けたという人でないと、泳ぎ方を習うチャンスがないのです。飛び込みやシンクロナイズドスイミング、競泳での記録台頭著しい中国ですが、一部の英才教育を受けて選手となる人のほかは、水に縁のない人のほうが圧倒的。
戦後日本で、あっという間にどんな山間僻地の小学校でもプールを設置した、あれはいったいどういう教育施策によったのだろうと、今更ながら不思議に思いました。日本は川が多く、水遊びできる川もあって、プールがなくても泳げる子どもはたくさんいたのに、学校プールの普及はめざましかった。
幼稚園や小学校1年2年のころ、私は、家から歩いて3分のところに流れる吾妻川で浮き輪でぱちゃぱちゃやっていました。私の小学校にプールができたのは、私が3年生のとき。姉が毎月とっていた小学生雑誌の付録の「ひとりで泳げるようになる本」というのを読んで、その通りにやってみて、浮き輪なしで一人で泳げるようになりました。
娘が小学1年生のとき、担任教師から「学校は水に慣れさせる場であって、泳げるように教育するところではない」と断言するのを聞いて、娘と息子はスイミングスクールに通わせました。極貧の我が家が教育にお金をかけたのは、このスイミングスクールだけ。娘と息子は、この夏のローマ世界水泳大会をライブで全中継見るほどの水泳好きに育ちました。(ライブを見るために昼夜逆転生活をしていた。予選が始まる午後6時前におき、ライブで午前2時から4時までの決勝を見てから寝る、という生活を10日間)
娘は高校の、息子は中学校の水泳部に入って選手になりましたが、今は全然泳がず、もっぱらフェルプスや入江、古賀のタイムに一喜一憂してさわぐだけです。たまには海辺へでもでかけて、「海の恋」とやらに遭遇してほしいのに、昼夜逆転生活をぐうたらと続けています。そりゃあ、背泳ぎの入江も古賀も、解説していた平泳ぎの北島もイケメンですけれど、テレビの中の水しぶきでは、足にも手にも水はひっかからない。
中国では、ミドルクラスの教育熱で、スイミングスクールに子どもを通わせる親も増えてきたそうですが、まだまだ北京上海などの大都市に限られており、全国の子どもたちが泳げるようになるのは先のこと。
そうね、海で泳ぐのもいいけれど、海岸で恋を語り合うのはもっといいかも、ここは「海之恋」海岸だし。
なんていうことを思いめぐらしながら、海岸の砂に上に横たわって大連の空を見ていました。
私もちょっとだけ海に足を浸して、波の満ち引きを味わいましたが、すぐに貝と石を拾い集めるほうに回りました。日本の地質学の先生たちへのおみやげの石。
葫蘆島市の海辺に行ったときも渤海湾の石を拾いました。大連市も渤海湾のはしっこの半島ですから、基本的にそれほど変わった石の構成ではないとは思うものの、専門家が見たら、葫蘆島の浜辺の砂と大連の浜の砂を比較したら興味深いものであるかと思います。日曜地学ハイキングでお世話になった先生方にいつかお渡ししたいと思って、石や砂を持ち帰ることにしました。
お姑さんがゆでてくれたトウモロコシやソーセージを食べ、桃をむいてお昼ご飯を潮風と共に味わいました。「海之恋」海岸、やっぱり私は「海の恋」より「海の食欲」でした。潮風ランチも満腹です。
<つづく>
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2009年08月12日
ニーハオ春庭「カンフーショウと満族レストラン」
2009/08/12
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(8)カンフーショウと満族レストラン
金石灘は、海岸線が20キロも続く天然の地質博物館です。金石縁公園は、5~7億年前につくられた太古の地質地層を見ることが出来ましたが、このあたりの海岸全部が、地質公園。大連の海岸に、さまざまな地質の岩があります。岩礁や岸壁の形やさまざまな色の奇岩があり、海触暗礁林と呼ばれています。
数億年という年月と風雨に晒された岩は、珍獣奇獣を連想させる形や、小豆色や黄金色など鮮やかな色を見せており、岩というより天然の芸術品です。
地質学の専門家でない一般の観光客に人気なのは、見立ての岩。日本でも「烏帽子岩」とか「夫婦岩」とか、海岸の岩がいろいろな形に見える場所が観光名所になっていますが、大連でも同じ。「ベートーベン(貝多芬)の頭」という名の岩あり、「恐竜が海を飲み込む」という岩あり。恐竜が首を伸ばして海に口をつけているように見える岩、ほんとうに海水を飲み込もうとしているように見えます。
金石灘最後の観光スポットは、中華武館という場所での武術ショウ。昔の武術館を模した大きな建物。舞台にスモークがたかれ、武術ショウが始まりました。少林寺、カンフーなどの中国伝統武術が見た目も鮮やかに、次々に繰り広げられます。
山東省の武術大会でチャンピオンになったという若い女性武術家は、鎖鎌や棒術で華麗な技を披露していました。そのほか、剣山の上に横たわって、腹の上にまた人が乗って剣山を重ねたり、ガラスを粉々に割ってその上で武術を行ったり、これでもかってぐあいに「すんごい!」技が披露され、日々鍛錬を怠らない中国武術の伝統を見せつけました。
この武術館の隣は、「大連模得芸術学園」です。この、「大連モデルアートスクール」というのは、中国で有数のファッションモデル養成学校。校長は中国出身者で世界的に活躍したモデル出身の方で、ハンさんは、大連のタウン情報誌記者として働いていた頃にインタビューをしたことがあると話していました。とても華やかで美しい人だったそうです。
1993年創立の大連モデル芸術学校は、中国初の国家公認のモデル養成校として、この校長の薫陶のもと、中国全土、そして世界的に活躍するモデルを輩出し、中国人モデルのの多くがこの学校の卒業生なのだそうです。
ハンさんと、武術もいいけれど、このモデル学校も観光コースに入れて、ファッションショウを見せてくれればいいのにね、と話し合いました。
海辺リゾートの夕暮れを身ながら、大連中心街に戻り、夕食は近頃評判という満族料理の店へ。満州八旗の貴族だった祖先を持つ人が、最近の少数民族ブームにのって、満州族の貴族料理の店を開き、大評判なのだとか。久光という日系企業のデパート9階にある「多雨褒王府」という店です。
入り口には満州貴族の衣装をつけたウエイトレスが迎えてくれて、席につきました。ハンさんは、「ここも人気店になるにつれ、サービスが悪くなった」と言います。電話予約をし、少し遅れるという連絡をしてあったにもかかわらず、「時間に客が来なかったから」と言う理由で予約席がなくなっており、別の席が用意されるまでちょっと待たされました。
料理は、一般の中華料理とはひと味変わったメニューもあり、おいしかったです。
「多雨褒王府」を紹介しているブログをリンク
料理の写真など
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuaki930jp/18373706.html
店の内装とウエイトレスの衣装
http://www.dalian2.cn/1/viewspace-323#xspace-tracks
おいしい満族料理を堪能し、7月24日夜10時発の夜行寝台車に乗車しました。ハンさんには、8月の再会を約束し、今回の中国滞在最後の楽しい旅を締めくくりました。
<つづく>
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2009年08月13日
ニーハオ春庭「絵馬にこめた願い」
2009/08/13
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(1)絵馬に込めた願い
7月25日には、4ヶ月半を過ごした宿舎の荷物整理。8月に再訪したときのために夏服や日用品を残しておくことにして、段ボール一箱とキャリーカート二つを残しました。一番重い本と書類は段ボールにつめて、郵便局へ。SAL便(7kg380元)で送り出しました。あとは、適当にスーツケースにつめて、25kgの飛行機荷物制限内になるように調整。
残りは手荷物。手荷物はパソコン2台。おみやげのうち壊れ物と、石と砂も手荷物。重たいものは、スーツケースに入れると超過料金を取られるから、手荷物のカートに入れます。
7月25日夜は、同僚と最後の晩餐。桂林路のちょっとこじゃれたレストランバーで、4ヶ月半の思い出を語りながら中国赴任最後の夕食をいただきました。
雪も降った3月から、過ぎてしまえばあっという間の4ヶ月半でした。それぞれクラスや町のなかで、いろいろな思い出があったのをふりかえり、しみじみビールやカクテルを飲みました。
一番楽しかった思い出は?一番たいへんだったことは?など、お互いに披露し合い、それぞれ別々に出かけた旅行の写真を見せ合いました。
一番若いバンブー先生は、私がしたかった「内モンゴル出身の学生といっしょに、学生が帰省するする村へついていく」という旅行を実施しました。私の部屋に遊びに来た蒙古族のボタンさんに出した私の希望は、「伝統的なゲル(包・パオ)」に住んでいる人がいたら、そこにホームステイしたい」というものでした。内モンゴル出身のボタンさんは、「モンゴル共和国(外モンゴル)にはまだ包で暮らしている人もいるけれど、内モンゴルでは中国政府の定住政策があるので、遊牧生活している人はほとんどおらず、皆、定住の住宅に住んでいる。包(パオ)は、ホテルしかない」ということでした。
パオに泊まれないなら、無理して今回内モンゴルに行かずに、大連の友人を訪問するということにした私でしたが、バンブー先生はボタンさんとともに内モンゴルへ行き、彼女の家や、羊牧場を経営しているおじさんの家にホームステイをしたと、写真を見せてくれました。モンゴル族伝統の衣装を着て白馬に乗って写真をとっているバンブー先生、カッコいい。ハンサムな先生が文字通りの白馬の王子になっていました。
一家は羊を一頭解体して、ごちそうしてくださったということです。
「やはり、日本人だから、羊をしめるのを逐一見ているのはつらかったけれど、せっかくの好意で羊をごちそうしてくれるのだから、見ているのが礼儀かと思って、最初から最後まで見ていた。血も腸につめてソーセージにするところも、これは日本では絶対に作らない料理だから、貴重なシーンと思って見ていた」と話していました。ううっうらやましい。私もいっしょに行きたかったけれど、ボタンさんはバンブー先生のクラスの学生だから、ちょっと遠慮したんです。
若くて優秀なバンブー先生、4ヶ月半の授業でもさまざまなアイディアを出して工夫しており、パワーポイントファイルの作成でもがんばっていました。
「~できるように」という文型の練習のときに、私も彼のアイディアの「絵馬に願い事を書き入れてみよう」という教室活動をまねっこでやらせてもらいました。
パワーポイントで絵馬の写真を見せ、それから神社に絵馬の願い事を奉納しているようすの写真、絵馬に合格祈願や安産祈願などの願い事が書かれている写真を見せました。絵馬の形をA5サイズに印刷したものに「学生の日本語が上手になりますように」「家族が健康に暮らせるように」と書いた私の絵馬の見本を見せ、学生それぞれに、絵馬に願い事を書かせたのです。「日本に留学できるように」「博士号がとれるように」「一家が平安でありますように」など、それぞれの願い。「3班の学生と先生がみな健康でありますように」という気遣いの絵馬もありました。
書き上げた絵馬は、教室に張り出し、最後は学生に「願い事が叶えられたら、お焚きあげといって、燃やすんですよ」と、解説して持ち帰らせました。
「健康で中国の任務を遂行できますように」「クラス全員、2級レベル試験に合格できますように」という私の願いも満願となり、絵馬授業は大成功でした。
<つづく>
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2009年08月14日
ニーハオ春庭「再見中国」
2009/08/14
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(2)再びの大陸
いっしょに4ヶ月半を過ごした日本人教師たち、それぞれに思い出を胸につめ、お土産もスーツケースに詰めて、帰国の朝を迎えました。
7月26日早朝の便で成田へ。
空港の手荷物検査でひっかかったのは、ペットボトルに入れた大連海辺の砂でした。X線でのスキャン画面を見ると、爆発物が入ったボトルのように見えたのか、キャリーカートを開けるよう係官に言われました。「これ、大連の思い出の砂ですよぅ。怪しいもんじゃありません」と(日本語で)主張し、中国語上手な同僚が説明してくれました。引き留められるかと覚悟したのですが、公用旅券のおかげか、係官は「sorry」と言って通してくれました。イェンチュヮン先生、援護をありがとう。
充実していた4ヶ月半の思い出をアルバムに整理しきれないうちに、再び中国へ向かいます。旅行や宿舎での生活部分はまだまとめていないのですが、学生たちとすごした学校での思い出は、pptファイルにまとめました。「3班思い出のアルバム」「3班の仲間たち」という」写真集をパワーポイントファイルにしたので、学生たちにコピーして渡すつもりです。
クラスの学生がときどきメールを送ってくれるので、1ヶ月離れていた気持ちはぜんぜんしていなくて、ずっと学生たちといっしょにいる気分でしたが、いよいよ再会できます。
学生のひとりは、みんなで楽しく笑った話をメールに書いてくれました。
「今、私たちは専門によって、新しいクラスを再編しましたが、原3班の皆さんはいつも一緒に話したり、遊んだりします。みんな一緒にご飯を食べている時、よく先生と一緒に暮らした時期を懐かしみます。3班で勉強する時間が一番短い私はいつもそばでみんなの話を聞きます。みんなの話や笑顔から、先生と一緒に暮らした時の楽しさがよく分かりました。
ある日、ヨウさんは「老師悄悄的走了,帯走了教我的所有語法」(先生はそっと日本へ帰りました。教えてくださった日本語も全部連れていきました)と言う冗談を言いました。彼は中国の詩人、徐志摩の書いた『再別康橋(さようなら ケンブリッヂ)』という有名な詩を模倣して言いましたから、みんなよく笑いました」
「再別康橋」という詩は、中国の国語教科書にも載っている有名な詩です。それをパロディにして、専門日本語が難しくて四苦八苦して学習しているようすを「先生は教えた日本語を全部日本へ連れて行った」と冗談を言って笑っている仲間たち、ほんとに愉快でなごやかな、いいクラスでした。
医学用語、経済用語などの難しい専門日本語に苦労しているようすはメールでもよくわかりましたが、日本語が一段と上達しているようすを知るのが、楽しみです。
絵馬に願いを書き込んだ通り、「日本語が上達するように」「博士号がとれるように」という希望に向かって、日本語学習を続けていることでしょう。
広大な中国、行きたかったけれど行けなかったところがたくさんあります。3回目の中国滞在を終えたと思ったら、早くも4回目の中国訪問へ。
半年ずつ滞在した前の3回と異なり、4回目は、2週間の滞在で短いですが、4回目の目玉は、中国と北朝鮮国境にそびえる長白山(北朝鮮側の呼び名は白頭山)登山です。標高2744m、頂上の「天池」というカルデラ湖を見るのが目的です。
この山の名前、このあたりを支配していた満州族のことば満州語で「ゴルミン・サンギヤン・アリン(Golmin Šanggiyan Alin、=どこまでも白い山」という意味です。満州族が漢族の文化と同化して、漢字翻訳の「長白山」という名になりました。
ゆっくり時間をかけて、安全登山を心がけます。
では、4回目の中国行き。行ってまいります。本日出発、帰国は月末。
<おわり>