2009/08/23
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(1)謝謝3班の仲間たち
4回目の中国滞在の1番の目的は、勤務校の創立30周年記念の国際日本語教育シンポジウムでの発表です。
3月から7月まで勤務した学校は、1974年に田中角栄訪中で国交回復したあと、日本中国の国家共同の日本語教育施設として1979年に開校して以来、中国有数の日本語教育の場となっています。今年は、学校をあげて30周年記念イベントの準備が続けられてきました。盛大な記念行事の場で発表できることになって、ラッキーでした。
担任した博士コース3班の学生たちには、メールで「発表を聞きに来てください」と連絡しておきました。
16日の発表の前日、8月15日、元の担任クラスの教室で学生たちと再会。日本に帰国中、8月1日から12日まで連日、授業資料を作る以上の熱心さで取り組んだ「3班思い出のアルバム」を披露しました。
クラスの集合写真や、生け花、浴衣姿、縄跳び大会、カラオケなどのクラスイベントでの写真、また「3班の仲間たち」と題したひとりひとりの写真にコメントをつけて編集したアルバムです。
写真につけたコメント、たとえば、出席番号1番のレイトウさんの写真には「加油!世界中には30億人の女性がいる、がんばって!」と、コメント。まだ恋人いないレイトウさんへのエールです。
在学中に恋人を得た出席番号2番のコウキさんへのコメントは、いっしょに動物園へ行ったときの写真に「コウキは、縞馬よりキリンより、リンリンが好きです」というコメントをつけました。リンリンはコウキさんのガールフレンドの名前です。
アルバムをコンピュータ・プロジェクターで見た後、大学食堂の宴会室でランチ会。
16日、学生たちは、私の発表のとき、盛大な拍手をしてくれました。日本や中国各地からのシンポジウム出席者のすぐれた発表が相次いだなか、拍手の音量だけなら、私が1番でした。サクラのみなさん、ありがとう。
いえいえ、拍手だけでなく、私の発表は、各方面か好評を得ることができ、3月から7月まで、食事する時間も惜しんで授業資料を作り続けたことの甲斐があったといえます。ドストエフスキーの新訳で名高いロシア文学者の学長先生からも「よい発表でした。このような授業をしてもらえるなら、学生たちは毎日楽しいでしょうね」と、言っていただき、面目をほどこすことができました。
サクラ役をしてくれた博士コース3班の学生は、最初17名でしたが、4月に一人、7月に一人、途中からクラスに加わって、基礎日本語課程終了時には19名でした。
19人、いつも仲がよく、助け合って学習しており、グループラーニング、ペアラーニングの実践にとって、この上ない環境でした。
そして学生たちは「先生、センセー」と慕ってくれるので、教材作りにも熱が入り、授業もよい実践ができました。
21日には、私の宿舎の宴会室で専門日本語教育担当の先生方との夕食会を行いました。
学生は、「センセーとなら緊張しないで日本語で話せるけれど、専門日本語の先生とは緊張してしまう」と言っていたのですが、夕食会がはじまると、それぞれいっしょうけんめい日本語で話していました。
<つづく>
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2009年08月24日
ニーハオ春庭「教授方との夕食会」
2009/08/24
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(2)教授方との夕食会
私が夕食会にお招きした専門の先生方、東大、東工大などの教授たちです。非常勤講師にすぎない私、普段ならご一緒することもないエライ先生方なのですが、私のシンポジウム発表のときお世話になったので、夕食にご招待することになりました。
「シンポジウム発表のレジュメは各自でプリントして配布する」ということを私は理解していなくて、レジュメは主催者側で作成するものとばかり思っていたのです。そのためにシンポジウムが始まってから慌ててプリントを作るはめになりました。
ところが、こんなときに限って基礎日本語講師室のコピー機が紙詰まりを起こして使えなくなり、専門日本語講師室のコピー機を借りることになりました。講師室にいた先生方、皆さんで窮地に陥った私を助けてくださり、教授たち皆で「印刷係」として手伝ってくださったのです。日頃は秘書を使っているような先生方を印刷係にしてしまって申し訳ないことだったので、「夕食ご招待」で勘弁してもらうことにしました。
学生と教授、教授夫人2人。合計16人で夕食をいただきました。実をいうと、中国でお金を使った一番の高額消費が、このときの宴会費用です。アワビ、伊勢エビ、刺身、上海蟹など、日頃は食べないような豪華メニューがつぎつぎにテーブルに並びました。
テーブルについた学生たちも「教授のお話をうかがう接待」に、緊張しながらもがんばってくれました。専門日本語課程の先生の日本語は、日本人大学院生に話すのと同じ日本語なので、彼らにはちょっと難しい。日本語2級レベル試験に合格したというものの、今までは基礎日本語教師が語彙コントロール文型コントロールをして、彼らに理解できないことは話さないようして会話が成立してきたのですから、いきなり「ふつうの大学院レベルの会話」をしても、理解できないことが多い。
エンテイさんは、彼の日本語ブログに正直に「隣の席になった教授のお話は、ぜんぜん理解できなかった」と書いていました。このとき、エンテイさんの隣に座った教授は、ご母堂の学友が森鴎外の娘や夏目漱石の娘さんだったというお話しをなさっていました。明治の文豪たちを「鴎外さん、漱石さん」と親しげに呼ぶお母さんの影響で文学を志したのですが、お父様に「文学では将来食っていけない」と諭されて理系になったのが、生涯の心残りで、本来は文系にすすみたかったのだ、と語っていたのでした。「森茉莉(まり)さん、杏奴(あんぬ)さん」と、なつかしげに文豪の娘たちの名を呼び、明治文学を語る教授の話、たしかにエンテイさんには難しかったと思います。
昨年10月から今年3月までが基礎日本語教育前半で、中国人日本語教師が担当します。そのあとを引き継いで、日本人日本語教師団が基礎教育後半を受け持ちます。私はこの担当でした。
専門日本語教育は、留学先である日本各地の大学の教授たちがチームを編成して文科省派遣教師団として、8月1ヶ月を担当します。
8月の1ヶ月間で、医学や工学などの専門分野についての講義をして、日本の大学院での研究生活ができる日本語力を養成します。
学生たちの専門は多岐にわたっているので、自分の専門の教授が派遣されている学生はいいですが、違う専門にあたる学生もいます。エンテイさんの専門は薬学ですが、薬学専門家は今回派遣されていないので、「材料化学」の教授に教わることになりました。
その材料化学の教授から「明治文学」の話しをあれこれ伺うことになったのです。私は基礎日本語の授業のとき「お札になった日本人」紹介として夏目漱石について教えたことがあるのですが、森鴎外については、「日本人の住まい」という読解の授業のときに明治村の森鴎外旧居を紹介したくらいで、文学上の紹介をしていなかったので、エンテイさんにとって、鴎外文学の話は「ぜんぜんわからなかった」のもしかたがありません。
日本語教師たちは、学生の日本語力にあわせて語彙や文型をコントロールしながらゆっくり話すように訓練されているのですが、教授たちは大学の学部生や院生に教えるのと同じ日本語で授業をします。学生たちは8月になるといきなり難しくなる日本語に苦労します。
今年も「専門日本語は難しい」と、メールがきていました。
英語教育に置き換えてみると、英語を習っている日本の高校生が、夏休みにいきなりオックスフォードやケンブリッジ大学の教授の授業を英語で受講し、その場で英文で感想レポートを書かされる、と思ってください。
しかし、教授たちは「午前中に専門のレクチャーをして、午後内容要約と感想を発表させているのだけれど、なかなかしっかりと発表しているので、最終プレゼンテーションもこのぶんなら全員合格するだろう」と、お話ししてくだったので、一安心です。
<つづく>
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2009年08月25日
ニーハオ春庭「シャンユエに会いたい」
2009/08/25
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(3)シャンユエに会いたい
専門の先生たちとの夕食会がおひらきになったあと、「私の宿舎に泊まってください。2室にシングルベッドとダブルベッドがあるから、みなで泊まれますよ」と言ったのですが、「まだ、発表の準備が完成していません」と、大学の寮に帰って行きました。
今週末には、学生たちは日本語で自分の専門分野についてのプレゼンテーションをします。その発表成果が最終試験となっていますから、みな発表原稿やパワーポイントファイルの制作に余念がありません。
ひとりルールーだけ「私はもう準備が終わりました」と、宿泊することになり、週末いっしょに遊ぶことになりました。ルールーの専門は遺伝子学です。クラススピーチのとき、額の形が富士額になる場合や耳の形について、遺伝子の要素の説明をして、クラスでおでこや耳を見せ合って、みな楽しく遺伝について学びました。
ルールーに泊まってもらったのは「日本語が話せない私の友達を招いているので、通訳をしてください」とお願いするためでした。中国語を話せない私に、日本語も英語も話せない友達がいるって、不思議なようですが、、、、
前回2007年の中国赴任の思い出の中、もっとも印象深かったことのひとつが、13歳のシャンユエと友達になったことでした。
シャンユエは、バスで1時間ほど行った先にある郊外の小さな田舎町、合隆鎮に住んでいます。2007年の7月には中学1年生でした。8月には2年生に進級するという「少年」シャンユエと友達になって、動植物公園や「長影世紀城」というテーマパークでいっしょに遊びました。動物園でシャンユエの「祥[王月]」という字は女性の名によく使われる文字なので、「男の子なのに、親御さんはどうして祥[王月]という文字を選んだのか」と質問したら「我是女児」と、言ったのでびっくりしたのです。シャンユエは男の子にしか見えない女の子でした。
2007年6月7月に私が楽しんでいたことのひとつに、「どこへ行くのか知らないバスにひとりで乗り込んで終点で降り、そこにある食堂で夕食を食べて帰る」という「プチ冒険」がありました。ときには、店も何もない畑の真ん中が終点、ということもあったのですが、「1元バスツアー」と称して、どこへ着くのかドキドキしながらバスに揺られて夕食を食べに行ったのです。
シャンユエの家は、合隆鎮のバス停終点の前で「魏味佳」という食堂を営んでいました。バスを降りて夕食をとった食堂がシャンユエの家だったのです。
シャンユエの写真を撮ってプリントしたものをこの食堂あてに送付したのですが、写真が届いたという返事はこないまま2年が過ぎ、はたしてシャンユエは写真を受け取れたのかどうか、わからないままになっていました。
2009年の赴任で、毎週「今週こそはシャンユエに会いに行こう」と思いながら、毎週末、ひたすらパソコンに向かって、食事はワープロをたたきながら食べるという暮らしを続けたため、ついに一度も会いに行くことができないまま終わってしまいました。4回目に中国に来た目的のひとつは「シャンユエに会いたい」ということでした。
今回の中国滞在目的の1番目は国際日本語教育シンポジウムでの発表、2番目は長白山ツアー、3番目がシャンユエに会いに行く、ということ。
2007年8月の「合隆鎮の魏味佳」は、以下に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A
<つづく>
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2009年08月26日
ニーハオ春庭「高校生シャンユエ」
2009/08/26
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(4)高校生シャンユエ
2年たって、はたして「魏味佳」が同じ場所にあるのかどうかもわかりません。私の宿舎の周囲では2年間に多くの店が入れ替わりました。私が洗濯物を出していた「天使干洗店」はペットショップに変わっていたし、宿舎の隣のさえない食堂は「時尚旅館」になっていました。
合隆鎮行きのバス、駅前の185番に乗って小一時間。終点の前には。あらまあ、「魏味佳」の店は、はやりのケータイ電話屋になっていました。やっぱりね、、、、、、
魏味佳のとなりのとなりにあった「旅店」のおばさんに「となりのとなりの串焼き店は、どこへ行った?」と、聞いてみましたが、私の発音ではさっぱり通じなくて、おばさんは「一泊は30元だよ、ビタ一文まけないよ」と、繰り返すばかり。2年前は一泊20元だったのに、ま、それはいいや。
しかたがないから、ぶらぶらと通りを歩いていきました。5分ほど歩いてみて、ま、仕方がない。2年の歳月がたっていたのですから、合隆鎮も変わったのだ、と納得して、さて、帰るまえに念のためにケータイ電話屋に聞いてみることにしました。
私の四声はどうにも通じないので、筆談で「2年前には、ここにあった串焼き店に、シャンユエという子がいて、今は15歳になっているのだが、知らないか」と聞いてみました。ケータイ屋は、私が話が通じないことが分かると、英語がわかる若者を呼んできました。私が人捜しをしていることがわかると、シャンユエを知っている人を探してきてくれました。「このケータイ屋の場所は、前は串焼き店だった」「シャンユエ」この二つのキーワードだけで、なんとか通じたのです。
男の人が先に立って、案内してくれました。私がさきほどぶらぶら5分歩いた道をどんどん進んで行きます。5分歩いてあきらめて引き返した、そのちょっと先に、「魏味佳」は移転していたのでした。
あとで聞いたら、移転したのは、今年4月だったということです。合隆鎮のバスターミナルは2か所あって、移転先は、長距離ターミナルの前です。(といってもマイクロバスが数台停まっている、というだけのところですが)
シャッターが閉まっていましたが、男の人は人を呼んで来て、シャッターを開けさせてくれました。店の中で待っているように言われ、しばらく待っていました。
シャンユエが、店にとびこんで来ました。背が伸び、ちょっと大人びていましたが、相変わらずショートカットの「少年」です。
筆談で「中学3年生になったんだっけ」と訪ねると、「8月25日から高級中学(高校)の1年生だ」というのです。大きくなっているなあ。
高校に入学したけれど、勉強はきらいで、スポーツが好きと言います。英語も好きじゃなくて話せない、というのですが、「I like sports.」これは英語で言えました。
店にいた親戚の女の子といっしょに、前に店があった場所の近くにある市場へ行き、入学祝いを買いました。最初、服の売り場をブラブラして、「puma」とか「adidas」のスポーツシャツはどうか、ときいたのですが、シャンユエは「いらない」と言います。親戚の女の子がフラフープがほしいというので、おもちゃ屋へ行きました。
<つづく>
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2009年08月27日
ニーハオ春庭「シャンユエとルールー」
2009/08/27
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(5)シャンユエとルールー
フラフープにはいろいろな大きさのがあったので、どれがちょうどいいか、いろいろ見ているうち、女の子はお人形セットに目うつりして、「これがほしい」と、言います。15元の「ナース人形セット」で、おもちゃの注射器や聴診器、ナース服の人形がセットになっています。彼女はナース人形に大喜びでした。
おもちゃ屋にスケートボードがおいてありました。シャンユエは「スポーツが好き」というので、「乗ってみて」と勧めました。シャンユエがボードに乗って試してみると、できそうなので、「これにしよう」と、買うことにしました。スケートボードは100元。高校勉強に必要なものは両親が買ってくれるでしょうけれど、遊び道具はどうかわからない。スケートボードは、「親にはおねだりしにくいけれど、自分のこずかいで買うにはちょっと高い品物」ですから、旧友の日本人のプレゼントとして高校入学のお祝いにちょうどよかったかと思います。
シャンユエの「合隆高級中学」へ行って見ました。魏味佳から200メートルほど先にあり、走っていけば1分で高校に着く。始業ベルが鳴ってから走っていける場所にあります。
煉瓦作り1階建ての校舎が6棟あり、その先は雑草の生えているグラウンド。入り口に近いところが「3年級」真ん中が「2年級」。そうするとグラウンドに近いほうが1年級なのでしょう。
「化学」の教科書を抱えた眼鏡をかけた女の人が通りかかったので、「この高校の化学の先生ですか」と訪ねてみたら、その通りでした。「この子は、8月にこの学校に入学するんです。私はこの子の友達です」と、聞かれもしないのに自己紹介。勝手に校庭に入り込んだので、あやしいものではないことを言っておかないと。
「魏味佳」の店に戻ると、シャンユエの」お父さんとお母さんが店に来ていました。今日の開店は夕方からのようです。両親に筆談で、8月26日に日本へ帰ること、22日23日の土日にシャンユエと遊びたいと話し、許可を得ました。
21日に私の部屋に泊まっていっしょに遊ぶことになったルールーには、「シャンユエは日本語がぜんぜんわからないし、私は中国語が話せないので、通訳になってください」とお願いしました。
2年前にシャンユエといっしょに遊んだときは、私の中国語家庭教師役だったジョウさんがいっしょに動物園や南湖公園で遊んだのでした。
22日に、合隆までシャンユエを迎えに行きました。ルールーは、その間桂林路の美容院で髪の手入れ。
シャンユエには、10時に迎えに行くからと行って、日本人らしく10時ぴったりに魏味佳の店につきましたが、シャンユエは中国人らしく、10時半に店にやってきました。
12時にマクドナルドの店の前でルールーと会う約束でした。日本人は必ず約束時間を守るということを「日本事情」として教えてあったルールーは、12時半になっても私とシャンユエが現れないので、「中国語わからない先生がひとりでバスに乗っていったので、迷子になったかと心配した」と言うので、申し訳なかったです。
「古本吉田」という牛丼店で「日式どんぶり飯」を食べたあと、かっては市内で一番高い建物であったテレビ塔へ登りました。現在はテレビ塔より高いビルもどんどんできているのですが、まず、シャンユエに「高いところから市内を見渡す」という経験をしてもらいたかったのです。
シャンユエは望遠鏡を覗いて、南湖や市内のビル群を見ていました。
2年前は、私が中国語を理解していないことに遠慮なしにどんどん中国語で話しかけてきたのに、高校生になったシャンユエは、とても寡黙になっていて、ルールーが通訳するから大丈夫と言っても、あまり話さない。
ルールーはお姉さんらしくシャンユエに気をつかってくれて、よく世話をしてくれました。
<つづく>
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2009年08月28日
ニーハオ春庭「シャンユエ大熊猫を見る」
2009/08/28
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(6)シャンユエ大熊猫を見る
テレビ塔を降りて、次は動植物公園へ行きました。前回担任クラスの学生たちと動植物公園へ行ったとき、ルールーは来られなかったし、シャンユエもパンダを見たことがないので、まずはパンダ(大熊猫ダーシューマオ)見物です。
動物園では動物ショウで熊、山羊や猿が芸を見せていました。白虎(アルビノ遺伝子による白い虎)は、馬に乗って登場。
前回、昼間にパンダ館を見たのでずっと寝ていましたが、今回は夕方だったので、パンダは室内で笹の葉を食べていました。おしりを床につけておすわりをして、ムシャムシャ笹を食べ続けています。
パンダ部屋の中に、サツマイモのような大きな茄子のようなものが、ころんと転がっています。パンダの糞でした。上野動物園では、このようなパンダの糞を見たことがなかったので、写真にとったら、シャンユエは笑っていました。
22日、動物園見物のあと、動物園の向かい側にある大学本部キャンパスへ行きました。
シャンユエに将来何になりたいかたずねたのですが、「わからない」と言います。「大学に入りたいか」とたずねても「スポーツは好きだけれど、勉強はあまり好きじゃない。大学に行くかどうかわからない」
両親の意見は?と、聞くと、「弁護士になれと言っている」と言います。まあ、だいたいの親は日本も中国も、文系なら「法律を学んで弁護士になれ」理系なら「医者になれ」というのです。
エンテイさんも「医者になれ」と親に言われて、医学の隣接科目である「薬学」を選んだのだそうですし、ルールーは医学部に入学して遺伝子治療に興味を持ち、現在の専門は遺伝子学です。
合隆鎮に住むシャンユエは、「大学」というのがどういう場所なのか具体的なイメージを持ったこともない。日本のように、大学が「オープンキャンパス」なんてイベントはしないし、中学生が大学見物するという機会もない。
私はぜひ、シャンユエに大学見物をしてほしかった。
新しくできた郊外キャンパスの中で過ごしてきたルールーも、本部キャンパスの中を見たことがなかったので、まずはキャンパスのなかを歩いて見ました。立派な(というか、ばかでかい)図書館(どの大学も図書館を大学象徴の建物として建てるので、大学図書館の建物はやたらにでかい)、物理学部、生命科学部などの校舎。正門近くの外国語学部校舎は、私にとっては、なつかしい建物です。
「1994年に私がはじめて中国で教えたときは、この外国語学部の校舎だったのよ」と、ルールーに言い、ルールーは中国語でシャンユエに説明しました。
22日の夕食は平壌館へ。
朝鮮料理はシャンユエの住む合隆鎮にも朝鮮族の店があるから珍しくないですが、北朝鮮のウエイトレスの歌唱ショウは、シャンユエも楽しんでくれるだろうと企画した夕食です。昨年10月から市内に住んでいるルールーも、郊外にあるキャンパスから外に出て、繁華街である桂林路に来ることは少なかったし、平壌館に入るのは初めてと言っていました。
ジャガイモ餅や鶏手羽フライを食べながら待っていると、7時半にショウが始まりました。朝鮮や韓国、中国の歌が美人ウエイトレスたちによって歌われました。テレサテンの「時の流れに身をまかせ」の中国語バージョンもありました。
料理と歌を楽しんで、22日は宿舎にルールーとシャンユエが泊まりました。
<つづく>
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2009年08月29日
ニーハオ春庭「シャンユエ大学を見る」
2009/08/29
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(7)シャンユエ大学を見る
23日は、友達と桂林路で会う約束ができたルールーと分かれて、シャンユエと郊外キャンパスへ行きました。大学が設置している博物館を見せようと思ったのです。ルールーはエンテイさんに電話をして、エンテイさんが通訳として博物館をガイドしてくれました。
1階は恐竜の骨格標本や動く恐竜レプリカ。2階は馬の進化のようすを模型で展示してある。3階は世界の蝶の標本。4階は中国東北の自然を再現した剥製標本の展示。エンテイさんは、いっしょうけんめいシャンユエに説明をしてくれました。
大学の中にある食堂で昼ご飯を食べました。元3班の学習係だったチョウカショさんと北京からカショをたずねてきた恋人と食堂であったので、いっしょに食べることになりました。カショさんのルームメートのイヨウさんとカショウマンさんもいっしょです。
カショさんは、「元3班のヨウショウさんとエイケイさんに、招待所で専門の教授たちとの夕食会で食べたごちそうの話をしたら、うらやましがっていました」と言います。ほんと、私だって日頃食べたことのないごちそうでしたよ。
カショさんは最初は機械工学を専攻し、農機具開発を研究するはずでしたが、中国農業の将来を考えるようになり、大学院に入るときに専攻を替え、農業史や農業経済を研究することになりました。日本では東大の経済学部で博士号をめざします。
ランチのあと、イヨウさんとエンテイさんがシャンユエにキャンパスの中を案内してくれる間、私は元の担任していた教室で、学生たちの最終プレゼンテーションのパワーポイントファイルのチェックをしました。専門の工学や化学の部分は私には理解できない難しい化学式や数式がありますが、日本語の部分で、やはり手直しした方がいいことが見つかるのです。教室に来ていた学生のpptをチェックしていると、シャンユエが教室にやってきました。
私が勤務していた校舎は、語学教室としては中国でも最先端の設備を誇っている学校なので、教室設置の大型コンピュータセットとプロジェクターは、シャンユエには珍しいものだろうと思います。シャンユエが大学について具体的なイメージを持てるようになるといいと思いました。
シャンユエに「本部キャンパスとこの郊外キャンパスのどちらが気に入ったか」とたずねると、新しい郊外キャンパスのほうが気に入ったということでした。
中国では、高校3年生は卒業前に略称「高考」を受けます。この「普通高等学校招生全国統一考試」の点数によってどの大学に入学できるか決まります。なかでも重点大学と呼ばれる一流大学への入試の点数は高い基準があるので、金持ちの親はあの手この手で我が子の入学を画策し、毎年不正事件が新聞に載ります。
替え玉受験なんてのは序の口です。
同級生のなかに、頭はいいけれど大学へ出してやる金のない親を持つ子がいると、金持ちの親はその子の親に不正をもちかけます。自分の子と前後の席になるように受験番号を獲得して、「大学に入るお金をだしてやるから」という条件で、入試のとき、そっくり答案を写させる、なんてのも序二段くらい。
幕内クラスになると、お金が無くて大学進学をあきらめた子の戸籍を不正手段で入手して、その子になりすまして、優秀な成績の子が受けるべき「推薦入試」をそっくりもらってしまい、大学入学後もその子になりすましている。戸籍を盗まれた子が、一念発起して通信教育で教員資格を取得しようとしたら「あなたはすでに大学を卒業しているし、教員資格を取得しているではないか」と指摘され、はじめて自分の戸籍が他人に使われていたことを知る、他人が自分になりすましていたことに気づく、なんてことも起こっています。
中国は日本以上に学歴がものを言う社会だから、不正手段もこれからあの手この手の秘術がつかわれることでしょう。
<つづく>
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2009年08月30日
ニーハオ春庭「シャンユエの未来」
2009/08/30
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(8)シャンユエの未来
日本の大学受験者は現在では70万人前後。日本の大学・短大の数は1200校あり、どの大学でもいいという条件なら、全員が入学できる定員数があります。一方、中国の「高考」の受験者数は2009年には1020万人。中国の大学・短大はこの10年で急激に増加し、現在は2000校にのぼっており、入学定員はこの5年間で倍増したのですが、それでも大学及び短大に入学できるのは600万人ほどですし、重点大学(プロジェクト211大学)ともなれば、将来のエリートコースが約束されているのですから、親の大学進学熱は、一人っ子に対していやがおうにもヒートアップしています。
プロジェクト211の大学の中でも特に重要とされた38大学に入学できるのは、大学入学定員の6%にすぎません。まさに現代の「科挙」です。6%と言っても、人数からいけば、日本の全受験者数に匹敵しており、数学オリンピック、科学オリンピックなどで、中国の高校生が上位をしめているのもわかります。
08年の当局からの発表によれば、大学での生徒募集人数は599万人、大学院では44万9000人と、07年比でそれぞれ5%、6%増加しています。在学中の大学生総数は1738万8000人、大学院生数は110万5000人に達しており、高等教育機関の在校生数は世界第1位となっています。大学・大学院への総入学率は22%に達し、「中国の大学経営」は、中国で有数の「成長産業」です。
シャンユエの親が「弁護士になれ」というのも、親がイメージする「高学歴のエライ人」というのが「弁護士」か「医者」だからです。
日本では村上龍が編集した「13歳のハローワーク」のような本があり、中学生高校生が具体的に将来のビジョンを持つことができますが、シャンユエのような環境で、さまざまな仕事や進学のイメージはテレビなどで見る以外に持ちにくく、自分自身の目で実際に大学を知る機会がない。
今回の「シャンユエの大学見物」は、高校入学祝いのスケートボードよりももっと意義ある私からのプレゼントでした。
シャンユエが将来大学に入るかどうかはわかりません。「もし大学生になったら、夏休みに必ず日本へ招待する、日本への航空券を郵送し、私の家に滞在できるようにするから、勉強に励みなさい」とエンテイさんに通訳してもらいました。
シャンユエの将来はシャンユエのものだから、彼女は自分自身でなりたいことを見つけるのがよい。しかし、田舎町の環境で大学へのイメージを持ちにくい彼女に、できるかぎり広い世界の入り口を見せてやりたくて、大学案内をエンテイさんたちに頼んだのでした。
シャンユエの両親は串焼きの食堂を営んでいるのだから、シャンユエは特に努力しなくても、両親の店を受け継いで、田舎町の中では裕福な層として暮らしていくことができるでしょう。でも、高校在学中に将来への夢が芽生えたとき、その入り口にさまざまな可能性があったほうがいい。大学進学もその可能性へのひとつのドアです。
大学見物のあと、近くにある浄月潭公園を散歩しました。浄月潭は、市内の水源とするために開発された大きな貯水公園です。1994年に初めて学生たちと遠足に来たころは、ただ広い森林と湖が広がる静かな場所でしたが、現在は開発されて公園として整備され、周辺は住宅エリアになってたくさんの家が建ち並んでいます。
公園の中には日曜日とあって、結婚前撮り写真をとるカップルが大勢いました。専門の業者が、まもなく結婚式を挙げるカップルにさまざまなポーズを撮らせて写真集を作るのです。
シャンユエと頭上を飛び交うとんぼや花のまわりをひらひらするチョウチョを指さしたり、広々と広がる湖水や湖に影を映す森林をながめ、青空と白い雲を眺めてすごしました。帰りは160番のバスに乗ったのですが、疲れて眠ってしまい、下車する予定のバス停からだいぶすぎてしまいました。慌てて降りて、結局タクシーで宿舎まで戻りました。写真屋で昨日動物園で撮ってプリントした分を受け取り、写真とクッキーなどのおみやげを持たせ、ちょっとおそくなったのだけれど、駅前まで送って185番のバスにシャンユエを乗せました。
13歳のシャンユエに偶然出会い、今回は15歳のシャンユエとまたまた運良く出会えた。
シャンユエは私を他の人に紹介するとき「我的朋友。わたしの友だち」と、言います。言葉が通じない、そして年齢差が大きいふたりですが、二人の間に友情成立。これから20歳のシャンユエ、30歳のシャンユエに出会うことを楽しみに、「再見」を言いました。
<つづく>
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(1)謝謝3班の仲間たち
4回目の中国滞在の1番の目的は、勤務校の創立30周年記念の国際日本語教育シンポジウムでの発表です。
3月から7月まで勤務した学校は、1974年に田中角栄訪中で国交回復したあと、日本中国の国家共同の日本語教育施設として1979年に開校して以来、中国有数の日本語教育の場となっています。今年は、学校をあげて30周年記念イベントの準備が続けられてきました。盛大な記念行事の場で発表できることになって、ラッキーでした。
担任した博士コース3班の学生たちには、メールで「発表を聞きに来てください」と連絡しておきました。
16日の発表の前日、8月15日、元の担任クラスの教室で学生たちと再会。日本に帰国中、8月1日から12日まで連日、授業資料を作る以上の熱心さで取り組んだ「3班思い出のアルバム」を披露しました。
クラスの集合写真や、生け花、浴衣姿、縄跳び大会、カラオケなどのクラスイベントでの写真、また「3班の仲間たち」と題したひとりひとりの写真にコメントをつけて編集したアルバムです。
写真につけたコメント、たとえば、出席番号1番のレイトウさんの写真には「加油!世界中には30億人の女性がいる、がんばって!」と、コメント。まだ恋人いないレイトウさんへのエールです。
在学中に恋人を得た出席番号2番のコウキさんへのコメントは、いっしょに動物園へ行ったときの写真に「コウキは、縞馬よりキリンより、リンリンが好きです」というコメントをつけました。リンリンはコウキさんのガールフレンドの名前です。
アルバムをコンピュータ・プロジェクターで見た後、大学食堂の宴会室でランチ会。
16日、学生たちは、私の発表のとき、盛大な拍手をしてくれました。日本や中国各地からのシンポジウム出席者のすぐれた発表が相次いだなか、拍手の音量だけなら、私が1番でした。サクラのみなさん、ありがとう。
いえいえ、拍手だけでなく、私の発表は、各方面か好評を得ることができ、3月から7月まで、食事する時間も惜しんで授業資料を作り続けたことの甲斐があったといえます。ドストエフスキーの新訳で名高いロシア文学者の学長先生からも「よい発表でした。このような授業をしてもらえるなら、学生たちは毎日楽しいでしょうね」と、言っていただき、面目をほどこすことができました。
サクラ役をしてくれた博士コース3班の学生は、最初17名でしたが、4月に一人、7月に一人、途中からクラスに加わって、基礎日本語課程終了時には19名でした。
19人、いつも仲がよく、助け合って学習しており、グループラーニング、ペアラーニングの実践にとって、この上ない環境でした。
そして学生たちは「先生、センセー」と慕ってくれるので、教材作りにも熱が入り、授業もよい実践ができました。
21日には、私の宿舎の宴会室で専門日本語教育担当の先生方との夕食会を行いました。
学生は、「センセーとなら緊張しないで日本語で話せるけれど、専門日本語の先生とは緊張してしまう」と言っていたのですが、夕食会がはじまると、それぞれいっしょうけんめい日本語で話していました。
<つづく>
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2009年08月24日
ニーハオ春庭「教授方との夕食会」
2009/08/24
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(2)教授方との夕食会
私が夕食会にお招きした専門の先生方、東大、東工大などの教授たちです。非常勤講師にすぎない私、普段ならご一緒することもないエライ先生方なのですが、私のシンポジウム発表のときお世話になったので、夕食にご招待することになりました。
「シンポジウム発表のレジュメは各自でプリントして配布する」ということを私は理解していなくて、レジュメは主催者側で作成するものとばかり思っていたのです。そのためにシンポジウムが始まってから慌ててプリントを作るはめになりました。
ところが、こんなときに限って基礎日本語講師室のコピー機が紙詰まりを起こして使えなくなり、専門日本語講師室のコピー機を借りることになりました。講師室にいた先生方、皆さんで窮地に陥った私を助けてくださり、教授たち皆で「印刷係」として手伝ってくださったのです。日頃は秘書を使っているような先生方を印刷係にしてしまって申し訳ないことだったので、「夕食ご招待」で勘弁してもらうことにしました。
学生と教授、教授夫人2人。合計16人で夕食をいただきました。実をいうと、中国でお金を使った一番の高額消費が、このときの宴会費用です。アワビ、伊勢エビ、刺身、上海蟹など、日頃は食べないような豪華メニューがつぎつぎにテーブルに並びました。
テーブルについた学生たちも「教授のお話をうかがう接待」に、緊張しながらもがんばってくれました。専門日本語課程の先生の日本語は、日本人大学院生に話すのと同じ日本語なので、彼らにはちょっと難しい。日本語2級レベル試験に合格したというものの、今までは基礎日本語教師が語彙コントロール文型コントロールをして、彼らに理解できないことは話さないようして会話が成立してきたのですから、いきなり「ふつうの大学院レベルの会話」をしても、理解できないことが多い。
エンテイさんは、彼の日本語ブログに正直に「隣の席になった教授のお話は、ぜんぜん理解できなかった」と書いていました。このとき、エンテイさんの隣に座った教授は、ご母堂の学友が森鴎外の娘や夏目漱石の娘さんだったというお話しをなさっていました。明治の文豪たちを「鴎外さん、漱石さん」と親しげに呼ぶお母さんの影響で文学を志したのですが、お父様に「文学では将来食っていけない」と諭されて理系になったのが、生涯の心残りで、本来は文系にすすみたかったのだ、と語っていたのでした。「森茉莉(まり)さん、杏奴(あんぬ)さん」と、なつかしげに文豪の娘たちの名を呼び、明治文学を語る教授の話、たしかにエンテイさんには難しかったと思います。
昨年10月から今年3月までが基礎日本語教育前半で、中国人日本語教師が担当します。そのあとを引き継いで、日本人日本語教師団が基礎教育後半を受け持ちます。私はこの担当でした。
専門日本語教育は、留学先である日本各地の大学の教授たちがチームを編成して文科省派遣教師団として、8月1ヶ月を担当します。
8月の1ヶ月間で、医学や工学などの専門分野についての講義をして、日本の大学院での研究生活ができる日本語力を養成します。
学生たちの専門は多岐にわたっているので、自分の専門の教授が派遣されている学生はいいですが、違う専門にあたる学生もいます。エンテイさんの専門は薬学ですが、薬学専門家は今回派遣されていないので、「材料化学」の教授に教わることになりました。
その材料化学の教授から「明治文学」の話しをあれこれ伺うことになったのです。私は基礎日本語の授業のとき「お札になった日本人」紹介として夏目漱石について教えたことがあるのですが、森鴎外については、「日本人の住まい」という読解の授業のときに明治村の森鴎外旧居を紹介したくらいで、文学上の紹介をしていなかったので、エンテイさんにとって、鴎外文学の話は「ぜんぜんわからなかった」のもしかたがありません。
日本語教師たちは、学生の日本語力にあわせて語彙や文型をコントロールしながらゆっくり話すように訓練されているのですが、教授たちは大学の学部生や院生に教えるのと同じ日本語で授業をします。学生たちは8月になるといきなり難しくなる日本語に苦労します。
今年も「専門日本語は難しい」と、メールがきていました。
英語教育に置き換えてみると、英語を習っている日本の高校生が、夏休みにいきなりオックスフォードやケンブリッジ大学の教授の授業を英語で受講し、その場で英文で感想レポートを書かされる、と思ってください。
しかし、教授たちは「午前中に専門のレクチャーをして、午後内容要約と感想を発表させているのだけれど、なかなかしっかりと発表しているので、最終プレゼンテーションもこのぶんなら全員合格するだろう」と、お話ししてくだったので、一安心です。
<つづく>
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2009年08月25日
ニーハオ春庭「シャンユエに会いたい」
2009/08/25
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(3)シャンユエに会いたい
専門の先生たちとの夕食会がおひらきになったあと、「私の宿舎に泊まってください。2室にシングルベッドとダブルベッドがあるから、みなで泊まれますよ」と言ったのですが、「まだ、発表の準備が完成していません」と、大学の寮に帰って行きました。
今週末には、学生たちは日本語で自分の専門分野についてのプレゼンテーションをします。その発表成果が最終試験となっていますから、みな発表原稿やパワーポイントファイルの制作に余念がありません。
ひとりルールーだけ「私はもう準備が終わりました」と、宿泊することになり、週末いっしょに遊ぶことになりました。ルールーの専門は遺伝子学です。クラススピーチのとき、額の形が富士額になる場合や耳の形について、遺伝子の要素の説明をして、クラスでおでこや耳を見せ合って、みな楽しく遺伝について学びました。
ルールーに泊まってもらったのは「日本語が話せない私の友達を招いているので、通訳をしてください」とお願いするためでした。中国語を話せない私に、日本語も英語も話せない友達がいるって、不思議なようですが、、、、
前回2007年の中国赴任の思い出の中、もっとも印象深かったことのひとつが、13歳のシャンユエと友達になったことでした。
シャンユエは、バスで1時間ほど行った先にある郊外の小さな田舎町、合隆鎮に住んでいます。2007年の7月には中学1年生でした。8月には2年生に進級するという「少年」シャンユエと友達になって、動植物公園や「長影世紀城」というテーマパークでいっしょに遊びました。動物園でシャンユエの「祥[王月]」という字は女性の名によく使われる文字なので、「男の子なのに、親御さんはどうして祥[王月]という文字を選んだのか」と質問したら「我是女児」と、言ったのでびっくりしたのです。シャンユエは男の子にしか見えない女の子でした。
2007年6月7月に私が楽しんでいたことのひとつに、「どこへ行くのか知らないバスにひとりで乗り込んで終点で降り、そこにある食堂で夕食を食べて帰る」という「プチ冒険」がありました。ときには、店も何もない畑の真ん中が終点、ということもあったのですが、「1元バスツアー」と称して、どこへ着くのかドキドキしながらバスに揺られて夕食を食べに行ったのです。
シャンユエの家は、合隆鎮のバス停終点の前で「魏味佳」という食堂を営んでいました。バスを降りて夕食をとった食堂がシャンユエの家だったのです。
シャンユエの写真を撮ってプリントしたものをこの食堂あてに送付したのですが、写真が届いたという返事はこないまま2年が過ぎ、はたしてシャンユエは写真を受け取れたのかどうか、わからないままになっていました。
2009年の赴任で、毎週「今週こそはシャンユエに会いに行こう」と思いながら、毎週末、ひたすらパソコンに向かって、食事はワープロをたたきながら食べるという暮らしを続けたため、ついに一度も会いに行くことができないまま終わってしまいました。4回目に中国に来た目的のひとつは「シャンユエに会いたい」ということでした。
今回の中国滞在目的の1番目は国際日本語教育シンポジウムでの発表、2番目は長白山ツアー、3番目がシャンユエに会いに行く、ということ。
2007年8月の「合隆鎮の魏味佳」は、以下に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A
<つづく>
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2009年08月26日
ニーハオ春庭「高校生シャンユエ」
2009/08/26
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(4)高校生シャンユエ
2年たって、はたして「魏味佳」が同じ場所にあるのかどうかもわかりません。私の宿舎の周囲では2年間に多くの店が入れ替わりました。私が洗濯物を出していた「天使干洗店」はペットショップに変わっていたし、宿舎の隣のさえない食堂は「時尚旅館」になっていました。
合隆鎮行きのバス、駅前の185番に乗って小一時間。終点の前には。あらまあ、「魏味佳」の店は、はやりのケータイ電話屋になっていました。やっぱりね、、、、、、
魏味佳のとなりのとなりにあった「旅店」のおばさんに「となりのとなりの串焼き店は、どこへ行った?」と、聞いてみましたが、私の発音ではさっぱり通じなくて、おばさんは「一泊は30元だよ、ビタ一文まけないよ」と、繰り返すばかり。2年前は一泊20元だったのに、ま、それはいいや。
しかたがないから、ぶらぶらと通りを歩いていきました。5分ほど歩いてみて、ま、仕方がない。2年の歳月がたっていたのですから、合隆鎮も変わったのだ、と納得して、さて、帰るまえに念のためにケータイ電話屋に聞いてみることにしました。
私の四声はどうにも通じないので、筆談で「2年前には、ここにあった串焼き店に、シャンユエという子がいて、今は15歳になっているのだが、知らないか」と聞いてみました。ケータイ屋は、私が話が通じないことが分かると、英語がわかる若者を呼んできました。私が人捜しをしていることがわかると、シャンユエを知っている人を探してきてくれました。「このケータイ屋の場所は、前は串焼き店だった」「シャンユエ」この二つのキーワードだけで、なんとか通じたのです。
男の人が先に立って、案内してくれました。私がさきほどぶらぶら5分歩いた道をどんどん進んで行きます。5分歩いてあきらめて引き返した、そのちょっと先に、「魏味佳」は移転していたのでした。
あとで聞いたら、移転したのは、今年4月だったということです。合隆鎮のバスターミナルは2か所あって、移転先は、長距離ターミナルの前です。(といってもマイクロバスが数台停まっている、というだけのところですが)
シャッターが閉まっていましたが、男の人は人を呼んで来て、シャッターを開けさせてくれました。店の中で待っているように言われ、しばらく待っていました。
シャンユエが、店にとびこんで来ました。背が伸び、ちょっと大人びていましたが、相変わらずショートカットの「少年」です。
筆談で「中学3年生になったんだっけ」と訪ねると、「8月25日から高級中学(高校)の1年生だ」というのです。大きくなっているなあ。
高校に入学したけれど、勉強はきらいで、スポーツが好きと言います。英語も好きじゃなくて話せない、というのですが、「I like sports.」これは英語で言えました。
店にいた親戚の女の子といっしょに、前に店があった場所の近くにある市場へ行き、入学祝いを買いました。最初、服の売り場をブラブラして、「puma」とか「adidas」のスポーツシャツはどうか、ときいたのですが、シャンユエは「いらない」と言います。親戚の女の子がフラフープがほしいというので、おもちゃ屋へ行きました。
<つづく>
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2009年08月27日
ニーハオ春庭「シャンユエとルールー」
2009/08/27
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(5)シャンユエとルールー
フラフープにはいろいろな大きさのがあったので、どれがちょうどいいか、いろいろ見ているうち、女の子はお人形セットに目うつりして、「これがほしい」と、言います。15元の「ナース人形セット」で、おもちゃの注射器や聴診器、ナース服の人形がセットになっています。彼女はナース人形に大喜びでした。
おもちゃ屋にスケートボードがおいてありました。シャンユエは「スポーツが好き」というので、「乗ってみて」と勧めました。シャンユエがボードに乗って試してみると、できそうなので、「これにしよう」と、買うことにしました。スケートボードは100元。高校勉強に必要なものは両親が買ってくれるでしょうけれど、遊び道具はどうかわからない。スケートボードは、「親にはおねだりしにくいけれど、自分のこずかいで買うにはちょっと高い品物」ですから、旧友の日本人のプレゼントとして高校入学のお祝いにちょうどよかったかと思います。
シャンユエの「合隆高級中学」へ行って見ました。魏味佳から200メートルほど先にあり、走っていけば1分で高校に着く。始業ベルが鳴ってから走っていける場所にあります。
煉瓦作り1階建ての校舎が6棟あり、その先は雑草の生えているグラウンド。入り口に近いところが「3年級」真ん中が「2年級」。そうするとグラウンドに近いほうが1年級なのでしょう。
「化学」の教科書を抱えた眼鏡をかけた女の人が通りかかったので、「この高校の化学の先生ですか」と訪ねてみたら、その通りでした。「この子は、8月にこの学校に入学するんです。私はこの子の友達です」と、聞かれもしないのに自己紹介。勝手に校庭に入り込んだので、あやしいものではないことを言っておかないと。
「魏味佳」の店に戻ると、シャンユエの」お父さんとお母さんが店に来ていました。今日の開店は夕方からのようです。両親に筆談で、8月26日に日本へ帰ること、22日23日の土日にシャンユエと遊びたいと話し、許可を得ました。
21日に私の部屋に泊まっていっしょに遊ぶことになったルールーには、「シャンユエは日本語がぜんぜんわからないし、私は中国語が話せないので、通訳になってください」とお願いしました。
2年前にシャンユエといっしょに遊んだときは、私の中国語家庭教師役だったジョウさんがいっしょに動物園や南湖公園で遊んだのでした。
22日に、合隆までシャンユエを迎えに行きました。ルールーは、その間桂林路の美容院で髪の手入れ。
シャンユエには、10時に迎えに行くからと行って、日本人らしく10時ぴったりに魏味佳の店につきましたが、シャンユエは中国人らしく、10時半に店にやってきました。
12時にマクドナルドの店の前でルールーと会う約束でした。日本人は必ず約束時間を守るということを「日本事情」として教えてあったルールーは、12時半になっても私とシャンユエが現れないので、「中国語わからない先生がひとりでバスに乗っていったので、迷子になったかと心配した」と言うので、申し訳なかったです。
「古本吉田」という牛丼店で「日式どんぶり飯」を食べたあと、かっては市内で一番高い建物であったテレビ塔へ登りました。現在はテレビ塔より高いビルもどんどんできているのですが、まず、シャンユエに「高いところから市内を見渡す」という経験をしてもらいたかったのです。
シャンユエは望遠鏡を覗いて、南湖や市内のビル群を見ていました。
2年前は、私が中国語を理解していないことに遠慮なしにどんどん中国語で話しかけてきたのに、高校生になったシャンユエは、とても寡黙になっていて、ルールーが通訳するから大丈夫と言っても、あまり話さない。
ルールーはお姉さんらしくシャンユエに気をつかってくれて、よく世話をしてくれました。
<つづく>
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2009年08月28日
ニーハオ春庭「シャンユエ大熊猫を見る」
2009/08/28
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(6)シャンユエ大熊猫を見る
テレビ塔を降りて、次は動植物公園へ行きました。前回担任クラスの学生たちと動植物公園へ行ったとき、ルールーは来られなかったし、シャンユエもパンダを見たことがないので、まずはパンダ(大熊猫ダーシューマオ)見物です。
動物園では動物ショウで熊、山羊や猿が芸を見せていました。白虎(アルビノ遺伝子による白い虎)は、馬に乗って登場。
前回、昼間にパンダ館を見たのでずっと寝ていましたが、今回は夕方だったので、パンダは室内で笹の葉を食べていました。おしりを床につけておすわりをして、ムシャムシャ笹を食べ続けています。
パンダ部屋の中に、サツマイモのような大きな茄子のようなものが、ころんと転がっています。パンダの糞でした。上野動物園では、このようなパンダの糞を見たことがなかったので、写真にとったら、シャンユエは笑っていました。
22日、動物園見物のあと、動物園の向かい側にある大学本部キャンパスへ行きました。
シャンユエに将来何になりたいかたずねたのですが、「わからない」と言います。「大学に入りたいか」とたずねても「スポーツは好きだけれど、勉強はあまり好きじゃない。大学に行くかどうかわからない」
両親の意見は?と、聞くと、「弁護士になれと言っている」と言います。まあ、だいたいの親は日本も中国も、文系なら「法律を学んで弁護士になれ」理系なら「医者になれ」というのです。
エンテイさんも「医者になれ」と親に言われて、医学の隣接科目である「薬学」を選んだのだそうですし、ルールーは医学部に入学して遺伝子治療に興味を持ち、現在の専門は遺伝子学です。
合隆鎮に住むシャンユエは、「大学」というのがどういう場所なのか具体的なイメージを持ったこともない。日本のように、大学が「オープンキャンパス」なんてイベントはしないし、中学生が大学見物するという機会もない。
私はぜひ、シャンユエに大学見物をしてほしかった。
新しくできた郊外キャンパスの中で過ごしてきたルールーも、本部キャンパスの中を見たことがなかったので、まずはキャンパスのなかを歩いて見ました。立派な(というか、ばかでかい)図書館(どの大学も図書館を大学象徴の建物として建てるので、大学図書館の建物はやたらにでかい)、物理学部、生命科学部などの校舎。正門近くの外国語学部校舎は、私にとっては、なつかしい建物です。
「1994年に私がはじめて中国で教えたときは、この外国語学部の校舎だったのよ」と、ルールーに言い、ルールーは中国語でシャンユエに説明しました。
22日の夕食は平壌館へ。
朝鮮料理はシャンユエの住む合隆鎮にも朝鮮族の店があるから珍しくないですが、北朝鮮のウエイトレスの歌唱ショウは、シャンユエも楽しんでくれるだろうと企画した夕食です。昨年10月から市内に住んでいるルールーも、郊外にあるキャンパスから外に出て、繁華街である桂林路に来ることは少なかったし、平壌館に入るのは初めてと言っていました。
ジャガイモ餅や鶏手羽フライを食べながら待っていると、7時半にショウが始まりました。朝鮮や韓国、中国の歌が美人ウエイトレスたちによって歌われました。テレサテンの「時の流れに身をまかせ」の中国語バージョンもありました。
料理と歌を楽しんで、22日は宿舎にルールーとシャンユエが泊まりました。
<つづく>
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2009年08月29日
ニーハオ春庭「シャンユエ大学を見る」
2009/08/29
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(7)シャンユエ大学を見る
23日は、友達と桂林路で会う約束ができたルールーと分かれて、シャンユエと郊外キャンパスへ行きました。大学が設置している博物館を見せようと思ったのです。ルールーはエンテイさんに電話をして、エンテイさんが通訳として博物館をガイドしてくれました。
1階は恐竜の骨格標本や動く恐竜レプリカ。2階は馬の進化のようすを模型で展示してある。3階は世界の蝶の標本。4階は中国東北の自然を再現した剥製標本の展示。エンテイさんは、いっしょうけんめいシャンユエに説明をしてくれました。
大学の中にある食堂で昼ご飯を食べました。元3班の学習係だったチョウカショさんと北京からカショをたずねてきた恋人と食堂であったので、いっしょに食べることになりました。カショさんのルームメートのイヨウさんとカショウマンさんもいっしょです。
カショさんは、「元3班のヨウショウさんとエイケイさんに、招待所で専門の教授たちとの夕食会で食べたごちそうの話をしたら、うらやましがっていました」と言います。ほんと、私だって日頃食べたことのないごちそうでしたよ。
カショさんは最初は機械工学を専攻し、農機具開発を研究するはずでしたが、中国農業の将来を考えるようになり、大学院に入るときに専攻を替え、農業史や農業経済を研究することになりました。日本では東大の経済学部で博士号をめざします。
ランチのあと、イヨウさんとエンテイさんがシャンユエにキャンパスの中を案内してくれる間、私は元の担任していた教室で、学生たちの最終プレゼンテーションのパワーポイントファイルのチェックをしました。専門の工学や化学の部分は私には理解できない難しい化学式や数式がありますが、日本語の部分で、やはり手直しした方がいいことが見つかるのです。教室に来ていた学生のpptをチェックしていると、シャンユエが教室にやってきました。
私が勤務していた校舎は、語学教室としては中国でも最先端の設備を誇っている学校なので、教室設置の大型コンピュータセットとプロジェクターは、シャンユエには珍しいものだろうと思います。シャンユエが大学について具体的なイメージを持てるようになるといいと思いました。
シャンユエに「本部キャンパスとこの郊外キャンパスのどちらが気に入ったか」とたずねると、新しい郊外キャンパスのほうが気に入ったということでした。
中国では、高校3年生は卒業前に略称「高考」を受けます。この「普通高等学校招生全国統一考試」の点数によってどの大学に入学できるか決まります。なかでも重点大学と呼ばれる一流大学への入試の点数は高い基準があるので、金持ちの親はあの手この手で我が子の入学を画策し、毎年不正事件が新聞に載ります。
替え玉受験なんてのは序の口です。
同級生のなかに、頭はいいけれど大学へ出してやる金のない親を持つ子がいると、金持ちの親はその子の親に不正をもちかけます。自分の子と前後の席になるように受験番号を獲得して、「大学に入るお金をだしてやるから」という条件で、入試のとき、そっくり答案を写させる、なんてのも序二段くらい。
幕内クラスになると、お金が無くて大学進学をあきらめた子の戸籍を不正手段で入手して、その子になりすまして、優秀な成績の子が受けるべき「推薦入試」をそっくりもらってしまい、大学入学後もその子になりすましている。戸籍を盗まれた子が、一念発起して通信教育で教員資格を取得しようとしたら「あなたはすでに大学を卒業しているし、教員資格を取得しているではないか」と指摘され、はじめて自分の戸籍が他人に使われていたことを知る、他人が自分になりすましていたことに気づく、なんてことも起こっています。
中国は日本以上に学歴がものを言う社会だから、不正手段もこれからあの手この手の秘術がつかわれることでしょう。
<つづく>
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2009年08月30日
ニーハオ春庭「シャンユエの未来」
2009/08/30
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(8)シャンユエの未来
日本の大学受験者は現在では70万人前後。日本の大学・短大の数は1200校あり、どの大学でもいいという条件なら、全員が入学できる定員数があります。一方、中国の「高考」の受験者数は2009年には1020万人。中国の大学・短大はこの10年で急激に増加し、現在は2000校にのぼっており、入学定員はこの5年間で倍増したのですが、それでも大学及び短大に入学できるのは600万人ほどですし、重点大学(プロジェクト211大学)ともなれば、将来のエリートコースが約束されているのですから、親の大学進学熱は、一人っ子に対していやがおうにもヒートアップしています。
プロジェクト211の大学の中でも特に重要とされた38大学に入学できるのは、大学入学定員の6%にすぎません。まさに現代の「科挙」です。6%と言っても、人数からいけば、日本の全受験者数に匹敵しており、数学オリンピック、科学オリンピックなどで、中国の高校生が上位をしめているのもわかります。
08年の当局からの発表によれば、大学での生徒募集人数は599万人、大学院では44万9000人と、07年比でそれぞれ5%、6%増加しています。在学中の大学生総数は1738万8000人、大学院生数は110万5000人に達しており、高等教育機関の在校生数は世界第1位となっています。大学・大学院への総入学率は22%に達し、「中国の大学経営」は、中国で有数の「成長産業」です。
シャンユエの親が「弁護士になれ」というのも、親がイメージする「高学歴のエライ人」というのが「弁護士」か「医者」だからです。
日本では村上龍が編集した「13歳のハローワーク」のような本があり、中学生高校生が具体的に将来のビジョンを持つことができますが、シャンユエのような環境で、さまざまな仕事や進学のイメージはテレビなどで見る以外に持ちにくく、自分自身の目で実際に大学を知る機会がない。
今回の「シャンユエの大学見物」は、高校入学祝いのスケートボードよりももっと意義ある私からのプレゼントでした。
シャンユエが将来大学に入るかどうかはわかりません。「もし大学生になったら、夏休みに必ず日本へ招待する、日本への航空券を郵送し、私の家に滞在できるようにするから、勉強に励みなさい」とエンテイさんに通訳してもらいました。
シャンユエの将来はシャンユエのものだから、彼女は自分自身でなりたいことを見つけるのがよい。しかし、田舎町の環境で大学へのイメージを持ちにくい彼女に、できるかぎり広い世界の入り口を見せてやりたくて、大学案内をエンテイさんたちに頼んだのでした。
シャンユエの両親は串焼きの食堂を営んでいるのだから、シャンユエは特に努力しなくても、両親の店を受け継いで、田舎町の中では裕福な層として暮らしていくことができるでしょう。でも、高校在学中に将来への夢が芽生えたとき、その入り口にさまざまな可能性があったほうがいい。大学進学もその可能性へのひとつのドアです。
大学見物のあと、近くにある浄月潭公園を散歩しました。浄月潭は、市内の水源とするために開発された大きな貯水公園です。1994年に初めて学生たちと遠足に来たころは、ただ広い森林と湖が広がる静かな場所でしたが、現在は開発されて公園として整備され、周辺は住宅エリアになってたくさんの家が建ち並んでいます。
公園の中には日曜日とあって、結婚前撮り写真をとるカップルが大勢いました。専門の業者が、まもなく結婚式を挙げるカップルにさまざまなポーズを撮らせて写真集を作るのです。
シャンユエと頭上を飛び交うとんぼや花のまわりをひらひらするチョウチョを指さしたり、広々と広がる湖水や湖に影を映す森林をながめ、青空と白い雲を眺めてすごしました。帰りは160番のバスに乗ったのですが、疲れて眠ってしまい、下車する予定のバス停からだいぶすぎてしまいました。慌てて降りて、結局タクシーで宿舎まで戻りました。写真屋で昨日動物園で撮ってプリントした分を受け取り、写真とクッキーなどのおみやげを持たせ、ちょっとおそくなったのだけれど、駅前まで送って185番のバスにシャンユエを乗せました。
13歳のシャンユエに偶然出会い、今回は15歳のシャンユエとまたまた運良く出会えた。
シャンユエは私を他の人に紹介するとき「我的朋友。わたしの友だち」と、言います。言葉が通じない、そして年齢差が大きいふたりですが、二人の間に友情成立。これから20歳のシャンユエ、30歳のシャンユエに出会うことを楽しみに、「再見」を言いました。
<つづく>