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1979年春庭ケニア日記1979年9月

2010-07-27 04:55:00 | 日記
2011/06/01
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(33)国境の町ナマンガ

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その2
 (ナマンガは)小学校がひとつ。郵便局がひとつあって、銀行なし。タンザニアと国交があったときは人々が行き来して、もっと活気があったのでしょうが、今はごくわずかの警察許可を持っている人だけが通れるので、町の人はみんな眠そうでヒマそうです。近くにアンボセリ国利地公園があるので、動物を見に行く観光客が泊まるナマンガリバーホテルとみやげ物屋が何軒かあるのが儲かっているだけで、特別な産業とかもうけ口はない町です。

 道の両側にある店の前には、ひるまから人々が何もせずにすわってごろごろしています。ここらはマサイ族の土地なので人々のほとんどはマサイ族で、白地に赤のチェックもようの布地を体に巻き付けた衣装を着て、杖を持ったかっこうをしています。耳に大きな穴をあけてじゃらじゃらたくさんのイアリングを下げ、首にも腕にもビーズのかざりをつけています。

 あとはソマリア族とキクユ族がいます。ソマリア族は、色は黒いけど顔立ちは西洋風のほりの深い鼻筋のとおった顔で美人ぞろいです。キクユ族はケニアで一番大きい部族で、政府の要職か公務員、教員などはキクユが占めています。高橋さんの話では、キクユは農耕民族なので、日本人と同じように勤勉であくせく働くということです。マサイは牧畜民族だから、昼間寝ていて朝夕に牛の世話をすればいいのでしょう。

 タンザニア国境事務所の係官は皆、割合に若い人たちでした。思うに、公務員に成り立ての人がこういう辺鄙な所にやられて、出世したら都会に行けるのでしょう。
 ジャンボとあいさつして、アルーシャに行きたいというと、警察許可がなければダメだという型どおりの答え。三人で事務所の外でしばらくねばろうということで待っていました。アルーシャには、ドゥドゥワールドの駐在員のハセベさんがいて、警察許可をもらいに奔走していてくれているそうです。うまくいったら、国境事務所に電話をしてくれるということいになっているのです。

 外で待っていても退屈なので、ダンスの練習をしばらくしていないで体が硬くなっていることだし、一人で踊っていました。そしたら係官がラジオを持ってきてアフリカンミュージックをかけてくれたのでディスコダンスを踊ってみせました。今まで硬い表情で社会主義の見本のような顔をしていた係官たちが出てきて、にこにこ見ています。そして、名前は何だとか、なぜタンザニアに行きたいのかとか、話しかけてくれるようになりました。スワヒリ語を話せるのは私だけなので必死で、アルーシャに友だちがいるしスワヒリ語を勉強したいので行きたい、とか話しました。

 タカ氏も「今まで冷たい態度だったのに、ダンスひとつでころっと変わるなあ。ともかく芸は身をたすけるよ」なんて感心しています。
 夕暮れは美しい風景で、日はタンザニアにしずみました。

 ナマンガリバーホテルは観光客用の高いホテルなので、マサイホテルに泊まりました。高橋さんとツインの部屋で、タカ氏はマイシャロッジに泊まりました。

 9月10日月曜は、午前中はナマンガ小学校に見学に行きました。
 人々の暮らしもちょうど戦前の日本の暮らし程度ですが、小学校も戦前の田舎の小学校のようです。一年生から七年生まであります。一年生が一番人数が多くて、毎年何人かやめてしまうので、五年生、六年生七年生となると20人くらいのクラスになってしまうようです。校長先生はキクユ族で、先生が7人いまいした。

<つづく>
05:48 コメント(1) ページのトップへ
2011年06月03日


ぽかぽか春庭「ナマンガの小学校」
2011/06/03 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(34)ナマンガの小学校

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その3
 (ナマンガの)学校に入ったら、ワッと一年生二人年生くらいのが取り囲みました。外国人が学校にくるなんて、珍しいのでしょう。しかし、日本の学校だったら、見ず知らずの外国人が何の資格も紹介状もなしに見学に行っても、見せてくれないと思います。

 一、二年生が次々と握手をしてくるので、手がくたびれました。こちらの小学校では、制服を政府が支給するので皆同じ服を着ます。支給された服のほかは、親が金なくて買えないので、みんなぼろです。ナマンガのスクールカラーは、シャツが黄色で半ズボンとスカートは青です。握手したついでに、ずいずいずっころばしをして遊んだら、皆喜んでいました。

 授業は、はじめ五年生の音楽。要するに唱歌で、先生が歌詞を黒板に書いて、最初にうたい、生徒があとからついて歌って覚えます。楽器は何もなくて、子供達が手をたたいたり机をたたいたりして、拍子をとります。
 アフリカ人はどんな歌でも自然に二重唱になります。日本人のように斉唱で同じ高さの音にそろえて歌うのは、アフリカ人にとっては、かえってむずかしいのです。
 高橋さんは、子供達の歌をテープレコーダーで録りました。若い男の先生でした。

 次は、六年生の英語の授業で、校長先生が教えました。はじめ20分くらい単語の説明。ギブアップとはどういう意味かなどと教えます。女の子に壁を押させて「壁が動いたか」などと聞きます。「だめだ」と答えると「こういうふうにいくらやってもダメで、あきらめて、だめだとおもうのがギブアップである」と、先生が教えます。
 後半はso-that構文を使った作文練習。彼女はたいへん太っているので、早く走れなかった、とか、波がとても高いので泳ぐことができなかった、とかの文。タカ氏は英語がぜんぜんしゃべれないので、「いやー、いい授業だった。勉強になった」と喜んでいました。

 校長先生が教師用の指導書を見せてくれたのですが、おもしろいことに、まるっきり指導書のとおりの授業で、指導書に「ここで黒板にハーモニカの絵を描く」と指示してあると、先生はその通り絵を描き、「生徒を指名し答えさせる」と指示してあると、生徒に答えさせるのです。これなら私も英語の授業をやれると思いました。

 次は七年生の歴史の授業ですが、ケニア史を英語で先生がべらべらしゃべり、子供たちは教科書も何もなくて聞いているだけです。英語もよく知らないし、ケニア史もよく知らないから全然わかりませんでした。

 午後は、国境事務所に行って、ハセベさんに電話をかけてみたのですが、ハセベさんはいませんでした。係官たちとムダ話をして、だいぶ打ち解けてきました。

 食事は、町の店屋で食べます。じゃがいもと肉の煮込み、チャパティ(昔のやきもちとにたようなもの)、お茶で300円くらい。気に入りの店が3軒できて、一軒はジャガイモがごろごろ大きくて、一軒は肉がごろごろ大きい。ナマンガサファリ肉屋という店なので肉ががおいしい。もうひとつは肉もじゃがいもも細かく刻んであるけど、冷蔵庫がある唯一の店なので、冷たいものが飲める。

 ナマンガサファリ肉屋はソマリア人の店で、ソマリア美人が店番をしているので、タカ氏が行きたがります。じゃがいもごろごろの店はキクユ族のおばはんがやっていて、キクユの村に行っていた高橋さんが行きたがります。朝はパンとゆでたまごを食べます。「たまご」と注文すると、子供がつかい走りでたまごを注文の個数だけ買いに行って、それからゆでるのです。一度だけソマリア人の店に運良く米があって、ごはんを食べられました。塩と油で少し味付けしてあったけど、おいしかったです。

<つづく>
05:34 コメント(1) ページのトップへ
2011年06月04日


ぽかぽか春庭「ナマンガのみやげ物屋」
2011/06/04 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(35)ナマンガのみやげ物屋

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その4
 (ナマンガ)町のみやげ物屋は、マサイ族の作ったビーズかざりや人形を売っています。若い男の人たちが店番をして、マサイの女達が店の前にすわってのんびりビーズさしをしています。
 はじめは普通の観光客のように、みやげ物を買え買えと言われましたが、金のない連中だとわかってからは、言われなくなりました。
 日本語を教えろというので「いらっしゃいませ」とか、「高くない」とか、数字の数え方を教えてやって、ペンダントをもらいました。

 10日の晩もマサイホテルに泊まりましたが、いっしょの部屋の高橋さんが「あなた、寝言でスワヒリ語しゃべっていたよ」と言いました。我ながらたいしたもんです。ナイロビでは英語で喋ってしまうのですが、この町でいろんな人と無駄話をして、ずいぶん楽にスワヒリ語がしゃべれるようになりました。たいしたことは話しませんが。

 高橋さんは、国○院大学を出て、そのまま大学の職員をしているので、長い夏休みが取れるのだそうです。お母さんが先生なので自分も先生になりたいそうです。お母さんが働いてお父さんがご飯作りや洗濯をして家にいるというおもしろい家庭に育ったそうです。三人姉妹の真ん中なので、(私と同じで)かわっていると思います。

 11日は国境事務所に顔を出した後、マサイのボーマに行きました。マサイのおばさんたちが歩いていたのであとをついてぶらぶら歩いていたら、家に着いたのです。英語を話すおじさんがいて、家や畑を案内してくれました。マサイは牧畜をしていますが、政府は定住を勧めていて、マサイも畑を耕し始めたのだそうです。泊まっていいかと聞いたら、いいという話なので一度ナイロビに帰って寝袋や食糧を準備してからまたくる、という約束になりました。

 夜、マサイホテルの部屋がなかったので、マイシャロッジにかわりました。マイシャは三軒のホテルのうち一番格が悪いところですが、シングルで20シル600円です。4畳くらいの部屋にベッドがひとつあるだけで、あとは何もないのです。でもシーツが買えてあるから上等です。私はがんばって値切って、3部屋で40シル、一人13.6シルに負けさせました。

 12日の12時のバスでナイロビに戻りました。今度はバスなので4時間かかるし、客の大部分は布を二枚まきつけたマサイ族です。病気の子供の隣に座ったら、こどもがあげちゃって、たいへんだったし、マサイ族は牛とミルクで暮らしているせいか独特の匂いがします。乗っている間は気が付かなかったけど、バスを降りてYWCAに帰ったら、上着にニオイがうつっていました。

 木村さん(栄養学の学生)が13日に日本に帰るので、500ドル(10万円)残った分を貸してくれました。13日の昼間は木村さんがおみやげをかうのにつきあって、夜は飛行場に見送りにいきました。

<つづく>
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もんじゃ(文蛇)の足跡;
6月11日掲載予定の分を6月4日に掲載してしまいました。で、昨日掲載の「ナイロビのパンツ」は11日に再掲載することにして、4日の記事「ナマンガのみやげ物屋」にさしかえました。
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2011年06月05日


ぽかぽか春庭「ナマンガのルーカス家」
2011/06/05 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(36)ナマンガのルーカス家

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その5
 9月14日12時に下町のバスセンターに行って、ナマンガ行きのバスに乗りました。
 ナマンガに着いて国境事務所に顔出ししてからマサイのボーマに出かけたのですが、もう夕方で途中で暗くなって道がわからなくなりました。マサイの家は細い道をくねくね曲がった先にあるし、電気なんかないから灯りも見えないし、わからなくなっちゃいました。

 アンボセリへ行く大通りまで戻ってボーマで飲むつもりだった紅茶を飲んでいたら、トラックが来たので、止めて乗せてもらいました。そしたら、トラックのおじさんが、オレの家に泊まれというので、泊まることになりました。
 おじさんはルーカスと言って、キシイ族です。クリスチャンだそうです。おばさんと子供が4人いました。おばさんの話では、上の6人は働きに行ったり学校へ行ったりしていて、今はいないとのことです。

 ルーカスの甥のチャールズがトランプをしようと言って、今ナマンガで流行っているゲームを教えてくれました。12時までトランプをして遊びました。
 現地の人の家に泊まって生活を知るのは、はじめてなので面白かったです。
 ルーカスは戦前の日本のおやじのように大声で妻や子供に命令していばっています。ケニアの水準からいえば、いい暮らしの方だと思います。おやじさんは工場の監督をしていて、畑はチャールズにまかせているそうです。

 私たちは紅茶とパンを持ってきたから食事はいらないというのに、親父さんが命令して卵を買いに生かせて、ゆでて食べさせてくれました。

 15日土曜、ルカスおやじが仕事でアンボセリの近くに行くというので、いっしょに行くことになりました。アンボセリ湖の近くに工場があって、トラックで一時間くらいで行くとのことです。九時に家を出て十時すぎに工場に着きました。工場を見学させてくれたのですが、割に広い工場なのに、人はあまりいなくて、何人かいる人もヒマそうにぶらぶらしています。

 おやじは、機械の説明をしたり何を作っているか説明してくれるのですが、エッソ何とかという物から何かを作っているということはわかったものの、その製品は何かというのがわかりませんでした。袋に白い粉が入っていて、さわってみたけど、よくわからなかった。袋にNa2CO3と書いてあったけど、その時は何だかわからなくて、あとで聞いたら炭酸ソーダらしかった。

 仕事が一段落ついたら、会社の車でアンボセリ国立公園に連れて行ってくれるというので、待っていました。ガソリン代と公園の入場料金を払わねばならないと言われたけれど、一人1000円もだせばいけそうなのでO.K.しました。もし、ツアーに乗れば、アンボセリ一泊で三万円くらいかかるから、安上がりだと思ったのです。

 しかし、結局ただになってしまいました。ガソリンスタンドなんかないので工場のガソリンを入れてもらったから、ガソリン係の人がタダにしてくれたし、今は工場で働いているけど、前は公園の案内人をしていたという人が動物のいそうな所へ連れて行ってくれたのですが、この人が顔見知りの役人に話をつけて入場料もタダになりました。   
あとでビールやコーラや煙草をあげて、ルーカスおじさんの家には紅茶やせっけんや砂糖を持っていったのですが、500円もかかっていないと思います。
 私の好みにぴったりあったケチケチ旅行ができました。三万円のツアーもタダのり旅行も見られる動物は同じですもの。

<つづく>

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2011年06月07日


ぽかぽか春庭「アンボセリ国立公園」
2011/06/07 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(37)アンボセリ国立公園

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その6
 (アンボセリ国立公園に)キリンやシマウマやヌーはたくさんいました。道の右側に母キリンがいて左側に子キリンがいてのんびり立っていましたが、車が近づいたら子どもが驚いてママーといちもくさんに母さんの所に走っていって、母キリンにすり寄っていきました。

 背景には、キリマンジャロ山が頂上に雪をかぶって立っています。キリマンジャロは朝と夕方見えて、昼間は雲に隠れてしまいます。
 ガゼルというシカはとてもたくさんいました。

 案内の人が「静かに」と言って、そっと車を動かしていったら、離れゾウが一匹で立っていました。普通ゾウは群れでいるので、一匹だけの離れゾウを見られるのは珍しいということでした。背中に小鳥が何羽か止まっています。それからサイを見ました。
 高橋さんは一番動物がたくさんいるというマサイマラにも行って来たのですが、サイは見られず、今度がはじめてだと喜んでいました。しかし、今日はライオンがアンボセリには現れませんでした。

 何が見られるかは案内人の腕にもよりますが、その日その日の運です。最後に展望台のある丘にのぼってアンボセリのパノラマ風景を楽しみました。川のまわりに緑が濃く、あとはずっとサバンナ。
 キリマンジャロ山が美しく、まさnアフリカの絵はがきに出てくる景色でした。川のほとりにゾウの群れが見えました。

 しかるにこの日一日で一生分くらいのほこりをかぶりました。ツアー用のいい車でなくて、工場の車を借りてきたのだから、ほこりくらいはしかたないものの、髪は真っ白になって「あなたがあと10年してシラガになったら、こういう感じになるのか」なんて(タカ氏に)つくづくと見られてしまいました。
 黒人の顔は、済みに灰をかぶせた色になりました。
 ルーカスおじさんは、今日も泊まれと言ってくれたけど、遠慮してマイシャロッジに泊まりました。

 15日に、前に行くと約束したマサイの家にもう一度出かけました。前は暗くなって道がわからなかったのですが、今日は昼間に出かけたので、途中まで何とか行けました。しかし、途中でやっぱりわからなくなって、道で会ったマサイに案内してもらいました。この人は、「マサイは紹介者がいっしょでないと他人を泊めないし、泊まったら身ぐるみ剥ぐから気をつけろ」と、教えてくれました。

 前に行ったボーマに着いたけれど、私たちを泊めてくれると約束したマサイがいないので、家の外にあるヤギを飼っている広場で待っていました。今年生まれたばかりの子ヤギは親といっしょに草を食べに行かないで、子どもだけで留守番をしています。私たちが座っていても、木の一種くらいに思っているのか、まるで平気でオニごっこして遊んでいます。日向は暑いけど、木陰は涼しく風邪が気持ちよいので、のんびり紅茶を飲んだり、ひるねしたり、子ヤギと遊んだりしました。昼寝していても、子ヤギはお腹の上にあがってきたりします。

 夕方になって去年生まれた山羊の集団が帰ってきました。マサイの子どもが群れの晩をしています。それから親の群れが帰ってきました。今年生まれの子ヤギは一日親から離れて保育園で遊んだあと、仕事から帰った親ヤギに会えるわけです。親子がそれぞれ我が子我が母をさがしてペアになってみると、おかしいほど親子の模様がそっくりなのです。頭だけ黒くて体が白い母ヤギのおっぱいを、それと同じ頭だけ黒くて体が白いヤギの子がいっしょうけんめい飲んでいるし、茶と白のまだらの母の下には、茶と白のまだらの子がいるし、遺伝とはおそろしいのものだと言って笑いあいました。
 中には出来の悪い子ヤギがいて、「かーさん、どこよ」と、泣きながら探しています。親のほうがさがしあてる時もあるし、マサイが親を見つけてやるまでお互いに会えない不出来な親子もいます。

 ヤギを見ているうちに日暮れになってきて、紹介者なしに泊まるのはやはり危ないし、と話し合って帰りました。泊まれなかったけど、おもしろい一日でした。

<つづく>
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2011年06月08日


ぽかぽか春庭「ルーカスの煙草畑」
2011/06/08 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(38)ルーカスの煙草畑

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その7
 (9月15日)夜はマイシャロッジのマネジャーをしているモーゼズとトランプをして遊びました。モーゼスは、午前中いっしょに教会へ行ったので親しくなったのです。ルーカスはカトリックのキリスト教とだと言っていましたが、モーゼスはルスラン派のキリスト教徒です。ルスラン派の教会は、タンザニア側にあるというので、見学したのです。

 いっしょに歌を歌ったのはおもしろかったけど、スワヒリ語で神父が説教しているのをきいてもおもしろくなかった。献金がまわってきたので2シルくらいあげました。貧しい教会だから私がたぶん一番たくさん献金したのだと思います。モーゼスは、この次の日曜にはタンザニアからたくさんお祈りにやってくるからぜひ来週もくるようにとすすめてくれました。国境を超えて教会に行くなんて、おもしろいようですが、ここらの土地の人には国境なんて関係なく、生活があるのです。

 町の人たちはケニアのお金とタンザニアのお金とごっちゃにして使っているし、子ども達は国境事務所で仲良く遊んだ後、半分はケニア側の家に帰り、半分はバイバイとタンザニア側の家に帰ります。国境が通れないのは、よそ者です。警察許可を持たずに通ろうとしたら、その場で中で撃たれてもしかたないのです。

 毎日一度はタンザニアの国境事務所に顔を出しているのですが、16日も行きました。そしたらハセベさんから電話がかかってきて、結局警察許可はとれないということでした。観光客は絶対にダメだというので、仕事ということにしたのだけれど、証明がないので取れないようでした。

 午後は、ルーカスの甥のチャールズが「俺の畑を見に来い」というので、見に行きました。町からすぐ近くだというので歩いて行ったのですが、ケニアの近くは歩いて一時間以内のことを言うので、40分くらい歩いて畑につきました。川のほとりにあって、今は乾期なので機会で川から水をくみ上げて潅漑しているということです。

 今は煙草の花の摘み取りの時期で、花を摘まないと大きな葉にならないそうです。チャールズは得意になって畑の説明をします。二人の男と二人のマサイの女をやとって畑仕事をやらせているそうです。

 夜はみやげ物屋のジョゼフの家で夕食をもらいました。奥さんと生まれて一ヶ月の赤ん坊と美人の妹がいました。ジョゼフは妹をタカ氏の妻にしたいというので、いっしょうけんめい売り込んでいました。ジョゼフはあとひとり妻が欲しいそうです。ジャガイモと肉の煮込みをもらいました。家は6畳くらいの土間で布をぶら下げて半分に区切ってあって、半分の方にベッドがひとつ。網のもう半分側に戸棚ひとつ。七輪ひとつ。小さいテーブルと椅子ふたつがあります。ホテルやガソリンスタンド、役所以外は、夜はランプです。

 ジョゼフは明日写真を撮ってもらうという希望で私たちを招待してくれたのです。日本人からみると先に招待してあとで要求をだすのはあたりまえのようですが、ケニアではふつう要求だけしてお礼なんかしないというのがいつもの例だから、ジョゼフは遠慮深い方です。

<つづく>

=========
もんじゃ(文蛇の足跡):
このときルーカスの煙草畑でチャールズがシャッターを押した手ぶれの一枚が、結婚前に私とタカ氏がツーショットで写っている唯一の一枚。タカ氏、写真を撮るのは好きだけれど撮られるのは大嫌いだったので。
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2011年06月10日


ぽかぽか春庭「ナマンガの保育園」
2011/06/10 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(39)ナマンガの保育園

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その8
 17日の朝は、マイシャロッジのとなりの保育園を見学しました。
 5才と6サイの子がいます。30人くらいのこどもに先生ひとりだからたいへんで、先生は棒で子どもをびしびし叩いています。先生はいつも私たちがごはんを食べるナマンガサファリ肉屋の店番をしているソマリア美人の姉妹のひとりです。交替で店番と保育園の先生をしているらしいです。

 はじめに、衛生検査があって、一列に並んだ子どもの爪を先生が調べて、「きたない」と言って、棒で子どもの手のひらをたたきます。それがすむと、「書け」と命令。子どもは棒や意志で地面に絵や時を書いています。先生は、「今日は部屋の鍵をなくしたので、見つかるまで中に入れないのだ」と、すましたものです。

 そこで、私と高橋さんでかごめかごめや花いちもんめを教えたのですが、アフリカの子どもの波長にあわないようでした。
 ケニアの子どものゲームを見せてくれといったら、輪を作って地面を手でたたいて歌を歌って、立ったり走ったりするのを見せてくれました。日本でいう「手紙おとし」のゲームもありました。

 保育園は、月に子ども一人210円、三ヶ月で600円の月謝だそうです。
 このソマリアの美人姉妹はとても頭がよくて、日本語を教えてくれと言うので少し教えたら、どんどん覚えてしまいます。みやげ物屋のお兄さんなんか、あいさつと数字だけでせいいっぱいでしたが、英語の文法を知っているので、少し教えるとどんどん応用していきます。それで、ノートに基本分野の単語を書いてあげました。

 店のおやじさんも喜んで、娘を日本に連れていってくれ、とか、ここはおまえたちの家と同じだからすきなように振る舞ってくれと言って、きげんがよかった。一日に一回か二回はこの店で食べたのだからすごいお得意さんのわけです。

 午後、最後だからというので、高級の方のナマンガリバーホテルで食事をして休んでいたら、ハセベさんがタンザニアのアルーシャから来てくれました。いろいろやったけれど、どうしても警察許可がとれないという事情やら、タンザニアには物が不足していて、うっかりしていると石鹸も髪も食べ物もガソリンも変えなくなってしまうという国内事情を話してくれました。タンザニアとウガンダで戦争していたわけですが、今はアミンが負けてタンザニアが勝ったものの、戦後処理がうまくできていないみたいです。

 ハセベさんはパスポートを国境事務所に預けて特別にケニア側に出してもらったので、すぐ帰らなければなりません。国境事務所の役人たちともう仲良くなっていたので、今日ナイロビに帰らなくてはならないというと、特別にタンザニア側の茶店に連れて行ってくれて、お茶をごちそうしてくれました。国境を越えて、一歩タンザニアに入れたわけです。

 しかし、タカ氏は、警察に「ちょっと来い」と言われて、「オマエは、日本赤軍のメンバーに似ている」と疑われました。5分くらいで疑いは晴れましたが、ハセベさんも前に言われたそうです。
 夕方、乗り合いタクシーでナイロビに帰りました。

<つづく>
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2011年06月11日


ぽかぽか春庭「ナイロビの平凡な女たち」
2011/06/11 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(40)ナイロビの平凡な女たち

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その9
 9月19日は、高橋さんタマちゃんにつきあって買い物の値切り係をさせられました。ナマンガで部屋代を負けさせた実力をかわれて、みやげ物のアクセサリーやハンドバッグの値切り係をしたのです。アホな特技を認められたもんです。これはけっこう疲れるのです。なまじな神経では値切れません。でも高橋さんやタマイさんにいろいろ世話になったから、必至で「安くしろ安くしろ」と、値切りました。

 おひるは久しぶりにブルジョアになって、高い食事をしました。1200円でビールとポークソテーとパンを食べ、「高かったから、おまけをもらっていこう」と相談がまとまったので、トイレに入ってトイレットペーパーを一巻きずつもらいました。皆、アフリカにくるとたいした神経の持ち主になると感心しています。

 タカ氏が、「だいたいアフリカに来たと言うだけでほかの日本女性とは変わっているんだ」と言ったら、高橋さんは「いや、私は平凡な女だ」と、怒っていましたが、やっぱり私から見て、皆、変わっていると思います。中でもやっぱり私はいちばん変わっているとつくづく感心しています。ハハハハ
 ではまたね。9月いっぱいはYWCAに泊まっています。一ヶ月で540シル一万四千円の払いで、朝・夕食つきです。土日は昼食もつきます。

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2011/06/11
 「フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980」の書き写し作業は、このあとも続けて行きます。
 私がすごしてきた人生の断片を、孫に語って聞かせるという楽しみは実現しそうにありません。(30代への調査によると、年収400~500万以上は既婚率70%を超え、年収300万以下で生涯独身率(50歳以上で未婚の人)がぐんと増えるのだとか。要するにカネの切れ目が結婚できるかどうかの切れ目らしい。娘も息子も結婚できそうにない)
 せめて私の中の記憶として書き残しておこうと、32年前に出した手紙の書き写しを始めたのですが、30年昔のこととなると、記憶と事実の違いもわかりました。記憶というのは常に改編されるからです。

 たとえば、私とタカ氏が「日本から来た夫婦」という触れ込みで泊めてもらったルーカス一家。私はルオー族だったと記憶していて、オバマ大統領の父親がルオー族出身だというニュースを聞いてすぐにルーカスを思い浮かべたのですが、手紙を読んだら、ルーカスはキシイ族だと書いてありました。

 また、タカ氏がタンザニア側の国境管理事務所で「国際手配書にある赤軍派と顔が似ている」とか言われて取り調べを受けた件も、私の記憶では、とても長く一晩中くらい取り調べが続いたように感じていたのです。これは、思わぬ嫌疑にショックを受けて「はたしてタカ氏の疑いは晴れるのだろうか」と心配していた時間が、記憶の中では増幅されたもののようです。実際は、パスポートを見せてすぐに疑いは晴れたと書いてありました。
 「思い出話を孫に聞かせる」という場合、爺さん婆さんの記憶にとって、都合のよい改編がなされてしまうということがよくわかりました。シビアな事実も、老後に思い出すときや孫や子に語るとき、甘美な思い出となっている。

 自分のための備忘録として若い日の姿を書き写したのですが、
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2011/06/05 06:45 toukuro おはよです♪このシリーズ見て外国旅行は若い内にこんなスタイルじゃ無いと嘘だとつくづく思っています 一生忘れないでしょうね♪
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なんていう感想コメントをもらったりすると、「私のささやかな旅の記録も、誰かに読んでもらうことによって、いっそう若い日の思い出が胸の中に大きくなるなあ」と、うれしく思いました。ほんと、何十年たっても、一生忘れない思い出です。

 「結婚から十年ごとに子ども達にケニアを見せに連れてこようね」と、タカ氏が約束したことなどとっくの昔に反古にされてしまって、私は1980年から30年たってもケニア再訪の機会はありませんでした。タカ氏は結婚後、2度友人といっしょにケニアを再訪していますけど、、、、。

 いつか必ず、あのナイロビやモンバサやナマンガを再訪する日が来るかも知れないと夢見ながら、月曜から土曜まで週6日の授業をこなしています。赤道直下の光を浴びれば、青春の日のときめきや輝きが取り戻せるかもしれません。今はセコセコと日々の仕事をこなすのみ。

 このあと、ナイロビからの便りは、ボーマスオブケニアでのアフリカンダンス修行の記録になります。タカ氏と映画を見に行ったり、地方への旅行、サファリパークでの動物見物など、赤道の日々の記録、では来月以降も少しずつ書き続けます。次回からは「薔薇さんぽ」について。都内薔薇名所めぐりの記録です。

<つづく>
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