2011/07/17
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(40)ナイロビ・ロングバケーション
2011年7月18日海の日は、出講日。4月にできなかった分をこなすべく、授業をすることになっています。18日が出講日なので、今日中に19日に実施する私立大学学部留学生向けの期末試験をつくらねばなりません。Nテスト(日本語能力試験)1級レベルの「語彙テスト」をすると予告してあります。
本日の最高気温36度という予報を見て、半分やる気も失せていますが、試験問題作るのも給料のうち。がんばりましょう。今朝の新聞で「家族は心配したけれど、日本に留学してよかった」という留学生の投書を読みました。私が担当している学生たちにも「日本語の授業、受けて良かった」と思ってもらえているかどうか、心配はありますが、さてと、試験問題を作らねば。
ロングバケーション、9ヶ月の夏休みが続いた1979年~1980の夏がつくづくなつかしいです。というわけで、1979年のケニア滞在日記のつづきです。
==============
1979年9月20日発行アフリカ通信13号その1
9月21日金曜は、暑かったのでYMCAのプールで泳ぎました。ちょうど白人学校の小学生が水泳教室に来ていたので、白人の女教師にじゃまにされて頭にきました。「ちゃんと入場料240円を払ったのだから、泳ぐ権利がある」と言ったのに、「今日は私の学校が貸し切りにしたのだから3時までプールサイドで待ってろ」と言うのです。白人は、いばっていると思います。
9月22日土曜。日本で私たちにスワヒリ語を教えてくれたカヒィンディとワイナイナは、日本からケニアにもどってきているので、YWCAに訪ねてきてくれました。カヒィンディのおばさんと弟に会いに行くからというので、ヒマだからついて行きました。おばさんはキクユ族の小さな町で雑貨屋をしています。
ケニア人の生活を知りたかったら、いつでも一週間くらい泊まりに来ていいということになりました。
カヒィンディの弟はウゴングというマサイ族の町でやはり店をしていて、私にビーズの腕輪をくれました。
カヒィンディは、町の飯屋で肉とジャガ芋の煮込みをごちそうしてくれたのですが、しきりに「ケニアはまだ貧しい」と恐縮し、ハエが多いと「日本でハエを見たのは一度だけだった」と、言います。やはり、彼らにとって、東京生活の印象は強烈だったのだと思います。明治維新のころヨーロッパに行った日本人留学生もこんな気持ちだったかと思います。
9月23日日曜は、一人で下町を散歩しました。今まで何人かで行ったことはあるのですが、一人では危険だと言われていました。しかし、真っ昼間なら大丈夫だし、盗られて困るものは持っていかなければいいからと、出かけました。市の中心街から30分も歩くと、日用品や衣類を地面の上に広げた露天市場があります。服なんか古着というよりボロ市と言ったほうがいいようなのも、堂々と並んでいます。巻きスカートが一枚あったら便利と思って見てあるいたけど、いいのはありませんでした。
こちらのパンツは木綿がなくて白いのがありません。男のも女のも原色のハデハデしいのが好みです。ブラジャーも特大の赤や青がぶら下がっています。
露天の床屋に頭を刈っていかないかと言われました。ジーパンはいてて胸ぺちゃんこだから、男と思ったのかもしれません。
日曜なので、町の辻に説教している宣教師の黒人がいたり、救世軍の行進がありました。
YWCAには、おふろないけど、シャワーがあり、私は毎日シャワーを浴びるし暑い日は二三度あびているから、日本にいるときよりよっぽどきれい好きです。洗濯も毎日するので、おそうじのおばさんにジャパニーズは働き者だと誉められました。YWCAの同室の学生達はとてもよく勉強します。私も踊りの本なんか読んでみるけど、英語の本をいちいち辞書をひきひき読むのでは差が付きます。私は22才ということになっています。
<つづく>
08:33 コメント(1) ページのトップへ
2011年07月19日
ぽかぽか春庭「ボーマスオブケニアのダンス」
2011/07/19
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(41)ボーマスオブケニアのダンス
1979年9月アフリカ通信第14号その1
9月24日にまた、ボーマスオブケニア(ケニア民族家屋展示園)に行きました。私は4度目で、タマちゃんは2度目ですが、高橋さんが一度も言ったことがなかったので、いっしょに行ったのです。今日は月曜なので、土日に比べお客が少なかった。
踊りを見終わった後、民家の展示場へ言ったら、今まで踊っていた踊り子たちが、すばやくみやげ物屋の売り子に変身して観光客にみやげ物を売っていました。私はもう4度も見て、誰がどの踊りに出たかとか、誰が上手いかなどわかるようになったので、踊り子達と話をしました。ケニアの人件費は安いので踊り子も給料が安く、みやげ物を売って小遣いかせぎをするのでしょう。中に私が一番動きがいいと思った人がいたので「私はあなたが一番うまいと思う」と言って握手しました。
あとでわかったことに、その人は皆から「ムワリム(先生)」と呼ばれている人でした。
もう帰ろうとしたとき、高橋さんの友人と知り合いだというムハメッドが追いかけてきました。23歳か24歳くらいで、もう7年ここで踊っているそうです。踊りのステージの建物のうしろに踊り子達のアパートがあって、前にシミズさんといったことがあります。ムハメッドがぜひ寄っていけというので、少し寄っていくことにしました。
ムハメッドの知人というのは、去年ケニアに来た園子さんという人だということです。紅茶をいれてくれて、日本の伝統的歌を聞かせるといって、カセットを入れたら、聞こえてきたのは「女の道」とか演歌だったので笑ってしまいました。午前中に練習をするというので、水曜に練習を見に来ることになりました。
9月25日は一日中あちこちに電話をかけていました。ナイロビはとても電話ボックスの少ない町で、大勢の人が列を作って待っています。15円でいくらでも長くしゃべれるのでみんな長電話です。たまにだれも待っていないすいているボックスがあると思うと、たいてい故障しているので、だれも待っていない電話は無視します。待たないでかけられるのは、ホテルの電話ですが、75円かかります。ボックスは30分くらい待つことが普通です。
なぜ電話しなければならなかったかというと、ナイロビ・ショウ(産業博覧会)に行きたかったのです。ナイロビはバスの便が悪いし、ことに夜にバス停から歩くのはたいへんです。ナイロビショウで伝統芸能を見せるというので、ぜひ見たかったのですが、帰りが夜になるので、タマちゃんと手分けして知っている全部の人に車で送り迎えしてくれないかと尋ねたのです。しかし、なかなか電話がつながらないし、車を持っている人がモンバサに行っていたりで、手配がつきませんでした。
郵便局のYMCAとセレナホテルと三箇所であちらこちらに電話して、木曜は私の知人のパイヤ氏の車、金曜はワイナイナさんが送り迎えしてくれることになりました。ワイナイナさんはタマちゃんの友だち。日本に来ていてとき、タマちゃんがスワヒリ語を教えてもらって友だちになった人です。一日中電話をしていただけなのに、ひどくくたびれました。
9月26日にボーマスに練習を見に行きました。9時から10時まで歌の練習。指揮している人は本格的な西洋式発声を習った人らしく、自由自在の声を出します。しかし、踊り子達は途中で抜け出してみたりタバコを吸ってみたり、あくびをしたり、勝手気ままに練習しています。
しかし、太鼓のリズムだけですが、みんなの気がのると、とてもすばらしい歌声になります。部族のことばで歌うので意味はわかりませんが、リズムと重唱やかけあいのハーモニーがとても生き生きしています。歌いながらついつい踊りの振りをしてしまう人もいます。ボーマスにはいろんな部族の人が集まっているので、たとえば、ルイヤ族の歌の練習の時はルイヤの人が先に歌って、皆に教え、皆がついて歌って覚えます。ギリヤマの歌の時はギリヤマ族の人がリードします。
<つづく>
07:44 コメント(0) ページのトップへ
2011年07月20日
ぽかぽか春庭「ボーマスオブケニアのダンスレッスン」
2011/07/20
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(42)ボーマスオブケニアのダンスレッスン
1979年9アフリカ通信第14号その2
10時半から踊りの練習になりました。振り付けの先生がきたら今までわりに自由に練習していた人たちがぴしっとしまりました。振り付けの先生は大きな権限を持っているらしいです。このボーマスは株式会社になっていて、社長は普段はここにいなくて、支配人がふだん一番えらい人です。その次の次くらいに振り付けの先生がえらいみたい。
今日は、ギリヤマ族の踊りの練習でした。ギリヤマの女の踊りは、ちょうどフラダンスのように腰を振るのですが、簡単そうに見えてやってみたらなかなかうまくいきません。一人の女の人が、腰を振るのではなくて、回すのだと教えてくれました。みんなは丸いステージの上で練習しているのですが、私はステージのまわりのコングリートの所で動いていたのですが、足が冷えました。
ムワリムが上でいっしょにやれと言ってくれたのですが、高橋さんがいっしょなのでやめました。私だって腰を回しながら歩く、というのがとても難しかった。足を一歩出すときに腰を二度回すのです。ゆっくりだといいのですが、速くなると腰がついていきません。皆でジャンプする動きがあるのですが、太鼓の音にあわないと振り付けの先生が怒って何度も何度もジャンプをやりました。しまいにどうしても合わない人が残されて特訓を受けました。去年の発表会の時、私だけ振り付けを覚えられないで、残り勉強したことを思い出してしまいました。
12時に練習が終わりました。お昼を食べたあと、ショウを見たのですが、あんなにきびしく練習したギリヤマのジャンプのところが、本番には結局合わなくてバラバラなので笑ってしまいました。
高橋さんが先に帰ったので、タマちゃんと二人でムハメッドの部屋に寄りました。4畳半くらいの部屋にベッドとソファがあって、服は壁にかけてあって、石油コンロとプラスチックのおけに入った食器が全財産です。今日は緑茶のティーバッグを持っていって、お湯を沸かしてもらってお茶を入れました。
日本人はお茶に砂糖もミルクも入れないのだと言ったら、何も入れないで一口飲んでみたものの、ムハメッドは砂糖を3杯いれて、おいしいと言って飲みました。私たちも久しぶりに緑茶が飲めました。
私は今までに4回もボーマスのショウを見たけれど、ムハメッドは見かけなかったと言ったら、お父さんが病気なので、田舎に帰っていたのだそうです。ムハメッドはボラナ族で、背が高くて手足がやたらに長くてひょろひょろしているので、踊りは上手い方なのに、不器用そうに見えます。バス停まで送って来てくれました。
ほかの踊り子達が、私たちを珍しいと思って、いつもアフリカ人が聞くように「いくつだ、結婚しているのか、どうしてしないんだ、どういう男が好きなんだ。アフリカ人とでも結婚できるか」という同じパターンの質問をしたがるのですが、ムハメッドは日本人は自分のお客だという顔でほかの人を邪魔にするのです。質問のパターンは決まっていて、次には「お前はとてもきれいだ。おれはお前がとても好きだ。俺と結婚してくれ」と続くのです。
はじめはおもしろがって「どういう男が好きか」の質問に「ハンサムで金持ちでやさしくて、利口で強い男がいい」なんて答えていたのですが、だいたいだれも同じパターンを繰り返すので、このごろは「日本に夫がいる」と言って終わらしています。しかし、アフリカ人の考えでは「日本に夫がいるなら、アフリカでは独り身で、独身だ」というのです。あと、だれでも聞くことは「お前はカラテができるか」
もっとほかの会話はないものかと疑ってしまいます。
高橋さんは日本へ帰りました。
<つづく>
07:52 コメント(0) ページのトップへ
2011年07月22日
ぽかぽか春庭「ケニアのヤマトナデシコ」
2011/07/22
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(44)ケニアのヤマトナデシコ
1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その4
ボーマスで踊りを教わるのは面白いので、来週一週間通うことにしました。振り付けの先生が来週は全部いっしょにやっていいと言ってくれました。振り付けの先生というのは、南アメリカ出身のアフリカ人です。部族の踊りは単調なものが多いので、うまく組み合わせたり削ったりしてショウに向くように演出しています。ボーマスの踊りは本当の部族の踊りそのままではないけれど、動きの勉強にはなります。単調で単純そうに見えて、簡単には動けません。
ボーマスは海外へもショウをやりに出かけていって、ムハメッドはロンドンやパリに行ったことがあるそうです。ムハメッドは7年踊っていて古株の方なので、演出助手をやる7人の中に入っているそうです。ムワリムはもう中年ですが、やはり動きはいちばん決まっています。私が「あなたがいちばん」と言ったので、わたしのことを気に入ってくれて、いろいろ気を遣ってくれます。
土日は午前中の練習はなくて、午後のショウだけなので、月曜の朝またくると言ったら、月曜はムワリムの家でお昼を食べるように言ってくれました。
土曜の夜YWCAでディスコ大会があるので、ムハメッドに来るかと聞いたら、仕事があるからだめだし、ヒマなときは映画を見に行くんだと言われました。もっともなことで、毎日毎日踊って仕事にしている人に、ディスコなんか必要ないわけです。しかしYWCAディスコ大会は、要するにボーイフレンドの見せ合いだと聞いたので、やはり一人で踊ってたら、みじめだろうと思います。
ではまたね。
~~~~~~~~~~~~~~~
2011/07/22
ケニアではいっしょにディスコに連れ立っていくカレシもいない「やまとなでしこ」だった私。思い出は時が経つにつれてセピア色に変色していき、美しく楽しい思い出ばかりが鮮やかになっていくといいます。30年前のケニアの日々。忘れかけて退色しかかっていた思い出が、こうしてかの日に出した手紙を書き写すことで「デジタルリマスター」されてあざやかな色を取り戻すようです。
若かった日は取り戻すことはできないけれど、この赤道の下の日々があったからこそ、現在の「しょうもない日々」も生きていける。あ、「しょうもない日々」なんて言ったらバチが当たるのだった。震災以後、この毎日も「かけがえのない日常」と言わなければならないのだと、身に染みたはずなのに。凡人の悲しさでついついのど元過ぎればなんとやらになってしまいそうですが、「流されゆく日々」にならないよう、気を引き締めなければ。
今期は国立は土曜日にも授業をしたり一日に90分授業を4コマも詰め込んだりでなんとか予定のコースが修了しました。私立は8月最初の週まであります。夏休みまであと少し。がんばりましょう。
今週は、「なでしこ」の大活躍でみな元気が出てきたところです。ヤマトナデシコは、カワラナデシコの別名。セキチクの花を「唐撫子(からなでしこ)」と呼ぶのに対して、ヤマトナデシコとよばれて、日本の女性の代名詞にもなりました。従来は、可憐、清楚、貞淑というイメージで親しまれてきましたが、これからは「粘り強く最後まで諦めない、はつらつとして果敢にチャレンジする」というイメージになっていくかもしれません。私もはつらつと最後まで諦めずにチャレンジしたいです。
<おわり>
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(40)ナイロビ・ロングバケーション
2011年7月18日海の日は、出講日。4月にできなかった分をこなすべく、授業をすることになっています。18日が出講日なので、今日中に19日に実施する私立大学学部留学生向けの期末試験をつくらねばなりません。Nテスト(日本語能力試験)1級レベルの「語彙テスト」をすると予告してあります。
本日の最高気温36度という予報を見て、半分やる気も失せていますが、試験問題作るのも給料のうち。がんばりましょう。今朝の新聞で「家族は心配したけれど、日本に留学してよかった」という留学生の投書を読みました。私が担当している学生たちにも「日本語の授業、受けて良かった」と思ってもらえているかどうか、心配はありますが、さてと、試験問題を作らねば。
ロングバケーション、9ヶ月の夏休みが続いた1979年~1980の夏がつくづくなつかしいです。というわけで、1979年のケニア滞在日記のつづきです。
==============
1979年9月20日発行アフリカ通信13号その1
9月21日金曜は、暑かったのでYMCAのプールで泳ぎました。ちょうど白人学校の小学生が水泳教室に来ていたので、白人の女教師にじゃまにされて頭にきました。「ちゃんと入場料240円を払ったのだから、泳ぐ権利がある」と言ったのに、「今日は私の学校が貸し切りにしたのだから3時までプールサイドで待ってろ」と言うのです。白人は、いばっていると思います。
9月22日土曜。日本で私たちにスワヒリ語を教えてくれたカヒィンディとワイナイナは、日本からケニアにもどってきているので、YWCAに訪ねてきてくれました。カヒィンディのおばさんと弟に会いに行くからというので、ヒマだからついて行きました。おばさんはキクユ族の小さな町で雑貨屋をしています。
ケニア人の生活を知りたかったら、いつでも一週間くらい泊まりに来ていいということになりました。
カヒィンディの弟はウゴングというマサイ族の町でやはり店をしていて、私にビーズの腕輪をくれました。
カヒィンディは、町の飯屋で肉とジャガ芋の煮込みをごちそうしてくれたのですが、しきりに「ケニアはまだ貧しい」と恐縮し、ハエが多いと「日本でハエを見たのは一度だけだった」と、言います。やはり、彼らにとって、東京生活の印象は強烈だったのだと思います。明治維新のころヨーロッパに行った日本人留学生もこんな気持ちだったかと思います。
9月23日日曜は、一人で下町を散歩しました。今まで何人かで行ったことはあるのですが、一人では危険だと言われていました。しかし、真っ昼間なら大丈夫だし、盗られて困るものは持っていかなければいいからと、出かけました。市の中心街から30分も歩くと、日用品や衣類を地面の上に広げた露天市場があります。服なんか古着というよりボロ市と言ったほうがいいようなのも、堂々と並んでいます。巻きスカートが一枚あったら便利と思って見てあるいたけど、いいのはありませんでした。
こちらのパンツは木綿がなくて白いのがありません。男のも女のも原色のハデハデしいのが好みです。ブラジャーも特大の赤や青がぶら下がっています。
露天の床屋に頭を刈っていかないかと言われました。ジーパンはいてて胸ぺちゃんこだから、男と思ったのかもしれません。
日曜なので、町の辻に説教している宣教師の黒人がいたり、救世軍の行進がありました。
YWCAには、おふろないけど、シャワーがあり、私は毎日シャワーを浴びるし暑い日は二三度あびているから、日本にいるときよりよっぽどきれい好きです。洗濯も毎日するので、おそうじのおばさんにジャパニーズは働き者だと誉められました。YWCAの同室の学生達はとてもよく勉強します。私も踊りの本なんか読んでみるけど、英語の本をいちいち辞書をひきひき読むのでは差が付きます。私は22才ということになっています。
<つづく>
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2011年07月19日
ぽかぽか春庭「ボーマスオブケニアのダンス」
2011/07/19
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(41)ボーマスオブケニアのダンス
1979年9月アフリカ通信第14号その1
9月24日にまた、ボーマスオブケニア(ケニア民族家屋展示園)に行きました。私は4度目で、タマちゃんは2度目ですが、高橋さんが一度も言ったことがなかったので、いっしょに行ったのです。今日は月曜なので、土日に比べお客が少なかった。
踊りを見終わった後、民家の展示場へ言ったら、今まで踊っていた踊り子たちが、すばやくみやげ物屋の売り子に変身して観光客にみやげ物を売っていました。私はもう4度も見て、誰がどの踊りに出たかとか、誰が上手いかなどわかるようになったので、踊り子達と話をしました。ケニアの人件費は安いので踊り子も給料が安く、みやげ物を売って小遣いかせぎをするのでしょう。中に私が一番動きがいいと思った人がいたので「私はあなたが一番うまいと思う」と言って握手しました。
あとでわかったことに、その人は皆から「ムワリム(先生)」と呼ばれている人でした。
もう帰ろうとしたとき、高橋さんの友人と知り合いだというムハメッドが追いかけてきました。23歳か24歳くらいで、もう7年ここで踊っているそうです。踊りのステージの建物のうしろに踊り子達のアパートがあって、前にシミズさんといったことがあります。ムハメッドがぜひ寄っていけというので、少し寄っていくことにしました。
ムハメッドの知人というのは、去年ケニアに来た園子さんという人だということです。紅茶をいれてくれて、日本の伝統的歌を聞かせるといって、カセットを入れたら、聞こえてきたのは「女の道」とか演歌だったので笑ってしまいました。午前中に練習をするというので、水曜に練習を見に来ることになりました。
9月25日は一日中あちこちに電話をかけていました。ナイロビはとても電話ボックスの少ない町で、大勢の人が列を作って待っています。15円でいくらでも長くしゃべれるのでみんな長電話です。たまにだれも待っていないすいているボックスがあると思うと、たいてい故障しているので、だれも待っていない電話は無視します。待たないでかけられるのは、ホテルの電話ですが、75円かかります。ボックスは30分くらい待つことが普通です。
なぜ電話しなければならなかったかというと、ナイロビ・ショウ(産業博覧会)に行きたかったのです。ナイロビはバスの便が悪いし、ことに夜にバス停から歩くのはたいへんです。ナイロビショウで伝統芸能を見せるというので、ぜひ見たかったのですが、帰りが夜になるので、タマちゃんと手分けして知っている全部の人に車で送り迎えしてくれないかと尋ねたのです。しかし、なかなか電話がつながらないし、車を持っている人がモンバサに行っていたりで、手配がつきませんでした。
郵便局のYMCAとセレナホテルと三箇所であちらこちらに電話して、木曜は私の知人のパイヤ氏の車、金曜はワイナイナさんが送り迎えしてくれることになりました。ワイナイナさんはタマちゃんの友だち。日本に来ていてとき、タマちゃんがスワヒリ語を教えてもらって友だちになった人です。一日中電話をしていただけなのに、ひどくくたびれました。
9月26日にボーマスに練習を見に行きました。9時から10時まで歌の練習。指揮している人は本格的な西洋式発声を習った人らしく、自由自在の声を出します。しかし、踊り子達は途中で抜け出してみたりタバコを吸ってみたり、あくびをしたり、勝手気ままに練習しています。
しかし、太鼓のリズムだけですが、みんなの気がのると、とてもすばらしい歌声になります。部族のことばで歌うので意味はわかりませんが、リズムと重唱やかけあいのハーモニーがとても生き生きしています。歌いながらついつい踊りの振りをしてしまう人もいます。ボーマスにはいろんな部族の人が集まっているので、たとえば、ルイヤ族の歌の練習の時はルイヤの人が先に歌って、皆に教え、皆がついて歌って覚えます。ギリヤマの歌の時はギリヤマ族の人がリードします。
<つづく>
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2011年07月20日
ぽかぽか春庭「ボーマスオブケニアのダンスレッスン」
2011/07/20
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(42)ボーマスオブケニアのダンスレッスン
1979年9アフリカ通信第14号その2
10時半から踊りの練習になりました。振り付けの先生がきたら今までわりに自由に練習していた人たちがぴしっとしまりました。振り付けの先生は大きな権限を持っているらしいです。このボーマスは株式会社になっていて、社長は普段はここにいなくて、支配人がふだん一番えらい人です。その次の次くらいに振り付けの先生がえらいみたい。
今日は、ギリヤマ族の踊りの練習でした。ギリヤマの女の踊りは、ちょうどフラダンスのように腰を振るのですが、簡単そうに見えてやってみたらなかなかうまくいきません。一人の女の人が、腰を振るのではなくて、回すのだと教えてくれました。みんなは丸いステージの上で練習しているのですが、私はステージのまわりのコングリートの所で動いていたのですが、足が冷えました。
ムワリムが上でいっしょにやれと言ってくれたのですが、高橋さんがいっしょなのでやめました。私だって腰を回しながら歩く、というのがとても難しかった。足を一歩出すときに腰を二度回すのです。ゆっくりだといいのですが、速くなると腰がついていきません。皆でジャンプする動きがあるのですが、太鼓の音にあわないと振り付けの先生が怒って何度も何度もジャンプをやりました。しまいにどうしても合わない人が残されて特訓を受けました。去年の発表会の時、私だけ振り付けを覚えられないで、残り勉強したことを思い出してしまいました。
12時に練習が終わりました。お昼を食べたあと、ショウを見たのですが、あんなにきびしく練習したギリヤマのジャンプのところが、本番には結局合わなくてバラバラなので笑ってしまいました。
高橋さんが先に帰ったので、タマちゃんと二人でムハメッドの部屋に寄りました。4畳半くらいの部屋にベッドとソファがあって、服は壁にかけてあって、石油コンロとプラスチックのおけに入った食器が全財産です。今日は緑茶のティーバッグを持っていって、お湯を沸かしてもらってお茶を入れました。
日本人はお茶に砂糖もミルクも入れないのだと言ったら、何も入れないで一口飲んでみたものの、ムハメッドは砂糖を3杯いれて、おいしいと言って飲みました。私たちも久しぶりに緑茶が飲めました。
私は今までに4回もボーマスのショウを見たけれど、ムハメッドは見かけなかったと言ったら、お父さんが病気なので、田舎に帰っていたのだそうです。ムハメッドはボラナ族で、背が高くて手足がやたらに長くてひょろひょろしているので、踊りは上手い方なのに、不器用そうに見えます。バス停まで送って来てくれました。
ほかの踊り子達が、私たちを珍しいと思って、いつもアフリカ人が聞くように「いくつだ、結婚しているのか、どうしてしないんだ、どういう男が好きなんだ。アフリカ人とでも結婚できるか」という同じパターンの質問をしたがるのですが、ムハメッドは日本人は自分のお客だという顔でほかの人を邪魔にするのです。質問のパターンは決まっていて、次には「お前はとてもきれいだ。おれはお前がとても好きだ。俺と結婚してくれ」と続くのです。
はじめはおもしろがって「どういう男が好きか」の質問に「ハンサムで金持ちでやさしくて、利口で強い男がいい」なんて答えていたのですが、だいたいだれも同じパターンを繰り返すので、このごろは「日本に夫がいる」と言って終わらしています。しかし、アフリカ人の考えでは「日本に夫がいるなら、アフリカでは独り身で、独身だ」というのです。あと、だれでも聞くことは「お前はカラテができるか」
もっとほかの会話はないものかと疑ってしまいます。
高橋さんは日本へ帰りました。
<つづく>
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2011年07月22日
ぽかぽか春庭「ケニアのヤマトナデシコ」
2011/07/22
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(44)ケニアのヤマトナデシコ
1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その4
ボーマスで踊りを教わるのは面白いので、来週一週間通うことにしました。振り付けの先生が来週は全部いっしょにやっていいと言ってくれました。振り付けの先生というのは、南アメリカ出身のアフリカ人です。部族の踊りは単調なものが多いので、うまく組み合わせたり削ったりしてショウに向くように演出しています。ボーマスの踊りは本当の部族の踊りそのままではないけれど、動きの勉強にはなります。単調で単純そうに見えて、簡単には動けません。
ボーマスは海外へもショウをやりに出かけていって、ムハメッドはロンドンやパリに行ったことがあるそうです。ムハメッドは7年踊っていて古株の方なので、演出助手をやる7人の中に入っているそうです。ムワリムはもう中年ですが、やはり動きはいちばん決まっています。私が「あなたがいちばん」と言ったので、わたしのことを気に入ってくれて、いろいろ気を遣ってくれます。
土日は午前中の練習はなくて、午後のショウだけなので、月曜の朝またくると言ったら、月曜はムワリムの家でお昼を食べるように言ってくれました。
土曜の夜YWCAでディスコ大会があるので、ムハメッドに来るかと聞いたら、仕事があるからだめだし、ヒマなときは映画を見に行くんだと言われました。もっともなことで、毎日毎日踊って仕事にしている人に、ディスコなんか必要ないわけです。しかしYWCAディスコ大会は、要するにボーイフレンドの見せ合いだと聞いたので、やはり一人で踊ってたら、みじめだろうと思います。
ではまたね。
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2011/07/22
ケニアではいっしょにディスコに連れ立っていくカレシもいない「やまとなでしこ」だった私。思い出は時が経つにつれてセピア色に変色していき、美しく楽しい思い出ばかりが鮮やかになっていくといいます。30年前のケニアの日々。忘れかけて退色しかかっていた思い出が、こうしてかの日に出した手紙を書き写すことで「デジタルリマスター」されてあざやかな色を取り戻すようです。
若かった日は取り戻すことはできないけれど、この赤道の下の日々があったからこそ、現在の「しょうもない日々」も生きていける。あ、「しょうもない日々」なんて言ったらバチが当たるのだった。震災以後、この毎日も「かけがえのない日常」と言わなければならないのだと、身に染みたはずなのに。凡人の悲しさでついついのど元過ぎればなんとやらになってしまいそうですが、「流されゆく日々」にならないよう、気を引き締めなければ。
今期は国立は土曜日にも授業をしたり一日に90分授業を4コマも詰め込んだりでなんとか予定のコースが修了しました。私立は8月最初の週まであります。夏休みまであと少し。がんばりましょう。
今週は、「なでしこ」の大活躍でみな元気が出てきたところです。ヤマトナデシコは、カワラナデシコの別名。セキチクの花を「唐撫子(からなでしこ)」と呼ぶのに対して、ヤマトナデシコとよばれて、日本の女性の代名詞にもなりました。従来は、可憐、清楚、貞淑というイメージで親しまれてきましたが、これからは「粘り強く最後まで諦めない、はつらつとして果敢にチャレンジする」というイメージになっていくかもしれません。私もはつらつと最後まで諦めずにチャレンジしたいです。
<おわり>